宮崎交通は草創期に手痛い事故を経験した。同社70年史によると、昭和2年12月29日朝、大淀川に掛かる橋を渡っていた同社バスが橋の中程でハンドルを取られて転落。四人の乗客のうち相川俊二さんが即死。運転士と車掌は無事だったが、他に乗客二人が大けがをし、バスは廃車になった。
若き創業者・岩切章太郎が初めて直面した人身事故だった。会社の資本金が5万円だった時代に岩切は、遺族に5千円の弔慰金を包んだ。年間利益の倍以上にあたる額で、経営も厳しくなり、株主らからは会社の売却を進言されたという。
経営が傾くほどの償いを決断した岩切は「無尽灯」に当時の思いをこう記している。〈私の心から1日も去らなかったのは、相川さんの兄さんの一言だった。「弟を犬死にさせて下さるな」。大事故を一つの機縁として、自己を修め、日本一の事故のない会社にもり立てることができたら、これこそ相川さんの冥福を祈る第一の道である〉
9月最初の週末。同社の定期観光バスに乗った。乗客は記者を含めて六人。夏休みが終わったばかりだから、これでもよく乗った方かもしれない。バスは、一路、南を目指した。
宮崎に定期観光バスが走ったのは75年前のこと。女性ガイド付きの乗り合いバスで、当時は「遊覧バス」と呼ばれた。その後、観光バスは宮崎経済を支える大黒柱となった。新婚旅行ブームのピークだった72年には、日南海岸へ向かう観光バスが何十台も連なって走り、1日に97台を運行させたという記録が残っている。
これらの業績から「観光の父」と崇拝されるようなった岩切が、社内報に寄せていた随想をまとめて出版したのが「無尽灯」である。タイトルは、一本のろうそくの火を次々と燃え移らせていけば、いつかは一国を明るくする輝きになる、と説いた仏教の法話に由来する。
記者を乗せた観光バスは、日南海岸を代表する景勝地・堀切(ほりきり)峠に近づいた。峠に向かう山道で、地元の民謡「刈干切唄」を歌い終えた若いバスガイドが、案内のマイクを取った。
「峠を越えますと、下は一面の大海原。豁然(かつぜん)として眼界が開けてまいります」。峠の頂上で大きく右にカーブしたバスの車窓には、計ったように青い空と海が広がった。「太平洋でございます。まっすぐアメリカまで続く、太平洋でございます」。
この説明は、岩切が自ら考えた運行開始当時のままである。
「先(ま)ずにっこり」と題した一文から「無尽灯」は始まる。〈机に向かって先ずにっこり、それから仕事を始めなさい。運転台に腰かけて先ずにっこり、それからハンドルをとりなさい。修理をするにも、掃除をするにも、電話をかけるにも、何をするにも先ずにっこり。私共(ども)の大事な合言葉である〉
「笑顔」ではなく「にっこり」。明治生まれの岩切から、これほど柔らかな文章が生まれたのはなぜなのか。
岩切が随想を書き始めた53年、戦後の大卒一期生として入社した渡辺綱纜(つなとも)さん(75)はいう。「岩切さんの自宅には、小学校しか出ていないお手伝いさんが二人いらして、書いた文章を彼女たちに読んで聞かせて『どうだ、分かるか?』ってね。そうやって何度も書き直していたんですよ」。
堀切峠を越えると間もなく「フェニックスドライブイン」。日南海岸沿いに植えられたフェニックスの背後に、どこまでも広がる青い空と海。南国宮崎を象徴する景色である。フェニックス並木も、岩切が36年ごろから植栽を始めたものだ。後に宮崎県の県木に指定されたフェニックスは、今も変わらぬ宮崎のシンボルである。
「無尽灯」の一節「大地に絵を書く」で岩切はこう述べている。〈日向の大地をカンバスとして、その上に美しい絵を書いてみたいというのが、私の願いであり、祈りであった〉
岩切が観光バスを始めたころ、宮崎には富士山のような山も、別府のような温泉もなかった。美しいが、単調な日南海岸の風景を引き立たせるため、岩切が“書いた”のがフェニックスだった。ただ、最初のうちは人々の認識も低く、植えても野焼きで焼かれてしまうこともあったそうだ。
〈フェニックスの葉陰から、南国の海を見るというのが私の植えた夢であるが、一般大衆はフェニックスが小さいので、その夢が分からない。それで近頃は一般の人にもすぐ分かるように、一つ具体的な形を小さく作ってから、次々と植え足していくといったやり方をしている。これは植え足しの大事な秘訣(ひけつ)である〉
岩切の二男達郎さん(70)は、意外なことを言った。「おやじを冒険作家と勘違いされましてね」。「無尽灯」が出版された当時、達郎さんは県外の企業の新人社員。時の上司は、本のタイトルを「無人島」と誤解したようだ。
33歳でバス事業を始め、バス観光のモデルを切り開くために、利益を景観整備に投じた岩切は、経営者というよりも冒険者であったのかもしれない。
岩切が灯したかった火とは何か。達郎さんは「無事故への思いですよ」と言った。会社が傾くほどの弔慰金を支払ったその思いが、宮崎交通の経営哲学となった。岩切は、事故が起きた29日に社を挙げて無事故を誓う「修養会」を欠かさず、「無尽灯」に収められた随想は、修養会での講話をもとにつづられたものだった。
修養会に参加した社員に岩切は「人の命を大切にします」と書かせ、家族にも見させていたという。記者も一人の人間として、この小さな火を受け継いでいきたい。旅の終わりに、岩切の墓前で線香に火をともした。
(文=経済部・前田 徹 写真=写真グループ・伊東昌一郎)
▼いわきり・しょうたろう
1893年、宮崎市生まれ。東京帝国大学卒業後、住友総本店に入社。26年にバス4台とタクシー2台で宮崎市街自動車(現宮崎交通)を設立し、社長に就任。全国で3社目の遊覧バスの運行を始める。青島海岸の遊園地「こどものくに」、日南海岸の「サボテン公園」、霧島のえびの高原ホテルなど、宮崎県内の観光施設整備にも取り組んだ。国鉄総裁や全日空の社長候補に名前が挙がったこともある。九州・山口経済連合会副会長、日本観光協会副会長などを歴任。宮崎交通会長をへて81年まで同社相談役を務め、85年7月16日、92歳で死去した。88年に岩切章太郎翁顕彰会により宮崎市役所に隣接する橘公園に銅像が建立されている。
●私の推薦文
後継者には苦労も 大屋 麗之助さん(82)=西日本鉄道相談役(福岡市東区)
昭和32年ごろバス業界の集まりが宮崎であり、岩切さんの講演を聞いた。「無尽灯」の一編「修養会」にも出てくる、創業当初にバス事故で死者を出して悲劇を繰り返さないため無事故の誓いを立てた、という話だった。手本にして、西鉄で同じような無事故月間制度を作った。
「無尽灯」は理念的な内容が多く、会社の経営そのものにはあまり触れられていない。しかし、岩切さんはバス会社の経営管理のエッセンスがよく分かっていた。やたら数字で社員を追い立てるのでなく、日報や月報など、日常業務の中で自然に意識させ、通常作業の中で消化させる仕組みをつくっていた。経営者として経理屋か銀行屋のような細かさもあった。
一方で、バス事業がマイカーに押されて厳しくなった昭和40年以降に経営を任された後継者は苦労したと思う。バス事業は整理の時代に入っていたが、あまりに父がえらかったため名声を守りたいという気持ちも強かっただろう。
●メモ
■宮崎交通は宮崎県内唯一の乗り合いバス会社として、1960‐70年代の新婚旅行ブームなど、宮崎観光の中心的な役割を果たしました。岩切章太郎氏の長男省一郎氏(故人)、二男達郎氏らが経営を引き継ぎましたが、69年をピークにバス乗車人員が減少に転じ、バブル期の過剰投資などで経営が悪化。2005年1月に産業再生機構に支援を要請し、現在は地場企業を中心とした17社の企業連合の支援で経営再建中です。
■「無尽灯」は1962年に講談社から出版されました。続編の「続・無尽灯」と「一木一草」を含め絶版になっています。現在は宮崎市の鉱脈社が「みやざき21世紀文庫」として再出版しています。鉱脈社=0985(25)1758。
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