福岡県筑豊地方の大任町に生まれ育った帆足由紀(30)は一昨年、若手写真家の登竜門の一つとされる富士フォトサロン新人賞を手にした。受賞作は「風景―炭坑の町だった筑豊」。審査員の江成常夫(写真家、九州産業大学大学院教授)は「土門拳さんの名作『筑豊のこどもたち』とどこか通じるものを感じる」と評価した。
思いがけず巨匠土門の名が出たことに、帆足は喜びの半面、戸惑った。土門のカメラがとらえた半世紀前の筑豊は、自分の写した町と「まるで別物」に思えるからだ。
高度経済成長の前夜、エネルギー政策の転換で炭鉱労働者が失業にあえいでいた国内最大の筑豊炭田。土門はそこで、子どもを主役に据えて社会のひずみを撮った。帆足は「『筑豊のこどもたち』の本当の主役は、写真の奥底から立ち上ってくる『時代』だと思うのです」と話す。
一九五九年十二月。パトリア書店(東京)の撮影依頼を受けて、土門は助手と筑豊に乗り込む。廃屋のような炭鉱住宅(炭住)に泊まり、炭住街や学校、ボタ山と撮り回った。しかし、取材は難航。二週間という時間の制約に加え、労組や役場も協力的とは言えなかった。土門は「気負い込んでやって来たが、想像したほどではない。この程度の貧困なら東京の江東にも随分ある。写真集としてはこのままでは弱いような気もする」と現地からの第一報を出版社に寄せている。
体調不良も気分を滅入らせたに違いない。田川市の医師中山陽(78)は、診療所に訪ねて来た土門の血圧が一八八もあるのに驚き「つらそうな感じだった」と記憶する。
筑豊を追う土門の目は子どもに向かった。撮影地の一つに、不遇な家庭環境の子どもを保護する福岡県田川児童相談所がある。大きな体と鋭い眼光の土門に子どもたちはおびえた。同所の嘱託医でもあった中山の述懐。「土門さんは偉かった。最初の一日、全くカメラを出さなかった。しかも小便臭い布団に子どもと一緒に寝たんだよ」
白い下敷き状のレフ板(反射材)を構えた助手が子どもたちをあやし、緊張がほぐれた一瞬を切り取る。寡黙な土門は、自らの造語である「シャッターチャンス」を見事に積み重ねていった。
子どもたちの姿は、週刊誌(B5判)大で九六ページ、わら半紙を用いた定価百円の写真集に編まれた。土門は「丸めて手にもてる、そんな親しみを、見る人々に伝えたかった」と記している。
暗い屋内を背に、ひとみに不安を漂わせる表紙の少女は、当時小学四年のるみえ。妹のさゆりとともに、極貧に暮らす「筑豊の姉妹」として写真集の主人公のようになった。五五年に石炭合理化法が制定され、最盛期に二百七十四坑あった筑豊のヤマは、撮影時には百六十八坑に減っていた。閉山はその後もなだれを打って続く。るみえのまなざしは、炭鉱の先行きを憂う人々の心情に重なった。
ジャーナリスト長谷川明は、土門が公式な自己批判はしていないものの、戦前の報道写真に一番欠けていたのはリアリズムだと考え、自分なりの戦争責任の取り方としてリアリズム運動に傾注した、と自著「写真を見る眼」で推察している。土門は戦後、意識して「報道写真」の言葉を避けていたという。
筑豊を訪れる前年、土門は写真誌の審査評で、北海道でボタ拾いの労働者を撮影したアマチュア作品を「きわめて通俗的な筋書きを追って、対象のすごさによりかかっているだけ」と酷評している。自分ならば炭鉱をこう撮る―「筑豊のこどもたち」は土門流の鮮烈な主張でもあった。
国の無策に怒りを込めた土門の写真集は、全国に筑豊の支援運動を広げる熱を放つ。初版九千部の写真集は十万部を超すベストセラーとなった。一方で、地元には「恥部をさらけ出された」と冷ややかな受け止め方もあった。土門がクローズアップした「暗く、貧しい筑豊」は、住む者の胸を締めつけ、直視できない強烈さも伴った。
出版から四十六年を経た「筑豊のこどもたち」を手に、筑豊を歩いた。同行した帆足は「おそらく地元でも若い人の大半が、この本を知らない」と言う。自分自身も社会人となり、カメラを手にして土門拳を知った。地元の炭鉱についてきちんと教わった経験もない。「大人になった『筑豊のこどもたち』は、炭坑の記憶を避けようとしてきたのかもしれません」
筑豊のボタ山は次々に姿を消し、残された炭住跡の建て替えも進む。町中で炭坑の足跡をたどることは難しくなった。その中にあって、赤い表紙の「筑豊のこどもたち」は熾(おき)のように、時代の熱をたたえている。 (敬称略)
(地域報道センター・大久保昭彦)
▼どもん・けん
1909年10月25日、山形県酒田市生まれ。家族と共に7歳で上京し、神奈川県立横浜第二中学(当時)時代は画家を志すものの、父の反対もあり断念。24歳の時に母の勧めで写真の道に入る。名取洋之助主宰の「日本工房」などを経て、古寺や文楽の撮影を開始。戦後はリアリズム写真を唱え、写真集「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」などを発表した。「古寺巡礼」をライフワークとし、さまざまな対象を通して“日本の美”を追求。79年に脳血栓で倒れ、意識が戻らぬまま90年に80歳で死去。酒田市に財団法人土門拳記念館がある。
●私の推薦文=子どもの何と元気なことか 平尾伊佐雄さん(68)=NPO法人副理事長
十二歳で父、十五歳で母と死別した私は一九五三(昭和二十八)年、妹と弟を連れて福岡県築上郡から母方の伯父が住む筑豊(山田市)に身を寄せました。ところが重度の肺結核が見つかった私は、すぐに炭鉱会社の病院に入院。閉山とともに病院も廃されたため、六〇年に同県粕屋郡内に転院しました。入院生活は十七年間に及び、現在も医療機関の中に住民票があります。
写真集「筑豊のこどもたち」を見たのは、失意の中にあった六〇年だと記憶します。だれからか借りる機会があり、繰り返しページを繰りました。「大変な生活環境にあって、この子どもたちの何と元気で明るいことか」と心を打たれました。今の若い人にぜひこの本を知ってほしいと、推薦文のペンを執りました。
▼メモ
写真集「筑豊のこどもたち」は、1960年1月に出版されました。同年8月、るみえ、さゆり姉妹の父親が亡くなったことを知った土門は、再び筑豊を訪ねます。3カ月後、前作と同じ体裁で写真集「るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊のこどもたち」が研光社(東京)から出ました。百円の価格も同じでした。この2つの「百円写真集」は、初版発行から既に半世紀近く経過しており、今では入手が難しくなっています。
築地書館(同)は77年に、一回り大きいハードカバーの「筑豊のこどもたち」を新装版として復刻しました。2004年9月現在で18刷、計約30000部が発行されるロングセラーです。

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筑豊のこどもたち

土門拳 古寺巡礼

土門拳 風貌

拳眼

土門拳の写真撮影入門―入魂のシャッター二十二条
今から、ほぼ半世紀前に書かれたこの小説について、最近、二つの面白い話を聞き込んだ。
一つは、ミュンヘン五輪(一九七二年)で日本男子バレーボールを世界の頂点に導いた、あの鮮やかな「時間差攻撃」が、この『点と線』のトリックから誕生したという話だ。バレーボールと、この推理小説が一体、どんな線で結ばれているのか? 取材は、時間差攻撃を編み出した男、日本バレーボール協会の松平康隆・名誉会長を訪ねることからはじまった。
東京・渋谷のカフェ。カプチーノを前に松平氏は、話しはじめた。
「東京五輪以来、日本男子バレーは、背丈の高い欧米選手のブロックに苦戦していた。厚く高い壁だった。そんな時、たまたま『点と線』を読んだ。冒頭の東京駅のシーンにハッとした。ラッシュアワーの東京駅で男が、連れの女二人に、仲むつまじく列車に乗り込む男女を目撃させる。十三番ホームから十五番ホームが見渡せるわずか四分間の空白を使って…」「そのときひらめいた。水平のホームを縦にしたら、バレーに応用できるのではないかと。東京駅の“四分間の空白”のように、相手のブロックを空白にする時間をつくればいいと」
おとりの選手がジャンプすることで、相手のブロックのタイミングを外し、別の選手がその空白の一秒間にスパイクを打ち込む―。時間差攻撃は、意外にも、この小説から生み出されていた。
もう一つの話は、福岡に住む中国人留学生からもたらされた。「母国では『点と線』は警察官の参考書です」と言った。本当だろうか? 半信半疑で、北京の首都師範大学の王成助教授(日本文学専攻)に国際電話を入れた。王氏の返事は、そのことを裏付けた。「『点と線』は、一九七八年に中国に紹介された。出版したのは警察官向けの出版物を出す群衆出版社。殺人を心中に偽装する手口、難攻不落のアリバイを持つ犯人を追い詰めてゆく刑事の執念が、まず、この小説を警官の実用書として普及させた」
『点と線』は、日本の社会派推理小説の原点といわれる作品である。一九五七(昭和三十二)年から一年間、日本交通公社(当時)発行の月刊誌「旅」に連載された。物語は、冬の寒い朝、福岡市の香椎海岸で一組の男女の死体が発見されることから展開する。男は贈収賄事件の渦中にある中央官庁の課長補佐で、女はかっぽう料亭の仲居。二人は一週間前、東京駅十五番ホームで博多行き寝台列車「あさかぜ」に乗り込むところが目撃されていることもあり、警察は情死事件として処理しつつあった。しかし、細部に疑問を持った地元の古参刑事と警視庁の若手刑事が事件を追跡、やがてある容疑者にたどりつく。が、彼には鉄壁のアリバイがある―。
手に汗握るのは、時刻表を駆使し、九州、東京、北海道にまで張り巡らせた容疑者の周到なアリバイ工作を、刑事たちが突き崩していく過程である。それに、人物に圧倒的なリアリティーがある。特に、容疑者の病妻が情死偽装に加担していく、暗く切ない情念の描写は精緻(せいち)を極める。
北九州市立松本清張記念館の学芸担当・中川里志氏は「捜査権を発動させないための偽装情死、東京駅ホームの四分間の空白などのトリックに加え、全編に漂う旅情、事件の背景に汚職事件という社会性を盛り込んだ新しさなど、数々の魅力が『点と線』を彩っている」と語る。それが、多くの評者をして、この作品を「トリックと人間を描くことを融合させ、日本の推理小説に新しい地平を開いた作品」と言わしめる所以(ゆえん)であろう。
松本清張は、この作品に関して興味深いことを語っている。要約してみる。…自分は昭和二十八年暮れ、朝日新聞西部本社から東京本社に転任し、家族を残してしばらく荻窪の親せきの家に下宿し通勤していた。夕方、中央線のホームに立つと、九州行きの列車が見える日があった。あの列車に乗れば、明日の昼ごろには小倉の家族に会えるという感傷があった…。
そうだったのだ。この作品の奥底には、単身赴任していた清張の郷愁が流れているのだ。清張は、その郷愁を旅情に昇華させ、高度成長期に向かって目まぐるしく変化する昭和三十年代初頭の世相や、上級役人を支えるため官僚組織の中で翻弄(ほんろう)される下級官僚の悲劇もこの小説に書き込んだ。そして、常識の盲点を突き、虚線に隠された実線をあばく、この小説は出版後、一挙にベストセラーに躍り出た。
取材の最後に、夕刻の東京駅に立った。コートを着て家路を急ぐ無数の人々が、それぞれ孤独な「点」に見えた。私も、また、「点」となって、九州行きの寝台特急に乗り込んだ。
(文=経済部・藤田中、写真=東京支社・百合直巳)
▼まつもと・せいちょう
1909(明治42)年12月21日、福岡県企救郡板櫃村(現・北九州市小倉北区)生まれ。50年、朝日新聞西部本社広告部に勤務する傍ら書いた小説「西郷札」が週刊朝日の懸賞で3等入選。53年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞受賞。同年11月上京。56年から作家活動に専念し、「点と線」「眼の壁」などで社会派推理小説という新分野を開拓。創作活動は、歴史小説、古代史・現代史研究など多岐にわたり、代表作に「砂の器」「ゼロの焦点」「かげろう絵図」「古代史疑」「日本の黒い霧」「昭和史発掘」など。92年8月4日死去。
●私の推薦文
官僚機構の暗部えぐる 上田喜久雄さん(63)=「清張の会」事務局長
『点と線』は大好きな作品の一つで、昨年の寝台特急「あさかぜ」(東京―下関)の廃止のときは、「ラストランに乗らんことには会の存在価値が問われる」と、会員二十人が東京駅から乗車しました。乗車の前には、小説の冒頭に登場するビア・レストラン「レバンテ」で懇親会も行い、清張論に花を咲かせました。
『点と線』は、読者の旅心をかき立てながら、官民癒着や官僚機構の暗部をえぐったところがすごいと思います。社会の表層だけでなく深部にも筆が届いているので、古びた感じはありません。ただ、小説の現場の香椎海岸は埋め立てられ、犯人がアリバイに使った青函連絡船も廃止され、昭和が遠くなったと感じます。清張の、この名作もそのうち、注釈がいる時代がくるかもしれません。

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点と線

けものみち (上)

断崖―松本清張初文庫化作品集〈2〉

砂の器〈上〉

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一九七〇年夏、大阪。日本万国博覧会を訪れた中村聡は、敗北感にさいなまれながらも、不思議な安らぎを感じていた。国民総生産(GNP)で自由主義圏第二位に立った敗戦国が、「人類の進歩と調和」をテーマに開催した世紀の祭典。近未来の意匠をまとったパビリオンに並ぶ人々の顔は、誇りと喜びに輝いていた。
「ぼくらの戦いは終わったんだ、とはっきり分かったんです」。五十三歳になった中村は述懐する。「そう、戦いです。龍さんなら『祭り』というでしょうがね」。郷里、長崎県佐世保市でイベント企画などを手掛ける中村は、照れたようにほほ笑んだ。
小説「69」は六九年の佐世保を舞台にした、痛快な「闘争と祭り」の物語だ。
高校三年のケンは相棒のアダマ、後輩のマスガキらと、夜の高校に侵入。屋上への出入り口を机やいすでバリケード封鎖(バリ封)し、校舎のあちこちにペンキで書き殴った。「国体粉砕」「造反有理」「同志よ、武器を取れ」。屋上からはためく垂れ幕には「想像力が権力を奪う」。校長の机にうんこまで垂れた。バリ封後、自宅謹慎をくらう。解かれた後はさっそく、ロックと自主制作映画のフェスティバルへ―。
エピソードはほぼ実話に基づき、登場人物にはモデルがいる。ケンはもちろん村上龍。中村はマスガキで、後日談的につづれば、翌七〇年に卒業式粉砕を決行して退学処分を受け、関西の高校に転校している。
「女にもてたい!」というオスの本能に忠実なケンは、「何かを強制されている個人や集団を見ると」「不快になる」。体制の中で退屈して生きる者には「一生、オレの楽しい笑い声を聴かせてやる」と言い放つ。ほとばしる反権力のエネルギーこそ、このロングセラー小説の魅力である。それは時代を揺るがした力でもあった。
アダマこと室田正則(54)=広島市=は「当時は文化も政治も生活もすべてが変わるという熱気があった」と語る。六〇年代末、「ラブ&ピース」「自由」を叫ぶ色鮮やかなカウンターカルチャーとともに、世界各国で若者による反体制闘争が勃発した。日本の学生たちが闘った大きな敵は主に二つ。体制のヒエラルキーを固定化する大学の管理主義と同盟国・米国が進める“汚れた戦争”、ベトナム戦争だった。
六八年一月十七日、米原子力空母エンタープライズ号の寄港に反対する学生約八百人が、平瀬橋で機動隊と激突した。血を流して追われる学生を市民はかくまい、逃した。「いい女を連れ回し、少ない平地を独占する米国に対するうっぷんが、学生への共感を生んだ」とマスガキ=中村。機動隊に投石した中学生の一人だった。
学生運動はこの年、一気に燃え上がるが、約一年後の東大安田講堂陥落を境に退潮が始まる。
夏、長崎県内有数の進学校だった県立佐世保北高校で村上はバリ封を起こした。まるで、安定期に移行する体制を不意打ちするかのようであった。
六〇年代末の闘いは敗北に終わった―という見方は今も根強い。万博のにぎわいに挫折感を抱いた中村もその一人だろう。が、その後のジェンダー、人権、環境といった多様な分野における、小さいが息の長い闘争をはぐくむ素地になったという意見もある。
ともあれ、一つだけ言えることがある。社会はその後、徐々に熱を失い始めたということだ。
芸能プロモーターとして西日本を奔走するアダマ=室田は「豊かさの中で日本人は去勢されてしまった」とつぶやく。「69」ではバンド仲間のフクちゃんとして登場し、今もベースを弾く増田清晴(54)=福岡市=は「七二年のあさま山荘事件が最後通告。以降、音楽でいえば、『反体制』さえパッケージ化されて消費されるようになった」という。「モノを買う」行為が幸せや満足感、時には自由の感覚やアイデンティティーさえ与えてくれる高度消費社会が到来した。うっすらと虚無感を伴いながら…。
二〇〇五年末、中村と別れて夜の佐世保を歩く。ふらりと寄ったバーで、中年男性が語りかけてきた。「福岡はどう? 佐世保は不景気でどうしようもない」。疲れのにじむ顔が、くたびれた自分を映す鏡のようで気が滅入った。瞬間、村上の精気あふれる顔を思い出す。まったりとした停滞感や退屈、もたれ合いに対する、強烈な嫌悪といらだちは、「69」から近作「半島を出よ」まで一貫して変わらない。「69」に描かれた青春こそ、作家・村上の原点だった。
バーを出ると、星一つない曇り空が広がっていた。朗らかなケンの笑い声を無性に聞きたくなった。
=敬称略
(文=地域報道センター・岩田直仁、写真=写真グループ・岩崎拓郎)
▼むらかみ・りゅう
1952年2月19日、長崎県佐世保市生まれ。佐世保北高校卒。武蔵野美術大学在学中の76年、デビュー作「限りなく透明に近いブルー」を発表し、第19回群像新人文学賞、第75回芥川賞を受賞。主な著作に「コインロッカー・ベイビーズ」「愛と幻想のファシズム」「トパーズ」「半島を出よ」など。「69」は女性雑誌「MORE」に連載された後、87年に単行本として出版された自伝的小説(現在は集英社文庫)。2004年、映画化された。
●私の推薦文
楽しいけど、アブナイ奴 井和美さん(26)=派遣社員
佐世保北高校の一九九七年卒業生です。村上龍さんの母校ということは知ってましたが、当時聞いていたのは「在校時にやばいことを起こして、学校は立ち入り禁止」といううわさ。その「やばいこと」がバリケード封鎖だったんですね。
随分昔の本だけど、佐世保の雰囲気がよく出ていて、すごく面白かった。「全共闘」とか「べ平連」とか全然知らなかったのでネットで調べましたが、あの時代はすごく熱かったんだなぁ、とびっくりしました。
私たちの世代は結構クールな感じだったし、学校に不満があっても愚痴を言う程度。ケンみたいに思ったことを行動に移すタイプはいませんでした。周りにこんな子がいたら面白そうだけど、アブナイから近づかないかも(笑)。

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69(シクスティナイン)

69 sixty nine

半島を出よ (上)

村上龍自選小説集 (1)

砂昭和歌謡大全集