宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」
やわらかな日差しの中、赤いツバキの花が地面に落ちていた。近くの高校から部活動の掛け声が届く。「はーい」「はーい」。女子高生がテニスボールを打つ小気味いい音が交差する。長崎県島原市の島原城の片隅。「盲目の作家」、宮崎康平さんの石碑が静かに立っている。
「終戦は無慈悲に、私に失明を与えた。それから十五年、白いステッキにすがりながら、とぼとぼとまぼろしの国を探し求めてさまよい歩き、いまやっと、その周辺にたどり着いたような気がする。」
碑文は「まぼろしの邪馬台国」のまえがきだ。四十年ほど前、全国的な古代史ブームを巻き起こしたベストセラーである。
中国の歴史書「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国は、千八百年ほど前、女王卑弥呼(ひみこ)がいて、中国に使いを派遣した。しかし、日本のどこにあったのか分からない。康平さんは、そんな「まぼろしの国」に迫り、本を書いた。以来、高度経済成長期が終わり、オイルショック、バブル経済、その崩壊を経て、二十一世紀になった。それでもなお、邪馬台国は謎のままだ。
島原城近くの歩道に小さな観光記念碑がある。「遠い国 ヤマタイさがした康平さん」。優しい碑文に目をとめていたら、子犬連れの散歩の人が軽く会釈をして通り過ぎていった。
康平さんは島原鉄道の常務を務め、火野葦平や劉寒吉らが活躍した「九州文学」の同人でもあった。いま、同誌の代表の高尾稔さん(80)=佐賀市=が懐かしむ。「天衣無縫というか、やんちゃ坊主というか。涙もろい情熱家でしたね」。同人仲間が参加した韓国旅行で、韓国の文化関係の大臣と面会したとき。みんなが緊張した面持ちでいたのに、康平さんだけは平然とあぐらをかいて座ったという。
「まぼろしの邪馬台国」の中にも書いているように、早稲田大学で学生生活を送ったのは戦時色が濃くなる昭和十年代。恩師、津田左右吉教授が日本の神話に疑問を呈して、職を追われた。康平さんは涙を流し、「邪馬台国は私らの手で必ずさがしてみせると誓った」と同書に記している。
戦後、ようやく歴史の研究も自由になったものの、学閥が強かった。邪馬台国が近畿地方にあったとする畿内説が多い中にあって、康平さんは少数派の九州説を唱えた。「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への行程を、古事記や日本書紀の記述と照合した。目が見えないので、妻の和子さんに読み上げてもらい、繰り返し聞いた。
長崎県の対馬、壱岐(一支)、福岡県の糸島(伊都)…。位置が確定している所から先は、和子さんと二人で歩き、推定を重ねた。行き着いた「邪馬台国」は古里の長崎県西南部。「我田引水だね」と冷やかされ、苦笑いする康平さんを高尾さんは覚えている。今も島原市に暮らす和子さん(76)は「夫にとって、九州が世界の中心だった」と笑う。しかし、先見の明もあった。
約二十年後、佐賀県の吉野ケ里遺跡が姿を現す。卑弥呼の時代より少し前だが、巨大なクニが確かに有明海の近くにあったのである。
小説でもなく、評論でもない。「まぼろしの邪馬台国」はジャンル分けが難しい。「康平さんの人生の賛歌であり、彼のロマンの詩でもある」と高尾さんは言う。康平さんは戦前、戦後を生き抜き、多くの人と付き合った。
よく知られるのは、早稲田大学の同窓という縁があった、俳優の森繁久弥さんとの付き合い。
「♪おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の ナシの木 そだちよ…」
森繁さんは康平さん作の「島原の子守唄」を歌い、全国的に有名にした。
宮崎さんは、歌手のさだまさしさんの「生みの親」でもある。さださんの父親に頼まれて長崎の放送局にさださんを紹介し、デビューのきっかけをつくった。和子さんは言う。「さだ君はよくうちに遊びに来てました。主人はおじさんのようにかわいがっていましたよ」
「♪おまえを嫁に もらう前に…」
さださんが大ヒットさせた「関白宣言」は、康平さん、和子さん夫婦がモデルかもしれないという。歌を聴くと、亭主関白であり、かつ、心やさしい男の姿が思い浮かぶ。
康平さんの足跡をたどるうちに、気になったことがある。康平さんが追い求めた「ロマン」。その言葉を最近、あまり耳にしなくなった。時代に漂うあきらめのせいだろうか。
フランスの飛行機乗りだった作家、サンテグジュペリが「星の王子さま」で書いたメッセージを思い出す。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだ」
盲目の康平さんだからこそ「邪馬台国」が見えたのかもしれない。それは、どんな姿だったのだろう。
そんな思いを胸に、吉野ケ里遺跡に立ち、目をつむってみた。
(文=文化部・江田一久 写真=写真グループ・納富猛)
▼みやざき・こうへい
1917(大正6)年、長崎県島原市で生まれる。本名は一章。早稲田大学文学部を経て、東宝に入社するが、兄の死去で帰郷。家業の土建業・宮崎組取締役と島原鉄道取締役になる一方、「九州文学」の同人となる。眼底網膜炎で失明し、57年、和子さんと再婚。自作の「島原の子守唄」がレコードになる。60年、島原鉄道常務を辞任。65年から「九州文学」に「まぼろしの邪馬台国」を連載。67年、同作品を講談社から出版し、ベストセラーになる。同年、第1回吉川英治賞を夫婦で受賞した。80年、「新版・まぼろしの邪馬台国」を刊行。同年3月16日、62歳で死去。
●私の推薦文
飽くなき追求心を感じる 中山春男さん(77)=島原文化連盟委員長(長崎県島原市在住)
一九八〇(昭和五十五)年、康平先生の訃報(ふほう)を新聞の見出しで知った。「巨星逝(ゆ)く」の感であったことを思い出す。
康平先生は「まぼろしの邪馬台国」で一躍、全国に名をはせた。郷土島原にとっても二人と出ない希有な人物であろう。この本の読後感として、強烈に脳裏に刻み込まれたものがいくつかある。
その一つは、執筆の動機である。何がそこまで彼を発奮させたのか。邪馬台国の名を横光利一の小説「日輪」で知り、津田左右吉の講義に強く触発されたという。彼自身の飽くなき追求心を増幅させたのだと思う。また、盲目という逆境を乗り越える強い意志と、信念を絶えず心の土壌にたたき込むエネルギーを持った人だと感じた。
古代へのロマンに思いをはせ、追求する情熱、それは私の夢でもある。
▼メモ
■康平さんは農業を愛していました。バナナを栽培したり、酪農に励んだり。旅行先でも土に触れ、舌でなめて土の質を調べたといいます。島原に農業の楽園を作るのが大きな夢でした。
■島原文化連盟などは例年、康平さんの命日(3月16日)の前後に康平忌と島原半島文化賞授賞式を開いています。今年は3月18日に島原城であり、島原高校合唱部が「島原の子守唄」を歌い、関係者が康平さんをしのびました。
■「まぼろしの邪馬台国」は講談社から単行本、文庫本が出版されました。残念ながら現在は絶版になっていますが、インターネットの講談社電子文庫で読むことができます。税込みで630円。問い合わせは講談社デジタルコンテンツ出版部=03(5395)4514。
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