ずいぶん久しぶりに読みふけった。通勤電車の中で。取材に向かうバスの中で。際限なくスケベな一コマ一コマを、隣に座った女性客の視線から隠すようにして。劇画調の描線からにおい立つのは温泉郷の湯煙だけではない。性欲、金銭欲、暴力、ずるさ、賢さ…。生身の人間の強烈なにおいが鼻を突く。
「九鬼谷の千両万両湯舟の中で 人の愚かさ賢さが肩を並べて笑ってござる 千両もろても湯谷はいやよ 鬼の巣じゃもの谷じゃもの 万両のおみやげ持たせてあげよ 花も実もある谷じゃもの」
作者、畑中純が掲げた案内に誘われる。読む者は、いつしか幻の九鬼谷温泉を旅する。
峠を行くバスはうなりを上げた。JR小倉駅前(北九州市小倉北区)から「九鬼谷温泉行き」に乗る。街を抜け、紫川の源流へ。バスは福智山麓(さんろく)を目指す。約三十キロ、一時間ほど揺られる。「国見峠」を越えると、たなびく雲はるか、ひそかに浮かぶ桃源郷「九鬼谷温泉」が眼下に広がる。
地図に、その名を見つけることはできない。畑中は「生まれ育った北九州・小倉の中でも特に好きな南はずれにユートピアをつくりたかった」という。門司を有する企救(きく)半島の付け根、小倉南区の鱒淵ダム付近にあたる。半島名をひっくり返した温泉名。「昔、谷には鬼が住んでいるといわれた。鬼は人間の欲望。九鬼谷にはいろんなタイプの鬼がいるのです」
観光旅館「まんだら屋」は温泉街の南にある。露天風呂の数を尋ねると、「五つや。風呂だけが自慢の宿やけ」。北九州弁が返ってくる。丸刈りの頭に下膨れの顔、小太り体形の十七歳。この老舗旅館の二男・大山良太である。小倉城南高校の生徒だが世間を知り尽くしたかのようなずぶとさを持つ良太と、九鬼谷温泉に出入りする人たちが「艶笑騒動譚(えんしょうそうどうたん)」を生み出す。
その中心にはあからさまなセックスシーンが描かれる。エロ漫画として楽しんでいる読者も多い。「騒動譚」が人間のエネルギーにあふれる理由でもある。例えば、仲居のムッちゃんと野性味あふれる夫が、食べて、寝て、セックスをする姿を軸とした「美的生活」という作品。畑中は「食欲と性欲のみで男のエゴをかわいく表現してみたかった」と振り返る。
「どんな欲望、どんなマイナスを引きずっていても、すべてひっくるめて人間なのだから」。人間の体温や体臭を織り込む。畑中の作品づくりは命のはつらつさを確認する作業でもあった。
まんじゅう屋「与之介」、土産屋「こけし堂」、ストリップ「湯の町ヌード劇場」、スナック「ロマン」…。
九州各地の温泉を取材するエッセイスト、筒井泰彦さん(61)=佐賀市在住=も九鬼谷温泉を旅する。「わいせつ、土産、そぞろ歩き。川も、祭りも土俗的な信仰も。温泉に期待する非日常の世界がすべてある」と。
畑中がユートピア建設を始めたのは約三十年前。届いた一組の絵はがきがきっかけだ。漫画家としては食えず、「周囲に生活保護を勧められるぐらい、貧しかった」。妻となる女性からの絵はがきに描かれていたのは大分県の湯平温泉。「温泉に行く作品はたくさんあった。温泉側から、やって来る人を眺めてやれ」。視点を逆にしたことで、動きだした。
湯煙の間を縫って行くと、すれ違う人々も個性的だ。やくざの親分、不良少女、人生に疲れたキャリアウーマン、ヒモ、大金持ち…。管理社会からドロップアウトした人ばかり。「北九州は労働者が集まって一旗揚げようとしのぎを削った。街も人もエネルギーにあふれていた」。性のにおいのする映画、近所の貸本屋でよみふけった漫画、競輪場に集まる男たち。畑中が十代を過ごした三萩野(北九州市小倉北区)で見た人々、体験が多彩な生と性になり、九鬼谷の湯に肩を並べるのだ。
連載を終えて十七年になる。畑中は、まだ、まんだら屋の湯につかっていた。「良太を通した方が社会を見やすい。ここまで付き合ったのだから、良太と付き合い続ける」という。続編について頭をめぐらせている。ただ、昨年秋、体調を崩した。「死を意識していい年になった。取りこぼしたものを一つ一つ拾っていくことになるかもしれない」
時代の問題はその都度描いている。二〇〇六年の九鬼谷温泉はニートや引きこもりも引き受けることになるのだろう。「どこまでいっても人間の欲望との対決です。時代が変わっても欲望は変わらない」。もちろんセックスも。「老人の性を大きなテーマとして扱おうと思う。年をとってもセックスがなけりゃおもしろくない」
振り返ると、良太が隣で聞いていた。「あんまりオレの夢ん中でスケベなことするんやないど。慎み深く生きれよ。エッ、エッ、エッ(笑)」
(敬称略)
(文=社会部・松尾健児)
▼はたなか・じゅん
1950年3月20日、現在の北九州市小倉南区城野に生まれる。県立小倉南高校1年で漫画家になる決意を固める。卒業後、上京して東京デザインカレッジに入学するが、翌年、同校が倒産。建設作業員などを続けながら漫画を描き続け、74年、1枚漫画集「それでも僕らは走っている」を自費出版した。77年「月夜」でデビュー。79年から10年間、雑誌「漫画サンデー」で「まんだら屋の良太」を連載。作品は81年第10回日本漫画家協会最優秀賞を受賞した。現在、雑誌「実話時代」に「極道モン」、同「ブル」に「三郎丸」を連載中。宮沢賢治作品の版画化にも取り組む。東京都調布市在住。
●私の推薦文=エロを描いても叙情的 石井 真理さん(44)=フリー編集者(山口県下関市在住)
学生時代、ひっくり返った教授のかばんの中から少女漫画やエロ本と一緒に出てきたのが良太を連載中の「マンサン」(漫画サンデー)でした。小倉の街中でのけんかのシーンが目に飛び込み「ずいぶん荒っぽいな」という印象でした。
ゼミで日本倫理の研究材料としてコミックを読んで分かったことは、九鬼谷温泉では、みんな精神的に丸裸にされてしまう、人間同士がぶつかり合っている、ということ。エロを描いていても、叙情にあふれている漫画なのです。人と人との付き合いが薄っぺらだ、といわれる携帯文化の中に住む若い世代にも、ぜひ手に取ってもらいたいのです。
関東から下関市に引っ越して来て七年目。幻の九鬼谷温泉は目の前にあります。が、観光客として行くのでは意味がない。何かを捨てて行く場所でしょうか。もし、良太と湯船で並んだら…逃げちゃだめ。人間・良太を確認しなくては。
▼メモ
漫画「まんだら屋の良太」は「マンサンコミックス」(実業之日本社)で計53巻が出版されましたが、現在は絶版となっています。余談ですが、1980年代半ば、NHKが銀河テレビ小説でドラマ化しています。良太役は杉本哲太さん、月子役は石野陽子さんでした。もちろんエロシーンは抜き。方言指導で携わった現・RKB毎日放送ラジオ制作部プロデューサーの藤井義久さん(51)によると、ロケは兵庫県の有馬温泉や大阪市だったそうです。「人間とはこんな存在だ、ということが描ければ裸がなくてもOKでした」と藤井さん。








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