牛津舞台「ふたつの巨星」 田中正照監督に聞く 映画作りはまちづくり 住民熱演、郷土愛伝える

「オール牛津の応援に支えられた」と語る田中正照さん
「オール牛津の応援に支えられた」と語る田中正照さん
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 江戸時代「西の浪花」とうたわれた商都・牛津(小城市牛津町)を舞台にした地域映画「ふたつの巨星 善蔵と与四右衛門」の撮影が終わった。来年1月に講談師、神田紅さん(64)の講談部分の収録を残すばかりとなり、3月の完成へ向けて編集作業が進む。映画作りの狙いや半年間に及んだ撮影について、監督を務めた田中正照さん(62)に聞いた。

 -そもそも、牛津を舞台にした映画作りを思い立ったきっかけは。

 「私自身、サガテレビのディレクターとして約10年間ドキュメンタリーを撮った。人間を撮るのは面白い。84歳の魚売り、平田フクさん=2010年、89歳で死去=を追った『軽トラ行商は命』などの番組を制作した。60歳を過ぎた今も嘱託として働いているが、もう現場で番組は作れない。生まれ育った牛津の映像を残す機会はないかと、ずっと思っていた」

 -今回のような映画と、記録映像のドキュメンタリーの間に違いはあるか。

 「映像を通して住民の思いを代弁するという意味で、変わりはない」

 -牛津の現状はどうか。

 「商店街はシャッター通りと化し、祭りも衰退した。私が子どものころは乙宮社や西宮社の大祭があり、滑稽な寸劇『牛津にわか』が盛んだった。疲弊に輪をかけたのが2005年の小城郡4町合併。市庁舎が三日月町へ行き、コミュニティーの場が失われた。人の心も勢いが無くなった」

 -映画は、自身が会長を務める地域おこし団体「牛津赤れんが会」が企画した。

 「赤れんが会で、まちづくりのための映像作品が何かできないかという話をしていた。映画は牛津の商人文化と、隣の砥川(とがわ)地区の石工文化が合わさったものになった。そうした骨格は、赤れんが会の会員に、幼なじみも加わった企画委員会10人で決めた。映画作りはまちづくりの一環。みんなが自分たちの世代でやれることはないかと集まった」

 -砥川はどんな所か。

 「牛津は商人の町、牛津川を挟んだ砥川は石工集団が住んだ石工の里。今は同じ行政区だが、藩政時代、砥川は多久領であり、小城藩領だった牛津とは住民の気質も違う。内砥川八幡神社の『砥川くんち』(10月19日)には子どもたちが白装束姿で客人をもてなす『宮座』と呼ばれる文化が残っている。今年のくんちを2週間追いかけて収録した。映画の中に取り入れる」

 -撮影での苦労は。

 「役者もカメラも素人ばかり。カメラのピントが合わず、撮影時間が長くなるなど思い通りに行かない部分もあった。出演者の演技指導も大変だった。正直、演技は大したことない。人によっては『何だこんなの』と思うだろうが、それでいい。町の人たちが一生懸命にやった。稚拙でも郷土愛がこもっている」

 「主演2人の頑張りはすごかった。14歳田中丸善蔵役の渡部凪(なぎ)君(13)は半年間の撮影で顔つきが変わり、演技にも深みが出た。平川与四右衛門との別れのシーンで涙を流したのには驚いた」

 -唐津市の離島、小川島でもロケをした。

 「捕鯨で栄えた小川島には平川与四右衛門が元禄2(1689)年に彫った観音座像があり、島民が祈りをささげている。撮影日の8月9日はちょうど観音堂のお祭りが催され、皆さん、手を合わせに来ていた。島の子どもたちにも海岸で手を振る役で出演してもらった。牛津と小川島との交流の契機になればと願う」

 -牛津の魅力とは。

 「種々雑多な面白さ、遊び心にある。長崎と小倉を結ぶ長崎街道はさまざまな人や物、文化が行き交った。そのため牛津は歌舞音曲が盛んで、にわかに込めて、お上を批判する町民文化も根付いた。それは今も受け継がれている。オランダ商館医だったケンペルやシーボルト、将軍に献上されたゾウも通った。住民の心身のどこかにそうした『記憶』が残っているんじゃないかと思う。編集作業はこれからだが、面白いのができるだろう」

 ▼ふたつの巨星 慶応2(1866)年、長崎街道の宿場町・牛津宿が舞台。後の百貨店グループ「玉屋」創始者の田中丸善蔵と、元禄年間に活躍した砥川石工の平川与四右衛門が時を超えて出会い、交流する物語。再現ドラマ8割、記録映像2割で構成する。役者集団「佐賀の八賢人おもてなし隊」の谷口文章さん(47)が脚本を執筆。小城市牛津町の住民有志で3月に結成した映画製作実行委員会が地元の中高校生を中心にオーディションで出演者を募り、製作費170万円を集めた。来年3月の完成後、市内で上映会を開く。


=2016/12/01付 西日本新聞朝刊=

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