西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年06月25日

三戸サツエ「幸島のサル」

 日南海岸の南端、宮崎県串間市市木は、時間が止まったようだった。照り付ける太陽、生い茂る亜熱帯植物。海岸に沿って続く一本道は、人影がまばらだ。過疎の波に洗われているのだ。だが、三百メートルほどの沖合に浮かぶ幸島(こうじま)の名は、世界中の霊長類研究者が知っている。周囲四キロの小さな島で「サルにも文化がある」という驚くべき発見がなされたのである。
 瀬渡し船で数分、幸島に渡った。ビロウ、バナナ、アコウ…。懐深い森には百匹ほどのサルが住む。六月は出産シーズンで、この日も母子ザルが浜辺に現れた。子ザルの目はつぶらで、キラキラと輝いていた。
 「私しゃ何事にも三日坊主だけどさ、サルだけは続いたね。サルって面白いからねー」
 幸島の対岸に住む三戸サツヱさんは、島のサルたちを半世紀以上にわたって見詰めた。九十二歳。今も自転車に乗り、求められれば、一緒に幸島に渡る。年齢を感じさせないエネルギーは島のサルや周囲の自然からもらったものに違いない。

 さるたちは 若き世代になりぬれど 昔かわらぬ みどりの島影
 三戸さんの事務所に掲げられている書は、日本の霊長類研究に先鞭(せんべん)をつけた故今西錦司氏の筆による。今西氏ら京都大学の研究者が幸島を初めて訪れたのが一九四八年。翌四九年からサルの観察が始まった。当時、三戸さんの両親が旅館を営み、研究者がその旅館を利用したことから三戸さんもサルの観察に興味を持った。小学校教諭の傍ら、研究者が大学に戻った留守の間の観察を引き受けた。

 「日曜日には必ず幸島に渡ったねー。サルの顔を見分けるコツも自然と身について、若い研究者に教えるまでになりましたよ」
 忘れられないサルたちがいる。ボスだったカミナリは、常に群れの安全に気を配り、浜に乱入した犬とも勇敢に戦った。一番メスのウツボは、死んだ赤ん坊がミイラ化しても離さず、五十九日間も一緒に過ごした。乳がんにかかったメスのサンゴは、三戸さんに抱きかかえられて車で宮崎大学まで運ばれ、そこで力尽きた。
 海水でイモを洗って食べ始めた頭のいいメスの子ザルもいた。芋洗い行動はみるみるうちに群れに広まり、子ザルは「イモ」と名付けられた。
 サルが海水でイモを洗う―。それがサルにも文化があると言われたゆえんだ。そんなサルたちや研究者との出会いを書き綴(つづ)ったのが「幸島のサル」。七一年に出版された。

 幸島で餌づけによる観察が始まってから半世紀。今、研究者の間では、幸島などの事例は餌づけによる特殊なものと理解されている。だから今の幸島では餌を極力与えない。より自然の状態に近づけるためだ。その結果、群れは緩やかな集合体に変わった。ボスにも昔のカミナリのような威厳はない。
 「サルは所詮(しょせん)、サルですよ」と若い研究者は言う。三戸さんは少し不満げだ。三戸さんは「人情」を重ねてサルたちを眺めてきたのだ。
 「だって、あのころのサルは本当に立派だったのよ」
 彼女にとって、島のサルたちはボスによる統率が見事にとれた一団であり、極めて人間に近い感情を持つ存在だったのだ。

 サルたちも代替わりし、研究者の関心もアフリカや南米に向き、幸島を訪れるのは観光客がほとんどだ。
 ただ、三戸さんも加わって五十七年前に今西氏らが始めたサルの観察メモは、現在に引き継がれている。島のサルたちの誕生、死亡などを克明に記録した、いわばサルの「戸籍」だ。三戸さん宅の近所にある京大霊長類研究所の幸島観察所に二人の職員が常駐し、観察を続けている。
 研究が進み、学説は変わっても、日本の霊長類学の黎(れい)明(めい)期をリードした幸島の功績は変わらない。サルたちの平和な生活が続く限り、サルたちの戸籍づくりもまた営々と続いてゆく。
(文=経済部・白石克明 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼みと・さつえ

 1914(大正3)年、広島県佐伯郡観音村(現広島市)生まれ。地元の安田高等女学校などを経て、日本統治下にあった朝鮮半島、満州(現中国東北部)大連で小学校教諭として勤務。敗戦後、両親の住む宮崎県串間市市木に移り、小中学校で教えた。幸島でのサル研究者の観察を助け、53年、子ザルが芋を海水で洗って食べ、その行為が群れに広がる様子を確認。この事実は研究者によって国際学会で発表され、研究者たちを驚かせると同時に、幸島を世界的に有名にした。70年、京都大学霊長類研究所の幸島野外観察施設(現・ニホンザル野外観察施設幸島観察所)研究員。その後、非常勤講師。84年、70歳を機に退職した。サンケイ児童文学賞(72年)、吉川英治文化賞(74年)、西日本文化賞(同)など受賞。

●私の推薦文

動物愛護の精神はぐくむ 河合 雅雄さん(82)=京都大学名誉教授(兵庫県篠山市)

 幸島には京都大学を卒業した一九五二(昭和二十七)年ごろに初めて渡りました。深い森があって全く野生のサルがいました。すごく感動したことを覚えています。
 幸島は日本のサル学が始まった場所であり、それを支えた一人が三戸サツヱさんでした。私たちが京都に戻っている間、観察を続けていてくれるわけですが、記録は科学的、客観的で正確。信頼は篤いものがありました。
 「幸島のサル」は、学校の先生の作品だけあって、非常に分かりやすく書いてあります。サル学の普及だけでなく、動物全体の愛護精神をはぐくむという点で大きな功績がありました。当時、私もサルの気持ちが分かるような気がしていました。三戸さんも同じ感覚を持っていたのではないでしょうか。
 幸島のサルの戸籍は世界的に貴重な資料です。三戸さんが今も近くにおられることが、観察継続の大きな力になっていると思います。

●メモ

 ■幸島は亜熱帯植物が茂る周囲4キロほどの無人島です。1934年、サル生息地として国の天然記念物指定を受けました。40―50匹が生息していたとみられますが、終戦直後、サル狩りが横行して激減。49年、京都大学の研究者によるサル観察は9匹から始まりました。「餌づけ」手法を取ったためサルの数も増加。71年ごろには最高の135匹に。今はエサを極力与えないので100匹前後で推移しています。

 ■ポプラ社の「幸島のサル」は既に絶版となっていますが、同書の全文に三戸さんの著書「サルとわたし」の一部などを加えた新しい「幸島のサル」(鉱脈社刊)があります。鉱脈社=0985(25)1758。

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2006年06月18日

大城立裕「カクテル・パーティー」

 オオグスクからオオシロへ。「大和的」な読み方で呼ばれだしたのは、中学校に上がった昭和十三年前後のころだったろうか。「日本人らしくなれ」。学校の先生は、そう教育する一方で、「沖縄の言葉を忘れるな」と説いた。
 戦前、沖縄県最後の県費留学生として、中国・上海にあった東亜同文書院に学んだ。「日中の架け橋」になるはずだった。
 在学中、日本軍に服務したことがある。現地の農民から食糧を調達する「軍米収売」という現場で警備に就いた。銃剣を持って農家に入り、泣いて訴える農民からなけなしの食糧を巻き上げる兵隊たち。五族協和。八紘(はつこう)一宇…。美名の陰の現実を見た。
 終戦の報には開放感を感じた。敗戦の悔しさはなかった。
 終戦後間もなく、上海の映画館に行った。上映前、国民党(当時)の党歌がかかり、中国人の観客が全員起立して合唱した。その途端、全く突然に涙があふれ出した。
 自分は一体、何者なのか。
 常にアイデンティティーが揺れていた。

 ―主人公の「私」は、米軍基地内でのパーティーに招かれる。本土復帰前の沖縄。基地に出入りできる特権的な沖縄人として「選ばれた楽しみを感じる私」。まさにその時間、事件が起きていた。娘が米軍人の男にレイプされるが、男に大けがを負わせ逆に逮捕されてしまう。
 アメリカと日本。日本と沖縄。戦勝国と、占領軍と、被占領民と…。個人のレベルをはるかに越えた重層の狭間(はざま)で、男を告訴しようと奔走する主人公は、自分が本当は何を告発しようとしているのかを意識する。
 物語は後半、突如、語り手が変わる。「娘はなんのためにお前の二十年前の罪をあがなって…」「お前は息をつめて、娘の全身の形をみつめ…」
 二人称の「お前」の発する言葉が、突き刺すように読者に放たれる。

 「七、八年越しの作品だった」と大城立裕氏はいう。
 「米軍政下で虐げられる沖縄。頭の中に漠としたイメージはあったけど、そんな単純な、センチメンタルなテーマでは小説にならない、と思ったんです」「向こうから問い掛けられたらどうしようか。『お前たちだって中国でレイプしたじゃないか』と。主人公に『過去』を背負わせ、その『過去』とどう向き合うか。そのテーマがひらめいたことで、単純な抵抗文学にならずにすんだんです」
 発表したのは一九六七年。その数年前には、沖縄ではペリー来航百十年を記念した「米琉親善」ムードに包まれた。
 「それは上辺のブームなのではないか。当時は、沖縄人が米軍要員の婦女をレイプすれば死刑だが、沖縄の女性が米軍人にレイプされても泣き寝入りするしかない。そんな力関係の下での、親善の欺まん性を暴きたかった」
 だから。
 大城氏は、「お前」にこんな言葉を与えた。
 「私が告発しようとしているのは、ほんとうはたった一人のアメリカ人の罪ではなく、カクテル・パーティーそのものなのです」

 発表した六七年、「カクテル・パーティー」は芥川賞を受賞する。沖縄の作家初の芥川賞だった。
 「文学不毛の地と呼ばれ、本土文学の模倣にとどまっていた沖縄で、沖縄でしか出てこない作品が生まれた」
 近代沖縄文学が専門で、大城作品の全集編さんにも携わった沖縄国際大総合文化学部の大野隆之教授(四三)は指摘する。「(ともに芥川賞作家の)又吉喜栄さんや目取真俊さんがあるのも、これが出発点。今考えても、極めて重要な作品だと言える」
 大城氏も、いささかの自負を込めてこう口にする。「私の芥川賞と、その翌年、高校野球での興南高校ベスト4。それとボクシングの具志堅用高の世界チャンプ。それまで負け犬根性だった沖縄が、全国レベルでやれるんだと自信をもったのが、この三つでした」
 もっとも、書きためた作品を順番に発表していく中で、「カクテル・パーティー」は最後に残った、「一番出来が悪いと思っていた」小説だったらしいのだが。

 五月十五日、あらためて大城氏の自宅を訪れた。沖縄、本土復帰の日。四十年目の「カクテル・パーティー」を尋ねに。
 「米琉親善の、ビジュアルな光景は見当たらなくなりましたね。むろん、基地はあり、基地問題はあるが、日常的にアメリカを意識することはかなりなくなった。政治問題以外では、日本の沖縄差別もなくなってきたと感じます」
 「特に一九八〇年代から、言葉や生活パターンが無限に日本式への『同化』に向かっている。沖縄文化をいい意味で引っ張り上げてくれるでしょうが、沖縄のオリジナリティーをどう残すか、『異化』の問題が重要になっている」
 沖縄のアイデンティティーは今も、胸の内で揺れ続けている。
 (文=社会部・進藤 卓也 写真=写真グループ・伊東昌一郎)

▼おおしろ・たつひろ

 1925年、沖縄県生まれ。終戦後、熊本県・阿蘇にいた姉の元に引き揚げ、46年沖縄に戻る。米軍通訳、教員を経て、琉球政府に勤務。86年、沖縄県立博物館館長を定年退職するまで、公務員生活の傍らで執筆活動を続ける。
 「小説 琉球処分」「朝、上海に立ち尽くす 小説東亜同文書院」「さらば福州琉球館」「対馬丸」「日の果てから」など、沖縄の歴史と風土に根差した作品を発表し続けている。

●私の推薦文

基地がある限り普遍性 松下 博文さん(49)=筑紫女学園大学(福岡県 太宰府市)文学部教授

 この本を読んだのは、琉球大の二年生のとき。一九七八年の四月二十八日です。この日は、二十六年前にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された日。特段、沖縄には目を向けていなかった私が、だんだんと沖縄の問題に触れ始めた時期で、あえてこの日に読もうと意図して手にした本でした。
 主人公の沖縄人のほか、日本本土から派遣された新聞記者や戦争の傷をもつ中国人を巧みに登場させ、その表面的な親善の欺まん性を鮮やかに描いている。特に、文中の「絶対的不寛容」という言葉。国の関係がどうあろうと悪は悪として許さない、見逃さない、という底から絞り出すような叫びが鮮烈で、「逃げないで立ち向かう」ことを教わる一冊にもなりました。
 今日の米軍基地再編の動きを見ると、沖縄を通り越した「日本」と「米国」だけの基地問題は、本書の通底にある通り。沖縄に基地がある限り普遍性をもった作品だと感じます。

●メモ

 ■「カクテル・パーティー」は今、映画化の話が進んでいます。脚本手直しの段階だそうです。大城さんは「主人公には、小説よりももっとストレートに重い『過去』を背負わせたい」と話しています。どんな作品に仕上がるか、とても楽しみです。ちなみに本作品は最初、「カクテル・パーティーの告発」というタイトルだったそうです。

 ■「カクテル・パーティー」は現在、残念ながら単行本、文庫本とも絶版になっています。図書館で探すか、古書店などを当たるしか方法はないようです。「映画を機に、出版の話が出てくるといいんですが」と、大城さんも再刻出版化を心待ちにしておられました。

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2006年06月11日

別冊・挿絵の楽しみ

 私の夢には、夜毎(よごと)、入れ替わり立ち代わり、美人が現れる。挿絵の女たちである。挿絵の力で人気が出た小説は山ほどある。挿絵に魅入られ、小説の世界に惹(ひ)きこまれた方は私だけではないだろう。画壇では下の方に置かれているようだが、冗談ではない。われわれ大衆の脳裏には、ファインアートよりも、挿絵の主人公の容姿面差(おもさ)し、仕種(しぐさ)、姿態が強く刻み込まれている。作家がシテであるならば、挿絵画家はワキであるが、ワキはワキでも静かに控えているわけではない。小説の世界観を組成し、主人公に作家が創造した以上のキャラクターと命を吹き込む。作家が何日も苦吟したものに、新聞連載なら一晩で絵を付けるのである。スピードと大〓(つか)みの想像力と、作家に遠慮しない独創性がいるのである。

 戦前では「少年倶楽部(くらぶ)」の挿絵を描いていた高畠華宵、中里介山「大菩薩峠」を描いた石井鶴三。戦前・戦後で特筆すべきは、「海千、山千、イワセン」と崇(あが)め奉られた岩田専太郎に極めさす。若き日に見惚(ほ)れた女は、イワセンの描く女たちであった。どこかハスッパで、性が悪そうで、美貌(びぼう)の陰に甘い毒を感じさせる女たちである。その流麗な筆遣いは、硬い新聞活字に色気と艶(つや)を与えていた。イワセンは自らのことを町絵師という。関東大震災後、東京では食えなくなり、竹馬の友川口松太郎を頼って大阪へ行く。松太郎の挿絵を描きながら、ついに吉川英治の「鳴門秘帖」を描く。これにより一気に人気挿絵画家となる。後に、今東光、富田常雄、松本清張、司馬遼太郎、笹沢左保、三島由紀夫と、錚々(そうそう)たる大作家たちの懇願と要望で描いている。三十数年前に、野坂昭如が「ぼくは、イワセンに間に合った」と驚喜した。それほどイワセンに描いてもらうことは、作家たちの勲章だった。時代物、現代物を問わず、とくに、鳥追いの女や芸者やクラブのホステスを描かせれば天下一品。美しく着飾ってはいるが、どこか不幸せなものを漂わせている女たちに、私は青春時代見惚れ続けていた。

 イワセンとは正反対の女に見惚れたことがある。風間完の描く女たちである。五木寛之の「青春の門」といわれれば、私は条件反射的に風間の絵が脳裏に蘇る。タエや織江の顔が蘇る。どんなに美しい女優が演じても、風間のタエと織江を超えられない。卵形の顔、利発そうな額、生え際の髪の毛一本一本の清楚(せいそ)さ、やさしくて意思の強い口元。奥二重の凛(りん)とした瞳。貧しくても、どんなに生きることが辛くても、辛抱し、一生を全うし、気丈で女らしく、しっかりと曾孫までその腕に抱き、ではぼつぼつお父さんとこへ行くよと、葬儀代まで用意している、古きよき日本の理想の女を描いている。松本清張、司馬遼太郎、池波正太郎、藤原審爾らの代表作に挿絵している。

 私はけっこう多情で、もう一人見惚れた女がいる。切り絵の大家宮田雅之の描く女達である。毒婦、妖婦、妖艶凄艶(せいえん)な女たちを描かせれば、右に出るものなし。山田風太郎ものが多かったが、山田は宮田の絵を得て、大いに得をしたと思う。谷崎に見出され、瀬戸内晴美作品で地位を確立した。ともあれ、怖いような色気のある女たちであった。あと、エロチシズムといえば梶山季之とよく組んでいた宮永岳彦、ファニーセクシーでいえば川上宗薫と組んでいた濱野彰親描くところの、女たちである。

 さて、今夜の夢にはどの女が現れるのか…。宮田雅之の場合だけ、ちょいと呻き、寝汗をかくこととなるだろうが…。

●今の女を描きたい 95歳、現役最高齢の挿絵画家・中一弥さん

 「外に出ても退屈しません。女性ばかり見ているから。昭和と平成では女性の体形が変わった。ファッションも女性にあったデザインで開放的。今の、現代の女を描けないかという気持ちが常にあります」
 一九一一年生まれの九十五歳。現役最高齢の挿絵画家・中一弥さん=写真=は、穏やかな表情の奥に熱い創作意欲をみなぎらせていた。
 九歳で父を亡くし、十五歳で京都市の看板店に住み込み修業。十六歳のときに挿し絵画家・小田富弥に入門を許され、早くも十八歳で、直木三十五の『南国太平記』の挿絵を担当して新聞連載を始めた。今日風に言えば「挿し絵界に新星誕生!」だろうか。
 戦後も山岡荘八、柴田錬三郎、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、松本清張ら大物の仕事を続け、昭和四十年代は『鬼平犯科帳』や『仕掛人・藤枝梅安』など池波正太郎の作品を描き続けて挿絵画界の頂点に立った。
 「悲しいことに、流行画ですからねー」
 挿絵は純粋芸術の側からは低く見られてきた。いわく「看板の絵だ」。だが芸術とは違った厳しさがある。誰にでも分かることが挿し絵の必須条件であるがゆえに、万人の批判を受ける。大衆の支持がなければ注文は来ない。
 「絵が上手すぎて損をした人は多い。上手いだけではパッとしない」
 独自の味、女性の色気が描けなければ売れない。中さんの絵には「花が咲く瞬間のような」色香が漂う。中さんの母は浄瑠璃の三味線を弾き、近所の娘さんたちに教えていたが「小さいころから芸の世界を見てきたのが、どこか絵に出ていると思います」と言う。
 努力は当然である。時代考証のための江戸時代の希少本購入で画料は消え、借金が残った。「努力とは言いません、道楽です」。
 デイリーの新聞連載は体力的に無理になった。が、今も多い月で七、八枚、少ない月でも三、四枚の雑誌連載画を描く。三重県津市に長男夫婦と三人暮らし。三男は人気作家の逢坂剛さんである。

●父の雑誌を盗み読み 三角信男さん(62)=北九州市八幡西区

 電車やバスの中で本を読んでいる人に出会うと妙に気になります。この人、何を読んでいるのだろうかと。本屋さんで立ち読みしている人のことはちっとも気にならないのに、なぜでしょうか。
 学生時代、東京の山の手線の車内でのことでした。背広の紳士の肩越しに時代劇の挿絵が見えたのです。忍者が屋根裏に忍び込んでいる絵です。忍者の目に引き込まれて読みたくてたまらず、見ず知らずの人に書名を聞いたものでした。
 挿絵との出会いは小学生のころでした。父親が読んでいた雑誌をこっそり見ていました。ちょっとエッチな場面があると、その夜、なかなか寝付けなかったものです。そんなことが、私の本との出会いだったのでしょう。高校生のころは小説家になりたかった。空襲警報が鳴って、防空壕があって、その中で淡い恋が芽生える…。とかなんとか、下手な短編を書いたこともあります。今は稼業が忙しく、なかなか本を読めません。早く息子夫婦に跡を継いでもらって読書三昧の日々を迎えたいのですが。

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2006年06月04日

梅崎春生「幻化」

 主人公の五郎が、東京の精神病院を抜け出して鹿児島に向かうところから物語は始まる。常識的にはこのような行為を「現実逃避」とでも呼ぶだろう。だが、五郎は身の回りのものがリアリティーを失って信じられず、例えば「現実」とは何か、あるいは「逃避」が何を意味するのか、そんなことの輪郭がぼやけている。その朝、五郎はコーヒーを飲み、ちょいと散歩に出るような風情で飛行機に乗ったのだった。
 太平洋戦争末期、梅崎春生は海軍の通信下士官として鹿児島県坊津(現・南さつま市)に配属されていた。暗号電文解読の任務から、沖縄の惨敗や、いつ米軍が上陸してきてもおかしくない戦況を知っていた。坊津から桜島に転属して終戦を迎えるが、この間の事情を綴(つづ)り、軍隊の狂気を描いたのがデビュー作『桜島』である。そして二十年後の『幻化』が遺作となった。二つの作品は合わせ鏡として読むのが面白い。五郎は『桜島』の村上兵曹とほぼ逆のコースで、鹿児島から坊津へと向かう。記者もその足跡をたどった。

 かつお節の香り漂う枕崎市街地を抜けると耳取(みみとり)峠という不気味な名前の峠がある。道が下り始めた辺り、木々の切れ間から唐突に眺望が開けた。海が青い。際限なく青く、まぶしい。
 この場所で五郎は「これだ。これだったんだな」とつぶやく。封印された記憶が動きだし、五郎は自らの逃避行の目的を知る。失われた時間を取り戻す旅だったのだ。坊津に入ると記憶はいよいよ鮮明となり、たまたま出会った女に「今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確かめたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」と語る。
 今は失ったもの、かつては確かにあったもの。それは何なのか。
 一九六三年、梅崎は津恵夫人を伴って現地を訪れた。旅行雑誌の取材である。肝臓病を宣告されていたころだが、洋酒のポケット瓶を忍ばせ、ハンチングをシャイにかぶっていた。まだジェット機はなく、プロペラ機を乗り継いだ。二年後に発表した『幻化』の冒頭には、飛行機の潤滑油が漏れ客室の窓を黒く染めるシーンがあるが、このトラブルは実際にあったという。
 現場を歩くと、梅崎が忠実に現地の風物を書いていることが分かる。ただ、繰り返される五郎の回想になるとたちまち正常と異常の境が怪しい。砂浜で男児が魚を捕るといった見慣れた光景でも、凝視し続ければシュールレアリスムの世界へと導かれる。
 正気と狂気、事実と虚構。「人生幻化に似たり」。五郎は、小説のタイトルそのままに虚実の皮膜を旅する。

 かつて確かにあったもの。それは死であった。米軍が上陸してくれば、死は確実に訪れる。それは、逃れようのない前提であった。軍隊生活は悲惨を極めた。三十歳の梅崎に、年の端もいかぬ上官の命令が飛ぶ。階級がすべての世界で「東大出の下士官」は真っ先に制裁や私刑(リンチ)を受けた。
 梅崎は否応(いやおう)なく死のありようを考えた。それは、自分とは何か、存在とは何かを問うことである。容易に結論は出ない。せめて「美しく死にたい」と思い詰めた。そんな悲壮な考えは、軍隊では小ばかにされた。殺戮(さつりく)の現場には累々たる死体があるだけで、やがてカラスがその腐肉をついばむのだと、ある上官は爬虫(はちゅう)類のような冷たい眼で睨(にら)んだ。それでも梅崎は美しく死ぬことを思うしかなかった。
 美しく「死ぬ」ことは、その瞬間まで美しく「生きる」ことに他ならない。両者は単独では極まらず、相互関係でしか深まらない。死を意識しない限り、生は輝かないのだ。
 終戦。引き揚げ途中の耳取峠の光景は死の重圧からの解放だったろう。そこから先は、生が輝いているはずだった。だが、世の中ままならない。
 焼け跡からの復興、そして、高度経済成長へ。この国がしだいに豊かになっていく中で、人気作家である梅崎の不安は膨らんでいった。一見陽気な生き方の底にオリのように溜(た)まった。平和の時代。死が遠のいたのになぜか生がかすむのである。一時の安らぎを、酒に求めるしかなかったはずだ。やがて経済合理主義は、日々の暮らしや男女の愛にまで浸透し、そして生死までもパッケージ化、記号化していく。梅崎は抜き差しならぬ所まで追い詰められていったのだろう。

 『幻化』の旅は、五郎が学生時代を過ごした熊本を経て阿蘇山の火口で終わる。そこで五郎は、丹尾(にお)という男と賭けをする。彼は交通事故で家族を亡くし自殺願望を持つ。五郎とは鹿児島に向かう機内で隣り合わせ、阿蘇山で再会した。火口を一周する間に、丹尾が飛び込むか否かを賭けたのだ。
 噴煙と硫黄臭が漂う、地獄の窯が蓋(ふた)を開けたような活火山。丹尾はよろよろと歩き、五郎は双眼鏡で見守る。果たしてあいつは飛び込むのか。丹尾が半周ほど歩いたとき、五郎が叫ぶ。
 しっかり歩け。元気出して歩け!
 旅の終着点。五郎は死の淵(ふち)を歩く丹尾の後ろ姿に確かな生を発見したのだ。君には生きていく値打ちがある。間違いなくあるのだ。そして、梅崎にも。もちろん、読者にも。
 (文と写真=文化部・井口幸久)

▼うめざき・はるお

 1915年、福岡市生まれ。厳格な軍人の家庭に育つ。熊本の第五高等学校から東大を卒業。朝日新聞などを志願したがすべて不合格。東京市教育研究所吏員となる。1944年召集され、海軍佐世保相ノ浦海兵団に入る。終戦の翌年に発表した『桜島』で一躍人気作家に。続く『日の果て』は映画化された。野間宏、椎名麟三らとともに戦後派の代表的作家となり、後輩である遠藤周作らとの親交も深かった。『ボロ家の春秋』で直木賞(1955年)、砂川事件を取材した長編『砂時計』などを執筆するがこのころから神経不安定に悩む。1965年、戦後文学の完成点と絶賛された『幻化』を発表した1カ月後に肝硬変で死去。50歳だった。

●私の推薦文

人生を模索する姿、重ねて 川原 友さん(25)=かごしま近代文学館学芸員(鹿児島市)

 題名は、陶淵明の詩の中の「人生幻化に似たり、終に当に空無に帰すべし」という一節からとったそうです。人生は幻のようなもの-。戦争や戦後のすさんだ社会の中で、慌ただしく不安定で異常な時期を過ごした梅崎春生には、このような想いが強かったのでしょうか。
 主人公・久住五郎は戦争によって生きる目的を見失い、戦後を漠然とした気持ちで生きてきた人物です。過去は良かった、しかしその場所を訪れてみると当時ほどの輝きはない。そう苦悩する姿に、私たちは、自分が人生を模索する姿と重ねて読むことができるのです。そこが、梅崎の死後四十年経った今でも、この作品を新鮮に読める理由のひとつではないかと感じます。
 最後の場面で五郎は、阿蘇山の火口を歩く、同行者の丹尾に向かって、そして、自らへの想いとして心の中で叫びます。「しっかり歩け。元気出して歩け!」自分の行くべき道に迷ったとき、私はこの言葉に力強く励まされます。

●メモ

 ■かごしま近代文学館は梅崎春生を常設展示。『幻化』の直筆原稿219枚など多くの資料を公開しています。同館=099(226)7771。

 ■梅崎が坊津で泊まった「倉浜荘」は、今は個人宅になっていますが当時の看板を掲げ密貿易時代の面影を止めています。

 ■阿蘇火口は観光客の立ち入り地域を制限しており、小説のように一周することはできません。火口をのぞき込もうと記者が柵を越えたところ直ちに厳しい注意を受けました。ご注意ください。

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