西日本新聞

千年書房・九州の100冊

野呂邦暢「諫早菖蒲日記」

 早暁、本明川沿いの道を諫早湾に向かって歩いた。南に雲仙岳、北に多良岳の峰が見える。やがて日の出とともに、1000メートル級の2つの山の稜線(りょうせん)が明るく輝き、陽光が川面にたなびく朝霧を白く照らし出す。
 恐らくは太古の昔から変わらないであろう光景。長崎県諫早市に今暮らしている人々と同じように、野呂邦暢も、そして、野呂が生み出した「諫早菖蒲(しょうぶ)日記」の主人公たちも、この神秘的ともいえる景色を眺めたに違いない。

 「諫早菖蒲日記」の主人公は、佐賀藩の支藩だった諫早藩の砲術指南役藤原作平太の娘志津である。時代は幕末。15歳の志津が、安政2年の初夏から翌春まで日記を書いたという筋立てで、物語は進められる。
 野呂は、結婚を機に諫早市仲沖町の古い武家屋敷に移り住んだ。34歳だった。その屋敷こそが、主人公のモデルとなった砲術指南役親子が暮らした屋敷だった。裏庭には菖蒲畑が広がる。その土蔵にあった砲術書などとの出合いが小説を書く動機になった。
 野呂は諫早市誌を熟読し、この地で起きた出来事や、人々の暮らしを小説に盛り込んだ。佐賀藩の圧政に忍従する諫早藩の様子や、外国船が開港を求めて相次いで来航する状況に動揺する武士の姿など、志津の日記は史実に基づく。しかし、武家の娘とはいえ、それほどに世の中の出来事を知る少女がいるはずもない。志津が難聴気味の父の傍らで耳代わりになり、大人たちの会話から世情を知る立場にあったとの設定を野呂が用意したのは、物語にリアリティーを持たせるためだったに相違ない。志津は生き生きと躍動感にあふれて描かれる。志津の家で働く吉爺(きちじい)との会話もそうだ。
 「吉よい、私は海ば見たことはなかと」
 「干き潮どきの川下りはむずかしゅうごんす」
 本明川の河口でクジラを仕留める漁師、キジを撃ち損なって落胆する父。市中の様子や身内の出来事を語る志津の言葉を、野呂は諫早の方言でつづった。

 野呂は諫早を愛した。「草のつるぎ」で芥川賞を受賞した1974年当時、九州に足場を置いて活動する現役芥川賞作家は、野呂しかいなかった。東京に出版社が集中し、通信事情がそれほど発達していなかったこともあり、中央文壇で活躍しようと思う作家は上京するのが当たり前だった。それでも野呂は諫早にとどまった。あるとき野呂は、諫早で執筆活動を続ける理由を知人にこう答えたという。
 「人間も木と同じ。ここに植えている木を東京に移したら枯れてしまう」
 それほどまでに諫早にこだわったのは、野呂が2度にわたって「故郷」を失った体験が背景にあったからではないか。
 最初は、45年8月9日の長崎原爆だった。長崎市内で生まれた野呂は小学2年の春、父親が応召したため諫早市の母の実家に疎開した。その年の夏の原爆投下によって、長崎市にいた同級生の友達のほとんどが被爆死したという。
 2度目は、57年7月25日の諫早大水害だ。死者500人以上、行方不明者40人を数える大惨事だった。野呂はその年の春に自衛隊に入隊していた。実家は流出こそ免れたが全壊。翌年に20歳で除隊した野呂は、42歳で亡くなるまで諫早に住み続けた。親しい者、いとおしいものが一瞬のうちに失われる喪失感と無常感。それが、郷土の自然や歴史、そこに生きる普通の人々の、普通の生活を愛し、2度と再び大切なものを失いたくないという強烈な郷土愛につながったのではないか。

 諫早菖蒲日記は、次のような書き出しで始まる。

 まっさきに現われたのは黄色である。
 黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。
 堤防の上に5つの点がならんだ。
 堤防は田圃(たんぼ)のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶(ちょう)のかたちに似ている。…

 色とりどりの帆を掲げた漁船が本明川をさかのぼってくる。干潮時には高い堤防に遮られて見えないその帆が、潮が満ちてくると、堤防から突き出たようにポツン、ポツンと点のように見えてくる。本明川を眺める志津の視線を借りて描かれたのは、野呂がこよなく愛した諫早の河口の風景であった。
 野呂が心筋梗塞(こうそく)で急逝してから26年が過ぎた。本明川が注ぐ諫早湾では、国策による干拓事業によって湾を仕切る潮受け堤防が完成し、広大な干潟が生まれている。漁船が本明川を上ってくることは2度とない。潮の干満による水の躍動もない。
 諫早を愛し、本明川と諫早湾、有明海が織りなす景色の美しさを幾度となく小説やエッセーに書き遺(のこ)した野呂の魂は、故郷の変わり様を誰にもまして寂しく感じているに違いない。
 (文 =諫早支局・阿比留北斗 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼のろ・くにのぶ

 1937年9月20日、長崎市生まれ。本名納所邦暢。長崎への原爆投下直前に諫早に移住。56年に諫早高校卒業。上京してアルバイトを経て57年から翌年まで自衛隊入り。その後、諫早に戻り家庭教師などをしながら文学を志す。「或る男の故郷」(65年)で文学界新人賞佳作。「壁の絵」(66年)「白桃」(67年)「海辺の広い窓」(72年)「鳥たちの河口」(73年)で芥川賞に4度ノミネート。「草のつるぎ」(74年)で第70回芥川賞受賞。小説のほかにもエッセイや詩集など多くの作品を残す。「諫早菖蒲日記」は、本題と「諫早舟唄日記」「諫早水車日記」の3章構成で76年発表。80年5月、心筋こうそくにより42歳で死去。

●私の推薦文

映像での日記の復活願う 西村房子さん(73)=季刊「諫早通信」編集長 (長崎県諫早市)

 野呂氏は諫早高校美術部の出身で、私はその5学年上の先輩。「諫早菖蒲日記」を読み返すたびに、当時の風景が美しい絵のように浮かび上がってくるのは、野呂氏が美術の才能をも兼ね備えていたからだと思う。野呂氏が「言葉の風景画家」と評される由縁である。
 作品の所々には、地元の花々や有明海の魚も登場している。多くのエッセーにも諫早の様子が生き生きと描かれており、野呂氏が本当に郷土を愛していたんだとつくづく感じる。
 実は、野呂氏が急逝した直後、「諫早菖蒲日記」をこよなく愛した脚本家の故向田邦子氏がドラマ化を計画。向田氏本人が、諫早にも足を運んで構想を着々と進めていましたが、直後に航空機事故でお亡くなりになり、ドラマ化も立ち消えになってしまった。
 少女のすがすがしい視点で描かれた「諫早菖蒲日記」がいつか映像でよみがえることを切に願っている。

●メモ

 ■「諫早菖蒲日記」は文芸春秋社から単行本と文庫本が出ていますが、品切れで取り寄せることができません。当面は図書館で読むしかないようです。

 ■諫早市の上山公園には「諫早菖蒲日記」の冒頭部分を刻んだ文学碑があります。毎年5月下旬には野呂をしのぶ「菖蒲忌」が同市芸術文化連盟主催で催され、地元の高校生らによる作品の朗読会などが開かれています。

 ■同市仲沖町の武家屋敷は現在は取り壊されています。野呂邦暢顕彰委員会(山下博之委員長)が中心となり、屋敷前に文芸碑を建立する計画です。山下委員長は「野呂氏の業績が諫早を訪れた人々に理解されるような碑にしたい」と張り切っています。

 ■野呂の作品やゆかりの人々の寄稿文を掲載する季刊誌「諫早通信」が2年前から地元で発行されています。現在9号目で、題名は野呂が文学仲間にあてた手紙が「諫早通信」と呼ばれていたことに由来しています。

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