「千年書房・九州の100冊」は、毎回多くの反響を頂きながら30回を重ねました。今回の別冊は「複数の名前を持つ作家」を特集しました。ペンネームの違いで作風から文体まで変えてしまう異能者たちの世界を楽しんでください。
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人間には変身願望がある。生まれ落ちて、親は選べず、名も選べず、もちろん自らの容貌(ようぼう)も選べず、これを宿命というのか。となれば、片岡千恵蔵の多羅尾伴内(たらお・ばんない)のごとくに、七つの顔を持つか、コスプレで楽しむか、名前を変えるかしかない。草莽(そうもう)の民は一生を親からもらった名で身過ぎ世過ぎするのだが、せめて句会などで雅号を用い、シャバの自分と別人格になることはできる。脳は何も考えていない。白いキャンバスである。名が決まると、その名に合わせて脳細胞は活動を始めるのである。本日は、筆名によってその作風を変貌(へんぼう)させた作家たちを、ご紹介申し上げたい。
昭和44年、私は三流私大の3年で、大学には行かず、朝から深夜まで、吉祥寺の雀荘(じゃんそう)に盤居(ばんきょ)していた。この年、週刊大衆に、阿佐田哲也(あさだ・てつや)なる男が「麻雀放浪記」の連載を始めた。「朝だ、徹夜だ」が筆名の由来である。友人と、彼のアパートで連日連夜、阿佐田のストーリーをバイブルとし、積み込みの稽古(けいこ)に血道をあげた。元禄積み、千鳥、バクダン、13面返し、裏ドラの入れ替え、置き賽(さい)。組みマージャンのための、透しサイン、二の二の天和(テンホウ)、技を磨き、2人で他人のフリをし新宿の雀荘に繰り出していた。
阿佐田哲也には、もう1つの名があった。色川武大(いろかわ・たけひろ)(本名)である。「離婚」で直木賞を取る。「狂人日記」もよかったが、私は阿佐田名での賭博小説こそが彼の本領と、評価してやまない。
最近、福岡県築上郡出身の大俳優・大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう)に凝っている。黒澤監督の「わが青春に悔いなし」の現代劇も良いが、やはり彼は「シェーハ タンゲ、ナハ シャゼン」に極まる。この隻腕隻眼のヒーロー「丹下左膳(たんげ・さぜん)」を創り出した男を、林不忘(はやし・ふぼう)という。本名を長谷川海太郎(はせがわ・かいたろう)、他に2つの筆名を持っている。谷譲次(たに・じょうじ)の名ではアメリカを舞台にした「じゃっぷ」の活躍物を、牧逸馬(まき・いつま)の名では女性好みの家庭小説を書いている。1人で三人三様、文体まで別人なのである。家には専属のコックまでを置き、奥さまが健康管理をされたが、35歳の若さで逝(い)った。夭折(ようせつ)が惜しい。
子供のころ、貸し本屋に行くと棚に最も多かったのは、源氏鶏太(げんじ・けいた)と山手樹一郎(やまて・きいちろう)だった。山手は本名を井口長次(いぐち・ちょうじ)といい、井口長二の筆名で時代物を書いていた。清水三十六(しみず・さとむ)後の、山本周五郎(やまもと・しゅうごろう)と昵懇(じっこん)で、清水がまだ寄稿家時代に山手樹一郎の名を貸している。清水が山本名で世に出た後、自らがこの筆名を使い、「桃太郎侍」ほかで大衆の支持を得た。ちなみに、山本周五郎の筆名は、奉公先の質屋の主人の名前である。ご恩を忘れぬために名を頂戴(ちょうだい)したと聞いている。小説のごとくに律儀(りちぎ)な人である。
最後に、ちょいと珍しい筆名をご紹介し、筆収めとしたい。まず「魔都」を書いた久生十蘭(ひさお・じゅうらん)は、ひもじい思いをしていたのか、「喰(く)ウトラン」を当て字して筆名と成し、大分県中津市がルーツの演劇作家岩田豊雄(いわた・とよお)は、文豪(五)の上を行くとばかりに、獅子文六(しし・ぶんろく)を名のった。極めつけはエドガー・アラン・ポーから名をもじった江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)。そしてつとに有名な二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)、父親から「てめなんか、くたばっちめえ」と叱責(しっせき)されたそのままを、筆名とした。
名前を別に持つと、その名にあった自分が生まれ出てくる。表の自分、裏の自分、まったく予期せぬ別の自分、日々が怠惰無聊(ぶりょう)でしたら、新規まき直しにぜひ、通り名なんぞをお作りなさって、ご気分をご一新ください。
●名前が増えると人格も増える感じ
「辛酸なめ子」こと池松江美さん
軽妙なコラムや独特な画風の漫画、イラストで最近、さまざまメディアに引っ張りだこの辛酸(しんさん)なめ子さん(31)。彼女も複数ペンネームを使い分けている。コラム、漫画、イラストの執筆時はこの風変わりなペンネームだが、アート作品や小説を発表するときは本名の「池松江美(いけまつ・えみ)」名義だ。
「辛酸なめ子では、さすがにふまじめな感じが強すぎますから。このペンネームに作品世界が引っ張られないように、芸術性の強い創作では本名を使っています」。辛酸さんはそう説明する。ん? 「辛酸さん」っていいにくいぞ。
「ですよね。高校生のときに付けたんですが、若気のいたりでした」。辛酸さん、いや、ここからはなめ子さんと表記しよう。
なめ子さんによると、「辛酸なめ子」は高校2年生のときに、有志で発行していた新聞に書くときに使ったのが始まりだった。「高校2年C組だったから、頭文字を取って『小西新聞』と名付けていました。校内のゴシップをでっち上げたり、アート系の作品を紙上で発表していました」
当時、自分自身のことを薄幸そうなイメージでとらえていて、ペンネームも後ろ向きな名前にしようと考えたという。「『辛酸をなめる』という言葉の響きも気に入って、採用してしまったんです」
まだ、このときは、同級生を対象とした狭い読者が対象。1994年にフリーペーパー主催の漫画大賞を「辛酸なめ子」として受賞後、少しずつ、このペンネームでの仕事が舞い込むようになる。「過激な内容のコラムが多かったので、親に迷惑をかけないようにペンネームを使っていたのですが、こっちの名前の方が有名になってしまって…」
だが、ご本人、あまり本気で後悔しているようには思えない。最近も、ポエトリーリーディング(詩の朗読会)で詩を発表した際には、フランス映画「アメリ」をもじって「ナメリ」の名義を使用。結局、お蔵入りになったが、若者に人気のミュージシャン、カヒミカリィさん風にフランス語で歌った音楽ビデオを出す企画が持ち上がったときには「ヒガミカリィ」の名を使用する予定だった。
「名前が増えると人格も増えるような感じがします。多重な人格の私を統括しているのが本名なのかもしれません」。そう言うときの「池松江美」さんは、辛酸なめ子の名で書く過激なコラムのイメージはなく、おしとやかな表情だった。ちなみに、彼女のお父上は福岡市出身。親類も九州に多く、池松姓のルーツは九州にある。
(東京報道部・内門博)
●宇能鴻一郎も、「嵯峨島昭」の名で 藤村興晴さん(32)=福岡市中央区
いわゆる官能小説の世界で一世を風靡(ふうび)した宇能鴻一郎も、嵯峨島昭なる別名を持つ作家です。筆名の由来は文字通り覆面作家の正体を「探しましょう」というから人を食っています。
宇能は札幌の生まれですが、福岡の名門修猷館を卒業、その後東大文学部の大学院に進み、在学中の1961年に『鯨神』で第46回芥川賞を受賞しています。『鯨神』は、後に告白体と呼ばれる独自の文体を確立した宇能からは思いも寄らぬ骨太な筆致の純文学で、肥前平戸島和田浦に現れた巨大な鯨に立ち向かう鯨組の若者の格闘と土俗的な村の恩讐(おんしゅう)を描いた名作です。
その宇能が、嵯峨島昭名義で数本の推理小説をものしていると知ったのは、この秋地元に縁のある宇能作品の朗読会を開催することになり、その経歴を調べていたときのことでした。ただ残念なことに、宇能作品は何と一作を除きすべて絶版もしくは在庫切れ。慌てて古書店に注文しましたが、いつかリバイバルの時期が来てほしいものです。

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ストーリーを追いかけるのではなく、ノートを取りながら長編小説を読む。広辞苑を傍(かたわ)らに、一節一節をいとおしむように読める「九州の百冊」は何か。考えた末に出た答えが「リツ子・その愛」「リツ子・その死」だった。言葉に魂を凝縮させる詩人で、漢学の素養豊かな檀一雄が精根を尽くした1000枚を超える長編である。
この傑作の文庫本やハードカバーは絶版となり、図書館か古本屋、あるいは全集を買わなければ読めない。売れなければ市場からたちまち姿を消すファッション化した読書世界に異議を申し立てる気持ちも隅にあった。
もう1つ、私には、この物語と作者に多生の縁があると密(ひそ)かに思い続けてきた。26歳で結核死するリツ子(高橋律子)は、福岡市立当仁小学校の先輩である。中国から生還した檀が、リツ子と長男太郎に会うため真っ先に向かった留守宅が同小学校近くの伊崎。ハゼやセイゴを釣った浜辺の町で、そこには私の幼なじみもいる。
昭和35、6年だっただろうか、着流しの檀一雄と『火宅の人』の入江杏子さんがアラをぶら下げて現れた。借家住まいだったわが家。刃こぼれする文化包丁と小さなまな板に閉口し、狭い台所で大魚と格闘した檀の姿が、私の目にも焼きついている。母が入江さんと知り合いだった。
そんなたあいのない一方通行の思いを手がかりに読み始めると、それまで抱いていた作者への親近感、分かっていると思っていた登場人物や風景に対する自分の不遜(ふそん)が吹き飛んだ。私小説的でありながらこれっぽっちもベタつかず、血が出るほどに自己に切り込む言葉の連鎖である。
例えば、中国戦線に向かう決意をする場面。子は発熱、妻は下痢に苦しみ、数カ月遅らせることを望むのに〈私は憐憫(れんびん)の情が1番苦手なのである。こいつから抜け出したいと、行手の茫洋(ぼうよう)たる旅を飢渇(きかつ)する〉と切り捨てる。
ところが、帰国後、リツ子の結核を知ると〈私は蒲団(ふとん)の上からはげしくリツ子を抱いて眼の涙を啜(すす)り上げた。それから唇を重ねてゆく。熱っぽい口の中に、甘く、舌が波打っている。「いいか、リツ子。俺は支那からね。命の火を持って帰ったぞ。それをやる。おまえにもやる。太郎にもやる」〉である。
無頼派らしい物言いかも知れぬ。ただ、それだけではない。透き通った観察眼と、それを小説にするための湧(わ)き出るような想像力が伝わってくる。
リツ子に栄養ある食べものを調達しようと回った農家で、青い茎と葉ばかりのタマネギしか分けてもらえず、歌を詠む。〈あざらけき玉葱(たまねぎ)の茎 青く切り 辛くも堪(た)ゆる いのちにて あらし〉。鮮やかなタマネギの茎の色と命の灯が消えかかった妻の対照。その茎を細かく刻んで煮込んだ粥(かゆ)を食べさせるリアリティーは、どうだ。
まだまだ書ききれないほどある。キリシタンの青年から戦死した兄の嫁と父の不義を告白されると〈いいじゃないの、お父さんも姉さんも。僕はそのまま憎みながらも許せると思うな。僕らの弱さをね、罪悪とは、思わない。……僕は愛という言葉は嫌いだよ。まぎらわしいからね〉と諭す。結果、青年はその兄嫁と結ばれる。
いやはや、まぎらわしいから嫌いと言いながら、多種多様な「愛」をまき散らし、読者の精神世界をざわつかせるのが檀文学なのだ。
東京、長崎、福岡在住の三氏を訪ねた。東京は、檀の盟友で86歳の詩人真鍋呉夫氏。長崎は、檀が亡くなったとき、まだ高校生だった若き研究者、長野秀樹・長崎純心大学教授。福岡は、檀の最晩年に親交を深め「能古島通信」を発行した詩人、織坂幸治氏である。
奇(く)しくも三氏に一致した檀一雄評がある。それは、檀はどんな状況にあっても「生」の側にいた、ことだ。
真鍋氏は「自死の太宰治、自生の檀一雄」と語り、檀を「生命の放火魔」と呼ぶ。長野氏は「自分を孤独の世界に落とし込んでから『生』のベクトルを発する。生きることを励ます文学」と言う。織坂氏からは、今年の没後30年記念企画「にんげん檀一雄展」に現れた80歳の女性がつい最近、全集を購入した話を聞いた。檀文学の生命力や恐るべしである。
福岡県内の「リツ子」ゆかりの地8カ所を回った。その1つ、瀬高の山寺・善光寺。リツ子を失った直後、この寺の庫裏(くり)の屋根裏に太郎と暮らした。イワシの丸干しを週6匹ずつ買い、最初の日に2匹、次の日からは1匹ずつ食べる生活のなかで「リツ子」の構想は練られた。
当時高等女学校2年生だった寺の娘さん原口博江さんから一枚のコピーをいただいた。檀太郎さんが4年前、本紙に寄せたエッセー。「美食に溺(おぼ)れる日本を脱し」と題し、善光寺のイワシに触れている。
「小魚の内臓の美味(おい)しさを知ったのもこの時ではないだろうか……昨今マスコミの影響でもあろうが、食べものがファッション化してしまったのと同時に、食べることを娯楽の手段として用いるようになったことは残念としか言い様(よう)がない」
「食べもの」を小説にそっくり置き換えても通じそうな世の中。柳川・福厳寺にリツ子とともに眠る檀は「どげんなっとうとかいな」とでもつぶやくだろうか。
(文=川崎隆生、写真=写真グループ・伊東昌一郎)
▼だん・かずお
檀一雄は本縣(けん)柳川沖端の出身なり。東京帝國大学在学中、「此家の性格」を發表、天才は早く文壇を風靡(ふうび)せり。昭和12年應召(おうしょう)。15年解除の後は、大陸を流浪し、時に軍に從って奥地に入る。戦後上京して、名作「リツ子・その愛」「リツ子・その死」に始まる文業を奔放に展開し、更に文藝の新風を拓く。世界の各地に遊び、檀流クッキングを創始せり。昭和51年1月2日病歿(びょうぼつ)、行年65歳。その前年、「火宅の人」を完成し、「檀一雄詩集」を上梓す。墓は柳川福嚴寺にあり。故人生前、當地(とうち)の風光と人情の美を愛し、終(つい)の棲家(すみか)とす。亡き後の魂はこの地に歸(かえ)るべしと云へり。茲(ここ)にその絶筆を石に彫り込め、故人追慕の思ひを留む。昭和52年5月22日 友人一同。 (保田與重郎による「檀一雄君能古島文学碑銘」全文)
●私の推薦文
方言と料理、檀文学の核心 織坂 幸治さん(76)=詩人、文芸同人誌「海」主宰 (福岡市中央区在住)
檀さんは方言の名人である。博多では博多弁、久留米では筑後弁、柳川では柳川弁といった工合(ぐあい)で、その都度の使いこなしの妙は地元の誰しもがついつい引き込まれてしまう巧みさである。特に「リツ子・その愛」「リツ子・その死」に於(お)いては、あの独特な方言が作品全体の中心となっており、迫真の世界を構築している。
一方で、檀さんは料理の名人である。雑多な賑(にぎ)わいの市場から仕入れた材料がその都度の使いこなしで美味絶妙な料理となり、味わいとなる。「リツ子」でも、飯を炊いてバターとネギをふりかけ、磯でとったばかりのウニを箸の先からリツ子の舌の上に落とし込む。石蕗(つわ)とカナギの煮付けもいい。「檀流クッキング」は単なるノウハウ集ではなく、檀さんの文学論であり、小説作法でもあるのだ。そして、方言と料理こそが、檀文学の核心をなし、「虚実の皮膜」(近松門左衛門)に於けるリアリズムの極意だと、私は今更のように感じるのである。

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「3つ子の魂百まで」という。福沢諭吉の歩んだ道をたどると、彼ほど父母の影響を強く受けた人も少ないのではないかと思われる。
諭吉は1835年、大分・中津藩下級武士の末っ子として生まれ、幼くして父を失い、母の手一つで育てられた。教養人でありながら下級武士という身分のため不遇な生涯を送った父の無念を思い、諭吉は理不尽な身分制度に異議を唱え続ける。一方、母は貧しい生活の中にあっても近所の子供たちの服を繕い、シラミを取ってやるような博愛精神の持ち主であった。母を助けながら逆境を生き抜くたくましさを身に着けた諭吉は、自由平等の理想主義者であり、同時に状況を見極めてしたたかに生きていく現実主義者として、この国の歴史に名を刻んだのである。
中津藩から派遣された諭吉が、長崎で蘭学を学んだのは54年。翌年、大阪の緒方洪庵塾に移り、58年には藩命により江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開設した。だが、蘭学の無力を知ると59年にはさっさと英学に転向。60年には艦長の従僕として咸臨丸に乗り込み渡米するという要領の良さである。その後、幕府の遣欧使節団の一員として欧州7カ国を訪問し、その見聞をまとめた「西洋事情」で、思想家としての評価を高めた。
明治新政府が廃藩置県を実施し、300年続いた幕藩体制という巨大な"重し"が外れると、士族は各地で反乱を起こし、大衆は新時代の到来を歓迎した。有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」の人間平等宣言で始まる「学問のすゝめ」は、4年間、17編にわたって書き継がれ、合計340万部も売れた。今日のように書籍が大衆化していないころのこの数字は驚異的である。人々がいかに諭吉の思想を喜んだかが分かろうというものだ。「門閥制度は親の敵(かたき)」とした諭吉の思想の根っこに、父の不遇への思いが色濃く反映しているのは明白である。財をなした諭吉は、中津藩時代の蘭学塾を拡張発展させて、慶応義塾を創設する。後には、雑誌や新聞も創刊し啓蒙(けいもう)思想家としての地位を確立したのである。
偉人としてあがめられる諭吉だが、一方では「ただの男」でもあった。何よりも酒を愛した。大阪時代には「町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客」という店に入り浸った。30代を「朝でも昼でも晩でも時を嫌わず、よくも飲みました」と振り返り、晩年も「今の大酒家と言っても私より以上の者はまず少ない」と言う。
子煩悩でもあった。四男五女の父親として、それぞれ誕生時や幼少時の様子を書き残している。長男、二男が米国に留学した6年間には「半死半生の色の青い大学者になって帰って来るより、筋骨逞(たくま)しき無学文盲なものになって帰って来い」などとしたためた三百数十通の手紙を送っている。
諭吉は民主主義者、自由主義者、合理主義者と評価される半面、西洋崇拝、政府への妥協や権道主義への転向などと批判もされる。
つまり、諭吉の「脱亜入欧」思想が太平洋戦争後はアジア侵略の象徴とされたからである。だが、「文明論之概略」の中で諭吉は、欧米人を「狡猾剽悍(こうかつひょうかん)」(ずる賢く、荒々しい)と表現している。「これが制御の下にて束縛を蒙ることあらば(中略)我日本の人民は、これに窒塞するに至る」と警戒心をむき出しにしている。もろ手を挙げて西洋文明を礼賛していたのではないのだ。当時、欧米列強はアジアへと進出を続けていた。日本が独立を保ち、植民地化を避けるためには西洋流の近代化が不可欠である、と。「脱亜入欧」は、諭吉の現実主義者としての判断によるものだった。
諭吉が最も伝えたいことは何だったのだろうか。明治維新直後の1870年、母親を東京へ呼び寄せるために中津を訪れた際に書いた「中津留別(りゅうべつ)之書」に答えがあろう。新政府への不満分子が各地で要人暗殺事件を繰り返していた。諭吉の周辺でも不穏な空気が漂う中で書かれたものだ。
「自由といへば我儘のよふに聞れども、決して然らず。自由とは、他人の妨を為さずして我心のまゝに事を行ふの義なり」
福沢旧邸保存会(中津市)の青木憲行事務局長(59)が解説する。「命の危険が迫っている、古里を訪れるのも最後かもしれない-。そんな状況下だからこそ、思いの神髄が書き記されたのではないか」。自由とは何か。日本はどこを目指すのか。さらに、福岡大学人文学部の大嶋仁教授はこう言う。
「自主性の強さ、行動力、旺盛なチャレンジ精神は、今でも日本人の枠には収まりきれない」
「中津留別之書」の執筆から100年を経て、私たちが学び取るべきことは、まだまだ多い。
自伝文学の傑作とされる「福翁自伝」は、諭吉の口述を速記し、諭吉自身が推敲、加筆した作品である。1898年から67回にわたり、諭吉が創刊した新聞「時事新報」に連載され、翌年単行本として刊行された。現代人にも読みやすく、単なる「自慢話」に留まらない。明治近代史を読み解く大きな手掛かりである。
(文=文化部・塩津健司 写真=中津支局・中原興平)
▼ふくざわ・ゆきち
1835年1月10日、大阪の中津藩蔵屋敷で生まれる。54年に長崎へ遊学、55年からは緒方洪庵が大阪に開いていた「適塾」で学んだ。58年、藩命で江戸へ移った後、60年に咸臨丸に乗り組み米国を訪れたほか、62年に欧州7カ国を歴訪、67年には再び訪米し見分を広めた。欧米の社会事情を初めて日本に紹介した「西洋事情」(66年)をはじめ、「学問のすゝめ」(72年)「文明論之概略」(75年)「福翁自伝」(99年)などを次々と記し、日本の歴史の転換期に大きな足跡を残した。68年に慶応義塾(現慶応大)を創設、東京学士会院(現日本学士院)初代会長も務めた。1901年2月、66歳で死去。
●私の推薦文
出世の手法におもしろさ 福田 一直さん(81)=福沢諭吉協会会員(大分県中津市)
同僚に負けてたまるかという人や、子供を立派に育てたいと思う親御さんに、一読を強くお薦めする。中津の少年時代、長崎遊学、緒方塾、欧米渡航の章が特におもしろい。逆転の発想、学問との格闘、好機や他人の協力をどうつかむか、出世の手法をリアルに語る。
もう1つ興味を引くのは、自伝文学として最高傑作であるばかりでなく、明治維新前後の激動を体験を通じて書いていることだ。正史に匹敵する文献としても信頼度は高い。
福沢は啓蒙(けいもう)的学者の立場から文章を易しくする手本を示しており、この自伝は中学生でもすんなり読める。喜怒哀楽、風刺、皮肉など、彼と対座して聞くような息遣いを感じる。鮃頼Oや漱石に感じられる古さもない。
諭吉は自伝の末尾に、やり遂げたい願いは日本を文明国にして民心を和らげ、学理研究を盛んにすることだと述べた。憂国の情がひしひしと伝わる。
●メモ
■出身地である大分県中津市には、諭吉が幼少、青年期を過ごした「福沢諭吉旧居」が残されています。諭吉にまつわる文物を納めた「福沢資料館」も併設され、1984年と2004年に発行された新1万円札の一号券などを見ることができます。
■市民による諭吉作品の読書会も盛んで、命日には諭吉の好きだった琴の演奏会が開かれるなど、諭吉の存在は、市民の間に根付いています。
■諭吉は、他にも大きな財産を地元に残しました。1894年に中津を訪れたとき、「青の洞門」で知られる名勝・競秀峰(きょうしゅうほう)付近の土地が売りに出されていることを聞きます。「心無い者の手に渡ると、景観を損ねてしまう」と、一帯の土地を買い取りました。民間資金で自然景観を守る「ナショナルトラスト」運動の走りです。

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日差しが痛い。真夏の太陽は、足元にくっきりと映し出された影を射抜き、地中に眠る人々に光を当てているようにさえ思える。7月下旬、長崎市の長崎大文教キャンパス。暑さのためか、学生たちの姿は広大な敷地に散在する木々よりも少ない。かつて同年代の青年たち、もっと若い少女たちが日々、汗と油にまみれながら刹那(せつな)的な青春を送り、そして一瞬にして消え去ったことを思い起こさせるものはない。
キャンパスの北側に隣接する一角に「三菱」をかたどった石碑がひっそりと立つ。「原爆殉難者芳名碑」。兵器工場の建物の中で、あるいは出陣学徒を送り出す儀式の最中だった広場で、3000-4000度の熱線を浴び、秒速300メートルの爆風で吹き飛ばされた人々の名が刻まれている。
被爆60年の昨年、林京子さんは同級生と初めて碑を訪ねた。「ごめんねぇ。ここにおったとね。寂しかったでしょう。今までごめんねぇ」。級友の名をなぞって泣いた。そして今年もこの碑の前に立った。「ごめんねぇ」。生き残った者が亡き者に掛ける言葉はほかに見当たらなかった。
1945年8月9日。「被爆者林京子」の戦いはこの日から始まった。
「祭りの場」は、14歳の「私」が、学徒動員先の兵器工場で被爆し、その後の体験をほぼ事実に即してつづっている。特に鮮烈なのが被爆の描写だ。
「幼女はオカッパ頭が半分そぎとられて、頬(ほお)にはりついていた。…老婆(ろうば)の体は肉がぼろぼろにはがれて、モップ状になっていた」「少女たちもモップ状になって立っていた。肉の脂がしたたって、はちゅう類のように光った」
その直前まで、オカッパ頭の幼女は原っぱで草摘み遊びをした後、祖母のひざの上に抱かれていた。女子挺身(ていしん)隊の高等小学校の少女たちは声を上げながら楽しそうに原っぱで土掘りをしていた。小説はきのこ雲の下で起きた生と死の境を克明に記録する。
長崎原爆被爆者の証言を集めている同じ被爆者で元高校教諭の広瀬方人(まさひと)さん(76)は「被爆者の多くは被爆の実相をうまく表現できない。あるいはあまりに強烈で話せない。だからこそ虚も織り込み済みの小説という文学作品が必要だ」と言う。
工場内の広場で、出陣学徒を送る同級生たちの奇妙な踊りの輪。林さんはこの場を「祭りの場」と表現した。原爆で「送る者送られる者、みんな死んだ」が、表題にした理由は無論、この場だけをとらえているわけではない。
全体的に重苦しさが漂う文中に、唯一ほっとできる場面がある。「私」のいとこと同年で顔見知りの医科大生、稲富との淡い恋を描いた部分だ。
被爆後、避難先を訪ねてきた稲富と山の斜面で2人きりになる。夜空の下、「戦争が終わったら2人でブラジルに行こう」「歩けないかもよ」「おぶってあげるよ」と、会話は続き「私」は稲富の腕の中で眠る。
翌朝、稲富が「鉄カブト」に水をくんでくる。汗止めの革に稲富の体臭がする。「私」は水と一緒に稲富のにおいを飲んだ。被爆後初めて「生きている」と感動した。
林さんが解説する。「男女関係が抑圧されていた時代。それでも、休み時間になったら、大学生らが女学生に数学や源氏物語を教えた。隠れて海までボートこぎに行った男女もいた。原爆の瞬間まで、どこそこにあった清らかな青春の祭りの場を織り込みたかった」と。稲富も二次放射線障害による原爆症で9月下旬に死ぬことになる。
「祭りの場」は、被爆から30年後に発表された。文筆活動を生業とするなど想像もしていなかった林さんを後押ししたのは、被爆二世の長男(53)が大学生のころに発したひと言だったという。
「刑期のない死刑囚って嫌だよね」。ある被爆者から、戦後生まれの息子2人が相次いで急性白血病で突然死したという話を一緒に聞いた帰り道だった。
因果関係は定かではない。ただ、親の被爆で子が苦しんでいる。もし責められたら何と答え、やり場のない怒りをどこにぶつければいいのだろうか。あの日だけの破壊ではなく、被爆者に負の遺産を背負わせ続ける原爆。生き残った友人たちが原爆症で次々と他界する中、「自分が死んだときのカルテ」として書き残すべきではないか。
「祭りの場」にもその思いを込めた場面がある。1970年、少年雑誌に掲載された漫画に、全身ケロイド状の怪物が「ひばくせい人」として描かれていた。ある少女が、被爆者がかわいそうだと指摘し、原爆文献を読む会の会員も反発したと新聞記事に書かれていた。しかし「私」は「これはこれでいい」と言う。「忘却」よりは、誰かが何かを感じてくれることが大事だと思ったからだ。
林さんは被爆者1人ひとりを「証拠物件だ」と言う。その宿命を自らに課し、気質として「地味な」原爆作品を書きつづる。体が動く限り全国の中学校、高校を回って、あの日の体験を語ってもいる。
被爆61年。長崎大キャンパスのように原爆の面影、記憶は確実に薄れつつある。「私たちも犬死にはしたくない。痛みを共有してほしいのではない。過去の不幸な体験を次の時代にどう生かすのか。少しでいい、考えてほしいだけ」。林さんは訴え続ける。
(文=長崎総局・前田 英男 写真=写真グループ・伊東昌一郎)
▼はやし・きょうこ
1930(昭和5)年8月、長崎市生まれ。商社勤務の父の転勤で、生後8カ月で中国・上海に移住、14歳まで過ごす。45年、戦局悪化により父を除く一家で帰国。長崎市の長崎県立高等女学校に編入学し、同年8月、動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆。51年に上京し結婚、2年後に男児を出産する。原爆症の遺伝への不安と、亡くなった恩師や友人の追悼、わが子に対する親の責任などから、30歳代前半を境に被爆体験を記すようになる。75年に「祭りの場」で群像新人賞と芥川賞を受賞。主な作品は「上海」(83年)▽「三界の家」(84年)▽「やすらかに今はねむり給え」(90年)▽「長い時間をかけた人間の経験」(2000年)など。神奈川県逗子市在住。
●私の推薦文
読者1人1人が主人公に 広瀬方人さん(76)=元高校教諭(長崎市若草町)
先日、長崎市に帰省していた林京子さんの案内で小説の舞台になっている旧三菱兵器製作所大橋工場を案内してもらいました。現在の長崎大文教キャンパスです。出陣学徒を戦場に送る「祭りの場」だった広場跡で、林さんが話した言葉が印象的でした。
「輪の真ん中に立つ学生は、1度召集されると生きて帰って来られるか分かりません。送る仲間もその命を惜しんで踊る。私が書きたかったことは『命』そのものなのです。被爆の実相を通して、私たち1人1人に与えられている尊い命を伝えたかったのです」
小説の主人公は、当時の林さんと等身大の少女ですが、名前のない「私」です。読者1人1人が主人公になりうる作品だと思います。私たち被爆者は年々高齢化し、確実に減り続けています。被爆体験のない世代が、この小説に触れ、悲惨な歴史を繰り返すまいと「心の被爆者」になることを願っています。
●メモ
■「長崎の証言の会」は、修学旅行生を対象にした長崎原爆の被爆遺構巡りに今年から「祭りの場」の主舞台となった長崎市の旧三菱長崎兵器製作所大橋工場跡などのコースを新設しました。
■昨年、林京子さんの初めての全集(全8巻)が日本図書センターから刊行されました。小説約百編や評論・エッセー約250編、文壇デビュー前の同人誌「文藝首都」に発表した作品などを収録。各巻定価6090円。日本図書センター=03(3947)9387。
■芥川賞受賞後の第1作である「二人の墓標」と、同人誌に「小野京」のペンネームで発表した「曇り日の行進」を合わせた『祭りの場』=写真は初版本=として1975年に出版。その後、「8月9日」をテーマにした12の短編が『ギヤマン ビードロ』(78年)にまとめられています。『祭りの場 ギヤマン ビードロ』(講談社文芸文庫刊)として刊行されています。

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