北原白秋「思ひ出」
北原白秋の第二詩集で出世作の「思ひ出」は1911年、白秋26歳のときに東京で書き上げられた。記者もいま26歳。不遜かもしれないが同年の男を思い描きながら、その歩んだ道をたどった。
水郷・福岡県柳川市は、縦横に掘割(ほりわり)がめぐる。柳の枝が水面に垂れるその掘割を、どんこ舟でゆらゆらと進んだ。身をかがめて橋をくぐると、日常とは異なった風景が広がる。心地よい風が追い越していった。
白秋が生を受け、19歳まで暮らした街並みは当時とは一変した。が、掘割のゆったりとした水の流れは今も変わるまい。国民的詩人・白秋をはぐくんだ原風景であり、彼に決別を決意させた故郷の景色でもある。
「思ひ出」は、その2年前に刊行した初詩集「邪宗門」に続き、白秋の存在を詩壇に知らしめた作品である。巻頭の「わが生ひたち」は故郷への決別宣言。柳川を「水に浮いた柩(ひつぎ)」「静かな廃市」と呼び、「『思ひ出』に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しやうと思ふ」と書いた。
白秋は、柳川藩の御用商人で、九州でも有数の海産物問屋の跡取り息子に生まれた。父の代には、主に酒造業を営んでいた。白秋生家前には、現在は避難港となった船だまりがある。当時は、毎日のように帆船が到着し、長崎や平戸、天草などから、ハイカラな言葉や文物が届いた。柳川に居ながらにして、豊かな外国文化に触れることができただろう。
「わが部屋」
わが部屋にわが部屋に
長崎の絵はかかりたり、
路のべに尿する和蘭人(おらんだじん)の
金紙の鎧(よろい)もあり
赤き赤きアラビヤンナイトもあり。 (以下略)
熊本県にある母方の実家では、当時としては貴重なイソップ物語やアラビアンナイトを読みふけった。「トンカジョン」(大きな坊ちゃん)と呼ばれた白秋の文学的素養が培われていった豊饒な時間であったろう。
平穏な生活は長く続かない。16歳のときに実家が大火に遭い、酒蔵など母屋以外が焼失。文学に傾倒していった白秋は、旧制中学伝習館(現伝習館高)を中退し、父親の反対を押し切って、逃げるように19歳で上京し、早稲田大に進学する。
「思ひ出」を刊行した翌年、借金を抱えた一家が、白秋を頼って上京している。彼の心の風景には、現実以上に郷里が色あせて映っていたのかも知れない。追い打ちをかけたのが、友人中島鎮夫の自死だった。「TONKAJOHNの悲哀」の中の一編で、その死を悼んだ。
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣台は
ひとり入日にゆられゆく…
(以下略)
「白秋」の名は伝習館時代に生まれた。文学を志す6人の仲間で「白」の下に一字をあてた雅号を付けることになり、みなでくじを引いた。「白雨」中島は、白秋のよきライバルであり親友だった。彼の死から2カ月後、白秋は上京。そして、生涯「白秋」を使い続けた。実家の没落と親友の死。白秋にとって故郷はつらい記憶にまみれ、43歳になるまでの20年間、柳川を訪れることはなかった。
詩、童謡、民謡、短歌、書…。白秋の才能は幅広いジャンルでいかんなく発揮された。「思ひ出」の装丁や挿絵も自作。表紙にはダイヤのクイーン。今見ても、実にしゃれている。
初期の「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」の3作は、ほぼ同時期の作とみられる。白秋の姉の孫で、福岡県瀬高町で酒造業を営む江崎和夫さん(73)は「白秋はやっぱり商売人の子。間を置かずに、趣が違う3作品を発表しており、自分の売り出し方を知っていたのではないか」と指摘する。その思惑通りだったか、「思ひ出」刊行後、文学誌上のアンケートで、白秋は詩人部門の第1位に推されるほどの人気を博している。ところが翌年、隣家の人妻と恋に落ちた。夫から姦通(かんつう)罪で告訴され、2週間ほど拘留されている。
人気絶頂となった白秋が、世間的な成功、社会的名声を顧みず、愛情という計算できない感情に真正面からぶつかっていったのは、27歳の青年らしいまじめさ、真剣さだったろう。
その後、3度の結婚や30回以上の転居など白秋の人生は穏やかではなかった。一度は決別した柳川への愛着も強かった。ささくれだった気持ちを丸ごと受け止めてくれるのは、はやり故郷だったろう。41年に柳川を訪れたのが白秋最後の帰郷となった。
そのとき白秋は母校・伝習館で講演している。腎臓病で目を患っていた白秋は黒眼鏡をかけ、2人の子に手を引かれて登壇し、25分ほど、作詩する上で数学や音数律の大切さを説いたという。
生家近くに住む画家の北原悌二郎さん(82)は、その講演を覚えている。
とつとつとした口調だったが、当時の学生たちにとって「雲の上の存在」の白秋のひと言ひと言に「やはり詩人だなあと感じました」と振り返る。
たどってみると、白秋は巨大だった。その存在は、檀一雄や長谷健をはじめ、多くの文人を輩出する土壌となった。そして、今なお、白秋が後輩たちに託した望郷の思いは、脈々と受け継がれている。
(文=柳川支局・片岡 寛 写真=写真グループ・納富 猛)
▼きたはら・はくしゅう
1885年1月25日、現在の福岡県柳川市に生まれる。本名は北原隆吉。旧制中学伝習館を中退後、早稲田大に進学。処女詩集「邪宗門」を皮切りに、次々と傑作を世に送り出す。1918年、童話童謡雑誌「赤い鳥」創刊から童謡欄を担当。詩、民謡、短歌、翻訳など作品のジャンルは幅広い。山田耕筰とのコンビで「待ちぼうけ」「からたちの花」など、300曲近い童謡や校歌を手掛けた。晩年には日本芸術院会員に。42年11月2日、57歳で死去。
(写真は北原白秋生家・記念館提供)
●私の推薦文
原点にあふれる望郷の念 津留 秀春さん(49)=北原白秋生家・記念館事務局長(福岡県柳川市)
白秋ほど、郷里を愛した詩人はいないと思います。「思ひ出」にも柳川弁が多く登場し、上田敏から激賞されたという「わが生ひたち」を読むと、掘割の情景が目に浮かび、作品の中に引き込まれます。幼いころの記憶でも、とても細かい部分まで描写していて、驚かされます。帰りたくても帰れなかった柳川。誰もが持っている幼少期の原風景を、白秋は人一倍感じ取っていたのではないでしょうか。
亡くなる1カ月ほど前、死期を悟った白秋は、写真集「水の構圖(ず)」で、柳川を「我が詩歌の母體(たい)」と記しています。柳川に生まれなければ、白秋はありませんでした。詩歌や童謡など、白秋は生涯に約2万点の作品を残したと言われています。その原点ともいえる作品が「思ひ出」です。白秋の創作活動が「思ひ出」に始まり「水の構圖」に終わったことは、何か因縁めいたものを感じます。
白秋は本の装丁も手掛けました。ぜひ、復刻版を手に取って読んでみてください。
●メモ
■福岡県柳川市の白秋の生家は「北原白秋記念館」になっています。人手に渡り解体の危機にあったのですが、地元有志たちが保存運動を起こして、記念館として整備しました。柳川観光名所の1つです。白秋ゆかりの品々が展示されており、「思ひ出」の復刻版も販売しています。同館=0944(72)6773。
■白秋の命日を挟んだ11月1‐3日には毎年、柳川市で白秋祭が行われます。2日の式典では、全国から公募した献詩の最高賞受賞者が、自らの詩を朗読。夜は白秋の童謡のコーラスや花火が楽しめる水上パレードが有名です。毎年1月25日は白秋生誕祭もあります。
■柳川市内には、白秋の作品にちなんだ碑が19カ所あります。碑を探しながら散策してみるのもいいかもしれません。生家から白秋が伝習館に通った道は、白秋道路として遊歩道になっています。
商品のご購入について
このページで紹介している著書は、リンク先のサイト「Amazon.co.jp」でご購入いただけます。 ご利用の際には「Amazon.co.jp」の利用規約をご一読ください。また、その利用規約に同意の上、登録や購入手続きを行ってください。

