西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年03月26日

別冊・装丁の楽しみ

 「千年書房・九州の100冊」は、これまでに十冊の本を紹介してきましたが、今回は“別冊”として装丁を特集しました。装丁の楽しみ、装丁する側の思い…。書物の衣装ともいえる装丁を知れば、本を読む楽しみも倍増するに違いありません。

    ◇

 本屋へ行くと、私は永井荷風に心もちが変貌(へんぼう)する。かの玉の井にさ迷いこんだようなものだ。誰(た)そ彼時ともなると、木の小窓があき、灯(あか)りが点(とも)り、女達がねんごろに化粧し、髪を梳(す)かし、笑いかけ、流し目を送り、中にはわざと伏し目なぞをして、客の気を惹(ひ)く。行きつ戻りつ、思案しながら彷徨(ほうこう)する。
 本を外見で判断するのか、と問われれば、そうだと答える。装丁の美しき本、味わいのある本は、中味まで良い出来であると断言してもよい。作家が命を削って書く、それを一番に読むのは編集者、二番目に読むのが装丁家。渡された原稿が面白く凄味(すごみ)のある時に、装丁家は燃える。負けるものかと、心が燃える。作家に勝負を挑む。それが装丁家の気概なのである。中身を外見に「かもす」のである。

 醸(かも)しの見事本をご紹介しましょう。
 まずは谷崎潤一郎「刺青(いれずみ)」、籾(もみ)山書店明治四十四年刊。箱は地味だが、抜き出すと目にもあでやかな橙色地に、金の線画で胡蝶(こちょう)と、よく見ると蜻蛉(かげろう)が描かれている。題字もまた橙(だいだい)色の地に、金箔(きんぱく)で「刺青」と筆文字で刻まれている。背表紙には上に一蝶、下に三蝶が舞っている。装丁は橋口五葉画伯、読む前から耽美(たんび)の世界にひき込むのである。

 次は、川端康成「伊豆の踊子」、金星堂昭和二年刊。装丁は吉田謙吉。吉田は想を練るために、川端が泊まった伊豆湯が島温泉の湯本館を訪れ、川端と同じ部屋に泊まっている。箱絵は、この部屋の欄間を絵にし、本の表紙には天城山や宿近くの橋や水の流れをシュールに描き、真ん中に赤色で宿の御膳を配している。同じく裏表紙にも右下に歯の折れた赤い櫛(くし)を描いている。踊子のものであろうか。背表紙には、〓マークが小さく二つ添えられている。箱の題字のタイポは、まるで踊子が踊っているようで、非常にモダンでしゃれた造本である。

 作家自らがすべての装丁を行ったものがある。夏目漱石「こゝろ」、岩波書店大正三年刊。漱石の序文に「箱、表紙、紙、見返し、扉及び奥附(おくづけ)の模様及び、題字、朱印、検印ともに、悉(ことごと)く自分で考案して自分で描いた」とある。箱の題字は「心」と漢字であり、本の扉には「こゝろ」と平仮名である。鬱金(うこん)色の箱、本の表紙は橙色。背表紙の題字と漱石の名は、墨で子持罫(けい)で囲まれている。見返しには緑色で球形の絵が多く施され、口絵には漱石先生と思われる人物がゾロリと所在無げに庭先を見ている。文も図案意匠も一人寂しき高踏派である。

 装丁の良い本はオーラを放っている。何度その前を通りすぎても、なぜか気がかりで後ろ髪をひかれる。結局、後戻りして購うのである。

●「磁力」が読者ひきつけ 装丁家・毛利一枝さん(福岡市)

 装丁とは何か―と聞かれれば「磁力」と答えます。書店に並んだ本の中で、ある一冊を手に取らせる。それが装丁の磁力でしょう。よく「装丁は本の顔」と言われますが、その言い方にはためらいを感じます。
 著者が精神を込め、中には一生をかけて書いたものに顔を作るというのは不遜(ふそん)で、あくまでも顔は中身だと思うのです。中身が顔ならば、装丁は「お面」ですかね。本のカバーは、お面のように外せますから。
 装丁で最も大事なのはタイトルです。周囲に埋没しては磁力を発しません。読者の目に飛び込んでいかねばならず、その配置や書体には気を使います。背表紙も大事です。本は平積みされている期間は短く、たいていは棚差しですから。
 中野三敏さんの『本道楽』(講談社)では、中野先生が所蔵されている近世木活字本『太平御覧』から文字を拾い、少し手を加えてタイトル書体にしました。
 装丁は本のイメージを表現しなければなりません。ゲラを読み、どうやってそのイメージを紡(つむ)ぎ出すかを考え込みます。だから、私の仕事場は、そぞろ歩いている街だったり、喫茶店だったりするのです。
 村田喜代子さんの『お化けだぞう』(潮出版)では、本文の「水玉に移された胎児は、次々と女達の手で上へむかってヒュー、ヒューと飛ばされていく」というイメージで、私が絵をかきました。
 最新作品は谷川健一さんの『古代歌謡と南島歌謡』(春風社)です。雲間からのぞく太陽で「古代」を表し、裏には宮古島の海を写真で入れました。

●本棚に並ぶ背表紙で、その人の性格が… 福岡市 主婦 前原誠子さん(53)

 毎回楽しく拝見しています。女学生のころ、ある人の下宿に遊びに行きました。本箱にぎっしりと並んだ本は、私が読んだことないものばかりでした。当時、学生運動は下火になっていたのですが、その人は結構なシンパだったようです。
 吉本隆明著『共同幻想論』は、今でもはっきりと覚えています。ちょっとむきになってその本を借り、少し読んでみたのですが、難しくて…。
 本箱に並んだ本の背表紙は、何か、その人物の頭脳をのぞき見したような気になって、それで、尊敬したりして。その人、実は、主人です。
 私は、あまり本を読まない人間です。特に難しいのは苦手。好きな作家の本以外は、家事の間に女性週刊誌を読むのがせいぜいです。東京の大学に進学した長女の部屋は、今もそのままにしています。娘の書棚を見ていると、いつの間にか成長したのだなと思います。美術史の本など、ここにも私の知らない本がたくさん並んでいるのです。
 私は山登りが好きで、『カミさんと登る九州百名山』(海鳥社)をよく見ています。「九州の100冊」を九州百名山に見立てて、一冊ずつ読破しようと思っています。

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2006年03月19日

石牟礼道子「苦海浄土」

 ある裁判の記録が残っている。一九七四年六月、熊本地裁の出張尋問で水俣病患者の男性が証言した。
 「―私たちは、小さいときに、桃太郎が鬼を退治に行く話をよく聞かされたわけで、桃太郎は本当に気は優しくて力持ちで、弱い者を助けて、鬼を退治すると、本当にえらいなと思っとりましたが、その桃太郎が鬼を退治するんじゃなくて、弱い者をいじめ抜いて本当に悪い桃太郎になってしまったなと、そういうふうに思って、情けないわけです―」
 ここでいう桃太郎とは国家を、鬼とは水俣病の原因企業・チッソを指す。被害者に優しく手を差し伸べるはずの桃太郎が、なぜ弱い者をいじめるのか、と。後日、水俣病の支援者に向けた機関紙に、この証言が再現された。
 「わたしどもは、親たちから小まんか時、桃太郎の話をきいて、桃太郎は、えらかねえ、ち…思いよりました。鬼征伐にゆく桃太郎は、えらかねえ、ち、思いよりました。桃太郎は、…ああ、裁判長さん、今は、逆さま、逆さまの世の中で、桃太郎は弱かもんいじめをして…、鬼がわたしどんばいじむっとこれ、桃太郎はどげ(どこ)…ああほんなこて、こげん裁判ばして、裁判長さん…」
 一読して分かるように、後者は脚色である。だが、それは圧倒的に前者の「事実」を凌駕(りようが)する。石牟礼道子さんの筆にかかってしまうと。

 「苦海浄土」は今日、いわゆるノンフィクションやルポルタージュではなく、小説の項に分類されている。
 しかし、地名や日時ばかりか、人物や団体の名前にも実在のそれが多く登場する。「虚」が、より雄弁に「実」を語る世界に知らず知らずのうちに引き込まれる。
 ふるさと・水俣で起きた未曾有の公害。それを描くことは「悶々(もんもん)たる関心と控えめな使命感を持ち、これを直視し記録しなければならぬという盲目的な衝動」(「苦海浄土・五月」)であったと記す。
 「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉」(「苦海浄土・死旗」)を語り伝えるために「(私は)近代への呪術(じゆじゆつ)師とならねばならぬ」(同)とも述べる。
 いわれなき死に見舞われた人たちの。脳を冒され人生を失った人たちの。生まれながらに毒に蝕(むしば)まれた子どもたちの。
 その沈黙に閉じ込められた声なき声、言葉にできない言葉を、静かな怒りを込めて代弁する。「石牟礼道子巫女(みこ)説」。今日まで、そうささやかれる由縁でもある。
 それにしても、この本に誘われて一体どれだけの人が水俣に足を踏み入れたことだろう。
 「ぼくら、外から来た人間にはバイブルです」
 水俣市で紙漉(す)き工房を営む金刺潤平さん(46)は即答する。
 大学卒業後、本に触発され縁もゆかりもない水俣に移り住んだ。紙漉きを始めたのも、「胎児性水俣病の子どもたちにも、何かできる作業があるんじゃないかしら」と漏らした石牟礼さんの言葉がきっかけになった。
 「『苦海浄土』は創作だけど、とんでもない労作。あれを読んだら、『自分も何か』と第三者の傍観者ではいられなくなる」
 かつて水銀ヘドロで覆われた水俣湾埋め立て地に、野仏が立つ。石牟礼さん、金刺さんたちのグループが、毎年、数体ずつ手彫りのお地蔵さんを供える。
 水銀に毒された魚介や、実験の犠牲になった猫など、あらゆる生類の霊を悼む。いま五十三体。いずれも、海に向かって手を合わせる。
 一九六九年の発表から三十七年。作品の魅力は、いまも失(う)せてはいない。石牟礼さんを通じて発せられる被害者たちの声は、変わらず水俣病を告発し続けている。
 だが、そうやって輝き続けるが故の「功罪」を指摘する声が、ポツリ漏れ聞こえる。水俣市のある患者支援者はいう。
 「『苦海浄土』のイメージがあまりに強すぎて、水俣はいまだに悲惨な状態だと、あんなひどい症状の人だけが水俣病だと誤解されはしないか」
 もちろん、作品の側にその責があるはずもない。ただ、当然ながら今は「苦海浄土」の水俣ではない。劇症の重篤な症状だけが水俣病でもない。
 そして支援者は続けた。「『苦海浄土』に続く水俣病を誰も書けなかった。『苦海浄土』がでかすぎて、誰もその壁を乗り越えられなかった」―。
 記者は数年前、石牟礼さんにコメントを求めたことがある。
 水俣病事件史のもう一つの主舞台、東京・丸の内にあったチッソの本社が移転することになったため、往時、その“内側”で闘争に立ち会った証人として話をうかがいたかったのだ。
 瞬間、絶句した。「あの当時は、チッソの方々もご苦労されたんだと思います」。消え入りそうなか細い声で、短く、そんな趣旨の言葉が返ってきた。
 祈りの世界など遠く思いも至らず、多少なり憤怒の言葉を期待していた私もまた「苦海浄土」をひきずっていた一人だった。
 (文=社会部 ・進藤卓也 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼いしむれ・みちこ

 1927年、熊本県・天草に生まれ、生後3カ月から水俣市に移り住む。戦前は代用教員を務めたが、軍国教育の一端を担ったと自責し、戦後退職。結婚後、主婦業の傍ら、56年5月1日に公式確認された水俣病の被害者、家族の姿を書きためた。被害者が起こした水俣病第1次訴訟を支援する「水俣病対策市民会議」の発足に携わる一方で、裁判によらずチッソとの直接対話を求めた故川本輝夫さんたちの自主交渉を支援。その現場を生々しく伝えた。2004年は創作能「不知火」を水俣湾埋め立て地で開催。水俣市に計画の産廃処分場にも、反対の声を上げ続けている。

●私の推薦文=そこに不思議な美しさ 山下 善寛さん(65)=元チッソ社員(熊本県水俣市)

 もう亡くなりましたが、赤崎覚さんという水俣市の職員がいて、まだ誰も見向きもしなかったころから水俣病の患者さん宅を訪ね回っていた。石牟礼さんは、その後からついて歩いて家族の話なんかを聞いておられた。一番ひどかった時期の、一番リアルな様子を見た人です。
 それでいて、「苦海浄土」には不思議な美しさがあります。もちろん、現実の患者さんや家族の姿は、あれほど美しいものじゃありません。ものすごく深い心の持ち主で、患者さんたちの心を全部分かっていたんでしょう。そうじゃないと、水俣病の現実からはあの作品は生まれてはきません。
 石牟礼さんの特徴は「弱い者の立場でものを見る」ということだと思います。それが、多くの人たちに感動と共感を与えたのではないでしょうか。

▼メモ

 ■「苦海浄土」は1969(昭和44)年、講談社から単行本が、72年には文庫判が出版されました(2004年に新装)。「神々の村」「天の魚」と続く2作と合わせ、三部作として完結します。1970年、「苦海浄土」は第1回の大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれますが、石牟礼さんは受賞を辞退しています。近年では、若者に人気の作家・田口ランディさんが「苦海浄土」をテーマにした講演を行うなど、若い作家にも影響を与え続けています。

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苦海浄土―わが水俣病

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妣たちの国―石牟礼道子詩歌文集

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天湖

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不知火

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水はみどろの宮

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2006年03月12日

鹿児島県編「麑海魚譜」

 魚市場を訪れると、その一種独特な雰囲気にのみ込まれてしまう。
 目の輝きをそのままに残したタイやヒラメ、アラカブ、タチウオ…。氷を乗せた昔ながらの大八車がせわしげに行き交う。鼻をくすぐる潮の香り。競り人の声が次第に大きくなり、圧倒的な男の世界が熱気を帯びていく。
 明治初期の鹿児島。「売り」と「買い」という生活の原風景の中で、競りにかけられる魚をギラリ、凝視していたのが「麑海魚譜」の絵師、木脇啓四郎と二木直喜であった。

 「麑海魚譜」の「麑」は鹿児島のことを指す。つまり、「麑海魚譜」を平たくいえば、錦江湾を中心とする鹿児島近海の魚介類を集めた図鑑だ。
 「そん魚を、一匹くいやんせ」
 市場に魚を水揚げする、赤銅色に潮焼けした漁師たちに、二人がこう声を掛けていたのは想像に難くないだろう。オコゼもいれば、トビウオもいる。ナマコもあれば、ワタリガニもある。二人が描いた魚介類は三百二十五種。その作品群は天然色のオールカラー(三分冊。作製されたのは一セットのみ)で、一部を除き原寸大で書かれている。「薩摩博物学史」(上野益三著)によれば、二人はわずか一年半で魚譜をほぼ完成させたという。
 ところでこの魚譜、直接の作製意図は一八八三(明治十六)年に東京・上野で開かれた第一回水産博覧会に出品し、「鹿児島の水産の富を周知させる」(薩摩博物学史)ため、当時の県令渡辺千秋が命じたものだった。
 時代を振り返れば、大政奉還の年の一八六七年、薩摩藩は独自にパリ万博に薩摩焼や漆器などを出品。その三年前には藩の洋学養成機関として薩摩藩開成所を開いている。幕末、明治期を通じて貫かれた「外に開き、吸収する」という姿勢。その同じベクトル上に「麑海魚譜」があったとみてもいいだろう。水産博覧会に出品された魚譜は、図書部門で最高賞を受賞した。
 「二木のことは、ほとんど分かっていません」(渋谷幸一・鹿児島県立図書館資料課長)という。その半面、木脇についてはその輪郭が史実にある。「祖父は朝早く魚市場へ出掛けて行き、いろいろと魚を探し求め、やっと気に入った魚の写生ができた時は、大変に機嫌がよかった」。そんな孫娘の言葉も残っている。
 絵師としての才覚を発揮する一方、木脇は行政官にも転じ、各地の地頭も務めた。幕末期、政治の一場面にもひょっこり顔を出す。坂本竜馬が鹿児島を訪れた際、「木脇は竜馬の妻おりょうに華道の手ほどきをした」というエピソードもある。
 麑海魚譜は現在、鹿児島県立図書館に所蔵されているが、その存在感は今もなお精彩を放ち、南海の豊潤さを教えてくれる。
 (文・田端良成、写真・岡部拓也)

●メモ

 麑海魚譜は、鹿児島県立第一鹿児島中学校が1911(明治44)年に銅版画による普及版の「麑海魚譜」(単色版)を約2000部刊行しましたが、今回、福岡市の出版社「書肆侃侃房」(しょしかんかんぼう)がこの普及版を復刻、出版しました。
















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麑海魚譜

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薩摩博物学史

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2006年03月05日

夢野久作「ドグラ・マグラ」

 無限軌道の轟音(ごうおん)がブルドーザーの接近を告げるように、「ドグラ・マグラ」という異様な響きにこそ、この小説が秘めた衝撃力のすべてがある。
 主人公の「私」は、柱時計の時報で目覚める。隣室からは少女の「お兄さま」と叫ぶ声。「私」は九州大学医学部の精神病棟に記憶喪失者として収容されている。「私」は正木敬之と若林鏡太郎という二博士に会い、自分の名前は「呉一郎」、隣室の少女は従妹(いとこ)で許嫁(いいなづけ)の「呉モヨ子」らしいと知る。
 「私」は催眠状態で二つの殺人を犯したらしいが、その殺人は二博士によって自分の出生以前に計画された「心理遺伝」の証明作業の一段階で、実験は依然進行中と気付き慄然(りつぜん)とする。

 果たして自分は「呉一郎」か?
 違うとすれば、自分は一体誰か?
 恐怖に満ちた「自分探し」の迷宮に、「私」は引きずり込まれていく…。
 「これを書くために生まれてきた」と夢野久作が十年間手を入れ続け、奇天烈(きてれつ)な内容と原稿用紙千二百余枚という大作ゆえに出版先が決まらず、一九三五年、自費出版で世に出した執念の作品。久作の熱情とこの作品のルーツはどこにあるのか。彼の日記をひもとくと、一本の映画に行き当たる。
―昭和元(一九二六)年四月五日 銀座にて映画を見る。ガリガリ博士―
 「ガリガリ博士」とはドイツ映画「カリガリ博士」のことだ。ある町にカリガリ博士という催眠術師が見世物小屋を開く。出し物は催眠状態で予言をする「眠り男」。眠り男はある観客に「今夜死ぬ」と言い、その通りになる。不審を抱いた若者が博士の正体を追及すると、実は精神病院の院長だった。眠り男はその患者で院長に操られて殺人を繰り返していたのだった。追及した若者は院長の手で患者として病院に監禁され、映画は終わる。
 映画を見た久作は、間もなく「ドグラ・マグラ」に着手する。なぜ久作はこの映画に触発されたのか。そこには、久作とこの映画の制作者たちが共有していた「同時代の不安」があったからだろう。
 「カリガリ博士」は、ロベルト・ヴィーネ監督らユダヤ系映画人がファシズムの台頭を予感しつつ制作した。当初の脚本では、カリガリは人民を操り、戦争に駆り立てる催眠術師として描かれ、映画の「予言」は数年後、ヒトラーの出現で現実となった。
 「夢野一族」「夢野久作読本」の著者、多田茂治(78)は「『ドグラ・マグラ』は、怪奇あり、猟奇ありの内容で目くらましされそうだが、実は文明批判を基軸とした思想小説であり、近代の闇を照らしている」と指摘する。「ドグラ・マグラ」に着手する前年の一九二五年に治安維持法制定、三一年に満州事変、三三年に日本の国際連盟脱退…。軍靴の響きが着実に近づいていた時代だった。
 久作は「戦場」(三六年)で「戦争とは(中略)人間の大群が、やはり何の興味も感激もなしにバタバタと薙(な)ぎ倒され、千切られ、引き裂かれ、腐敗させられ、屍毒(しどく)化させられ、破傷風化させられていくことである。その劇薬化させられた感情の怪焔(かいえん)…毒薬化された道徳の異臭に触れよ、戦慄せよ」と激越な表現で戦争を弾劾している。
 「ドグラ・マグラ」が刊行された翌月、父で「政界の黒幕」といわれた杉山茂丸は久作に言う。
 「汝(なんじ)は俺(おれ)の死後、日本無敵の赤い主義者になるやも計られず」と。久作も「全く痛み入る。あたらずとも遠からず。修業足らざるがゆえに看破されたる也(や)」と苦笑している。
 当時の軍国日本の思想、風潮からいえば久作は異端者であった。だからこそ彼は、「カリガリ博士」という戦争の予感に満ちた不安の物語に強く共振していったのだろう。
 久作の長男、杉山龍丸は著書「我が父・夢野久作」で印象的なエピソードを紹介している。子ども時代に龍丸が、国学書「大学」を学校で習った通りに「天子の道は民に親(した)しむにあり」と声に出して読んでいたら、「馬鹿っ! そんな読み方をする奴(やつ)があるかっ!」と、書斎から久作が飛び出してきて「これは『民を親(おや)にするにあり』と読むのだ」と怒鳴(どな)ったという。
 天皇の親は人民であるという久作の思いとは裏腹に時代は流れた。「大君(おおきみ)の辺にこそ死なめ」―。軍歌「海行かば」に象徴されるように国に殉ずることが美化され、軍部はノモンハン、ガダルカナル、インパールと人民の命を浪費した。ある意味、日本全体が戦争遂行のための、巨大な集団催眠装置と化していったのだ。
 戦後六〇年が過ぎた。しかし、くだんの催眠装置は日本のどこかで静かに、そして強力に稼働してはいないだろうか。安らかな眠りを破り、人間が人間でなくなる時代の始まりを告げる柱時計の音が鳴り渡る日は近いのかもしれない。闇の中に一人震える「私」とは、まさにあなた自身のことである。
 (文=多久支局・大田精一郎写真=写真グループ・納富猛)

▼ゆめの・きゅうさく

 1889年(明治22)1月4日、福岡市小姓町(現中央区大名)に、杉山茂丸、ホトリの長男として生まれる。本名は泰道。慶応義塾大中退後、同市東区香椎に杉山農園を開くが、その後、雲水などをして全国を放浪。1919年に九州日報(現西日本新聞)記者となる。26年、雑誌「新青年」の小説募集で、初めて夢野久作を名乗った「あやかしの鼓」が2等になり注目される。「瓶詰地獄」「犬神博士」「氷の涯」「暗黒行使」「近世怪人伝」などで、探偵小説界に特異な地位を築くが、36年3月11日、前年に没した茂丸の葬儀の決算報告を受けた直後に脳出血で倒れ、死去。

●私の推薦文=「自分」はどこからくるのか 松本サルトさん=フリーライター(福岡市在住)

 ミュージシャンで作家の大槻ケンヂ。八〇年代のバンドブームで脚光を浴び始めたころ、彼は「モヨコ」と名乗っていた。その名の由来は古い小説らしいと何かで知った。それが『ドグラ・マグラ』だった。
 当時読んだときは、現実と妄想の境目や時間の連続性が曖昧で、グニョグニョな久作の世界観が、ただただ面白かったという印象。あれから二十年。読み直すと、物語の中で繰り返される「私」の言葉にひきつけられた。「自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多い」。
 感情をコントロールしたいという意味ではない。心に何かが浮かぶ、そのこと自体を人は止めることができない。魂の奥底からこみ上げる感情を、誰も自由に制御できない。いわんや国家や他人の圧力では。
 この小説の真のテーマは「魂の自由」。時代に違和感のある人、ハマってみて。

▼メモ

 九州日報記者時代、久作は児童画の審査も担当しました。落選作から気に入った作品を家に持ち帰り、一冊の画帳にまとめ創作に行き詰まったときにながめていたそうです。94年、福岡市で開催された回顧展「快人Q作ランド」に現物が出品されました。表紙には久作の達者なレタリングで「こどもの芸術」と書かれ、久作の人柄を垣間見た気がしました。ちなみに「カリガリ博士」を見た日の映画は2本立てで、日記には「ジャッキー・クーガン」とあります。これは子役の名で、映画はチャップリンの「キッド」だったと推察されます。案外、久作のお目当てはこっちの映画だったのかもしれません。

 ■久作の一族が眠る杉山家の墓所は、福岡市博多区中呉服町の一行寺にあります。

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ドグラ・マグラ現代教養文庫 884 夢野久作傑作選 4

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ドグラ・マグラDogra Magra

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夢野久作全集〈2〉

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夢野久作読本

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夢野久作ドグラマグラ幻戯

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