西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年10月29日

北原白秋「思ひ出」

 北原白秋の第二詩集で出世作の「思ひ出」は1911年、白秋26歳のときに東京で書き上げられた。記者もいま26歳。不遜かもしれないが同年の男を思い描きながら、その歩んだ道をたどった。
 水郷・福岡県柳川市は、縦横に掘割(ほりわり)がめぐる。柳の枝が水面に垂れるその掘割を、どんこ舟でゆらゆらと進んだ。身をかがめて橋をくぐると、日常とは異なった風景が広がる。心地よい風が追い越していった。
 白秋が生を受け、19歳まで暮らした街並みは当時とは一変した。が、掘割のゆったりとした水の流れは今も変わるまい。国民的詩人・白秋をはぐくんだ原風景であり、彼に決別を決意させた故郷の景色でもある。

 「思ひ出」は、その2年前に刊行した初詩集「邪宗門」に続き、白秋の存在を詩壇に知らしめた作品である。巻頭の「わが生ひたち」は故郷への決別宣言。柳川を「水に浮いた柩(ひつぎ)」「静かな廃市」と呼び、「『思ひ出』に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しやうと思ふ」と書いた。
 白秋は、柳川藩の御用商人で、九州でも有数の海産物問屋の跡取り息子に生まれた。父の代には、主に酒造業を営んでいた。白秋生家前には、現在は避難港となった船だまりがある。当時は、毎日のように帆船が到着し、長崎や平戸、天草などから、ハイカラな言葉や文物が届いた。柳川に居ながらにして、豊かな外国文化に触れることができただろう。

   「わが部屋」
 わが部屋にわが部屋に
 長崎の絵はかかりたり、
 路のべに尿する和蘭人(おらんだじん)の
 金紙の鎧(よろい)もあり
 赤き赤きアラビヤンナイトもあり。  (以下略)

 熊本県にある母方の実家では、当時としては貴重なイソップ物語やアラビアンナイトを読みふけった。「トンカジョン」(大きな坊ちゃん)と呼ばれた白秋の文学的素養が培われていった豊饒な時間であったろう。

 平穏な生活は長く続かない。16歳のときに実家が大火に遭い、酒蔵など母屋以外が焼失。文学に傾倒していった白秋は、旧制中学伝習館(現伝習館高)を中退し、父親の反対を押し切って、逃げるように19歳で上京し、早稲田大に進学する。
 「思ひ出」を刊行した翌年、借金を抱えた一家が、白秋を頼って上京している。彼の心の風景には、現実以上に郷里が色あせて映っていたのかも知れない。追い打ちをかけたのが、友人中島鎮夫の自死だった。「TONKAJOHNの悲哀」の中の一編で、その死を悼んだ。

 あかき血しほはたんぽぽの
 ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
 君がかなしき釣台は
 ひとり入日にゆられゆく…
     (以下略)

 「白秋」の名は伝習館時代に生まれた。文学を志す6人の仲間で「白」の下に一字をあてた雅号を付けることになり、みなでくじを引いた。「白雨」中島は、白秋のよきライバルであり親友だった。彼の死から2カ月後、白秋は上京。そして、生涯「白秋」を使い続けた。実家の没落と親友の死。白秋にとって故郷はつらい記憶にまみれ、43歳になるまでの20年間、柳川を訪れることはなかった。

 詩、童謡、民謡、短歌、書…。白秋の才能は幅広いジャンルでいかんなく発揮された。「思ひ出」の装丁や挿絵も自作。表紙にはダイヤのクイーン。今見ても、実にしゃれている。
 初期の「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」の3作は、ほぼ同時期の作とみられる。白秋の姉の孫で、福岡県瀬高町で酒造業を営む江崎和夫さん(73)は「白秋はやっぱり商売人の子。間を置かずに、趣が違う3作品を発表しており、自分の売り出し方を知っていたのではないか」と指摘する。その思惑通りだったか、「思ひ出」刊行後、文学誌上のアンケートで、白秋は詩人部門の第1位に推されるほどの人気を博している。ところが翌年、隣家の人妻と恋に落ちた。夫から姦通(かんつう)罪で告訴され、2週間ほど拘留されている。
 人気絶頂となった白秋が、世間的な成功、社会的名声を顧みず、愛情という計算できない感情に真正面からぶつかっていったのは、27歳の青年らしいまじめさ、真剣さだったろう。
 その後、3度の結婚や30回以上の転居など白秋の人生は穏やかではなかった。一度は決別した柳川への愛着も強かった。ささくれだった気持ちを丸ごと受け止めてくれるのは、はやり故郷だったろう。41年に柳川を訪れたのが白秋最後の帰郷となった。
 そのとき白秋は母校・伝習館で講演している。腎臓病で目を患っていた白秋は黒眼鏡をかけ、2人の子に手を引かれて登壇し、25分ほど、作詩する上で数学や音数律の大切さを説いたという。
 生家近くに住む画家の北原悌二郎さん(82)は、その講演を覚えている。
 とつとつとした口調だったが、当時の学生たちにとって「雲の上の存在」の白秋のひと言ひと言に「やはり詩人だなあと感じました」と振り返る。
 たどってみると、白秋は巨大だった。その存在は、檀一雄や長谷健をはじめ、多くの文人を輩出する土壌となった。そして、今なお、白秋が後輩たちに託した望郷の思いは、脈々と受け継がれている。
(文=柳川支局・片岡 寛 写真=写真グループ・納富 猛)

▼きたはら・はくしゅう

 1885年1月25日、現在の福岡県柳川市に生まれる。本名は北原隆吉。旧制中学伝習館を中退後、早稲田大に進学。処女詩集「邪宗門」を皮切りに、次々と傑作を世に送り出す。1918年、童話童謡雑誌「赤い鳥」創刊から童謡欄を担当。詩、民謡、短歌、翻訳など作品のジャンルは幅広い。山田耕筰とのコンビで「待ちぼうけ」「からたちの花」など、300曲近い童謡や校歌を手掛けた。晩年には日本芸術院会員に。42年11月2日、57歳で死去。
(写真は北原白秋生家・記念館提供)

●私の推薦文

原点にあふれる望郷の念 津留 秀春さん(49)=北原白秋生家・記念館事務局長(福岡県柳川市)

 白秋ほど、郷里を愛した詩人はいないと思います。「思ひ出」にも柳川弁が多く登場し、上田敏から激賞されたという「わが生ひたち」を読むと、掘割の情景が目に浮かび、作品の中に引き込まれます。幼いころの記憶でも、とても細かい部分まで描写していて、驚かされます。帰りたくても帰れなかった柳川。誰もが持っている幼少期の原風景を、白秋は人一倍感じ取っていたのではないでしょうか。
 亡くなる1カ月ほど前、死期を悟った白秋は、写真集「水の構圖(ず)」で、柳川を「我が詩歌の母體(たい)」と記しています。柳川に生まれなければ、白秋はありませんでした。詩歌や童謡など、白秋は生涯に約2万点の作品を残したと言われています。その原点ともいえる作品が「思ひ出」です。白秋の創作活動が「思ひ出」に始まり「水の構圖」に終わったことは、何か因縁めいたものを感じます。
 白秋は本の装丁も手掛けました。ぜひ、復刻版を手に取って読んでみてください。

●メモ

 ■福岡県柳川市の白秋の生家は「北原白秋記念館」になっています。人手に渡り解体の危機にあったのですが、地元有志たちが保存運動を起こして、記念館として整備しました。柳川観光名所の1つです。白秋ゆかりの品々が展示されており、「思ひ出」の復刻版も販売しています。同館=0944(72)6773。

 ■白秋の命日を挟んだ11月1‐3日には毎年、柳川市で白秋祭が行われます。2日の式典では、全国から公募した献詩の最高賞受賞者が、自らの詩を朗読。夜は白秋の童謡のコーラスや花火が楽しめる水上パレードが有名です。毎年1月25日は白秋生誕祭もあります。

 ■柳川市内には、白秋の作品にちなんだ碑が19カ所あります。碑を探しながら散策してみるのもいいかもしれません。生家から白秋が伝習館に通った道は、白秋道路として遊歩道になっています。

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2006年10月15日

森鴎外「阿部一族」

 森鴎外が熊本に滞在したのはわずか6日間だけだった。小倉(北九州市)の第12師団軍医部長のときの1899年と、陸軍省医務局長だった1910年。いずれも2泊3日の視察旅行だった。短い滞在だが、肥後藩士の殉死を題材にした歴史小説「阿部一族」の創作とあいまって、熊本ゆかりの作家として地元では認知されている。
 同書は2回目の訪問から3年後に発表された。その前年、衝撃の出来事が起きた。明治天皇大葬の9月13日、乃木希典大将が妻の静子とともに自刃した。近代国家への道をまい進するなか、突如、封建制の風習「殉死」がよみがえったのだった。
 当時の知識人に与えた影響も小さくなかった。夏目漱石は「武士道精神の終焉(しゅうえん)」と受け止め、芥川竜之介は「将軍の気持ちは幾分分かるような気がする」といい、志賀直哉は「『馬鹿な奴だ』といふ気がした」と日記に記した。鴎外は「軍人精神の極致」と称賛したという。「阿部一族」執筆のきっかけが、乃木殉死であることはよく知られている。

 1641年、肥後熊本藩の初代藩主細川忠利が亡くなった。「阿部一族」の物語は忠利の病床から始まる。多くの家臣たちが忠利に殉死を願い出た。殿様の許しがないまま自ら命を絶てば犬死にである。結局、18人に死出の供が許された。
 阿部(あべ)弥一右衛門(やいちえもん)という古株の家臣がいた。長く忠利に仕え、本人も周囲も当然、殉死するものと考えていた。だが、何度願い出ても忠利が首を縦に振ることはなかった。嫌われていたのだ。ほどなく忠利が逝き、18人は自害した。
 藩主は光尚(みつひさ)の代になり、以前と変わらず勤めに精を出す弥一右衛門の耳に不穏なうわさが入った。
 「阿部はお許しのないことを幸いに生きていると見える」
 生き恥をさらすわけにはいかない。ならば死んでやろう。主人の許しがないまま、弥一右衛門は腹を切った。その死は他の殉死者と同じ扱いを受けず、差別的な相続が行われた。忠利の一周忌の場で嫡男権兵衛が髪を切る暴挙に出た。「武士を棄(す)てる」と宣言した権兵衛を光尚は縛り首にした。一族は屋敷に立てこもり抗戦の構え。藩は討っ手を差し向けた。そして一族は壮絶な死を遂げた。

 物語は鴎外のオリジナルではない。阿部家の隣人、栖本(すもと)又七郎という武士が書いたとされる「阿部茶事談」を参考にしている。阿部茶事談にある権兵衛の縛り首や一族の滅亡は史実とされるが、戦後の研究で、物語の重要な部分が脚色されていることが分かった。
 熊本大文学部の吉村豊雄教授(58)は「許しがないまま腹を切った者は弥一右衛門だけではないし、権兵衛が無謀な行為に走った直接の原因、跡目相続の差別的な扱いも事実ではない」と話す。
 熊本市の観光スポットの一つ、北岡自然公園は細川家の菩提(ぼだい)寺跡だ。忠利の霊廟(れいびょう)を取り囲むように19基の墓石が立つ。その中の1つの石に「阿部弥市(一)右衛門」の文字が刻まれていた。弥一右衛門の殉死は他の18人と同等に扱われていたのだ。
 「阿部一族」は鴎外の作品のなかでは平易な文体で淡々と書かれている。歴史小説という分類もあって、史実と思っていた読者も多いだろう。鴎外は脚色されていることを知らなかったのだろうか。知っていて、あえて引用したのだろうか。同大の首藤基澄名誉教授(69)は「藩主と反りが合わない苦しみ、こじれていく人間関係を描くために参考にしたのだと思う。鴎外は非常に頑固な人間だった。自分の苦しみを弥一右衛門に反映させたかったのだろう」と見る。
 鴎外は、軍でも文壇でも大論争を巻き起こして衝突を繰り返してきた。ゆがむ人間関係の中で孤立、苦しんできた自身を、弥一右衛門に重ねた。すでに「阿部茶事談」が史実であるかどうかは問題ではなかったろう。

 物語には一連の事件を裏で操る大目付が登場し、一族を滅亡に追いやる悪役として描かれている。組織のトップにおもねり、誰彼となくおとしめる小ざかしい人物だ。
 弥一右衛門や嫡男権兵衛は、現代風に言えば、悪知恵の働く上司にいじめられ、社長からもしかとされる。悶々(もんもん)としているうち、根も葉もないうわさが立ち、次第に孤立感を深めた。行き詰まった人間関係のなか、ついに一線を越える。心を病むサラリーマンが増えている現代社会に一脈通じるところはないだろうか。
 鴎外は、乃木の殉死に共感していたと伝えられている。同じ軍人としての立場がそうさせたのかもしれない。だが、「阿部一族」からは殉死への賛美を読み取ることはできない。むしろ、殉死を引き金に、不信、憎悪、欲望が渦巻く人間関係の悲劇が強調される。いずれの時代にあっても避けては通れない人間関係のしがらみ。鴎外が「阿部一族」で人間関係の苦悩を伝えたかったとすれば、封建制下の物語が一気に普遍性を帯びてくる。
 「ほら、あなたのそばにも苦悩する弥一右衛門や権兵衛がいる」。鴎外からのメッセージを、私はそう受け止めた。
 (文=熊本総局・新志有裕 写真=写真グループ・岡部拓也) 

▼もり・おうがい

 1862年、石見国(現・島根県)津和野に藩医の長男として生まれる。本名森林太郎。81年に東京帝国大学医学部を卒業。軍医となり84年ドイツ留学。88年に帰国後、文筆活動を本格化。訳詩編「於母影」(89年)、小説「舞姫」(90年)などを発表。91年には「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を展開。99年、第12師団軍医部長として小倉に赴任。1907年、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。09年、「スバル」に性を描いた「ヰタ・セクスアリス」を発表、発禁となる。12年、乃木希典の殉死に影響され「興津屋弥五右衛門の遺書」を発表。「阿部一族」(13年)「高瀬舟」(16年)などの歴史小説を書いた。22年7月、60歳で死去。

●私の推薦文

 
肥後人気質が見える 一木 和世さん(58)=熊本市歴史文書資料室(熊本市)

 肥後人は「頑固」で「一本気」だと言われている。許可なく切腹した弥一右衛門や、縛り首に処せられる暴挙に出た嫡男権兵衛からは肥後人気質が見える。殿様に逆らうのは並大抵のことではない。
 「阿部茶事談」は、多くの武士たちに書き写された。あの悲劇が自分たちに訪れないように教訓にしたのだろう。人の命よりも「お家」の存続が大切だとされていた当時でさえ、尊厳を傷付けられた「個人」の思いは爆発してしまった。「公と個」という人間社会のテーマを考える上では、いつの時代でも面白く読める1冊だと思う。
 鴎外自身は、登場人物に感情移入することなく、客観的に描いているが、もし自分が弥一右衛門だとしたら、やはり意地を張って切腹を遂げるか、他に解決策がないか探してみるか。歴史に思いをはせて、選択肢を想像してみると非常に興味深い。

●メモ

 ■「阿部一族」は新潮社や岩波書店などから出版されているほか、インターネット電子図書館「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)では無料で読むことができます。

 ■熊本市山崎町のRKK熊本放送の敷地には、阿部一族の屋敷があったとされています。1961年に作家の荒木精之さん(故人)が発見しました。小さな碑文が立っています。

 ■JR熊本駅の近くには、忠利を火葬した春日寺があります。忠利に愛されていた鷹が、飛び込んで殉死したとされる井戸もあります。

 ■95年には、深作欣二監督によるテレビドラマ版が制作された。山崎努さんや佐藤浩市さん、蟹江敬三さんらが出演。DVDも発売されています。

 ■北九州市小倉北区鍛冶町には、鴎外が小倉に赴任した際の旧居があります。「我をして九州の富人たらしめば」などを書きました。市の文化財に指定され、当時の姿に復元されています。

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2006年10月08日

野呂邦暢「諫早菖蒲日記」

 早暁、本明川沿いの道を諫早湾に向かって歩いた。南に雲仙岳、北に多良岳の峰が見える。やがて日の出とともに、1000メートル級の2つの山の稜線(りょうせん)が明るく輝き、陽光が川面にたなびく朝霧を白く照らし出す。
 恐らくは太古の昔から変わらないであろう光景。長崎県諫早市に今暮らしている人々と同じように、野呂邦暢も、そして、野呂が生み出した「諫早菖蒲(しょうぶ)日記」の主人公たちも、この神秘的ともいえる景色を眺めたに違いない。

 「諫早菖蒲日記」の主人公は、佐賀藩の支藩だった諫早藩の砲術指南役藤原作平太の娘志津である。時代は幕末。15歳の志津が、安政2年の初夏から翌春まで日記を書いたという筋立てで、物語は進められる。
 野呂は、結婚を機に諫早市仲沖町の古い武家屋敷に移り住んだ。34歳だった。その屋敷こそが、主人公のモデルとなった砲術指南役親子が暮らした屋敷だった。裏庭には菖蒲畑が広がる。その土蔵にあった砲術書などとの出合いが小説を書く動機になった。
 野呂は諫早市誌を熟読し、この地で起きた出来事や、人々の暮らしを小説に盛り込んだ。佐賀藩の圧政に忍従する諫早藩の様子や、外国船が開港を求めて相次いで来航する状況に動揺する武士の姿など、志津の日記は史実に基づく。しかし、武家の娘とはいえ、それほどに世の中の出来事を知る少女がいるはずもない。志津が難聴気味の父の傍らで耳代わりになり、大人たちの会話から世情を知る立場にあったとの設定を野呂が用意したのは、物語にリアリティーを持たせるためだったに相違ない。志津は生き生きと躍動感にあふれて描かれる。志津の家で働く吉爺(きちじい)との会話もそうだ。
 「吉よい、私は海ば見たことはなかと」
 「干き潮どきの川下りはむずかしゅうごんす」
 本明川の河口でクジラを仕留める漁師、キジを撃ち損なって落胆する父。市中の様子や身内の出来事を語る志津の言葉を、野呂は諫早の方言でつづった。

 野呂は諫早を愛した。「草のつるぎ」で芥川賞を受賞した1974年当時、九州に足場を置いて活動する現役芥川賞作家は、野呂しかいなかった。東京に出版社が集中し、通信事情がそれほど発達していなかったこともあり、中央文壇で活躍しようと思う作家は上京するのが当たり前だった。それでも野呂は諫早にとどまった。あるとき野呂は、諫早で執筆活動を続ける理由を知人にこう答えたという。
 「人間も木と同じ。ここに植えている木を東京に移したら枯れてしまう」
 それほどまでに諫早にこだわったのは、野呂が2度にわたって「故郷」を失った体験が背景にあったからではないか。
 最初は、45年8月9日の長崎原爆だった。長崎市内で生まれた野呂は小学2年の春、父親が応召したため諫早市の母の実家に疎開した。その年の夏の原爆投下によって、長崎市にいた同級生の友達のほとんどが被爆死したという。
 2度目は、57年7月25日の諫早大水害だ。死者500人以上、行方不明者40人を数える大惨事だった。野呂はその年の春に自衛隊に入隊していた。実家は流出こそ免れたが全壊。翌年に20歳で除隊した野呂は、42歳で亡くなるまで諫早に住み続けた。親しい者、いとおしいものが一瞬のうちに失われる喪失感と無常感。それが、郷土の自然や歴史、そこに生きる普通の人々の、普通の生活を愛し、2度と再び大切なものを失いたくないという強烈な郷土愛につながったのではないか。

 諫早菖蒲日記は、次のような書き出しで始まる。

 まっさきに現われたのは黄色である。
 黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。
 堤防の上に5つの点がならんだ。
 堤防は田圃(たんぼ)のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶(ちょう)のかたちに似ている。…

 色とりどりの帆を掲げた漁船が本明川をさかのぼってくる。干潮時には高い堤防に遮られて見えないその帆が、潮が満ちてくると、堤防から突き出たようにポツン、ポツンと点のように見えてくる。本明川を眺める志津の視線を借りて描かれたのは、野呂がこよなく愛した諫早の河口の風景であった。
 野呂が心筋梗塞(こうそく)で急逝してから26年が過ぎた。本明川が注ぐ諫早湾では、国策による干拓事業によって湾を仕切る潮受け堤防が完成し、広大な干潟が生まれている。漁船が本明川を上ってくることは2度とない。潮の干満による水の躍動もない。
 諫早を愛し、本明川と諫早湾、有明海が織りなす景色の美しさを幾度となく小説やエッセーに書き遺(のこ)した野呂の魂は、故郷の変わり様を誰にもまして寂しく感じているに違いない。
 (文 =諫早支局・阿比留北斗 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼のろ・くにのぶ

 1937年9月20日、長崎市生まれ。本名納所邦暢。長崎への原爆投下直前に諫早に移住。56年に諫早高校卒業。上京してアルバイトを経て57年から翌年まで自衛隊入り。その後、諫早に戻り家庭教師などをしながら文学を志す。「或る男の故郷」(65年)で文学界新人賞佳作。「壁の絵」(66年)「白桃」(67年)「海辺の広い窓」(72年)「鳥たちの河口」(73年)で芥川賞に4度ノミネート。「草のつるぎ」(74年)で第70回芥川賞受賞。小説のほかにもエッセイや詩集など多くの作品を残す。「諫早菖蒲日記」は、本題と「諫早舟唄日記」「諫早水車日記」の3章構成で76年発表。80年5月、心筋こうそくにより42歳で死去。

●私の推薦文

映像での日記の復活願う 西村房子さん(73)=季刊「諫早通信」編集長 (長崎県諫早市)

 野呂氏は諫早高校美術部の出身で、私はその5学年上の先輩。「諫早菖蒲日記」を読み返すたびに、当時の風景が美しい絵のように浮かび上がってくるのは、野呂氏が美術の才能をも兼ね備えていたからだと思う。野呂氏が「言葉の風景画家」と評される由縁である。
 作品の所々には、地元の花々や有明海の魚も登場している。多くのエッセーにも諫早の様子が生き生きと描かれており、野呂氏が本当に郷土を愛していたんだとつくづく感じる。
 実は、野呂氏が急逝した直後、「諫早菖蒲日記」をこよなく愛した脚本家の故向田邦子氏がドラマ化を計画。向田氏本人が、諫早にも足を運んで構想を着々と進めていましたが、直後に航空機事故でお亡くなりになり、ドラマ化も立ち消えになってしまった。
 少女のすがすがしい視点で描かれた「諫早菖蒲日記」がいつか映像でよみがえることを切に願っている。

●メモ

 ■「諫早菖蒲日記」は文芸春秋社から単行本と文庫本が出ていますが、品切れで取り寄せることができません。当面は図書館で読むしかないようです。

 ■諫早市の上山公園には「諫早菖蒲日記」の冒頭部分を刻んだ文学碑があります。毎年5月下旬には野呂をしのぶ「菖蒲忌」が同市芸術文化連盟主催で催され、地元の高校生らによる作品の朗読会などが開かれています。

 ■同市仲沖町の武家屋敷は現在は取り壊されています。野呂邦暢顕彰委員会(山下博之委員長)が中心となり、屋敷前に文芸碑を建立する計画です。山下委員長は「野呂氏の業績が諫早を訪れた人々に理解されるような碑にしたい」と張り切っています。

 ■野呂の作品やゆかりの人々の寄稿文を掲載する季刊誌「諫早通信」が2年前から地元で発行されています。現在9号目で、題名は野呂が文学仲間にあてた手紙が「諫早通信」と呼ばれていたことに由来しています。

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2006年10月01日

田中一村「田中一村作品集」

 田中一村は、奄美の自然を描いた孤高の画家である。世間が評価したのはその死後だった。そんな事情から彼の人生をたどる資料は少ない。例えば、誰に絵を習ったかということすら判然としない。なぜ奄美に来て、なぜ画風が一変したのかといったことに踏み込もうとすれば、現状では想像するしかない。奄美大島に来てあれこれ想像し、いくらか一村の気持ちに寄り添えた気分になった。そして、島を去るときふと脳裏に浮かんだのは「一村さん、あなたは幸せでしたね」という言葉だった。

 一村は幼いころから南画をよくし、九歳で「米邨」と号した早熟の画家だった。18歳で東京美術学校(現東京芸大)に入学したのも才能の一端を示していよう。同級生には東山魁夷らがいた。だが、入学からわずか三カ月で退学する。『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編)は、健康の問題とするが、後に出版された「奄美群島日本復帰50周年記念田中一村展」の図録は「定かでない」とする。厳密には分からないにしても、一村の類い希(まれ)なる「自信家」という性格が、背景にあったのだろう。一村が大変な自信家だったことは、今日の奄美でも何人かが「芸術の話になったら絶対に譲らなかった人」などと証言する。
 退学した直後に「田中米邨画伯賛奨会」なる後援会が作られ、賛助会員には参議院副議長小泉又治郎らそうそうたる知名士が名を連ねた。青年一村の絶頂期であったろう。
 だが、長続きしない。自分が本当に描きたい絵は違うのだという思いが、一村を支配する。描きたい絵と売れる絵が違うという問題は、画家にはしばしばあることで、大抵はどこかで折り合いをつけることになる。一村は妥協せず、支援者は去っていった。身内の不幸も重なり、最大の理解者である姉の喜美子と、千葉市で晴耕雨読ならぬ晴耕雨「描」の生活を送る。画壇に認められようとして、もがけばもがくほど認められなくなる。アリ地獄に落ちたような精神状態ではなかっただろうか。
 奄美に移住したのは50歳のとき。田中一村記念美術館学芸専門員の前村卓巨さんは、日展の落選が奄美行きを決意させる引き金になった可能性があると指摘する。
 「東京美術学校のかつての同級生らが、審査員クラスの重鎮になっていたのだから、日展の落選は耐え難かったでしょう」
 一村の才能を信じ、ときには画論を戦わせ、ついに結婚もしなかった姉と分かれ、家も売り、一村は旅立つ。すべてを「捨てた」のだ。向かった先は当時の日本最南端・奄美。自分を認めない画壇から最も遠い所だった。

 奄美市名瀬の繁華街・屋仁川(やんご)に「一村」という料理店がある。店主の栄俊久さん(51)は、根っからの一村ファンだ。1979年、一村の三回忌に合わせて開いた遺作展の実行委員として準備にあたり、一村の絵を初めて見たときの驚きを、昨日のことのように語った。
 「箱から絵を出した瞬間にね。何かわからないけど、ビビーッときたからねー」
 会場は同市名瀬中央公民館の二階。壁にぐるっとシーツのような白い布を巡らして作品を掛けた。ビビーッときたのは「ユリと岩上のアカヒゲ」という作品。「岩に留まった小鳥が心にしみたねー」
 ホテルの料理人だった栄さんは知人に誘われて「ちょこっと手伝うつもり」だった。ビビーッと来てから熱心なメンバーに変身した。このような人々が集まって遺作展は開かれ、一村を世間に評価させるきっかけとなった。つまり、南日本新聞社やNHKが一村を知り、大きく報道したのだ。

 生前、一村は「私の絵が評価される時が必ずくる」と語っていたという。その言葉の通りになった。
 ピカソの画集を枕元に、粗末な借家に寝起きし、赤貧洗う生活に耐え、日給450円のうちからコツコツと資金を蓄えて画材を求め、絵を描いた一村。痩せこけ、仙人を思わせる。物質的な豊かさを捨てた姿であろう。捨てたことで一村の心は解放された。端で見るほど、辛(つら)くはなかったはずだ。「辛い」と感じるようでは、そもそもこのような生き方は選択できまい。画材がそろい、いつでも絵が描けるというときは、無上の喜びだったはずだ。奄美の気候は穏やかで、人々は優しい。
 果たして一村は何を描きたかったのか。前村さんは一村の絵にしばしば立(たち)神(がみ)岩が描かれていることに注目する。それは奄美の信仰上のひとつの聖地。海の向こうの理想郷「ネリヤカナヤ」から神が島にやってくる中継点のような存在だ。「クワズイモとソテツ」の絵では、クワズイモの花が実って枯れるまでを描いて時間を、ソテツの雄花と雌花で生命の輪廻(りんね)を表現しているのではないか、と。
 「目に見える動植物や風景を組み合わせながら、奄美の民間信仰に基づいた曼(まん)荼(だ)羅(ら)を描きたかったのではないでしょうかね」
 狭小なる人生に呻吟(しんぎん)しながら、何ひとつ捨てられない記者には、およそ見えない世界である。
 (文=文化部・井口幸久)

▼たなか・いっそん

 1908年栃木県生まれ。5歳で東京に移り、7歳で児童画展で天皇賞。喜んだ父が「米邨」の号を与えた。26年、中学校を優秀な成績で卒業、東京美術学校に入学したが、3カ月で退学した。48年、青龍展に「波」が入選したものの自信作だった「秋晴れ」の落選を不服として「波」の入選を辞退した。58年、奄美行きを決意して自宅を売却し同年末に奄美市名瀬に下宿。翌年、国立療養所和光園の官舎に移住する。紬工場で染色工として働いて資金を稼いでは絵を描き、また働くという生活を繰り返す。77年、心不全で倒れ死去、69歳だった。

●私の推薦文

卓越した描写力と構成力 渡辺須美子さん(45)=主婦 (福岡市早良区)

 田中一村を知ったのは、NHKの番組「日曜美術館」でした。実物を見たのは、その数年後に全国を回った巡回展でした。
 どの作品も印象的でした。ポスターのようだと批判的に見る人もいるようですが、私はそうは思いません。卓越した描写力、そして構成力がすごい。特に「奄美の杜(1) ビロウとコンロンカに蝶」は優れた作品だと思います。気品があって目に焼きつきました。
 また、一村の絵は、中国の絵に似ていると感じたのを覚えています。一村は、どこかで中国の絵画を勉強したのでしょうか。スタイルや技巧、何でも役に立つものは取り入れた人なのでしょう。その点では、北斎とのつながりも感じました。
 私なりの絵の評価とは別に、そのひた向きな生き方に魅力を感じたことは言うまでもありません。

●メモ

 ■田中一村記念美術館は、奄美市笠利町の旧奄美空港跡地に鹿児島県が建設した奄美パークの中核施設です。2001年9月の開業以来、約38万人が来館しています。「一村への手紙」には、来館者が一村の絵に対する感想などを書いています。同館=0997(55)2333。

 ■一村が16年間暮らした奄美市名瀬有屋の借家は区画整理のために移設。元の場所にほど近い所に保存されています。また、一村が働いた紬工場は今も操業しています。

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