西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年09月24日

柳田国男「後狩詞記」

 「ここの山の神はですなあ、ふだんは恵みを与える優しい女の神さまですが、怒ると荒ぶる神さまでなあ」
 急峻(きゅうしゅん)な山に囲まれた宮崎県椎葉村。ここで農業を営んできた中瀬重利さん(77)は谷あいを見渡し、ごく当たり前に言う。路線バスで日向市から2時間半。台風被害のつめ跡残る耳川を横目に、離合も難しい道を上がってきた身には、自然に受け止められた。
 いまから100年ほど前、柳田国男はこの村を訪れ、焼畑や狩りの伝承と習俗を見聞きし「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を編んだ。
 今も焼畑や狩猟の伝統を守る村人は「山の神」を祭る。旧暦の1月と5月と9月の16日、大木の根元などに御幣(ごへい)を立て、塩やお神酒などを供える。

 50年以上、夫婦で焼畑を続ける椎葉秀行さん(84)、クニ子さん(83)は、今年も8月に焼畑の「火入れ」をした。山の雑木を倒し、下草に火を放ち、その灰を肥料に雑穀を栽培する。1年目はソバ、2年目はヒエ、アワ、3年目はアズキ、4年目は大豆を育てる。ソバは「75日で夕飯に間に合う」と重宝した。とはいえ水稲農業や畑作が主流となったいま、焼畑を伝える農家は村に2軒しかない。息子さんの手を借り、拓(ひら)いた焼畑は0・5ヘクタールほど。ソバの白い花が一面に咲いていた。火入れではこう唱える。
 「ただいまより、このヤボ(藪(やぶ))に火を入れ申す。へび、わくどう(カエル)、虫けらども、そうそうに立ち退きたまえ。火の余らぬよう、焼け残りのないよう、お守りやってたもーれ」
 8歳から父についてイノシシ猟を覚えた尾前善則さん(77)は「山の神さまの場所に入らせてもらうのが猟。だから今も唱え言をあげて猟場に行く」。
 猟期は11月から2月まで。家の梁(はり)には仕留めたイノシシのカマゲタ(あごの骨)がずらりと掛けられていた。 イノシシは腹を割き、山の神に心臓を切ってささげ、猟犬に血や内臓を分け与える。一番おいしいとされる下あご部分の肉は妻に食べさせる。「だから女房をヤマノカミと言うんじゃなかろうか」と尾前さんは笑う。
 少ない年は5、6頭しか捕れない。「『のさらん福は願いもうさん』と言い、山の神が与える獲物で満足する。自然との共存を知るのが猟師だ」
 村では、山の神への感謝を忘れ「ヤマオナゴ」に憑(つ)かれて死んだ猟師や、山の神が「ヒョースボー」というかっぱの姿で往来する話も聞いた。椎葉の「山の神」は得体(えたい)のしれぬ霊魂のようで、それでいて実に人間的な存在だ。

 1908年5月から8月まで、柳田は九州、四国を旅行し、その途中7月13日から18日まで椎葉村を訪れた。当時、農商務省を経て法制局参事官となった柳田は、各地を視察し農業政策や産業組合について講演している。
 福岡から熊本、鹿児島、宮崎をまわった柳田は、日向の那須一族の話や、五木で見た絵図、宮崎県知事に聞いた「椎葉の奇習である焼畑」に興味を抱き、椎葉入りを決めた。当時の中瀬淳村長が案内し、村の有力者などから話を聞き、伝書や庄屋文書を見ている。
 山地を共有して耕作を行い、富を均分する椎葉の村人は、柳田には「ユートピアの実現」に見えた。食糧や換金作物は焼畑の産物から得られている。なのに、中央官僚と「平地人」は米作一辺倒の農業政策を勧め、椎葉の人々は、平地が乏しいなか多大な労資を費やして水田を開いた。米の収量はわずかしかないのに…。山間部の自律的な営みを無視した近代農政に柳田は疑問を感じていたようだ。「米を食はぬならそれでもよし」と「後狩詞記」にはある。
 柳田の関心は、鉄砲の移入で変容した狩猟のなかにあって、なお山の民が伝えている信仰や作法、口伝に移っていた。柳田は帰京後、狩りや焼畑にまつわる言葉や作法、伝書を書き送るよう中瀬村長に懇願した。実直な村長は1カ月足らずで返信した。椎葉訪問の翌年、それを柳田の序文とともに収めた「後狩詞記」は刊行された。

 柳田に師事し、助手も務めた成城大学名誉教授の鎌田久子さん(81)は、「後狩詞記」を「民俗学の出発点」と位置付ける。「文学的なものに触発されながらも、信仰だけではなく、人間が生きる基盤もしっかり見つめようという柳田先生の姿勢がここにあります」
 柳田は常々、「椎葉をぜひ訪ねるよう」鎌田さんに勧めた。日向から椎葉への道中に馬に乗り、お尻の皮がむけるほど痛かったなどと思い出を語ったという。柳田は椎葉から帰った翌年、東北地方を旅した。それが「後狩詞記」に続く「遠野物語」に結実した。
 「文書ではわからない人の表情や言葉に光を当て、それを学問にしようと先生は決意した」と鎌田さんは語る。
 「古今は直立する1の棒では無くて。山地に向けて之(これ)を横に寝かしたやうなのが我国のさまである」と、柳田は書いた。一つの価値観で縦割りするのではなく、面々と受け継がれた人々の心根に、私たちは寄り添っているだろうか。想像力を失い、むげに切り捨ててはいまいか。あらゆるものが閉塞(へいそく)に向かう今日の社会状況に照らしたとき、柳田の言葉はますます重い。
 椎葉村の中瀬村長の旧宅には今も位牌(いはい)と遺影が残っていた。村を眼下に望む庭には「民俗学発祥の地」と彫られた石碑が、静かに佇んでいる。
 (文=文化部・宇田 懐 写真=写真グループ・伊東昌一郎)

▼やなぎた・くにお

 1875年、現在の兵庫県福崎町生まれ。15歳で上京後、森鴎外と出会い自然主義の文学青年と交流した。幼少期にみた飢饉(ききん)や間引き慣習の悲惨さに社会構造への疑問を抱き、東京帝国大学では農政学を学ぶ。卒業後、官僚の職に就き「後狩詞記」「遠野物語」を著す。雑誌「郷土研究」では政治や事件中心の歴史学と違い、庶民の歴史文化を明らかにする民俗学の領域と主張を掲げた。1919年に官界を辞し、東京・成城の自宅で講義を始める。雑誌「民間伝承」の創刊や「雪国の春」「海上の道」など著書は百数十冊に及ぶ。62年死去。

●私の推薦文

近代山村の姿を忠実に 永松 敦さん(47)=宮崎公立大学助教授(前椎葉民俗芸能博物館副館長) (宮崎市)

 1908(明治41)年、法制局参事官であった柳田國男は椎葉の地を訪ねた。国の役人として、そして民俗学者としての二重の立場から見た柳田の椎葉観は、富の均等分配を是とする平等な山村社会であり、今も山の神を信仰する山人の生活の場であった。
 椎葉訪問の翌年、「後狩詞記」が誕生する。日本民俗学にとって草分けとなる学術書であった。しかし、この書の誕生の陰には、当時の椎葉村長、中瀬淳氏の並々ならぬ努力があった。中瀬は柳田からの依頼により、伝承資料や古文書、さらには行政資料までも丹念に書写して送った。柳田はこれら膨大な資料を「諸国叢書」と題してつづり、その一部を「後狩詞記」のなかに納めた。柳田自身の筆による序文には、山村文化を初めて体感した興奮と感動がほとばしっている。本書は近代山村の姿を忠実に書き留めており、柳田が感嘆した山人の姿を垣間見ることができる。

●メモ

 ■「後狩詞記」の初版は1909年。非売品で50部が自費出版されました。椎葉などをめぐる九州旅行の旅費の残金を充てたといいます。版型は縱212ミリ、横135ミリ。表紙、背、裏表紙はあずき色の厚紙。扉に「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」とあります。

 ■再販は51年の柳田の喜寿の祝いでした。題字は折口信夫が記しています。これに先立つ35年の柳田の還暦のとき「遠野物語」が再版されています。この年の柳田の手帳には赤インクで「後狩詞記再版」とあり、再版に意欲を持っていたことが分かります。「後狩詞記」は「定本柳田国男集 第27巻」(筑摩書房、64年)と「柳田国男全集 第1巻」(同、99年)に所収されています。

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2006年09月17日

岩下俊作「富島松五郎傳」

 夕暮れどきを歩いた。北九州市小倉北区のJR小倉駅から、繁華街を貫く平和通りを南へ約700メートル。通りに沿って走る北九州モノレールの旦過駅近く、左手にある商工貿易会館の裏に回った。ビルの谷間を、ひんやりとした風がすり抜ける。ここだ。
 「富島松五郎傳」の主人公、車夫の松五郎が暮らしていた古船場町の一角。地元有志が建立した「無法松之碑」がある。辺りの様子は、原作にこう記されている。
 〈古船場3丁目-独身者の松五郎が住んでゐた町で、この町は小倉の無頼の徒の巣であつた。俥(しゃ)夫、羅宇(らお)の仕替、香具師(やし)、土方等の自由労働者達が大勢住んでゐた〉
 時代は、明治末期から大正である。

 松五郎は、荒くれ者でけんかっ早い。賭博現行犯で小倉を追放されたこともある。若いころ、剣術の先生とけんかをして、みけんが裂ける大けがを負う。以来、あだ名は「無法松」。そんな武骨な男が、軍人の夫を亡くした美しい女性とその息子に生涯、純愛を貫く物語だ。当時の社会には階級意識が横たわる。松五郎は恋慕の情を心の奥底に押し込めたまま、2人に貯金を残し、48歳で孤独に亡くなる。
 岩下が小説「富島松五郎傳」の執筆を始めたのは、1938年。盟友の火野葦平が同年、小説「糞尿譚」で芥川賞を受賞したことに刺激を受けた。作品は39年、雑誌「改造」の懸賞小説で選外佳作に。これを同人誌「九州文学」に掲載し、直木賞候補に2度挙がった。
 42年、文学座が舞台化した。43年には、映画「無法松の一生」の名で公開され人気を博した。脚本は伊丹万作、監督は稲垣浩、主演は阪東妻三郎、園井恵子。戦時中の検閲で一部、映像が削除された。女性への松五郎の思慕がにじむ場面だ。
 戦後、稲垣監督は同じ映画を撮り直し、58年に上映された。主演は三船敏郎と高峰秀子。第19回ベニス国際映画祭でグランプリを受賞し、世界に「無法松」の名をとどろかせた。
 「松五郎」を追い越し、「無法松」はますます独り歩きした。映画化は計4回。「モデルは誰なのか」。人々の「無法松捜し」が熱を帯びる。岩下の三男、八田昂(たかし)さん(66)=同市小倉南区=は「松五郎は虚構の人物」と強調するが、福岡県篠栗町の山王寺に「松五郎愛用の人力車」が奉納されていることなどからも、当時の熱狂ぶりが分かる。
 現実と非現実の混乱、錯覚。ただ、岩下には原風景があった。父親の初次郎は、人力車が発着や休憩をする「立て場」を営んでいた。松五郎が、運動会の飛び入り500メートル競走で一等賞を取る舞台となった小倉工業学校(現・小倉工高)は、岩下の出身校だ。
 47年、雑誌「若草」に載った岩下の随筆「『無法松』が生れた頃(ころ)」が、作家の心情をよく表している。
 〈あれは私の少年時代に接した多勢の無法松的な人物や事件を寄せ集めたので特定の無法松は小倉にはゐなかつた。たゞ私は浮世の波風に叩(たた)かれた敗残者達の中にある眞珠のやうな愛情を書きたかつた〉

 「一見すると豪快で気性が荒い。しかし内面はナイーブで、孤独感を併せ持つ。それが松五郎です」
 活動写真弁士の麻生八咫(やた)さん(54)=大分県豊後大野市出身、埼玉県在住=が語る。麻生さんは10月31日、原作を忠実に朗読するパフォーマンスを本年度の文化庁芸術祭参加作品として東京で公演する。その後は、ライフワークとして全国で上演していくつもりだ。
 仕掛けたのは、映画愛好家団体「北九州シネマサロン」代表の松永武さん(71)=北九州市門司区。
 「白紙の状態で、静かに原作を見つめ直そう」。約2年前、知人の麻生さんに朗読を持ち掛けた。
 麻生さんは、中学時代に読んだ原作をあらためて手に取った。高校卒業後、小倉の予備校に通っていたときの記憶が皮膚にまでよみがえった。18歳の多感な時期を過ごした街の熱気が、文章に織り込まれている。松五郎が太鼓を打ち鳴らす7月の小倉祇園の祭りもそうだ。

 〈梅雨上りの湿気が立ちこめて、町中は風呂場の様に蒸れてゐた〉

 そして何より、懸命に生きる松五郎に惹(ひ)かれた。早くに生母を亡くし、母性愛に恵まれなかった悲しさ。女性とその息子への熱い思い。余りある愛情を自分の中で押し殺し、一途に自身の人生をささげるけなげさ、見事さ。
 麻生さんが原作朗読をライフワークと決めたのは、松五郎の「節操」を伝えたいから、と言う。
 〈柳行李(ごうり)が、彼の残したたつた1つの遺産だつた。(中略)吉岡良子の名義のものが200円ばかりと、吉岡敏雄の名義のものが300円近くもあつた。一同は顔を見合せた。吉岡夫人は人目もあらず貯金帳を顔に当てて慟哭(どうこく)した〉
 戦後、日本人が当たり前のように捨て去ったもの。100年前に“生きた”1人の男が、現代の私たちに教えてくれる。
 (文=北九州支社・野中貴子 写真=写真グループ・岡部拓也)

▼いわした・しゅんさく

 1906年11月16日、現在の北九州市小倉北区に生まれる。本名は八田秀吉。地元の天神島尋常小学校の同級に作家の劉寒吉、2年後輩に松本清張がいた。小倉工業学校機械科卒業後は、八幡製鉄所に勤務しながら創作活動を続けた。32年、劉らとともに詩誌「とらんしつと」を創刊。38年、北部九州の同人誌が大同団結した第2期「九州文学」に参加した。小説「辰次と由松」「諦めとは言へど」「西域記」も直木賞候補になった。61年、55歳で八幡製鉄所を定年退職。その後は、北九州市立郷土資料館初代館長などを務めた。80年1月30日、73歳で死去。 (写真は遺族提供)

●私の推薦文

言いたかったのは「質実剛健」 篭原 裕明さん(57)=田川科学技術高校長(北九州市小倉北区)

 岩下俊作さんと同じ小倉工業高校を卒業しました。
 「無法松」といえば、小倉祇園太鼓をたたいたり、お酒を飲んだりする場面を思い浮かべて荒くれ者の印象を持つ人が多いかも知れません。しかし、岩下先輩が原作で書いた「富島松五郎」は、かなわない恋心を抱きながら、自分の力量で大切な人を精いっぱい支えていく男です。素朴で純粋、たくましく、しんが強く、曲がったことが嫌い。作品で言いたかったのは、「質実剛健」だと思います。
 岩下先輩が八幡製鉄所に勤めながら文学でこつこつ表現に取り組まれたのは「勤労努力」を表し、職場でも技術面で成果を上げられたのは「真理探究」のたまものです。いずれも、青春時代を過ごした同校の校訓が表れています。
 人力車引き、という庶民生活を通して描かれた松五郎の生きざま。そこを読んでほしいと思います。

●メモ

 ■「富島松五郎傳」の単行本は絶版ですが、図書館で借りて読むことができます。また、北九州市の外郭団体「北九州都市協会」が、「岩下俊作選集」全5巻を発行しています。A5判、各巻約300ページで2500円。同協会=093(592)9500。

 ■北九州市八幡東区の高炉台公園に「岩下俊作文学碑」があります。岩下が勤務先の八幡製鉄所で結成した「創作研究会」が中心となって1990年4月に建立されました。桜と酒を愛した岩下をしのんで毎年4月上旬、ここで「俊作忌」が営まれています。現地は、八幡製鉄所を望む高台です。洞海湾をはさんだ対岸の若松区・高塔山には、「火野葦平文学碑」が建っています。

 ■福岡県篠栗町の山王寺に奉納されている「富島松五郎愛用の人力車」が、福岡市早良区百道浜の市博物館で開かれている展覧会「空海と九州のみほとけ」に出品されています。寄贈者の信仰の厚さを物語る品です。会期は10月29日まで。

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2006年09月10日

岩切章太郎「無尽灯」

 宮崎交通は草創期に手痛い事故を経験した。同社70年史によると、昭和2年12月29日朝、大淀川に掛かる橋を渡っていた同社バスが橋の中程でハンドルを取られて転落。四人の乗客のうち相川俊二さんが即死。運転士と車掌は無事だったが、他に乗客二人が大けがをし、バスは廃車になった。
 若き創業者・岩切章太郎が初めて直面した人身事故だった。会社の資本金が5万円だった時代に岩切は、遺族に5千円の弔慰金を包んだ。年間利益の倍以上にあたる額で、経営も厳しくなり、株主らからは会社の売却を進言されたという。
 経営が傾くほどの償いを決断した岩切は「無尽灯」に当時の思いをこう記している。〈私の心から1日も去らなかったのは、相川さんの兄さんの一言だった。「弟を犬死にさせて下さるな」。大事故を一つの機縁として、自己を修め、日本一の事故のない会社にもり立てることができたら、これこそ相川さんの冥福を祈る第一の道である〉

 9月最初の週末。同社の定期観光バスに乗った。乗客は記者を含めて六人。夏休みが終わったばかりだから、これでもよく乗った方かもしれない。バスは、一路、南を目指した。
 宮崎に定期観光バスが走ったのは75年前のこと。女性ガイド付きの乗り合いバスで、当時は「遊覧バス」と呼ばれた。その後、観光バスは宮崎経済を支える大黒柱となった。新婚旅行ブームのピークだった72年には、日南海岸へ向かう観光バスが何十台も連なって走り、1日に97台を運行させたという記録が残っている。
 これらの業績から「観光の父」と崇拝されるようなった岩切が、社内報に寄せていた随想をまとめて出版したのが「無尽灯」である。タイトルは、一本のろうそくの火を次々と燃え移らせていけば、いつかは一国を明るくする輝きになる、と説いた仏教の法話に由来する。
 記者を乗せた観光バスは、日南海岸を代表する景勝地・堀切(ほりきり)峠に近づいた。峠に向かう山道で、地元の民謡「刈干切唄」を歌い終えた若いバスガイドが、案内のマイクを取った。
 「峠を越えますと、下は一面の大海原。豁然(かつぜん)として眼界が開けてまいります」。峠の頂上で大きく右にカーブしたバスの車窓には、計ったように青い空と海が広がった。「太平洋でございます。まっすぐアメリカまで続く、太平洋でございます」。
 この説明は、岩切が自ら考えた運行開始当時のままである。

 「先(ま)ずにっこり」と題した一文から「無尽灯」は始まる。〈机に向かって先ずにっこり、それから仕事を始めなさい。運転台に腰かけて先ずにっこり、それからハンドルをとりなさい。修理をするにも、掃除をするにも、電話をかけるにも、何をするにも先ずにっこり。私共(ども)の大事な合言葉である〉
 「笑顔」ではなく「にっこり」。明治生まれの岩切から、これほど柔らかな文章が生まれたのはなぜなのか。
 岩切が随想を書き始めた53年、戦後の大卒一期生として入社した渡辺綱纜(つなとも)さん(75)はいう。「岩切さんの自宅には、小学校しか出ていないお手伝いさんが二人いらして、書いた文章を彼女たちに読んで聞かせて『どうだ、分かるか?』ってね。そうやって何度も書き直していたんですよ」。
 堀切峠を越えると間もなく「フェニックスドライブイン」。日南海岸沿いに植えられたフェニックスの背後に、どこまでも広がる青い空と海。南国宮崎を象徴する景色である。フェニックス並木も、岩切が36年ごろから植栽を始めたものだ。後に宮崎県の県木に指定されたフェニックスは、今も変わらぬ宮崎のシンボルである。
 「無尽灯」の一節「大地に絵を書く」で岩切はこう述べている。〈日向の大地をカンバスとして、その上に美しい絵を書いてみたいというのが、私の願いであり、祈りであった〉
 岩切が観光バスを始めたころ、宮崎には富士山のような山も、別府のような温泉もなかった。美しいが、単調な日南海岸の風景を引き立たせるため、岩切が“書いた”のがフェニックスだった。ただ、最初のうちは人々の認識も低く、植えても野焼きで焼かれてしまうこともあったそうだ。
 〈フェニックスの葉陰から、南国の海を見るというのが私の植えた夢であるが、一般大衆はフェニックスが小さいので、その夢が分からない。それで近頃は一般の人にもすぐ分かるように、一つ具体的な形を小さく作ってから、次々と植え足していくといったやり方をしている。これは植え足しの大事な秘訣(ひけつ)である〉

 岩切の二男達郎さん(70)は、意外なことを言った。「おやじを冒険作家と勘違いされましてね」。「無尽灯」が出版された当時、達郎さんは県外の企業の新人社員。時の上司は、本のタイトルを「無人島」と誤解したようだ。
 33歳でバス事業を始め、バス観光のモデルを切り開くために、利益を景観整備に投じた岩切は、経営者というよりも冒険者であったのかもしれない。
 岩切が灯したかった火とは何か。達郎さんは「無事故への思いですよ」と言った。会社が傾くほどの弔慰金を支払ったその思いが、宮崎交通の経営哲学となった。岩切は、事故が起きた29日に社を挙げて無事故を誓う「修養会」を欠かさず、「無尽灯」に収められた随想は、修養会での講話をもとにつづられたものだった。
 修養会に参加した社員に岩切は「人の命を大切にします」と書かせ、家族にも見させていたという。記者も一人の人間として、この小さな火を受け継いでいきたい。旅の終わりに、岩切の墓前で線香に火をともした。
(文=経済部・前田 徹 写真=写真グループ・伊東昌一郎)

▼いわきり・しょうたろう

 1893年、宮崎市生まれ。東京帝国大学卒業後、住友総本店に入社。26年にバス4台とタクシー2台で宮崎市街自動車(現宮崎交通)を設立し、社長に就任。全国で3社目の遊覧バスの運行を始める。青島海岸の遊園地「こどものくに」、日南海岸の「サボテン公園」、霧島のえびの高原ホテルなど、宮崎県内の観光施設整備にも取り組んだ。国鉄総裁や全日空の社長候補に名前が挙がったこともある。九州・山口経済連合会副会長、日本観光協会副会長などを歴任。宮崎交通会長をへて81年まで同社相談役を務め、85年7月16日、92歳で死去した。88年に岩切章太郎翁顕彰会により宮崎市役所に隣接する橘公園に銅像が建立されている。

●私の推薦文

後継者には苦労も 大屋 麗之助さん(82)=西日本鉄道相談役(福岡市東区)

 昭和32年ごろバス業界の集まりが宮崎であり、岩切さんの講演を聞いた。「無尽灯」の一編「修養会」にも出てくる、創業当初にバス事故で死者を出して悲劇を繰り返さないため無事故の誓いを立てた、という話だった。手本にして、西鉄で同じような無事故月間制度を作った。
 「無尽灯」は理念的な内容が多く、会社の経営そのものにはあまり触れられていない。しかし、岩切さんはバス会社の経営管理のエッセンスがよく分かっていた。やたら数字で社員を追い立てるのでなく、日報や月報など、日常業務の中で自然に意識させ、通常作業の中で消化させる仕組みをつくっていた。経営者として経理屋か銀行屋のような細かさもあった。
 一方で、バス事業がマイカーに押されて厳しくなった昭和40年以降に経営を任された後継者は苦労したと思う。バス事業は整理の時代に入っていたが、あまりに父がえらかったため名声を守りたいという気持ちも強かっただろう。

●メモ

 ■宮崎交通は宮崎県内唯一の乗り合いバス会社として、1960‐70年代の新婚旅行ブームなど、宮崎観光の中心的な役割を果たしました。岩切章太郎氏の長男省一郎氏(故人)、二男達郎氏らが経営を引き継ぎましたが、69年をピークにバス乗車人員が減少に転じ、バブル期の過剰投資などで経営が悪化。2005年1月に産業再生機構に支援を要請し、現在は地場企業を中心とした17社の企業連合の支援で経営再建中です。

 ■「無尽灯」は1962年に講談社から出版されました。続編の「続・無尽灯」と「一木一草」を含め絶版になっています。現在は宮崎市の鉱脈社が「みやざき21世紀文庫」として再出版しています。鉱脈社=0985(25)1758。

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2006年09月03日

佐木隆三「復讐するは我にあり」

 積み重ねられた十冊を超える大学ノート。表紙には「西口彰ノート」とあり、通し番号が打ってあった。関門海峡を見下す北九州市門司区の風師(かざし)山。その中腹にある佐木隆三の終(つい)のすみか「風林山房」で見せてもらったノートには、福岡県苅田町に端を発し、全国を震撼(しんかん)させた43年前の連続強盗殺人事件の裁判や捜査の記録、関係者の証言が丹念に書き込まれていた。
 事件から12年後の1975年、このノートをもとに「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」は書き上げられた。日本における「ノンフィクションノベル」の代表作と評され、直木賞を受賞した。
 親しかった、暴力団事情に詳しい週刊誌の副編集長の名刺を使い、捜査幹部からマル秘ともいえる情報を聞き出すなど、手練手管も使って執念深く事実を追った。そんな佐木が、一度だけ取材の現場から逃げ出したことがあったという。
 「経験があるでしょう」
 記者に同意を求めながら、打ち明けてくれた。それは、事件を起こした西口彰の父親の姿を目にしたときだった。

 事件は63年10月に起きた。同県行橋市に住んでいた西口が、隣の苅田町で男性を殺したのを手始めに、年末までに五人を殺害。年明けに熊本県玉名市で逮捕されるまで、大学教授や弁護士に化けて複数の女性との愛憎を絡ませ、さらに詐欺や窃盗も重ねながら、神出鬼没に犯罪行脚を続けた。同じ人格で同時に培われることはないと思われていた知能犯と凶暴犯を同居させた西口は、それまでの犯罪常識を覆したのだった。
 事件当時、佐木は八幡製鉄に勤めていた。やがて会社を辞め、上京。事件を追うようになったのは、70年に西口が死刑執行された後だった。きっかけは72年、自身が殺人の被疑者として逮捕されたことだった。誤認逮捕と分かって釈放されたが、「12日間の留置場生活でそれまで出会ったことのない人たちに違う世界があるのを知らされた」と佐木は言い、それから犯罪を小説のテーマに据えた。
 西口を「榎津巌」に変え、彼に出会い、かかわった人々の視点で描いた「復讐するは我にあり」は、一字見出しの40の章から成り、西口の軌跡そのままに展開するストーリー。読む側を力ずくで引き込んでいく。
 読後に残るのは、父と子をめぐる関係、葛藤(かっとう)の根深さである。長崎県の五島で網元をし、果樹園を買い取って行橋市へ。やがて温泉旅館を経営するため大分県別府市に家族とともに移り住んだ父親。敬虔(けいけん)なクリスチャンとして尊敬を集める人物だった。戦争を挟みながら、経済的に裕福な家庭を築き上げた。その息子がなぜ、十代で非行に走り、刑務所暮らしを繰り返すようになってしまったのか。
 西口の人格形成を探る上で父親の取材は欠かせなくなった。74年秋、佐木は父親が住む別府市のアパートを探し出し、取材に向かった。
 一人暮らしだった父親。リウマチを患っているせいか、杖(つえ)をつき、買い物袋を提げてアパートに戻ってくる姿を目にした。その途端に「こんなことをしていいのか」と自責の念に駆られ、何も聞けず立ち去った。

 父親のアパートを立ち去ってから半年後。佐木は再びその場所を訪れた。父親は寝込んでいた。既に本のゲラは刷り上がっていた。
 「あんたも遠いところから汽車賃使って来ているのに、このまま帰ったら、上の人にしかられるだろう」
 佐木が埼玉県から来たことを告げると、父親はそう言って30分ほど話をしてくれた。
 戦時中、「お国」のためと生活の糧としていた船を取り上げられた。五島では、クリスチャンの網元が船の徴用の狙い打ちにされたのだ、と言う。キリストを絶対神として崇(あが)めるクリスチャンは天皇を神に据え、戦争遂行態勢を固めていく時の権力にとって目障りな存在だった。そのことが、当時、多感な少年だった西口にとって「ショックな出来事ではなかったか」。父親は推し量った。
 佐木に、一つの答えのようなものが見えてきた。「父親が権力に屈した」と西口の目に映り、「信じるものは何もない」との思いを固めていったのでは。戦争が、信仰篤い家庭に育った少年の価値観を崩壊させ、罪を犯させたのかもしれない…。
 事件は、東京五輪の直前。日本は敗戦を乗り越えて経済成長を続け、先進国として名実ともに国際社会への復活を告げようとする時代だった。
 「あの時、お父さんに会えて本当によかった」
 裁判記録をあたっても西口は、父親について一言も語っていない。それだけに父親に会え、話を聞けた意味は大きかった。佐木は飛んで帰り、ゲラを手直しした。
 小説は映画にもなった。メガホンを取ったのは故・今村昌平。榎津を演じたのは緒形拳。父親役は三國連太郎である。息詰まるような親子の葛藤シーンが随所に盛り込まれた。
 「浜辺で官憲にひざまずく父親。それにあらがう息子。さすが今村さんだと思った。事件を解くカギを見事に映像で表現した」。佐木は今もうなる。
 西口は唾棄(だき)すべき犯罪者だった。ただ、その犯罪には背景が潜んでいた。そこから時代も見えた。
 「宮崎勤裁判」「少年犯罪の風景」「三つの墓標-小説・坂本弁護士一家殺害事件」「少女監禁」「慟哭-小説・林郁夫裁判」。北九州市の連続監禁殺人事件を扱った「なぜ家族は殺し合ったか」…。
 時代は閉塞(へいそく)していると言われる。確かに、言語による意味づけが困難になっている。それでも佐木は、犯罪を追い続けている。「分かりにくい犯罪が増えている」とつぶやきながら。
(文=行橋支局・橋本洋 写真=写真グループ・納富猛)

▼さき・りゅうぞう

 1937年、朝鮮半島の咸鏡北道生まれ。41年に引き揚げ、50年に広島県から旧八幡市(現北九州市)に移転。56年に八幡中央高校を卒業し八幡製鉄(新日鉄)に入社した。63年、「ジャンケンポン協定」で新日本文学賞受賞。64年に退社して文筆活動に専念し、67年上京。75年に「復讐するは我にあり」を出版、76年に第74回直木賞を受賞した。91年には「身分帳」で伊藤整文学賞受賞。99年に北九州市門司区のマンションに引っ越し、2006年3月から現在の住居に。「風林山房」の名付け親は親交の深い作家、古川薫さん。「小説・大逆事件」「宿老・田中熊吉伝―鉄に挑んだ男の生涯」など。

●私の推薦文

とにかく現場を踏んだ、と 木戸聖子さん(44)=北九州シネマサロン実行委員長(北九州市八幡西区)

 「原作は、また違うわよ」。映画「復讐するは我にあり」を鑑賞した後に知人に言われた一言が頭に残り、原作を読んだのが大学生のときでした。
 「ものすごく取材しているなあ」と驚きながら読んだのを覚えています。映画では、登場人物の情念が前面に出ていましたが、原作は親子のありよう、それもキリスト教が絡んだ愛憎が事件の背景にあることを示していたのが印象的でした。
 佐木さんは八幡中央高校の先輩。北九州ゆかりの邦画を紹介する「北九州シネマサロン」の活動に携わり、トークショーに登場してもらうなどお話しする機会があり、小説を書くにあたってのエピソードも聞かせてもらいました。想像しても分からない部分は、とにかく現場を踏んだ、と聞きました。トルーマン・カポーティのノンフィクションノベル「冷血」に影響を受けたそうです。そうした点も踏まえ、読んでみるとひと味違いますよ。

●メモ

 ■映画「復讐するは我にあり」は1979年に公開されました。緒形拳、三國連太郎のほか、小川真由美、倍賞美津子、フランキー堺、ミヤコ蝶々、清川虹子らが出演。日本アカデミー賞やキネマ旬報賞、ブルーリボン賞で作品賞を受賞するなど映画各賞を総なめにしました。ビデオ、DVD(140分)が松竹(株)ビデオ事業室から販売されています。価格はともに3990円(税込み)。佐木さんも1シーンだけ登場します。

 ■1975年に講談社から出版された「復讐するは我にあり」は、78年に文庫化(講談社文庫)もされました。現在、単行本は絶版、文庫本は品切れ状態(重版未定)で、図書館か古書店で探すしかないようです。

 ■佐木さんの新刊「なぜ家族は殺し合ったか」(青春出版社)を5人の読者にプレゼントします。〒810―8721 西日本新聞社文化部九州の100冊プレゼント係へ。

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