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音楽随想(矢内原洋介)

トニー・ベネットの技1988

11/12/13(Tue)

トニー・ベネット生誕85周年記念デュエットアルバムと大袈裟に銘打たれたアルバムを聴いていた。

85才になったトニー・ベネットとレディー・ガガのデュエットがすごくいい。

自分を包んでくれる百戦錬磨の飼い主のもとでガガの才気が湧き出ている。

相方のパフォーマンスを引き上げる技を持っているらしい。

シェリル・クロウがこんなに歌がうまかったのか。

ノラ・ジョーンズに色気が舞い降りている。

そんなポイントに気づいた。


今は枯れてしまった声がもっと艶やかだった頃、僕は目の前で稀代の歌い手の歌声を聴いたことがある。


日本で初めて青山に「ブルーノート」がオープンした時の最初のゲストは確かトニー・ベネットだったように思う。(間違っているかも知れません。)

1988年のことだ。

僕は女友達に誘われてその特別なショーに行った。

「ブルーノートのオープニングショー行こうよ。関係者が友達なのよ。チケットあるから行こうよ。」

28才の彼女は、僕の拒絶はまるで存在しない前提でそう言った。僕は返した。

「すごいな。チケット高いんだろう?でも、誰のショーなの?」

彼女はハンドバッグからチケットを取り出して読んだ。

「トニー、・・・ベネ・・・トかな?」

僕はそのチケットを彼女から取って確認した。印字は「TONY BENNETT」となっていた。

「嘘みたいだな、ほんとかよ。トニー・ベネットが来るんだ。行こう、そのオープニング。幾らだ?」

僕は2万円でも行こうと思った。もし3万円でも、数分間考えて行くことにしただろう。

「だから、その友達が私にくれたのよ。その日は業界人だらけらしいよ。それにしても、君が好きだと思ったんだ、そのトニベネって人。ところでさ、そのショーの後に相談事ありなんだけど。オーケー?」

彼女はいつも濡れたように口紅を塗っている唇で煙草を吸いながらそう言った。
僕はすぐに答えた。

「あのう、トニベネじゃなくてトニー・ベネット。トニー・ベネットが聴ければ何でもオーケーです。」

1988年、28才の僕は、62才になった稀代の歌い手をたいへんな至近距離で鑑賞した。

音楽に関してこの幸運を超える出来事はそれ以来まだ到来していない。


「あのさ、トニベネほんとに、ほんとによかったよ。」

彼女はまるでこのショーが僕のおかげでもあるかのように言った。

彼女はカンパリソーダ、僕はジャックのソーダ割りを相当飲んでいた。

赤の薄いニットのセーターが彼女のラインを優美に見せていた。

「まあトニベネでもいいけどさ・・・やっぱりよかったな。声も衰えてないよ。映画「ゴッドファーザー」の中で、「声が衰えて最近不振だ。」とドン・コルレオーネに映画出演の話を何とかしてほしいと頼みに来た歌い手を思い出したよ。あれは彼がモデルらしいけど、実際の声は衰えてない、ぜんぜん。」

「ジャズってあんまり聴かないけど、男のボーカルっていいね。私、男好きだからかな?体に響くんだよね。今日は特にそうだった。生の男の太い歌声って私の体と共鳴するのかな。」と照れ笑いした後で、「その男好きの話なんだけどさ・・・」と言って、彼女は急に暗い顔になった。といっても、涙への中間点であるような暗い表情ではなく、どこか、「人間だからこの程度はしょうがないよね。」と訴えている表情を顔に少しだけ滲ませていた。

吸っていた煙草を灰皿に擦りつけてその火を消しながら話し始めた。

その日は何故か口紅の付いた煙草がセクシーに感じた。

彼女は1週間前に別れた男との思い出話とどうすればその男と元に戻れるかについて、1時間近く僕に一方的に話した。昔、アナウンサーを目指していただけに、歯切れのよいしゃべりで、起承転結のはっきりした話だった。

女性から感情移入のほとんど無い別れ話を聞かされたのはその時が多分初めてだった。

別れた原因は彼女の浮気らしい。

僕はできるだけ親愛の情をこめて、
「その男好きを直さない限り同じことの繰り返しだよ。」と言った。

僕はここ数年の彼女に纏わるすったもんだの男話を思い返した。10件以上はあるだろう。

「でも、今回はまじで好きだったのに・・・。もっともいつもその時はまじなんだけど。」

彼女はクスッと笑った。

僕もできるだけ親愛の情をこめて少し笑った。

僕は、彼女の綺麗な顔や優美な体のラインや開放的な性格などを原因として、たいへん男にもてることは必然なのだと常日頃から思っていたが、こんな風に隣に接近して彼女と長時間いると、彼女と男たちのすったもんだの原因はそれ以外にも重要な理由があることに気がついた。

彼女のどこかから、何かフェロモンばりの化学物質が排出されており、それに男たちが反応しているのではないかと思った。

実際にその日の僕には化学物質が充分到達していたように思う。

僕は彼女を性的対象物として強く感じたのは、彼女と2年前に友達になって以来初めてだった。

その日彼女は酔い潰れたので、僕はタクシーで彼女を彼女のマンションの部屋に送って行った。

彼女はすぐに寝てしまい、僕はソファーで寝ることにした。

化学物質は彼女が寝てしまってからも排出され続けていた。

僕は僕の中の理性を最大限に活性化して、化学物質によって起こる体内の反応を抑制し続けた。その夜、ほとんど眠れなかった。

その後、僕は数カ月間彼女と付き合うことになった。

日本の女性としては希少なカテゴリーの女について面白い体験を授かったのは、彼女がそう呼ぶトニベネの生の歌声のちからのおかげだったのだと、今になって思い出の整理をした。

それにしても、トニー・ベネットは、女性のパフォーマンスを高めることのできる稀有な男として、21世紀を生きる男たちに生誕85周年を祝福されるべきかも。

高円寺バー再開5 「ジム・クロウチ」

11/08/01(Mon)

3日後モリ君の娘から僕の携帯電話に連絡があった。
僕たちは高円寺バーで会うことにした。

「訊いていい?お父さんのこと。」
僕はモリ君の娘に質問した。彼女は微笑んで答えた。
「父はすでに死亡しています。私は生きています。」
「あなたは生きているんですね。モリ君はいつ亡くなったんですか?」
「父は2年前に病気で亡くなりました。3日前の父は世に言う「亡霊」ということになります。驚かないでください。でも真実です。」
「わかりました。今日はモリ君は来ないんですか?」
「多分もうあなたの前には現れないでしょう。」
「つまり、あなたと僕の接触のために3日前にモリ君が現れたということですか?」
「そのとおりです。そしてその理由をこれからお話します」
彼女は古くなったノートを数冊布製の手提げバッグから取り出しカウンターに置いた。
「このノートを私があなたに渡すためです。」
「・・・」
「それと、この手紙も。中学時代の時のあなたから父への手紙。」
彼女は薄い水色の封筒から手紙を取り出し、僕の前に置いた。
僕は手紙を読んだ。

モリ君、元気ですか。
福岡に来て3カ月余りが経ちました。
中学校は長髪がオーケーで、もうずいぶん髪の毛が伸びました。
野球部がなかったので部活に入るのはやめました。もし野球部があったら坊主にしなければならなかっただろうと思いますが、野球部がなかったことで結果的に長髪になることにします。
仲のいい友達が2人できました。
クラスの中に長髪オーケーなのにもかかわらず坊主にしている奴がいて、その彼と友達になりました。マツヤマといいます。医者の息子で大きい家に住んでいて何と彼は自分の部屋を持っていてそこにステレオがあります。
僕は塾に行くことになって、その塾で1人友達ができました。
中学校は違いますが、家はすぐ近所です。都会では人口が多く、近所で中学が違うこともあるのです。ニシダといいます。
彼も自分の部屋があり、自分のステレオを持っています。
ラッキーなことに、音楽を聴く環境は友達の部屋で十分整いました。
二人とも都会のお金持ちの子供なのにやさしいいい奴です。
(もちろん、不良はいっぱいいます。目を合わさないようにしていますが、つい戦闘的な気持ちが出てしまいます。喧嘩すると必ず勝てる自信があるだけにおとなしくしていることはなかなか難しいです。)
同じクラスに好きな子ができました。
最初に会ったときに好きになりました。
身長は僕と同じくらいで、大人びた顔をしています。
こないだ、別のクラスの女の子から、「キョウコは君を好いとーみたいよ。」と唐突に言われびっくりしたと同時に無茶苦茶嬉しかった。都会の女子は男子によく話しかけます。そして、男と女が仲がいいのです。これは福岡に来て驚きました。
というわけで、今は、いつ告白すべきか、いや、告白する勇気がいつ備わるか不安な気持ちでいっぱいです。
タニグチのことは忘れることにしました。君にはいろいろ心配かけました。
そう言えば、塾というところには頭のいい奴がいっぱい集合しています。
そっちでは僕はいい方でしたがこっちでは下の方です。
みんな、基本的な動詞についての変化形をほとんど憶えています。塾の英語の一番最初の授業で「KNOW」の変化形を言えなくて恥ずかしい思いをしました。(早速、その夜から必死で暗記しましたが。)
クラスにも塾にもいい奴が友達になってくれて結構楽しくやっています。
音楽の方は、今、ジム・クロウチというシンガーソングライターが好きです。
声が優しいのでさびしい時にうってつけです。モリ君もぜひ聴いてみてください。
ギターもすごくいいです。そいえば、オールナイトニッポンの中でヤマハギターの宣伝に使われている曲はジム・クロウチです。
好きになった女の子はキョウコといいます。
キョウコとのことはこれから時々報告します。
では。

「オーセトから福岡の中学校に転校してモリ君に初めて書いた手紙ですね。」
僕はそう言った後、ミナにジャック・ソーダをオーダーした。
彼女はビールをオーダーし、言った。
「タニグチは私の母です。父と母は二十歳の時に結婚し東京に出て来ました。そして母はすぐに私を出産し、産後の経過が悪く間もなく亡くなってしまいました。私はオーセトで母方の祖父祖母に育てられました。このノートは母が14才から20才まであなた宛てに書いた日記形式のラブレターといえるような文集です。」
「タニグチ・・・・モリ君と・・・・。20才で東京に・・・。僕も20才で東京に出てきてこの高円寺に住み始めたんです。」
「二人も高円寺で暮らし始めたんです。1980年頃、3人同じ時期に高円寺で暮らし始めたんですね。」
しばらく二人とも口を閉ざした。
僕はジャック・ソーダを飲みながらタニグチの顔をイメージした。
額に二つ小さな黒子があったことを想い出した。
僕たち3人は幼稚園から中学校1年までずっと一緒だった。
彼女は布製のバッグからLPを取り出してカウンターに置いた。
「そして、渡すべきは、このLPもだそうです。」
LPはジム・クロウチの「美しすぎる遺作」だった。
僕は最近少し涙腺が緩くなってきたことを自分自身に言い訳したが、すでに涙腺のコントロールは不全となっていた。
「父が言っていました。母のノートをどうしてもあなたに渡すために、この世に出現出来る資格を得るのに2年かかったって。母は2年間拒み続けたそうです。でも、父は絶対に伝えるべきラブレターだって母を説得したそうです。」
「そうなんですか。」
「もっとも、今あなたに母の言葉を伝えても世界は何の変化もしません。でも、世界は変化しないけど、この世界には、特定の人から特定の人に伝えられる運命を持った言葉が存在するように思います。運命を持った言葉がこのノートにある。父がそう言っていました。」
「家でこのLPを聴きながら、時間をかけて、ノート読ませていただきます。そうだ、このLP聴きましょう。」
するとミナは僕の方に近づいて言った。
「このLPこの店のライブラリーにもあるけど、ヨーちゃんが持ってきたLPの中にあったよね、このLP。でもこれ、かけましょう。」
ミナは娘が持ってきた「美しすぎる遺作」を手にとってジャケットをチェックした。
「「マリコへ1975年11月3日」って書いてある、ジャケットの裏面の右下に。」
モリ君とタニグチがもうけた娘は小さく頷いて僕の方に視線を向け、明るく微笑みながら言った。
「11月3日は母の誕生日ですね。」
ジム・クロウチの歌はレコードノイズとともにスピーカーから出て来たが、そのスピーカーの後ろから女の人の声が少し聞こえた。
僕はミナに言った。
「このLP、時々例の声がするね。」
「するする。今までで一番するかも。」

高円寺バー再開4 「愛の休日」

11/05/23(Mon)

僕は、薄くなってしまったジャックソーダの残りを全部飲み干した後、口の中の氷をグラスに戻し、そのグラスを右手で持ちあげ、おかわりを頼んだ。

僕は「What's going on」をもう一度かけてくれるように頼んだ。

今起こっていたことが僕の理性を超えた出来事であるという認識が、次第次第に僕の表情に気味の悪い笑いを誘った。

「What's going on」が再び流れると気味の悪い笑いから、吹っ切れた強い笑いへと変化した。

「一体どうしたの?」

ミナは不思議そうに言いながら新しく作ったジャックソーダを僕の前のカウンターに置いた。

僕はジャックソーダを不自然にあおってその後言った。

「いや、実は、モリ君は、2年前に死んだんだ・・・・・らしいんだ。もっともそのことは最近聞いたんだけど。死因は白血病だとか言っていたけど、不確か。」

ミナは普段あまり見せない真剣な顔で小さな声で言った。

「死因は別として、っていうことは、さっきのは?」

「きっと亡霊だな。女の方はわからないけど。」

ミナは左手の人差し指と親指とで顎の先端を挟んだまま、無表情な顔で僕の口元をしばらく見つめていた。左手を顎から離し強い調子で言った。

「あのさ、なんでそんがん落ち着いとけると?なんか気味悪い。」

「彼、ここに何かを伝えに来たんだと思うんだ。」

僕はこの現象が自分とは関わりの無いことのように、他人事であるかのように言った。

表面的にではあっても、冷静さを表現することが現時点で最も得策だと直感的に僕は思った。とんでもないことが起こると、僕はそうやって凌いできた。

その時、急にドアが開きモリ君が再び店に入って来た。入って来るなり彼は僕に言った。

「ヤナちゃんに言うの忘れたんだ。俺ヤナちゃんに「What's going on」のアルバム借りっぱなしだったんだ。でも、あのLPどこに行ったか判らないんだ。ごめん。申し訳なか。」

「そうだったっけ、いいよそんなこと。でも、・・・よく覚えてるな。」

「ずっとそのことが気に掛かっていて・・・あと、何枚か返していないLPがあると思うんだ。ミッシェル・ポルナレフとか・・・、いろいろ・・・。」

「そうかそうか、わかったわかった。・・・近いうちにまた会おう。」

僕は「近いうちにまた会おう」なんて不自然なことを言ってしまったなと少しだけ後悔していたが、そう言い終わるとすぐにモリ君は「じゃあまた。」と言ってドアの向こう側に行ってしまった。

僕は「まさか、こんなことを伝えに来たんじゃないだろう。・・・」と思った。

僕は何故か白いプラスティック縁のサングラスをかけたミッシェル・ポルナレフのLPジャケットを想い出していた。

ミナは桜丘バーのママがやや真面目に発言する時のように腕を組んで言った。

「あのさ、質問なんだけど、うちのユカリさんの昔のバーでもこういうことが起こっていたの?この場所で。さっき言ったけど、このバー、時々、声がするのよ。今回はそれどころじゃないけど。」

僕は次のようなコメントを言うべきかどうか一瞬迷ったが、やはり控えることにした。

「昔のバーでは起こらなかったが、この新しいビルが完成する前に僕はこの場所で今日と似たような体験をした。」

結局僕は次のように言った。

「起こってないと思うよ。少なくとも僕の前では起こらなかったな。なんでそんなこと言うの?」

ミナは相変わらず腕を組んだまま言った。

「もしそうだったら、覚悟しなきゃでしょう。こういう現象に対する諦めっていうのかな。また起きても動揺しない材料が今ほしいのよ。昔からだったらしょうがないじゃない。まあ、昔からじゃなくても覚悟するけど。何だか、モリさん、何度も来そう。」

ミナは、少し微笑みを含んだような気のする落ち着いた表情に戻っていた。

この場所で以前起きた類似した現象と今起こった現象との関連性について僕は目をつぶって随分長い間考えを巡らしていた。

「30年前のキョウコとユカリママ」が僕に伝えた「キョウコの危篤」

「2年前に死んだモリ君と娘」は僕に何を伝えたい?

きっと何か大事なことだろうか。

頭の中で想像したことを表現する言葉がこころの中を動きまわり、僕は混乱した。

この混乱を一時的に避けるために僕はミッシェル・ポルナレフを聴くことをミナに提案した。

「モリ君が僕から借りて返していないっていうポルナレフでも聴いて場を盛り上げようぜ。「愛の休日」入ってるアルバムないかな。」

ミナは僕の提案を快く受け入れた様子で、いとも簡単に2枚のLPを引き抜き、曲名を確認した後、2枚のうち1枚を元に戻し、1枚からLPを注意深く取り出し、それをターンテーブルにのせた。

「ハーリデーオオーハリデーってやつだよね?「愛の休日」って。」といってミナは針をレコードに落とし、程なく「愛の休日」がかかり始めた。

僕はちょっと酔っ払ったような声色で言った。

「ミナちゃん凄いっ。LPを扱わせたら天下一品。」

その言葉に全く反応せずにミナは言った。

「私って、ここにあるLP聴きながら育ったんだよね。」

「愛の休日」がまだ終わらないうちに、僕はポルナレフの「愛の願い」を猛烈に聴きたくなっていた。

モリ君と僕は、西側に海、東に山の海沿いの田舎のまちにいた。

そんな田舎でまだ少年の僕らはいろんなLPを聴いていた。

夏の終わりの夕方の渚が少し歩けばそこにあり、オレンジ色をした渚を眺めながら、例えばラジオから流れるポルナレフの歌を聴いていた。

1970年前後のそういう過去の風景が僕の中に蘇ってきていた。

さっき亡霊で現れたモリ君のおかげだと思った。

「愛の休日」が終わった。

「ミナちゃん頼む。「愛の願い」をかけてください。」と僕はカウンターにおでこをくっつけて頼んだ。

ミナはターンテーブルにのっているLPから針をあげ、再度針を落とした。

「愛の願い」が見事にかかった。

僕たちが育った場所のオレンジ色した夕方の渚にフィットしたリズムとメロディが鳴っていた。

高円寺バー再開3 「What's going on」

11/04/26(Tue)

サイモンとガーファンクルが片面終わったところで、僕はモリ君に話しかけた。

「相変わらずマービン・ゲイは聴いてるかい?」

彼は少しだけはっとした声で答えた。

「どうしたんだ、急にマービン・ゲイかよ。もちろん、ずっと聴いてる。それにしても奴が死んだときにはショックだった。父親から銃で撃たれて殺されたんだもんな。」

「どういうわけかさっきから「What's going on」が耳の中で鳴っているよ。君が頭を上下左右に揺らしながらこの曲を聴いてるシーンを想い出した。君は坊主頭だった。もちろん僕も。」

「俺たちは、この曲のメッセージも解らずに聴いてた。」

「そうだよな、マービン・ゲイがなぜメッセージを発しなければならなかったのか、それを想像する力もまだ持ちあわせてなかった。」

僕は首を伸ばして、連れの女と話しこんでいるミナに向かってお願い口調で言った。

「ミナちゃん、マービン・ゲイの「What's going on」あるかな?」

彼女は腕を組んで微笑みながら言った。

「このバーはリクエスト無しなんですけど。でも・・・お二人の偶然を祝して今夜はOKにしようかな。名盤中の名盤だから、あったと思う。」

そう言って彼女はアルバムリストを見ずに彼女の記憶力を駆使して「What's going on」のアルバムをいとも簡単に引き出し、アルバムジャケットからA面にもB面にも指紋が付かないように器用にLPレコードを取り出し、レコードプレーヤーのターンテーブルにセットした。

モリ君はその行動に驚いた様子で言った。

「もしかして、アルバムの居場所、全部頭に入っているんだ?」

「だいたい判るのよね。このお店やってから気づいたんだけど、そのことについては能力があるごたぁと、私。学校の勉強全然だめやったとに。」

彼女はひょうきんな物言いで語りながらレコードに針を落とした。

中一の時以来二人で聴く「What's going on」はA面の1曲目だ。

「ませてたな、俺たち。13でマービン・ゲイ聴いてたんだもんな。長崎の超田舎の少年としては、なかなかやるよな。」

「もっとも、ませてたのは音楽だけだけどな。それはみんなFENのおかげだよ。」

「FENが聴けたのはラッキーだったな。この曲も初めて聴いたのはFENだった。ヤナちゃんの言うとおり、何だか、自然と頭部が動くな。」

モリ君は笑いながら軽く頭を動かしリズムをとった。

「今日はここにはどうして?」僕はわざと唐突に訊いてみた。彼はリズムをとりながら即座に答えた。相変わらず、顔は白かった。

「近くのマンションに住んでるんだ。高円寺は東京に来て以来ずっと住んでる。ずっと昔この場所にバーがあったんだ。何度かそのバーに行ったことがあった。前から気にはなっていたんだけど、同じ場所にバーをやっているなって。今日初めて入ってみた。」

「おいおい、ほんとかよ。俺も20から25まで高円寺に住んでいたんだ。しかも君が言うその昔のバーにはよく通った。ちなみに、このLP記憶力抜群のミナちゃんはそのバーのママの娘だ。・・・でも、その頃君に一度も遭遇しなかったんだな。何だか惜しかったね。」

僕は、昔この同じエリアに二人がいたことに相当に驚いた。

僕はジャックのソーダ割りを、モリ君はワイルドターキーのロックをそれぞれ口にしながら比較的長い間合いを取った。

僕はこの場を取り繕うような出来の悪い質問をした。

「ところで、元気か?」

僕の出来の悪い質問に対する答えとしては質の高い答えが彼から返って来た。

「ここ10年ほどよくなかった。それにまったくついてなかった。東京で得たものはほとんどを失った。」

「・・・・・」

彼は表情をやや持ち直しながら言った。

「でも、ここのところは元気だ。」

「そうか。」

ミナと話をしていた彼の連れの彼女がこちらにやって来て無表情な顔で言った。

「パパ、そろそろ帰りましょうか。」

「そうだな。そうしよう。」と彼は即答した。

「それじゃ、またな。」

二人は不自然なくらい無表情であっさりと店を出て行った。

出て行ってしばらくして、ミナは半ば不満顔で僕に言った

「凄い偶然なのに、随分あっさりね、あの親子。」

二人が高円寺に過去住んでいたことに比べれば驚きは小さかったが、驚いた。僕は少し大きな声で言った。

「えー・・・、彼女、娘?てっきり愛人か何かだと・・・」

JBLのスピーカーからマービン・ゲイが知性を十分に保ちながらシャウトしていた。

高円寺バー再開2 「The boxer」

11/03/11(Fri)
僕とモリ君は隣同士に座ることにした。

僕の左側がモリ君だ。

モリ君の連れの女と僕らは3つ椅子を隔てることになった。

近くで見ると、モリ君の顔は相変わらず白かった。ロックグラスを持つ手も白かった。

しかし自分の手も彼の手もシミが同じ程度で点在していた。

同じ程度の点在が可笑しかった。

生まれて初めて僕らはアルコール飲料を二人で飲んだ。

中学1年の頃、僕の家でレコードを聴きながら二人でよく飲んだのは濃いめのカルピスだった。土曜日の午後がしばしば音楽とカルピスの時間になった。

僕が「これからよろしく。」と言ってグラスを額の高さに上げると彼も「よろしく。」とそれに呼応した。

僕は初めに何を話せばいいのかが掴めないまま話しかけた。

「高円寺でモリ君に会うとは、・・・・・・・どんなだった?これまで。」
焦点の絞れていない質問だった。

「そうだな、これまでっていう時間は結構長いからね。簡単に話せないよ。」

「そうだね、ごめん。ゆっくり話ししよう。まだ興奮しているんだ。」

「ヤナちゃんは、いつから東京?」

「えーと、30年ぐらいかな。」

ミナがLPをニールヤングからサイモンとガーファンクルに換えた。 アルバムは「Greatest  hits」、1曲目は「 Mrs. Robinson」だ。

「俺も、ちょうど30年ぐらいになるな。東京に出て来たのは二十だった。・・・・・サイモンとガーファンクル、懐かしいな。ついに、「ボクサー」弾けなかった。」

モリ君はエアー・アコースティックギターをしながらそう言った。

「僕は特に「ボクサー」の導入部分は駄目だった。でも「スカーボロフェア」はお互いに弾けたよな。」

「そうそう、「スカーボロフェア」は難しそうに聞こえるけど実は簡単だった。」

「僕がギターで一番好きだったのは「四月になれば彼女は」だった。モリ君に教えたな。憶えている?」

「お陰様で、今でも弾けると思うよ。」

「モリ君肥ったな。」

モリ君は中1の頃、クラスで整列した時に一番前だった。しかも、ガリガリだった。

「いつを基準にそう言ってるんだよ。」と彼は大袈裟に笑いながら言った。

「そうだな、評価基準時期は中1だ。基準が旧態依然としていて申し訳ない。」

彼が笑い顔から真剣な表情に変わるタイミングが普通の人間よりスピードが速いことを僕は感じ始めた。真剣な表情で彼は言った。

「俺は東京には20歳のときに出て来た。ある長崎の会社が長崎ちゃんぽんのチェーン店を出すっていう年だった。その会社に就職したんだ。ありがたいことに親戚のコネでその会社に就職することができた。そいで、東京にいかんばいかんごとなったとさ。」

「長崎から東京?」

「そうだ。長崎の田舎から東京にだ。」

彼の表情は、あの少年時代の時のような人懐っこい笑顔に変化していた。相変わらず八重歯が健在だった。しかし、穏やかな中1のモリ君とはまるで違う空気が彼の周りにまとわりついていた。初めて長崎弁が出てきたが、その言葉遣いはなお一層そのことを強調した。

僕は微笑みながら彼に言った。

「で、その後はずうっと東京?」

「そうだね。今まで、何とか、東京で生きてきた。」

「僕も何とか・・・・。」

僕は今日のところはこれ以上の具体的なインタビューは止めることにした。

僕は自然に話題を変えることにした。それは、そうした方が今夜を平穏に過ごせるような気がしたからだ。僕はママの方を向いて言った。

「モリ君、ママはソトメの出身なんだ。」

「そうですか。俺たちはオーセトですよ。あっ、ヤナちゃんのことは知っているよね。」

ミナは例の口と目が横に広がる笑顔でモリ君に答えた。

「あんな西の果ての同郷者はなかなかいませんよ。ていうか、私この12月にここに出て来たばかりなんですけどね。どうぞ、よろしくお願いします。」

モリ君がグラスをあげて「西彼杵に乾杯。」と言った。そして僕に向かって小声で言った。

「久しぶりに「ニシソノギ」って言ったよ。今日はたぶんサイコーの日だな。」

彼はハーパーロックをミナに頼んで、それを一気に飲み干し言った。

「この歳で、東京で、今この時にヤナちゃんに会えて、サイコーだよ。」

モリ君は少し酔っていた。彼はしばらく、ミナと西の果ての話しをしていた。

「The boxer」が流れた。

僕は、モリ君が相当多くの人達と戦ってきたのだと想像していた。

少なくとも、僕が戦った数よりも。

「The boxer」を聴いていると、この歌がモリ君の東京での物語を歌っているような錯覚に瞬間陥った。

モリ君と彼の連れの女とミナが3人で楽しそうに話していた。

「The boxer」の最後の方で女の人の声が少しだけ聞こえたような気がした。

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