西日本新聞

千年書房・九州の100冊

野上弥生子「海神丸」

 1916年12月25日早朝、大分県の下の江港から男4人を乗せた一隻の船が出航した。宮崎県の日向寄りの海に散在している島々に向かったが突風にさらされて遭難。以後、見渡す限り太陽と大空と海よりほかにはない状況で57日間にわたって漂流し、ミッドウエー付近で日本の貨物船に救助された。
 野上弥生子の小説「海神丸」は、実話に基づいて書かれた。実際の船の名前は「高吉丸」。同県臼杵市にある野上弥生子文学記念館には、錆び付いた「高吉丸」の船名票と事件を報道した当時の新聞のコピーが展示されている。船長の渡辺登久蔵は、弥生子の生家に度々訪ねてくるような間柄で、弥生子は、実家の弟・小手川金次郎(1971年死去)が、渡辺本人から聞いた事件の話を手掛かりに、凄惨な殺人事件を書き上げた。

 事件後、船長の渡辺は「船はおずうなった(怖くなった)」と言って船乗りを廃業し、「恨んでも、悲しんでも、死んだものが生き返っては来ない」と、誰にも秘密を漏らそうとはしなかった。弥生子の甥にあたる小手川力一郎さん(84)=フンドーキン醤油会長=は、自宅をよく訪ねていた渡辺について「穏やかでどことなく男気のある人でした」と回想するばかりである。
 果たして人の肉を食ったのか否か。真相は分からない。それはそれでいい。が、真相を知りたいのも人情ではある。
 事件からほぼ半世紀を経た1968年2月、弥生子に一本の電話がかかった。弥生子は「受話器の底に一発の銃声がとどろいた」と「後日物語」に記している。
 「実は、海神丸を救ったのが、私なのです」。貨物船の船員だったと名乗る男性からの電話だった。このとき弥生子は83歳。当時23歳だった船員・大平精一は75歳になっていた。初対面の2人だったが10年の知己のように話が弾んだという。
 大平によると、救助した際、3人の中の1番若い男(八蔵)が初めから元気にしていたことから、貨物船の船員たちの間では「あいつは人間でも食ったのじゃないか」と秘かにささやかれていたという。だが、やはり、真相は分からなかった。

 飢えて極限状態に置かれた八蔵と五郎助の胃袋は「巨大な歯を持った1つの怪物」と化し、船長の甥である少年・三吉を斧(おの)で殺し、その肉を食おうとする。が、さすがに三吉を食べるまでには至らない。救助された船長は、三吉の死について役人から尋問を受けるが、三吉の死をあくまで「病死」と主張するのだった。そんな船長を前に八蔵は、骨ばかりの両手で顔を覆って泣き崩れた。
 「船長だけには、八蔵が急になぜ泣きだしたのかよくわかっていた。船長はむしろ彼の現在の心持ちをあわれんだ。なんにも心配することはない、と言ってやりたい気さえした」
 小説は、そんな船長の言葉で締めくくられる。
 「海神丸」は、弥生子の最初の代表作といわれ、自身も「私としては小説らしいものがやっと書けた最初の仕事かも知れない」と述懐している。知的で理性的な女性であった弥生子は、極限状態におかれた人間の地獄模様を詳細に描きながらも、最後に「思いやり」や「理性」といった人間らしい感情を加えることで、作品に救済の光を当てた。どんなに苦しくとも、最後の一線、人間の尊厳は捨てない。弥生子の強い信念に貫かれた「海神丸」は、重厚な人間ドラマとして不朽の名作となり、後の大岡昇平「野火」や武田泰淳「ひかりごけ」でテーマとなったカニバリズムの先駆をなしたのである。

 弥生子は99歳で亡くなるまで、「真知子」や「迷路」、「秀吉と利休」などの執筆活動を続けた。「海神丸」を発表した翌年の1923年7月31日からはノートに日記をつけ始め、それは亡くなる17日前の1985年3月13日まで続いた。
 62年にわたる膨大な日記は、ノート119冊に保存されている。そこには、作家・中勘助との初恋や、哲学者・田辺元とのプラトニックな恋愛感情、夫への不満なども赤裸々に描かれ、人間味溢れる作家の一面を知ることができて興味深い。
 小手川さんは、伯母・弥生子の印象を「妻としても母としても立派でしたし、物事の判断も正しく、常識ある女性でした」と語る。「人間は正しく生活しなければならない。熱心に仕事をしなければならない。主婦は家庭を大切にし、妻は主人を大切に、母は子どもを大切に、母は子どもを正しく、厳しくしつけなければならない。弥生子は亡くなる直前まで、これらの〝常識〟を主張し、実行していました」

 「大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」。日記にこう書いた弥生子は、最後まで教養ある知識人としての生き方を求め、実践した。そして、1985年3月30日の朝、ベッドに上がろうとした姿で永眠。享年99歳だった。
 実家の小手川酒造には弥生子直筆の「白寿」と揮毫したラベルの麦焼酎がある。それは、知的に、ストイックに生きた作家を彷彿させるような切れ味だった。
(文=文化部・一木朋子 写真=写真グループ・納富 猛)

▼のがみ・やえこ

 1885年、大分県臼杵市の代屋(現小手川酒造)三代目の長女として生まれる。15歳で単身上京し、同郷の野上豊一郎と結婚。夏目漱石の指導を受け、小説を書き始める。99歳で亡くなるまで現役作家として活躍し、「海神丸」「真知子」「迷路」(読売文学賞受賞作)「秀吉と利休」(女流文学賞受賞作)など多数の作品を発表。「ハイヂ」「ギリシア・ローマ神話」などの翻訳も手掛ける。1971年には文化勲章を受章した。

●私の推薦文

書き出しに戦慄を覚えた 小手川 力一郎さん(84)フンドーキン醤油 (大分県臼杵市)会長

 「12月25日午前5時、メーン・トップ・スクーナ型65トンの海神丸は、東九州の海岸に臨むK港を出帆した」という何げない書き出しは、その後の緊迫した事件を予想させないだけに、一層の戦慄(せんりつ)を覚えます。
 伯母は後に「海神丸」は小説らしいものがやっと書けた最初の仕事と言っておりました。船長の渡辺登久蔵さんはしばしばわが家にも立ち寄っていましたが、漂流後は、臼杵町の生命保険の代理店で働かれていました。そのしっかりとした体格はまさに「海神丸」の船長をほうふつとさせるようなものだったと記憶しています。
 1985年3月、伯母は百歳を直前にして亡くなりました。同じ年の9月、渡辺さんが97歳で亡くなりました。極限状態を生き抜いた男とそれを描いた女。2人を知る者として、この作品は特に感慨深いものがあります。

●メモ

 ■「海神丸」は実際にあった海難事件に基づいて書かれたものです。船長の渡辺登久蔵は野上弥生子の生家に出入りする船頭の1人で、弥生子は弟・金次郎から事件の詳細を書き送ってもらい小説を書き上げました。岩波文庫「海神丸」には「『海神丸』後日物語」として、作品発表から半世紀の後、海神丸を救助した元船員と巡り合ったいきさつが書いてあります。

 ■大分県臼杵市の生家(小手川酒造)の一部に文学記念館があります。館内では少女時代の勉強部屋を見学できるほか、能面や眼鏡などの愛用品、夏目漱石から送られた手紙など遺品約200点が展示されています。文学館への問い合わせは0972(63)4803。

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