西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年04月30日

宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」

 やわらかな日差しの中、赤いツバキの花が地面に落ちていた。近くの高校から部活動の掛け声が届く。「はーい」「はーい」。女子高生がテニスボールを打つ小気味いい音が交差する。長崎県島原市の島原城の片隅。「盲目の作家」、宮崎康平さんの石碑が静かに立っている。
 「終戦は無慈悲に、私に失明を与えた。それから十五年、白いステッキにすがりながら、とぼとぼとまぼろしの国を探し求めてさまよい歩き、いまやっと、その周辺にたどり着いたような気がする。」
 碑文は「まぼろしの邪馬台国」のまえがきだ。四十年ほど前、全国的な古代史ブームを巻き起こしたベストセラーである。
 中国の歴史書「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国は、千八百年ほど前、女王卑弥呼(ひみこ)がいて、中国に使いを派遣した。しかし、日本のどこにあったのか分からない。康平さんは、そんな「まぼろしの国」に迫り、本を書いた。以来、高度経済成長期が終わり、オイルショック、バブル経済、その崩壊を経て、二十一世紀になった。それでもなお、邪馬台国は謎のままだ。

 島原城近くの歩道に小さな観光記念碑がある。「遠い国 ヤマタイさがした康平さん」。優しい碑文に目をとめていたら、子犬連れの散歩の人が軽く会釈をして通り過ぎていった。

 康平さんは島原鉄道の常務を務め、火野葦平や劉寒吉らが活躍した「九州文学」の同人でもあった。いま、同誌の代表の高尾稔さん(80)=佐賀市=が懐かしむ。「天衣無縫というか、やんちゃ坊主というか。涙もろい情熱家でしたね」。同人仲間が参加した韓国旅行で、韓国の文化関係の大臣と面会したとき。みんなが緊張した面持ちでいたのに、康平さんだけは平然とあぐらをかいて座ったという。
 「まぼろしの邪馬台国」の中にも書いているように、早稲田大学で学生生活を送ったのは戦時色が濃くなる昭和十年代。恩師、津田左右吉教授が日本の神話に疑問を呈して、職を追われた。康平さんは涙を流し、「邪馬台国は私らの手で必ずさがしてみせると誓った」と同書に記している。
 戦後、ようやく歴史の研究も自由になったものの、学閥が強かった。邪馬台国が近畿地方にあったとする畿内説が多い中にあって、康平さんは少数派の九州説を唱えた。「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への行程を、古事記や日本書紀の記述と照合した。目が見えないので、妻の和子さんに読み上げてもらい、繰り返し聞いた。
 長崎県の対馬、壱岐(一支)、福岡県の糸島(伊都)…。位置が確定している所から先は、和子さんと二人で歩き、推定を重ねた。行き着いた「邪馬台国」は古里の長崎県西南部。「我田引水だね」と冷やかされ、苦笑いする康平さんを高尾さんは覚えている。今も島原市に暮らす和子さん(76)は「夫にとって、九州が世界の中心だった」と笑う。しかし、先見の明もあった。
 約二十年後、佐賀県の吉野ケ里遺跡が姿を現す。卑弥呼の時代より少し前だが、巨大なクニが確かに有明海の近くにあったのである。

 小説でもなく、評論でもない。「まぼろしの邪馬台国」はジャンル分けが難しい。「康平さんの人生の賛歌であり、彼のロマンの詩でもある」と高尾さんは言う。康平さんは戦前、戦後を生き抜き、多くの人と付き合った。
 よく知られるのは、早稲田大学の同窓という縁があった、俳優の森繁久弥さんとの付き合い。
 「♪おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の ナシの木 そだちよ…」
 森繁さんは康平さん作の「島原の子守唄」を歌い、全国的に有名にした。
 宮崎さんは、歌手のさだまさしさんの「生みの親」でもある。さださんの父親に頼まれて長崎の放送局にさださんを紹介し、デビューのきっかけをつくった。和子さんは言う。「さだ君はよくうちに遊びに来てました。主人はおじさんのようにかわいがっていましたよ」
 「♪おまえを嫁に もらう前に…」
 さださんが大ヒットさせた「関白宣言」は、康平さん、和子さん夫婦がモデルかもしれないという。歌を聴くと、亭主関白であり、かつ、心やさしい男の姿が思い浮かぶ。

 康平さんの足跡をたどるうちに、気になったことがある。康平さんが追い求めた「ロマン」。その言葉を最近、あまり耳にしなくなった。時代に漂うあきらめのせいだろうか。
 フランスの飛行機乗りだった作家、サンテグジュペリが「星の王子さま」で書いたメッセージを思い出す。
 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだ」
 盲目の康平さんだからこそ「邪馬台国」が見えたのかもしれない。それは、どんな姿だったのだろう。
 そんな思いを胸に、吉野ケ里遺跡に立ち、目をつむってみた。
 (文=文化部・江田一久 写真=写真グループ・納富猛)

▼みやざき・こうへい

 1917(大正6)年、長崎県島原市で生まれる。本名は一章。早稲田大学文学部を経て、東宝に入社するが、兄の死去で帰郷。家業の土建業・宮崎組取締役と島原鉄道取締役になる一方、「九州文学」の同人となる。眼底網膜炎で失明し、57年、和子さんと再婚。自作の「島原の子守唄」がレコードになる。60年、島原鉄道常務を辞任。65年から「九州文学」に「まぼろしの邪馬台国」を連載。67年、同作品を講談社から出版し、ベストセラーになる。同年、第1回吉川英治賞を夫婦で受賞した。80年、「新版・まぼろしの邪馬台国」を刊行。同年3月16日、62歳で死去。

●私の推薦文

飽くなき追求心を感じる 中山春男さん(77)=島原文化連盟委員長(長崎県島原市在住)

 一九八〇(昭和五十五)年、康平先生の訃報(ふほう)を新聞の見出しで知った。「巨星逝(ゆ)く」の感であったことを思い出す。
 康平先生は「まぼろしの邪馬台国」で一躍、全国に名をはせた。郷土島原にとっても二人と出ない希有な人物であろう。この本の読後感として、強烈に脳裏に刻み込まれたものがいくつかある。
 その一つは、執筆の動機である。何がそこまで彼を発奮させたのか。邪馬台国の名を横光利一の小説「日輪」で知り、津田左右吉の講義に強く触発されたという。彼自身の飽くなき追求心を増幅させたのだと思う。また、盲目という逆境を乗り越える強い意志と、信念を絶えず心の土壌にたたき込むエネルギーを持った人だと感じた。
 古代へのロマンに思いをはせ、追求する情熱、それは私の夢でもある。

▼メモ

 ■康平さんは農業を愛していました。バナナを栽培したり、酪農に励んだり。旅行先でも土に触れ、舌でなめて土の質を調べたといいます。島原に農業の楽園を作るのが大きな夢でした。

 ■島原文化連盟などは例年、康平さんの命日(3月16日)の前後に康平忌と島原半島文化賞授賞式を開いています。今年は3月18日に島原城であり、島原高校合唱部が「島原の子守唄」を歌い、関係者が康平さんをしのびました。

 ■「まぼろしの邪馬台国」は講談社から単行本、文庫本が出版されました。残念ながら現在は絶版になっていますが、インターネットの講談社電子文庫で読むことができます。税込みで630円。問い合わせは講談社デジタルコンテンツ出版部=03(5395)4514。

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2006年04月23日

宮本常一「忘れられた日本人」

 狭い入り江に張り付いた長崎県対馬市厳原(いずはら)町浅藻(あざも)は、対馬島の西南端にある百戸余りの集落である。戦後復興が軌道に乗り始めた一九五〇年夏、民俗学者・宮本常一は白い開襟シャツにリュックを背負ってここに現れた。
 「宮本先生は囲炉裏端で話をしよった。二時間も三時間も、もっとおってやせんかねえ」
 梶田味木さん(82)は、当時既に八十を過ぎていた義父の富五郎と宮本が熱心に話し込んだ様子を覚えている。富五郎は、宮本と同郷の山口県周防大島に生まれた。幼くして孤児になり、もらわれた漁師の船で、無人に近かった浅藻に移り住んだ。人々は土地を開拓し、入り江の岩を小舟で運び出して港を造り、集落を栄えさせた。
 「はァ、わしがここ来たのも古いことじゃ…」で始まる富五郎の波乱に満ちた身の上話を宮本はつぶさに聞き採り、「梶田富五郎翁」として『忘れられた日本人』に収録した。「後から宮本先生の本を読むと『わしァのう…』『…でごいす』と、おじいさんのしゃべり口があまりに実際通りで驚いたですよ」

 宮本の足跡を訪ねて、厳原、浅藻、豆酘(つつ)、仁田、佐護、小綱(こづな)、鰐浦(わにうら)、豊(とよ)、比田勝(ひたかつ)、唐舟志(とうじゅうし)、千尋藻(ちろも)といった対馬の集落を車で巡った。四百五十キロほど走ったが、宮本に比べればごく一部に過ぎない。「旅の巨人」と呼ばれた宮本は生涯に十六万キロ、地球四周分をほとんど自分の足で歩き続けた。そのパトロンで民俗学の師でもあった実業家の渋沢敬三は「もし宮本君の足跡を日本の白地図に赤インクで印したら全体真っ赤になる」と評した。誇張ではない。戦後だけで十万枚とされる写真撮影や、今なお刊行が続く膨大な著作は、その旅の濃密さを伝える。

 宮本の関心は、民話や口承文学、農漁業史、塩業史、生活史、考古学と果てしなく広がった。十三編の文章からなる『忘れられた日本人』にはそのエッセンスが詰まっている。「対馬にて」は、伊奈という村で「とり決め」を行うために昼も夜もなく、延々と続く村人たちの寄り合いを題材とした。のどかに見えて、共同体運営の知恵が凝縮された日本古来の「民主主義」を見事に照射した。

 宮本は五〇年と五一年の対馬調査に約八十日間を費やした。島内を結ぶ幹線道もないころ、バスや浦々をつなぐ沿岸船を乗り継いだ。峻険な山々に囲まれ、複雑に入り組んだ海岸線に点在する村落を泊り歩いている。学究の徒である一方、離島振興法の成立に奔走し、辺境の民の生活向上に腐心した実践家でもあった。

 調査のかたわら、広範な知識と見聞に裏打ちされた話で多くの人々を魅了した。農業を始めたばかりのころに宮本と出会った村瀬敬三さん(74)は、コメやイモの増産が叫ばれる中で「ここにはブドウなどの果樹が適する」と助言を受けて驚いた。糸瀬博さん(86)は、恒常的な水不足を解消する方策として「井戸水は飲料に使い、生活用水のために雨水をためなさい」と教えられた。「半農半漁でなく、農業に七割の力を注いだ方がいい」と宮本に勧められ、入り江の突端にあった先祖代々の家から、湾奥部に転居したという。

 浅藻の港で漁師の松原徳義さん(75)と知り合った。祖父は周防大島の属島である沖家室(おきかむろ)島の出身。妻のクマ子さん(72)も、周防大島の漁師の「三世」だ。二人とも「富五郎じいさん」をよく覚えていた。タイ釣りの名人で、餌のフナムシを捕って届けると、お礼にお菓子をくれる好々爺だった。

 今も浅藻の土地の大半は、西に四キロほど行った旧豆酘村の人々が所有している。明治初め、周防大島の漁師は海で遭難した豆酘の船を救い、礼として浅藻に住む許しを得た。その際の逸話が面白い。「何でも望みをかなえる」という豆酘の申し出に、漁師たちは「浅藻湾一帯のフナムシを捕まえる権利をほしい」と願ったというのだ。

 地元の年寄りたちは「あの時にフナムシでなく土地をほしいと言うときゃ、三代にわたって地代を払うこともいらんかったのに」とからから笑う。

 真偽は別にして、こうした話は、定住に固執しない海の民の遺伝子が今も浅藻の人々の中に生き続けていることを感じさせる。一時は遊郭が七、八軒も並び繁栄した集落も、激しい過疎と高齢化の波に襲われている。松原夫妻は「人のいない昔の浅藻に戻ろうとしよるのかもしれん」と漏らした。

 宮本は『忘れられた日本人』で、近代化や高度経済成長の陰で失われゆく民の生活を書いた。高知県の山中で出会った盲目の元馬喰(ばくろう)が、若い時分の女性遍歴を独白する「土佐源氏」は最高傑作とされる。土佐方言による語り口は、切ないエロチシズムを発しながら「どんな女でもやさしくすれば、みんなゆるすもんぞな。(中略)かけた情は忘れるもんじゃァない」と、人に対する慈しみを紡ぎ出す。

 生涯通して貧困を友にし、肺結核や内臓の疾病に悩まされても辺境を歩いた。歩いて、歩き抜いた。それは、離島や山村の中に、時代を超越して伝承すべき精神や風土、営みがあると信じたからにほかならない。未来志向のリアリストの目がそこにある。宮本の著作は、複雑化し混迷する現代社会において、温もりを持った羅針盤の役をも担おうとしている。
(文=地域報道センター・大久保昭彦 写真=写真グループ・岡部 拓也)

▼みやもと・つねいち

 1907(明治40)年、山口県周防大島町(旧家室西方村)生まれ。小学校高等科を出て農業に従事する。23年4月に大阪逓信講習所に入り、郵便局に勤務。その後、大阪府天王寺師範学校第二部、同専攻科を経て、教職のかたわら民俗学の世界へ。34年に柳田国男、35年に渋沢敬三と出会う。39年、渋沢の主宰するアチックミュージアムに入り、全国の民俗調査を開始。戦後に再開して、精力的に離島や山村を巡る。60年、『忘れられた日本人』を刊行。64年からは武蔵野美術大学で教鞭を執りながら、研究や著作に励み、退職後の80年、郷里の周防大島に手弁当の「郷土大学」を設立し、学長として講義した。81年1月30日、73歳で死去。

●私の推薦文

示唆に富む辺境を見直す目 長岡 秀世さん(56)=ギャラリー経営(福岡県二丈町)

 福岡県の西端に位置する二丈町に、古民家を買って移り住んで二十年。新たな土地で暮らし始める時に最も悩んだのは「何を自分のバックボーンとするのか」でした。都市に住む人間は田舎暮らしを安穏と思いがちですが、辺境の地は往々にして「新参者」に冷ややかであったり、無理解であったりします。私は、地元の人さえ気付かない地域の魅力を掘り起こし、共有することでうち解けたいと考えました。
 全国の辺境を旅した宮本常一の著作は、地域を見直す上で非常に深いところで示唆にあふれています。どんな高名な学者や政治家が美辞麗句を並べても、彼の目線にはかなわない。経済的にも身体的にも「弱者」でありながら歩き続けた彼の生き方は、逆境にある人間に励みを与えます。『忘れられた日本人』は、宮本常一の精神が詰まった一冊なのです。

▼メモ

 ■ノンフィクション作家の佐野真一さんが『旅する巨人』(文芸春秋・1995年)や『宮本常一が見た日本』(NHK出版・2001年)で広く紹介したことが貢献して、今、静かな宮本常一ブームが起きています。1984年初版の岩波文庫『忘れられた日本人』は現在まで52刷を重ね、累計19万部のロングセラーです。

 ■山口県周防大島町には宮本常一記念館とも言える「周防大島文化交流センター」があり、著書、蔵書、撮影した写真などを収蔵、展示しています。木村哲也学芸員は『忘れられた日本人』の舞台となった地域すべてを踏破。今年2月「『忘れられた日本人』の舞台を旅する」(河出書房新社)を刊行しました。同センター=0820(78)2514。

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2006年04月16日

島尾敏雄「魚雷艇学生」

 生ぬるい風がほおをなでた。木々の新緑が群青色の水面に深い影を映している。鹿児島県加計呂麻島・呑之浦(のみのうら)。奄美大島の南端、古仁屋(こにや)港を出発して十五分。船は静寂を縫うようにその入り江に入っていった。
 あまりに原初的な光景に胸がざわつく。「ここで百八十人以上の兵隊たちが戦闘の準備をしていたなんて、考えられない」。海上タクシーという名の舟に同乗してくれた、同県瀬戸内町立図書館長の澤佳男さん(57)は、そうつぶやいた。
 五メートルほどの特攻艇「震洋(しんよう)」。ベニヤ張りの木の葉のようなモーターボートは、先端に炸薬(さくやく)を詰め敵艦を囲むようにぶつかり、散る。非人間的なこの舟を五十隻ほど集めた部隊、第十八震洋隊が、ここ呑之浦にあった。隊長は島尾敏雄。十二の格納壕が、波打ち際に深く暗い口をぽっかり開けている。
 浜辺に降り、その横穴に入った。湿気とかび臭さが居心地を悪くする。その闇に慣れて目をこらすと、フナムシが二匹、土壁を這(は)っているのが見えた。足元には、白化したサンゴの死骸(しがい)が転がっていた。

 一九四三年、島尾は九州大学を繰り上げ卒業した。海軍予備学生を志願し、翌年、第一期魚雷艇学生となった。横須賀などで訓練し、同年十一月、第十八震洋隊隊長として加計呂麻に配置された。出撃命令が出たのは四五年八月十三日である。だが、発進命令が出ないまま終戦を迎えた。死に向き合い、死を覚悟しながら、死に突き放されたのだった。
 島尾は戦後、戦争体験に基づいた小説を相次いで発表した。このうち『魚雷艇学生』(一九八五年)は、島尾が海軍に入隊してから呑之浦に配置されるまでの心の動きを淡々と描いた。
 学生たちは「自由な一日をやるから特攻隊に志願するかどうか考えろ」と言われる。が、実際は志願を強いている。そんな、異様な社会状況だった。島尾たちが呑之浦に船で入るラストシーンは、美しい自然が死に向かうしかない若者たちの運命を悲しいほどに際立たせている。
 地元紙である南海日日新聞の写真記者だった写真家の越間誠さん(67)=鹿児島県奄美市在住=は、県立図書館奄美分館長だった島尾によく会った。温厚で人当たりが良かったという。悩みがあるときは図書館を訪れ、島尾と目を合わせるだけで何も言葉を交わさずに帰ってきた。それだけで越間さんは心が落ち着いた。しかし、こちらが距離を置いてしまう、壁みたいなものもあったという。
 六八年、島尾ら数人と呑之浦に渡ったときのことが、越間さんは忘れられない。その表情に「肝の据わったすさみ」を感じた。
 「復員後、命知らずで荒れ狂っていた若者たちと同じ表情でした。“特攻崩れ”という言葉が頭をよぎりました。身体に染み付いた思想というか、後ろめたさもあったのではないでしょうか」

 『魚雷艇学生』の中に、ある学生が出てくる。志願を考えるため自由になったその一日、彼はウニを食べていた。モデルである古賀英也さん(84)=福岡県春日市=は、島尾と同じ第一期魚雷艇学生。古賀さんは戦後、戦友会「一魚会」で島尾と親しくなった。その飲み会があったときのこと。島尾が「あの日、古賀は何をしていたか」と聞くので、「わしゃーね、島でウニとカキを採って食ったよ」。それが小説になってね…、古賀さんはがはがはと豪快に笑った。
 特殊潜航艇に乗っていた古賀さんは四五年一月、沖縄への出撃命令を受けた。その朝は搭乗服に身を包み、寄せ書きに「サヨウナラ」と書き、「これでおしまいやな」と思った。ウイスキーの角瓶を半分飲み干した。
 「なんでこんなおかしな戦争をするんかなあと思ってた。でも、身を放り込んでやれるだけやろうって、朗らかなもんだったですよ」
 潜航艇は沖縄近くでしけにあって故障し、広島・呉に戻った。そしてまた出撃命令が出たが、終戦となった。
 戦争体験に基づく島尾の小説を、よく書いてくれたと喜ぶ同期もいる。しかし、古賀さんはその話に及ぶと、一変して厳しくなった。
 「どうしたって戦争に行ってない者に真意は伝わらない。島尾の書いたものは間違っていない。が、読む人には分からんだろう。だから私は書かない」
 戦後、古賀さんは自ら死を選ぼうとしたことがあるという。朗らかさと裏腹にある影。極限状態で死に向かい合った人しか持ち得ない気配は、格納壕のように深い闇に覆われていた。その深淵(しんえん)は、目をこらしても見えないような。
 特攻隊での体験を書くことについて島尾はこう語っている。
 ―事柄のすさまじいおかしさにくらべて、私の言葉はまるで上調子だ。語ったあといつも甚だしい空しさに襲われる。しかし、その空しさの中に自分を投げ入れることによって、更に何かが分かってくるのではないか、というはかない期待があった―と。
(文=文化部・酒匂純子 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼しまお・としお

 1917(大正6)年、横浜市で生まれる。両親の出身地は福島県小高町(現・南相馬市)。長崎高等商業学校、九州大学を経て43年、海軍予備学生の一般兵科に採用。44年、第18震洋隊隊長として呑之浦基地に赴任し、後に妻となるミホさんと出会う。戦後は実家のある神戸市に戻りミホさんと結婚。50年には加計呂麻での体験をつづった『出孤島記』で第1回戦後文学賞を受賞。心因性反応に苦しんだミホさんとの日々を描いた『死の棘』は代表作となった。55年から20年間、奄美に住み、日本列島をポリネシアやミクロネシアと同じ群島ととらえる「ヤポネシア論」を提唱した。86年11月12日、69歳で死去。

●私の推薦文

否定しながら戦争した世代 藤井 令一さん(75)=詩人(鹿児島県奄美市)

 『魚雷艇学生』など島尾さんの「戦争物」は、あからさまに言っているわけではないが、戦争をなんとなく否定している。僕は島尾さんより十三歳年下。僕らは小さいころから天皇陛下に命をささげるのが当たり前だと教育を受けていたが、島尾さんたちの世代はそうではなかった。戦争を否定しながら戦争をせざるを得なかった心情を読み取ることができる。
 島尾さんが加計呂麻にいたころ僕は旧制大島中学(現大島高校)二年で、少年通信兵として古仁屋にいた。終戦の数カ月前、上官から「手こぎの舟で沖縄まで弾薬を運ぶぞ」と言われ、私を含めほとんど手を挙げた。戦後、間違ったことを教えられていた、しまったと思った。
 生前の島尾さんは几帳面で、かなりの資料を集めていた。戦争体験のない人にどれだけ理解できるか、そういう問題はあるが、これだけ書き残す人がいることも必要なのだと思う。

▼メモ

 ■加計呂麻島へは古仁屋港からフェリーが1日7便(瀬相行きが350円、生間行きが260円)出ています。島尾敏雄文学碑がある呑之浦には、海上タクシー(片道3000円)で直接行くこともできます。奄美・島尾敏雄研究会(文中に出てくる越間さんが会長)が、島尾の20回忌に合わせて発行した『追想島尾敏雄 奄美―沖縄―鹿児島』(南方新社)には、生前の島尾さんのエピソードが盛り込まれており、その素顔を垣間見ることができます。

 ■瀬戸内町立図書館には島尾敏雄コーナーがあり、作品や写真が展示されています。

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2006年04月09日

夏目漱石「草枕」

 那美さんに会ってみたい。
 「草枕」の読み方はいろいろあるだろうが、私のような三十代後半、中年の域に差しかかる男性ならば、同じ読後感を抱くのではないか。作品を二週間前後で書き上げた三十九歳の漱石が、ヒロインに寄せるひそかな思いを行間に読み、共感するからだ。
 この作品は、漱石が旧制第五高等学校(熊本市)の英語講師時代に体験した小天(おあま)村(熊本県玉名市)への小旅行を題材にしている。
 主人公は漱石を投影した「画工」。那美さんは、画工が宿泊する温泉宿に出戻った美しい女性として登場する。このヒロインが実に魅力的だ。画工が俳句を書き留めた写生帳にこっそり自作の句を書き込んだり、湯船につかっていたら全裸で現れたり、夕暮れの廊下を振り袖姿で何度も往復してみせたり。画工はとっぴな行動に引かれつつ、おろおろするばかりだ。

 「私が身を投げて浮いている所を―苦しんで浮いてる所じゃないんです―やすやすと往生して浮いている所を―奇麗(きれい)な画(え)にかいて下さい」
 「え?」
 「驚いた、驚いた、驚いたでしょう」―。
 那美さんにも実在のモデルがいる。孫文らの辛亥革命に深くかかわった女性だった。

 華道家宮崎蕗苳(ふき)さん(80)=東京都豊島区=は、昭和の初めごろ、自宅の向かいに住む「おツナおばあさん」を覚えている。祖母の姉にあたる人で、熊本から上京してきたという。
 「とても穏やかな人だったわね。小学校への通学路沿いにあったから、帰り道に立ち寄ったりしてたんですよ。いつも質素な着物姿でした」
 那美さんのモデル、前田卓(つな)(戸籍上はツナ。一八六八―一九三八)の晩年の姿である。そして卓の妹の夫、つまり蕗苳さんの祖父は日本亡命中の孫文を援助し、辛亥革命を成功に導いたアジアの快男児、宮崎滔天(とうてん)(一八七一―一九二二)=熊本県荒尾市出身。
 卓は小天村の大地主で、自由民権運動の先導者でもあった前田案山子(かがし)の二女として生まれた。武芸に秀でた、おてんば娘だったらしい。だが、奔放さが時代に受け入れられなかったのか、三度の結婚に失敗。実家も兄弟姉妹間の争いの果てに没落していく。
 一九〇〇年、卓は自活の道を求めて上京。滔天に勧められ、孫文らが結成した中国革命同盟会の拠点、民報社に住み込み、家事の「取り締まり役」となる。ただの賄いのおばさんではなかったらしい。民報社は当時、国際政治の陰謀渦巻く場所だった。
 「ずいぶん危ない橋を渡りました」
 彼女は後年、漱石のまな弟子、森田草平にそう語っている。

 漱石が小天村を訪れたのは一八九七年暮れ。案山子が迎賓館として活用していた別邸に八日間宿泊した。卓は二度目の離婚を経験して実家に戻っており、漱石の世話をしたらしい。
 評論家江藤淳は著書で「重要なことはこういう女(卓)に金之助(後の漱石)が惹(ひ)きつけられたという事実である」と書いている。恋愛感情があったかは分からない。ただ、漱石は小天村を「那古井(なこい)」と表現しており「那美さん恋し」の暗示とも読める。
 「草枕」は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」に続く、漱石三作目の小説として世に出た。前二作にはヒロインと呼べる登場人物は見当たらないから「那美さんは漱石が初めて描き、その後の作品で追求した『新しい女』の原型だった」(中村青史・元熊本大教授)といっていい。
 女性像だけではない。博多、久留米、佐賀、宇佐、日田、阿蘇…漱石は熊本時代に九州各地を旅し、その体験を「二百十日」「三四郎」「道草」などの作品に生かしている。彼は生涯で二千句近くの俳句を残しているが、うち四割がこの時代のものという。漱石の文学は九州で幅を広げた。

 後に知識人の苦悩を描き、近代の意味を問い続けた漱石が、九州の片田舎で新時代の風に触れながら悶々(もんもん)とした日々を送る卓に、少なくとも親近感を抱いたのは間違いない。だが、さすがの彼もアジアの革命に目を開いていく「新しい女」のたくましさまでは見抜けなかったのかもしれない。
 「草枕」が発表されてちょうど百年。漱石が歩いた「山路」をたどり、かつての小天村を訪ねた。菜の花が目に染み、ヒバリのさえずりが聞こえた。峠を越えて眼下に現れたのは有明の海に縁取られた鄙(ひな)の里だった。
 この風景で二人が出会って十数年後。卓は漱石の自宅を訪れ、その後の波乱の人生を語っている。遠い日に心を寄せた女性の思わぬ身の上話に、漱石はどのような感慨を抱いたか。
 「…そういうことだったのか。それではひとつ『草枕』も書き直さなければならないかな」
 文豪はそうつぶやいたという。
(文=熊本総局・山本敦文 写真=写真グループ・岡部拓也)

▼なつめ・そうせき

 本名・夏目金之助。1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)に名主の末っ子として生まれる。幼いころに養子に出され、青年期まで塩原姓を名乗る。東京大学英文学科卒。愛媛県尋常中学校(松山中学)英語教諭を経て1896年、第五高等学校に英語講師として赴任。熊本には4年3カ月暮らし、結婚や長女の誕生、6回の転居などを経験している。英国留学の後、東京大講師に就任。1905年、「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に発表、大評判となった。代表作に「坊っちゃん」「三四郎」「それから」「こころ」など。1916(大正5)年、胃かいようによる内出血で死去。

●私の推薦文

絵のように情景が浮かぶ 井上 靖さん(46)=「草枕温泉てんすい」総務課長(熊本県玉名市)

「草枕」は情景が目に浮かびやすい、絵のような小説ですね。例えば、漱石はこの作品で十数種類の花を描写しています。菜の花、タンポポ、スイセン、モクレン…ヒロインの那美さんをツバキに、画工自身を木瓜(ぼけ)に例えたりしている。これらの花の一つ一つを思い浮かべるだけで、漱石が桃源郷として描いた「那古井の里」の風景が広がってきそうです。
 私が最も好きなのは画工の目の前で那美さんが別れた夫にこっそり金を渡す場面。とてもスリリングで、映画のクライマックスのようなシーンです。この後、ミカン畑の「白壁の家」が出てきますが、私の実家はこの近くなんですよ。古里が名作の舞台になっているのは、なんとも不思議な気分ですね。
 まず作品を読んで、旧小天村の風景を目で確かめて、もう一度作品を読み返す。「草枕」の世界を楽しむ、ひとつの方法だと思います。

▼メモ

 本文に登場する滔天の孫、宮崎蕗苳さんの母親は、実は九州の炭鉱王の妻という立場で駆け落ちして騒がれた歌人柳原白蓮(びゃくれん)です。「草枕」と世紀の恋愛事件の両ヒロインは縁戚関係ということになります。もちろん、漱石はその事実を知らなかったでしょうが、名作には歴史の糸を紡ぐ不思議な力があるのかもしれません。蕗苳さんによると、漱石の死後も卓と夏目家の交流は続いたそうです。卓は現在、埼玉県新座市の平林寺に養子とともに静かに眠っています。

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2006年04月02日

五木寛之「戒厳令の夜」

 拝啓、五木寛之様。
 長文の手紙、お許しください。どうしても確かめたいことがあります。一九七六年に発表された長編小説「戒厳令の夜」について、過日、取材させていただきました。そのとき質問できなかったことが、疑問となって横たわっているのです。
 壮大な物語です。舞台はネオン輝く博多・中洲から、戒厳令下の南米チリへと移ろいます。主人公の雑誌記者、江間は中洲のバーで一枚の絵を見つけ、スペインの幻の画家パブロ・ロペスの作品ではないかと考えた彼は、右翼の大物で美術通の鳴海に見せ、本物との確信を得ます。ロペスの絵がなぜ日本に? 江間は恩師の秋沢助教授を訪ねますが、彼はロペスの名を聞いただけで脅(おび)え、江間を追い出すのでした。秋沢は直後に自殺し、一人娘の冴子が父の遺言を手に江間の元に現れます。ロペスのコレクションは、国家権力をゆるがす疑獄事件の鍵を握ったまま日本に秘匿されていました。江間は冴子、鳴海とともに名画群の行方を政情不安のチリまで追うのでした。

 お尋ねしたいのは「戒厳令の夜」は五木さんが自身に向けて書いた鎮魂歌ではなかったか、ということです。
 「生きている者に鎮魂歌なんて」と笑われますか。では「五木さんの中の九州と決着をつけた作品はないのですか」と。生まれて、引き揚げて来て、高校まで育った九州での体験を、記紀以前からの歴史の中に投げ込んで成立させた物語に、作家の特別な意志が感じられて仕方ないのです。そんな「仮説」を考えるに到った理由を、いくつか記してみます。
 私は「最初の九州の記憶は何ですか」と質問しました。熟考の後「広々として水の豊かな場所」。五木さんの生まれ故郷、筑後地方の風景が浮かびました。福岡県久留米市三潴町。五木さんの「最初の記憶」に映ったであろう風景を訪ねました。
 のどかな田園風景を青い流れをたたえた水路が横切っています。そこに「水沼の里」という自然公園を見つけてハッとしました。本書に「水沼隠志」という人物が登場するからです。
 国家権力の罠(わな)にはまり、指名手配を受けた江間と冴子をかくまうこの老人は三潴の住人。大和政権の成立以前から、漁撈(ぎよろう)で生きてきた「海人」の末裔(まつえい)と名乗っています。五木さんの最初の九州の記憶には、日本人が忘れていた「過去」まで含まれていたのでしょうか。五木さんは、朝鮮半島から引き揚げてきた直後の記憶も語られました。
 「太陽が地平線に沈まないことに驚きました。陽が移動すると山に陰ができ、明るい場所と暗い場所が生まれるのが印象的でした」と。
 ロペスの絵は、筑豊の炭坑主が隠し持っていました。鳴海たちは強奪し、英彦山に移します。絵を正当な所有者、チリ人民連合政府に返還するために活躍するのも、日本の先住民でした。太古より山に暮らしてきた山の民の末裔、九州山民連合の面々。警察の包囲網を突破して熊本・天草に絵を送ります。五木さんが見つめた山の陰には、九州山地を遊行し暮らした山の民の姿があったのではないでしょうか。
 英彦山に登りました。恥ずかしながら息が上がってしまいました。休息していると、北九州市から来た佐藤幸弘さん(68)という方が声を掛けてきました。本書に出てくる山の民のことを話しました。
 「山窩(さんか)さんですね。子ども時分、山から下り町で買い物をしている姿を見たことがあります。彼らしか知らない山の道を行き来していたそうです」
 佐藤さんの話を聞きながら、クマザサやブナ林の間にその道を探し、「幻の道」を行く人々の姿を思い描きました。想起したのは、五木さんのエッセー「Y歌を聞きに行く」でした。引き揚げてきた直後のことが記されています。
 「私たち一家は家を持たず土地を持たぬために、さまざまな苦しい日々を送った」。「土地所有者でないということは、貧しいユダヤ人として異国にあることに等しい。(中略)持たざるもののふるさと、非農、デラシネたちの故郷はどこにあるのか」
 以前、作家の山川健一さん(53)に興味深い推論を聞きました。「江間と冴子は日本を追われパスポートのない難民となる。引き揚げてきた故郷で異国人のように扱われ、母国を失ったように感じた五木さんの体験が投影している」と。五木さんは「いろんなことを考える人がいるんだね」と、笑っておられました。しかし、否定はされませんでした。
 海や山を伝って自由に暮らし、為政者に支配された日本の先住民たち。消しがたい五木さんの引き揚げ体験。そして「戒厳令の夜」。三者が一本の線で結ばれた気がします。それゆえ本書が「九州と決着をつける書」と思った次第でした。ただ、私の仮説は、空説に終わりそうです。取材の場で本書の続編を構想していると聞き、驚いた次第です。
 「第二部は江間と冴子がジャングルの強制収容所から脱出するシーンから始まります。第三部ではロペスの絵が、故郷のスペインに戻ることになるでしょう」。九州との決着の物語は、いまだに完成していなかったのですね。
 (文=文化部・塩田芳久 写真=写真グループ・岡部拓也)

▼いつき・ひろゆき

 1932(昭和7)年、福岡県八女市生まれ。間もなく朝鮮半島に渡り、父の転勤で各地を転々とした。中学1年で終戦、直後に母を亡くす。47年に帰国。早稲田大に進学するが授業料滞納のため抹籍処分を受ける。マスコミ関係の仕事を転々とし66年、「さらばモスクワ愚連隊」でデビュー。第56回直木賞受賞作の「蒼ざめた馬を見よ」をはじめ「青春の門」「青年は荒野をめざす」など数々の話題作、問題作を発表し、エンターテインメント界の第一線で活躍を続ける。近年は「生きるヒント」「大河の一滴」などの人生論、「百寺巡礼」「蓮如物語」など宗教と向き合った作品で読者層を広げている。

●刺激受ける「私の大学」 愛木夕子さん(53)=無職(福岡市中央区)

 「五木教徒」を自認しています。五木さんが見て、感じた風景を自分も体験したいと、日本各地のみならずスペイン、ポルトガル、トルコなどへ行って五木作品を追体験してきました。登場する音楽や映画についても調べられる限り調べてきました。五木さんの書く作品は、私にとって「私の大学」そのものです。
 「戒厳令の夜」からも、いろんなことを学びました。歴史には、表に見えるものとそうでないものがあること。世界はさまざまな力で動かされていること。そして何より架空の画家を登場させるミステリアスな展開が、好奇心を刺激して時間を忘れるぐらい面白いことです。九州、スペイン、チリと移ってゆく舞台だけでなく、古代九州から始まる時代背景もスケールが大きく、登場人物も魅力にあふれています。五木さんと同時代に生き、タイムリーにその作品を読めることは本当にうれしいことです。

●メモ

 ■「戒厳令の夜」は五木寛之さんの2年にわたる休筆を経て、1975年に「小説新潮」に連載されました。同年、主舞台となるチリの首都サンティアゴに取材に行ったときは、まだ戒厳令下。「反体制側の人がサッカー場に捕らえられていましたが、その近くでインディオ(南米の先住民)の人がわれ関せずという顔でいるのが印象的でした」と五木さんは言う。翌76年に単行本化、後に新潮文庫に入りましたが、現在は絶版となっています。
 80年には山下耕作監督で映画化され、江間を伊藤孝雄さん、冴子を樋口可南子さん、鳴海を鶴田浩二さんが演じています。

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