赤茶けた土をむき出した湖底に、トンビが一羽、黒い影を描く。所々に残る石垣の残骸(ざんがい)が、ここに集落があったことを、かろうじて想起させる。
大分、熊本県にまたがる下筌(しもうけ)ダムの湖底を歩いた。梅雨に備えて水が落とされ、湖畔に太公望の姿もない。掛け合いで鳴くカラスの声が、山峡に響くばかりだ。
ほぼ半世紀前、ここに483世帯が暮らしていた。男は山仕事、女はこんにゃく作りなどに精を出す。山の恵みにはぐくまれる生活だった。
「砦(とりで)に拠(よ)る」は、下筌ダムの建設反対を掲げ、国を相手に13年に及ぶ闘争を繰り広げた山林地主・室原知幸(1899-1970年)の半生を追ったノンフィクションである。作者の松下竜一は、室原のことを「ただ1人で国家と拮抗(きっこう)してついに屈することなかった老人」と記す。高台に室原の墓があった。孤独の墓標は、ダムを真っ正面からにらんで、屹立(きつりつ)していた。
ダム建設は、死者147人を出した53年の筑後川大洪水が発端。国は57年、建設計画を打ち出す。反旗を翻したのが室原だった。長男の基樹さん(65)=大分県日田市=は「村人の生活(いのちき)を守ってやれるのは自分しかおらん、という思いだった」と振り返る。
室原は、子どもの入学・卒業式はおろか、隣家の葬式にも出席したことがない偏屈者であった。ところが59年春、東京の大学に合格した基樹さんの入学式に出る。ダム計画にどう対処するか悩んでいた室原は、入学式にかこつけて利根川水系のダムを視察した。「おやじは自分の目で確かめたかったのです。ダムを実際に見て、移転した人々に補償や今の生活ぶりを聞いて回り、反対の意志を固めたのです」
「公共工事は、法に叶(かな)い、理に叶い、情に叶うものでなければならない。暴には暴を、法には法を」
室原の闘争が幕を開けた。事業認定無効の訴訟を起こす一方で、ダム建設予定地の山肌に「蜂(はち)の巣城」と名付けた堅固な砦を築き、住民と籠城(ろうじょう)した。ハイライトは1960年夏。室原らは、津江川を挟んで国を相手に、水掛けやバリケード戦法で仮橋の設置を阻止し、全国の耳目を集めた。だが4年後、蜂の巣城は強制代執行で撤去され、住民は次々と村を去る。室原は、80件近い訴訟を乱発し続け、一世帯になってもダム底にとどまった。
「1人で13年も闘い抜き、死ぬまでダムに水をためさせなかったのは、おやじの『土性っ骨』としか言いようがない」と基樹さんは述懐する。
松下は、大分県中津市を終(つい)の棲家(すみか)とした。大分弁でその日を何とか食いつなぐことを「いのちき(生活)する」と言う。松下は、市井の一人一人の「いのちき」を何よりも大事にした。その延長から、環境運動や反戦運動に身を投じ、重厚なノンフィクションを数多くものした。
室原が反対闘争を繰り広げていた当時、松下は家業の豆腐屋を継ぎ、貧苦のどん底にいた。肺に持病を抱えた痩身(そうしん)にむち打ち、4人の弟を養っていた。
「泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん」
書きためた短歌を軸に青春の苦悩や淡い恋を描いた「豆腐屋の四季」がベストセラーに。翌年、豆腐屋を廃業し、作家宣言する。室原が亡くなった1970年夏のことであった。
松下が室原にひかれ始めたのは、さらにその4年後だ。松下は、中津の海を守ろうと、火力発電所建設反対闘争に身を投じていた。最初は市民規模の反対運動だったが、1年で運動はしぼむ。孤立した松下は、「環境権」という思想を打ち出し、6人の同志と九州電力を相手どり建設差し止め請求を提訴し、埋め立てが進む海岸で徒手空拳の座り込みを続けていた。
「眼前の凶暴なクレーン船の群れに憎しみの視線を刺しつつ、私はこの小柄な老人の勁(つよ)さをしきりに思い続けていた(中略)。はかない肉体を超えて聳(そび)え立つ1個の強靱(きょうじん)な意志力(中略)。勁さがほしかった」(砦に拠る)。
巨大な九電に対して、ただ座り込むしかできない存在。だが、人々の「いのちき」の源である海を守るため、ここで退くことはできない。松下は、室原の孤高の闘争に思いをはせることで自らのくじけそうな精神を鼓舞した。裁判は松下側が敗れた。松下は、裁判所で敗訴の垂れ幕を掲げた。
「アハハハ…敗(ま)けた敗けた」
強大な資本や国家権力を相手にする時、弱き市民は、負けても負けても挑み続けるしか道はない。判決を笑い飛ばす文面に、松下の精いっぱいの矜恃(きょうじ)がにじむ。
室原らが、懸命の闘争を展開したころ、経済白書は「日本はもはや戦後ではない」とうたい、安保闘争が過熱。九州では三井三池争議が燃え上がっていた。この国が、大きくうねっていた時代であろう。
そのころ室原が考案した「室原王国旗」なる旗を見せてもらった。日の丸の正反対の、赤地に白丸。お世辞にも趣味がいいとはいえない図案だ。赤地がすっかり色あせ、薄桃色に変色していた。室原は「日の丸は、権力が民衆を包みこんじょるが、わしん旗はそん逆じゃ。民衆が権力を取り巻いちょる」と得意げに説明したという。
廃村となったダム建設地。たった一戸残った室原の屋敷と砦跡に、この珍妙な旗が翻る光景を想像すると、何か物悲しさを覚える。この旗が、私たちに訴えるものは何だろう。松下が生きていれば、こう答えてくれそうだ。
「負け続けても折れない心を。いのちきの王国、勁く、勁くあれ」と。
(文=筑豊総局・鶴丸哲雄 写真=写真グループ・岡部拓也)
▼まつした・りゅういち
1937年、大分県中津市生まれ。中津北高卒業後、家業の豆腐屋を継ぐ。69年、処女作「豆腐屋の四季」がベストセラーになり、緒形拳主演でテレビドラマ化される。70年に豆腐屋を廃業し、著述業一本に。73年、機関誌「草の根通信」を創刊し、環境や反戦運動に取り組む。82年、社会主義者大杉栄の四女の流転の半生を追った「ルイズ 父に貰いし名は」で、講談社ノンフィクション賞受賞。「砦に拠る」のほか、甲山事件の冤罪に迫った「記憶の闇」、三菱重工本社爆破犯の真実を追った「狼煙を見よ」、「暗闇の思想を」「風成の女たち」など。2001年、本紙文化面に随筆「諭吉の里」を連載。04年6月、67歳で死去。
●私の推薦文
「われらの砦は」問い掛け今も 梶原得三郎さん(68)=私学職員(大分県中津市)
「ねえ、得さん われらの砦は なんだろう」。松下さんは、出版した「砦に拠る」に、こんな言葉を書いて私に贈ってくれました。私と彼は同い年で、三十年来の親友。環境権を掲げた発電所差し止め訴訟も、ともに闘いました。彼がこの本を書いたのは、私たちの運動が最も孤立を深めた時期。作品を読み返し、あの多忙な日々にこれほど綿密な取材をしていた行動力に驚きました。「われらの砦は」という彼の問い掛けは、時代が変遷した今も、十分な説得力を持ってわれわれに迫ってきます。
松下さんは、超人でした。肺に重篤な持病を抱えつつ、身を削って優れた作品を書きました。反戦や反人権侵害の活動を続け、市民交流誌「草の根通信」の発行も三十年以上担いました。亡くなって二年が過ぎましたが、今でも彼が「ねえ、得さん」と、はにかんだ声で相談事を持ち掛けてきそうな気がします。彼の著作が、ずっと人々の心に残るよう願っています。
●メモ
■下筌ダムは1973年に完成したアーチ式コンクリートダム。ダムの高さ98メートル、長さ248メートル。貯水量は5930万立方メートルで、福岡ドーム34杯分になります。
■下筌ダムまでは、大分県日田市の中心部から車で約40分。ダム湖は「蜂の巣湖」と命名され、ダムのほとりに「蜂の巣公園」が整備されています。
■松下竜一さんは、2003年6月、福岡市内で講演後、脳内出血で倒れ、04年6月17日、亡くなりました。67歳でした。同年8月に大分県中津市であった「偲ぶ集い」には、「草の根通信」の読者など全国から800人が詰め掛けました。
■「砦に拠る」は、1977年、筑摩書房より出版されました。その後、講談社などから文庫本も出ましたが、いずれも絶版です。河出書房新社が98‐02年に刊行した「松下竜一その仕事」(全30巻)の第15巻に、「砦に拠る」が収録されていますが、これも現在、品切れです。松下さんの生涯を知りたいなら、福岡県築上町の新木安利さんが著した評伝「松下竜一の青春」(海鳥社、2310円)があります。

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雪の日の朝、13歳の少年トーマが陸橋から飛び降り、自ら命を絶つシーンから物語は始まる。品行方正な優等生ユリスモールのもとに遺書が届く。
「さいごに これがぼくの愛 これがぼくの心臓の音 きみにはわかっているはず」
自分を慕った後輩の死に平静を装いながらもユリスモールは責任感にさいなまれ、トーマとうり2つの転校生の出現で動揺し始める-。
ドイツのギムナジウム(高等中学)を舞台に、繊細な心理描写で人間の愛と友情と試練を描いた『トーマの心臓』は萩尾望都初期の代表作である。舞台を異境に求めた心情を、故郷・大牟田を引き合いに萩尾が語っている。
「私が育ったのが九州の炭坑町。戦後すぐだけど、すでに斜陽がかっている。町が痛々しいというか労働争議なんかがあったりして、そういう感じにはついていけなかった」(舞台「トーマの心臓」公演パンフレットより)
1959-60年に「総資本対総労働の対決」と称された三池争議、63年には死者458人を出した三川鉱炭じん爆発事故が発生。日本は石炭から石油への転換を図るエネルギー革命に突入、炭都の将来に陰りが出てきた時期にこの町で十代を過ごした。
「こういう不安な町じゃなくて、もっと落ち着いた静かな安定したところはないか」。土着的な故郷とは対照的な何百年もの文化の蓄積が風格をなす欧州の古い町並みにあこがれた。だが、それは反転した故郷でもあった。
大牟田市立船津中時代の同級生で、高校時代に萩尾を漫画の同人誌に誘った漫画家のはらだ蘭(57)=本名・原田千代子、東京都在住=が苦笑する。「萩尾さんの家に遊びに行ってお母さんにあいさつしてもそっけなかった。大事な娘を悪の道に引きずり込む悪友と思われていたんでしょうね」
母親は厳格で、萩尾は甘えることもできなかった。漫画は勉強の妨げになるから読むなどもってのほか、有名になっても30歳くらいまで漫画家を辞めるよう言われ続けた。
「萩尾さんって隣で戦争が起きても漫画を描いているような人。なのに、親に自分のやりたいことを認めてもらえず、見当違いの期待をされて苦しんだ。周囲の人との距離もなかなかうまく取れない。そんな苦しみから解放されるのが漫画の世界だったと思う」
萩尾は69年、講談社の「なかよし」でデビュー。だが、描きたいものが採用されない時期が続き、後に『風と木の詩』をヒットさせる竹宮恵子に引っ張られて小学館へ。少女漫画界では集英社や講談社に後れを取っていた小学館は新人作家の発掘に必死だった。
「少女コミック」で萩尾、竹宮を盛んに起用した編集者の山本順也(67)=神奈川県在住=は、萩尾が持ち込んできた講談社でボツにされたコンテの数々を手にしたときの驚きが今も鮮明だ。
「宝の山だ。次の時代に活躍する」
学園ものなど少女のあこがれを扱う作品が多い中、初対面の萩尾は「SFを描かせて」と切り出し、宝の山には血の通った人間像を組み立てたリアルな物語がぎっしり詰まっていた。山本の信条は「自由にわがままに思いきり描かせたい」。かといって、決して放任主義ではなかった。「掲載順は僕に決めさせてくれと言った。読者にキャッチボールしてもらって、作家の良さを知ってもらわないといけないから」
山本のもとで萩尾は本領を発揮し、傑作『ポーの一族』を72年に開始。2年後には連載『トーマの心臓』を発表。別の編集者が長編で発注したが、「こんな趣味的な話で読者が喜んでくれるのか」という萩尾の不安が的中。初回は読者アンケートで最下位となり、編集長に昇格した編集者から打ち切りを告げられた。萩尾は「もう少しで終わりますから」などとかわすうちに、少女漫画で初の単行本となった『ポーの一族』の初版3万部が3日で完売。『トーマ』の評判も上向き、結局、33回まで続いた。
「この作品で人生が変わった」という人がいる。京都精華大マンガ学部の助教授マット・ソーン(41)は『トーマ』を読み、少女漫画研究へ。
「なぜか号泣した。手塚治虫の『火の鳥』や白土三平の『カムイ伝』も読んだけど、それは客観的な面白さ。これは人間の深い心理を表現して文学的だった」
ユリスモールはギムナジウムの先輩に暴行を受けた心の傷を負い、自分は愛されるに値しないと、トーマの愛をかたくなに拒み続けた。
「人は二度死ぬという。まず、自己の死、そしてのち、友人に忘れ去られることの死。それなら永遠にぼくには二度目の死はないのだ」
そんな思いを抱いたトーマは死を代償にして愛を貫いた。ユリスモールは自らが苦しんでいた罪をトーマが知っているか否かが問題ではなく、その罪をも許していたことが愛であり、人が生きるためには愛が必要だと悟る。
どんなにダメな人間でも、存在そのものは否定することはできない。「親からダメな子と見られていた」と自認する萩尾自身の問い掛けは、自己否定から克服していくユリスモールの姿に投影されている。故郷の土着性、そして、家族という強力な重力から逃れようと闘い、自らの作品世界、ひいては少女漫画の世界を切り開いた。ただ、そのいったん否定したものをも認めることで生き生きとした生が獲得できることも暗示している。 (敬称略)
(文=東京報道部・神屋由紀子写真=写真グループ・納富 猛)
▼はぎお・もと
1949年、福岡県大牟田市生まれ。手塚治虫作品に触発されて漫画家を志す。福岡市の日本デザイナー学院卒業後、69年に上京。同年、「ルルとミミ」でデビューし、72年に不死の一族を描いた「ポーの一族」シリーズを開始。SF作品「11人いる!」(75年)など代表作多数。同じ年に生まれ70年代に少女漫画の表現世界を深化させた竹宮恵子や大島弓子らとともに「24年組」と呼ばれる。97年には「残酷な神が支配する」で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞を受賞。現在、月刊誌「フラワーズ」にシリーズ「ここではない★どこか」を執筆。「半神」(84年)は劇作家野田秀樹と共同で脚本化するなど、作品の舞台化や映像化もされている。
●私の推薦文
透明感ある純粋な愛を楽しむ 黒岩 理恵子さん(43).=専門学校講師 (福岡市城南区)
初めて読んだのは中学1、2年生のころ。3歳上の姉が友達から借りてきたコミックスの1冊でした。当時は「キャンディ・キャンディ」全盛期。私自身が愛読していた「りぼん」は等身大の女の子を描いた作品が多かったので、宗教的で観念的なテーマを扱った「トーマの心臓」は衝撃的でした。美しい少年の自殺という冒頭の設定はもちろん、死んでなお、美しい「純粋な愛」の象徴としてトーマが人々の心の中に生き、ユリスモールには「どうして愛に心を閉ざすの」と問い続けていく。考えさせる作品でした。
萩尾さんが描く男性同士の愛は官能的というよりは精神的な崇高な愛。異性に興味を持ちながらも肉体的な愛に踏み込む勇気はない思春期の女の子たちは、その透明感のある純粋な愛を楽しんでいたのではないでしょうか。哲学的なことにひかれる時期でもあり、叙情豊かな作風も魅力だったのだと思います。
●メモ
■「トーマの心臓」は雑誌掲載後、コミックスや文庫など形を変えて出版され続けています。現在、入手できるのは小学館文庫。「トーマの心臓」の原型と位置付けられる作品として「11月のギムナジウム」(1971年)、また、「トーマの心臓」の登場人物の物語を描いた番外編的な「訪問者」(80年)があります。
■舞台化もされています。東京を拠点に活動する劇団「スタジオ・ライフ」が96年に初演。脚本・演出の倉田淳さんを除き、俳優やスタッフはみな男性という異色の劇団で、「トーマの心臓」の公演回数は161回に上り、今年は6、7月に公演済み。次回は未定です。
■大牟田市立図書館には萩尾さんの両親が寄贈した著書が収められています。図書館独自の収集も合わせて143冊(同じ作品でもコミックスと文庫は別々に計上)を所蔵しています。同館=0944(55)4504。

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たとえば、園内の地図を開いてみる。集合住宅、スーパー、理髪店、さらには教会、火葬場そして、納骨堂まである。そこが1つの町と言ってもおかしくないことが分かるだろう。
鹿児島県鹿屋市郊外。人里離れたサツマイモ畑の台地に国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」はある。50年の人生をここで費やした島比呂志(本名・岸上薫)は「奇妙な国」と呼び、皮肉を込めこう書き出す。
「あなたがたは面積が40ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか」
その国の住民は、日本との「安全条約」によって衣触住を保障されている。幾つかの条件がある。癩(らい)菌という「滅亡の虫」をばらまかないよう日本に浸入しないこと、子孫をつくらないよう精管を切除すること。そして「滅亡こそが国家唯一の大理想」と解く。
作中、納骨堂が象徴的に登場する。そのモチーフだろうか。園の外れの薄暗い杉林の奥に旧納骨堂がある。苔(こけ)むし黒ずんではいるが、古代ローマの建築を思わせる威容は、まだ朽ちてはいない。「滅亡の国のシンボル」。島はそう呼んだ。
「ハンセン病患者の壮絶な姿を描いた北條民雄とは対極の作品。患者の生活を恬淡(てんたん)と描いているが、それだけに余計、不気味な感じがします」。島が立ち上げた同人誌「火山地帯」を引き継いだ作家の立石富男さん(57)は鹿屋市の自宅で語った。
「奇妙な国」に悲壮感は薄い。だが「三度の触事と睡眠以外の時間をどうまぎらすかが重大事」という退屈な日々が、じわじわと正常な精神を蝕(むしば)んでいく。療友の自殺も「長い年月の退屈を省き滅亡という国家目的に一足先に飛び込んだ」と、羨望の眼差(まなざし)しさえ向ける。
「火山地帯」に「奇妙な国」が発表されたのは59年。島が星塚敬愛園に入所して11年後のことだ。特効薬が開発されハンセン病は「治る病」となっていた。だが、53年の「らい予防法」改正でも国は隔離政策を止めようとしない。「完治してもなお隔離を強いられる人々の生き地獄」を作品に見ると、立石さん言う。
島の作品はしばしば「告発の書」と評される。原点はいくつかの苦い経験にある。1947年、香川県の大島青松園に入園した島は、職員が新入りの患者の布団を地べたに投げつけるように渡す光景を目にする。だが、一言も抗議できない。「言うべきことを言わないとしたら、自ら人間を放棄することになる」。激しい自責の念にさいなまれた末に「小説なら非人道的な行為を告発できる」と思い至る。初めての小説の題名は「癩院監房」となった。
星塚敬愛園への転園後も、断種の強制や検閲による小説の発表禁止など非人間的な扱いは続く。島は、自分が自分であるために書き続けた。
84年の評論集「片居からの解放」ではこう告白する。「文章だけが療養所の垣根を越える唯一の手段」であり「不条理を打破して人間回復をはかるすべ」だった。「私にとって、書くということは、生きるということと同じことだった」と。その思いは、ハンセン病国家賠償請求訴訟(1998年7月)に立ち上がり、勝訴判決を勝ち取る原動力となっていく。
立石さん宅で、ある原稿を見せていただいた。題名は「やっと燃えた怒りの火-ハンセン病訴訟・告訴宣言」。1998年5月、国賠訴訟提訴の意思を公にすべくつづったものだ。
「あまりにも遅い決意を笑わないでほしい。牙を抜かれ、50年間檻(おり)の中で忍従の日々を送ってきた老残の身が、やっと示した小さな怒りの火を」。後遺症で変形した手でペンを握り、書き上げた震える文字に、思いの強さが明らかだった。
島が妻を連れて星塚敬愛園を退所したのは1999年6月。北九州市小倉南区に住む岸上昭子さん(64)の元へ向かった。80歳だった。昭子さんは、島の作品に感動し療養所を訪ねて二十余年、きずなを深め、島の養女になった人物だ。授かるはずのなかった娘や孫たちとの日々は刺激にあふれ「奇妙な国」のような「退屈」に困ることはなかった。
昭子さんが営む喫茶店には生前の島の写真が掛けられている。「お客さんによく話すんですよ。お父さんのことをもっと知ってほしいから」
社会復帰から4年目の03年3月22日、島は静かに息を引き取る。
「無意識なのに腕を振り挙げて、何かを書こうとしてましてね。もっと生きたかったんでしょう」
昭子さんはリュックに島の遺骨を背負い、生まれ故郷の香川県を訪ねた。思い出の地を回り、遺骨の一部を地元の寺に安置した。
「奇妙な国」は、主人公の老人が自らの命を絶つ場面で終わる。しかし島老人は、まんまと国に終生隔離を貫徹させることも、療養所の納骨堂への行列に加わることもなかった。
「果たして島さんは自由を手にできたのだろうか」。写真の中のその人は穏やかにほほ笑むだけだった。
(文・写真=社会部・吉良治)
▼しま・ひろし
1918年、香川県生まれ。44年東京農林専門学校(現東京農工大)の教員。その後ハンセン病を患い、47年ハンセン病療養所大島青松園(香川県)に入園。翌年、星塚敬愛園に転園した。58年園内有志と同人誌「火山地帯」を創刊。小説や評論を発表し、らい予防法に基づく人権侵害を批判し続けた。HIV訴訟原告の赤瀬範保氏からの「患者はなぜ怒らないのか」という手紙に発奮。らい予防法廃止から2年後の98年、国の責任を問う「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」に立ち上がり原告団の名誉団長として勝訴判決を勝ち取った。95年に九州弁護士会連合会に送った「法曹界は傍観者か」との一通の手紙が訴訟の原点になった。著書に「生きてあれば」「生存宣言」などがある。
●私の推薦文
読み手の存在問う作品 馬場 純二さん(43)=熊本近代文学館参事 (熊本市在住)
作家カズオ・イシグロが著した「わたしを離さないで」を読みながら、島比呂志の「奇妙な国」が思い出されました。幼くしてイギリスに渡ったイシグロが、島のこの小説を読んでいたとは思われないが、そこに描かれた臓器提供者を育てる奇妙な施設は子どもを持つこともできず、自らの肉体と生命の提供を担保に衣触住の保障を受けるという、まさに「奇妙な国」でした。
出口の見えない碁と、大あくびをかきながら見続ける人々。「奇妙な国」には退屈な日常がユーモラスに描かれてますが、一見安穏な一コマも、塀の外の人々のために、すべてを犠牲にした姿であると知らされた瞬間、この寓話(ぐうわ)的な物語は反転し、読み手であるわれわれ自身の存在を問い始める、そんな感じがします。
島は、病とどう向き合うかを主眼とした「らい文芸」を越え、社会的病としてのハンセン病とその構造を描出し、読者自身の生にかかわる問題として提起したのではないでしょうか。
●メモ
■「奇妙な国」は星塚敬愛園の同人誌「火山地帯」での発表から21年後の1980年に、「新教出版社」から単行本が出版され、療養所外にも読者層を広げました。現在、同社から「奇妙な国」は発行されていませんが、「戦後短編小説再発見5 生と死の光景」(講談社文芸文庫)や「ハンセン病文学全集小説三」(皓星社)に収録されているので、そこで読むことができます。
■島さんの養女・岸上昭子さんの経営する喫茶店「きっちん麻・麻」は、北九州市小倉南区下貫1丁目の貫交差点そばにあります。島さんの写真はカウンターのそばに掛けられ、島さんに関係する図書も一部置いています。
■読者のみなさんが千年書房「九州の100冊」で取り上げたいと思われる著作物を募集しています。〒810‐8721 福岡市中央区天神1の4の1 西日本新聞文化部「私の1冊」係へ。

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下村湖人が晩年を過ごした東京都新宿区100人町を訪ねた。湖人は庭に防空壕(ごう)を掘って戦時中も住み続け、疎開しなかった。逃げることが嫌いだったという。JR新大久保駅から歩いて数分。かつて湖人が住んだ木造住宅は8階建てのマンションになっていた。そこに住む湖人の二男・覚(さとる)さん(87)は、まるで昨日のことでも語るように、父・湖人を振り返った。
「私が5、6歳のころだったでしょうか。遊びに行った唐津の砂浜で、父から波の中に放り出されたもんでしたよ」。波が怖くて背を向けた覚さんは荒波に押し倒され、したたかに海水を飲んでおぼれかけた。いよいよ、という時に湖人は覚さんを抱きかかえて豪快に笑ったという。
「波に背を向けるからこうなる。波の方を向けば、倒れずにすむぞ」
その言葉の通り、湖人は時代の波に背を向けることなく、生きることの意味を問い続けたのだった。
「次郎物語」は、主人公・本田次郎の心の揺れ動きと成長をきめ細かに描いた五部構成の大作である。1936年に書き始め、戦争の時代をまたいで18年間にわたって執筆された。今でこそ不朽の教育小説といわれるが、第一部を出版した直後には「非教育的だ」「自由主義的だ」と非難された。
「こんなにしつけが悪く、乱暴な子ども(次郎)の話などけしからん」という理由である。この国が急速に軍国主義に傾いていった時代だった。
その第一部は、湖人が生まれ育った佐賀県千歳村(現在の神埼市)が舞台。次郎は、湖人自身がモデルである。初めて読んだ記者は「なんて不幸な子どもだろう」と思った。幼くして他家に預けられ、強引に連れ戻された実家では祖母や教育熱心な母に疎まれる。中学受験には失敗し、裕福だった家は没落するのだ。もし、次郎が2006年の今を生きていたら、いわゆる「心の闇」を抱えたのでないかと。
物語には、もう1人重要な登場人物がいる。思春期以降の次郎に大きな影響を与える朝倉先生だ。実はこれも湖人が自身を重ねた姿である。
湖人は東大を卒業し、地元佐賀の中学校教員を振り出しに各地の学校で教えた。だが、そのリベラルな生き方を、時代は次第に許さなくなっていく。
1929年、日本統治下の台北高等学校で自由な校風を求めるストライキが発生、中心の生徒19人が退学処分となる。校長だった湖人は台湾人を含め全員の復学を認める一方、扇動した教師を退職させ、自らも責任を取って辞職する。その後、東京・小金井にできた青年団講習所長に就任し、青年教育に携わる。第五部はその実践記録といえる。「次郎物語」は、この時期から執筆され始めた。
講習所での湖人は、全国から集まった若者たちに自治生活の創造を求めた。そんな湖人は青年団の内外から「自由主義者」と指弾され、1937年に講習所を去っている。
第一部出版直後、知人にあてた手紙で湖人は「次郎(物語)のつづきは、(次郎に)いたずらもやらされず(中略)筆が渋ります」と漏らしている。だが、「書きにくくても、やはり書いてみたい」とも。時代の波に背を向けないとは、こういうことだろう。
「自分は強いとうぬぼれたら、もうそれは弱くなっている証拠なんだからね」。青少年に向けた朝倉先生の優しい言葉である。が、当時の時代に照らして読めば、国粋主義への強い批判が込められていたことが明らかだ。
今なら「心の闇」を抱えそうな幼い次郎が真っすぐに育ったのはなぜか。その答えを求めて、湖人の母校・千代田東部小(佐賀県神埼市千代田町)を訪ねた。朝倉先生が説いた「白鳥芦(ろ)花に入る」にちなむ「はばたけ白鳥の子」の看板がある。真っ白なアシの花の中に一羽の白鳥が入ると、白鳥は見えなくともアシがそよぎだす。善いことは目立たずに行えという教訓だ。
6年生の向井理香子さん(11)に次郎の印象を聞いた。向井さんは友達と顔を見合わせ「行儀が悪いし、負けず嫌いだし、でも優しかった次郎の気持ちは、なんか分かるよね」。
向井さんは、湖人の入学から数えて110年後の生徒である。その彼女が「なんか分かる」という。時代は変わっても、人々は次郎に共感を持つ。
次郎の心がくじけなかったのは、どっしりとした父性愛をたたえた父・俊介をはじめ、母方の祖父母、乳母のお浜ら多くの大人たちが、それぞれの立場と持ち味で、彼にかかわっていたからではないだろうか。その多様さは登場人物たちの関係を把握するだけでも一苦労するほどだ。
そんな人々が次郎を励まし、叱咤(しった)し、慰め、時にはただ無言で見つめた。それはさながら、ボウリング場のレーンの両端に立つ衝立(ついたて)のように、次郎が横溝(ガーター)に落ちることを防いだのだった。
個人情報の保護が進む現代。不審者への警戒から、オートロックマンションが林立する。子どもたちが日々の暮らしでかかわる他人の数は、決定的に減っている。次郎は、多様な人間との関係の中で自らを相対化していった。そうしてたどり着いた優しさが、時代を超えて共感を呼ぶのではないか。次郎は私たちに「常に自らを省みながら、生きる意味を考える」という宿題を残していよう。そして今、私たちはその宿題を放棄しつつあるような気がしてならない。
▼しもむら・こじん
1884(明治17)年、佐賀県千歳村(現神埼市)生まれ。本名は虎六郎。佐賀中時代には「内田夕闇」の筆名で中央の文学雑誌に投稿。年少詩人として全国的に知られた。東京帝大卒業後は鹿島中(現在は鹿島高)や唐津中(現在は唐津東高校)校長などを歴任。青年団講習所を退いた後は文筆活動と全国での講演活動に専念した。次郎物語第5部を出版した翌年の1955年4月、老衰などのため71歳で死去。「論語物語」「若き建設者」など多数の著作がある。
●私の推薦文
自分の成長や育児と重ね 安永伴吾さん(45) 千代田東部小学校教諭(佐賀県鳥栖市在住)
愛情を満たしてくれる対象は、いつも母親であるとは限りません。幼い次郎にとっては、無条件に甘えられる乳母のお浜が「心の故郷」ともいえる存在でした。幼少期は、心の平安が保てる居場所が絶対に必要です。「次郎物語」を読むにつれ、その思いは強くなりました。
幼少期の次郎はいわゆる「良い子」ではありません。乱暴もしますし、時にはうそもつきます。大人の動きや視線を読むといったずる賢さも備わっています。しかし、決して心の根っこが曲がってしまった「悪い子」ではありません。それは心の赴くままに生きる、子どもらしい子どもの姿です。
次郎の行動や心情を、自らの成長や育児に重ねて読み進めると、人が成長することの難しさをしみじみと考えさせられます。そして、それこそが下村湖人が世の親や教育者たちに伝えたかったことだと思えるのです。
●メモ
■湖人の本名は「虎六郎」といいました。教員時代は生徒たちに「虎」というあだ名で親しまれていたそうです。
■佐賀県神埼市千代田町にある下村湖人生家は1970年に修復され、公開されています。湖人の書簡や少年時代の写真などから、人となりをしのぶことができます。入館無料。開館は午前10時-午後5時(12-2月は同4時半)、月曜日休館。生家=0952(44)5167。
■旧千代田町内の3小学校の新入生には、行政が中心になって次郎物語の第一部が配布されてきました。同町は今年3月に周辺自治体と合併し、来年度以降は配布できるか未定ということです。
■湖人が所長を務めた「青年団講習所」(東京都小金井市)一帯は現在、公園になっています。塾生の講義などが行われた「浴恩館」は文化財センターとして使用されています。湖人が寝泊まりしていた「空林荘」は当時のままで、内部も見学できます。

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1916年12月25日早朝、大分県の下の江港から男4人を乗せた一隻の船が出航した。宮崎県の日向寄りの海に散在している島々に向かったが突風にさらされて遭難。以後、見渡す限り太陽と大空と海よりほかにはない状況で57日間にわたって漂流し、ミッドウエー付近で日本の貨物船に救助された。
野上弥生子の小説「海神丸」は、実話に基づいて書かれた。実際の船の名前は「高吉丸」。同県臼杵市にある野上弥生子文学記念館には、錆び付いた「高吉丸」の船名票と事件を報道した当時の新聞のコピーが展示されている。船長の渡辺登久蔵は、弥生子の生家に度々訪ねてくるような間柄で、弥生子は、実家の弟・小手川金次郎(1971年死去)が、渡辺本人から聞いた事件の話を手掛かりに、凄惨な殺人事件を書き上げた。
事件後、船長の渡辺は「船はおずうなった(怖くなった)」と言って船乗りを廃業し、「恨んでも、悲しんでも、死んだものが生き返っては来ない」と、誰にも秘密を漏らそうとはしなかった。弥生子の甥にあたる小手川力一郎さん(84)=フンドーキン醤油会長=は、自宅をよく訪ねていた渡辺について「穏やかでどことなく男気のある人でした」と回想するばかりである。
果たして人の肉を食ったのか否か。真相は分からない。それはそれでいい。が、真相を知りたいのも人情ではある。
事件からほぼ半世紀を経た1968年2月、弥生子に一本の電話がかかった。弥生子は「受話器の底に一発の銃声がとどろいた」と「後日物語」に記している。
「実は、海神丸を救ったのが、私なのです」。貨物船の船員だったと名乗る男性からの電話だった。このとき弥生子は83歳。当時23歳だった船員・大平精一は75歳になっていた。初対面の2人だったが10年の知己のように話が弾んだという。
大平によると、救助した際、3人の中の1番若い男(八蔵)が初めから元気にしていたことから、貨物船の船員たちの間では「あいつは人間でも食ったのじゃないか」と秘かにささやかれていたという。だが、やはり、真相は分からなかった。
飢えて極限状態に置かれた八蔵と五郎助の胃袋は「巨大な歯を持った1つの怪物」と化し、船長の甥である少年・三吉を斧(おの)で殺し、その肉を食おうとする。が、さすがに三吉を食べるまでには至らない。救助された船長は、三吉の死について役人から尋問を受けるが、三吉の死をあくまで「病死」と主張するのだった。そんな船長を前に八蔵は、骨ばかりの両手で顔を覆って泣き崩れた。
「船長だけには、八蔵が急になぜ泣きだしたのかよくわかっていた。船長はむしろ彼の現在の心持ちをあわれんだ。なんにも心配することはない、と言ってやりたい気さえした」
小説は、そんな船長の言葉で締めくくられる。
「海神丸」は、弥生子の最初の代表作といわれ、自身も「私としては小説らしいものがやっと書けた最初の仕事かも知れない」と述懐している。知的で理性的な女性であった弥生子は、極限状態におかれた人間の地獄模様を詳細に描きながらも、最後に「思いやり」や「理性」といった人間らしい感情を加えることで、作品に救済の光を当てた。どんなに苦しくとも、最後の一線、人間の尊厳は捨てない。弥生子の強い信念に貫かれた「海神丸」は、重厚な人間ドラマとして不朽の名作となり、後の大岡昇平「野火」や武田泰淳「ひかりごけ」でテーマとなったカニバリズムの先駆をなしたのである。
弥生子は99歳で亡くなるまで、「真知子」や「迷路」、「秀吉と利休」などの執筆活動を続けた。「海神丸」を発表した翌年の1923年7月31日からはノートに日記をつけ始め、それは亡くなる17日前の1985年3月13日まで続いた。
62年にわたる膨大な日記は、ノート119冊に保存されている。そこには、作家・中勘助との初恋や、哲学者・田辺元とのプラトニックな恋愛感情、夫への不満なども赤裸々に描かれ、人間味溢れる作家の一面を知ることができて興味深い。
小手川さんは、伯母・弥生子の印象を「妻としても母としても立派でしたし、物事の判断も正しく、常識ある女性でした」と語る。「人間は正しく生活しなければならない。熱心に仕事をしなければならない。主婦は家庭を大切にし、妻は主人を大切に、母は子どもを大切に、母は子どもを正しく、厳しくしつけなければならない。弥生子は亡くなる直前まで、これらの〝常識〟を主張し、実行していました」
「大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」。日記にこう書いた弥生子は、最後まで教養ある知識人としての生き方を求め、実践した。そして、1985年3月30日の朝、ベッドに上がろうとした姿で永眠。享年99歳だった。
実家の小手川酒造には弥生子直筆の「白寿」と揮毫したラベルの麦焼酎がある。それは、知的に、ストイックに生きた作家を彷彿させるような切れ味だった。
(文=文化部・一木朋子 写真=写真グループ・納富 猛)
▼のがみ・やえこ
1885年、大分県臼杵市の代屋(現小手川酒造)三代目の長女として生まれる。15歳で単身上京し、同郷の野上豊一郎と結婚。夏目漱石の指導を受け、小説を書き始める。99歳で亡くなるまで現役作家として活躍し、「海神丸」「真知子」「迷路」(読売文学賞受賞作)「秀吉と利休」(女流文学賞受賞作)など多数の作品を発表。「ハイヂ」「ギリシア・ローマ神話」などの翻訳も手掛ける。1971年には文化勲章を受章した。
●私の推薦文
書き出しに戦慄を覚えた 小手川 力一郎さん(84)フンドーキン醤油 (大分県臼杵市)会長
「12月25日午前5時、メーン・トップ・スクーナ型65トンの海神丸は、東九州の海岸に臨むK港を出帆した」という何げない書き出しは、その後の緊迫した事件を予想させないだけに、一層の戦慄(せんりつ)を覚えます。
伯母は後に「海神丸」は小説らしいものがやっと書けた最初の仕事と言っておりました。船長の渡辺登久蔵さんはしばしばわが家にも立ち寄っていましたが、漂流後は、臼杵町の生命保険の代理店で働かれていました。そのしっかりとした体格はまさに「海神丸」の船長をほうふつとさせるようなものだったと記憶しています。
1985年3月、伯母は百歳を直前にして亡くなりました。同じ年の9月、渡辺さんが97歳で亡くなりました。極限状態を生き抜いた男とそれを描いた女。2人を知る者として、この作品は特に感慨深いものがあります。
●メモ
■「海神丸」は実際にあった海難事件に基づいて書かれたものです。船長の渡辺登久蔵は野上弥生子の生家に出入りする船頭の1人で、弥生子は弟・金次郎から事件の詳細を書き送ってもらい小説を書き上げました。岩波文庫「海神丸」には「『海神丸』後日物語」として、作品発表から半世紀の後、海神丸を救助した元船員と巡り合ったいきさつが書いてあります。
■大分県臼杵市の生家(小手川酒造)の一部に文学記念館があります。館内では少女時代の勉強部屋を見学できるほか、能面や眼鏡などの愛用品、夏目漱石から送られた手紙など遺品約200点が展示されています。文学館への問い合わせは0972(63)4803。

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