森鴎外が熊本に滞在したのはわずか6日間だけだった。小倉(北九州市)の第12師団軍医部長のときの1899年と、陸軍省医務局長だった1910年。いずれも2泊3日の視察旅行だった。短い滞在だが、肥後藩士の殉死を題材にした歴史小説「阿部一族」の創作とあいまって、熊本ゆかりの作家として地元では認知されている。
同書は2回目の訪問から3年後に発表された。その前年、衝撃の出来事が起きた。明治天皇大葬の9月13日、乃木希典大将が妻の静子とともに自刃した。近代国家への道をまい進するなか、突如、封建制の風習「殉死」がよみがえったのだった。
当時の知識人に与えた影響も小さくなかった。夏目漱石は「武士道精神の終焉(しゅうえん)」と受け止め、芥川竜之介は「将軍の気持ちは幾分分かるような気がする」といい、志賀直哉は「『馬鹿な奴だ』といふ気がした」と日記に記した。鴎外は「軍人精神の極致」と称賛したという。「阿部一族」執筆のきっかけが、乃木殉死であることはよく知られている。
1641年、肥後熊本藩の初代藩主細川忠利が亡くなった。「阿部一族」の物語は忠利の病床から始まる。多くの家臣たちが忠利に殉死を願い出た。殿様の許しがないまま自ら命を絶てば犬死にである。結局、18人に死出の供が許された。
阿部(あべ)弥一右衛門(やいちえもん)という古株の家臣がいた。長く忠利に仕え、本人も周囲も当然、殉死するものと考えていた。だが、何度願い出ても忠利が首を縦に振ることはなかった。嫌われていたのだ。ほどなく忠利が逝き、18人は自害した。
藩主は光尚(みつひさ)の代になり、以前と変わらず勤めに精を出す弥一右衛門の耳に不穏なうわさが入った。
「阿部はお許しのないことを幸いに生きていると見える」
生き恥をさらすわけにはいかない。ならば死んでやろう。主人の許しがないまま、弥一右衛門は腹を切った。その死は他の殉死者と同じ扱いを受けず、差別的な相続が行われた。忠利の一周忌の場で嫡男権兵衛が髪を切る暴挙に出た。「武士を棄(す)てる」と宣言した権兵衛を光尚は縛り首にした。一族は屋敷に立てこもり抗戦の構え。藩は討っ手を差し向けた。そして一族は壮絶な死を遂げた。
物語は鴎外のオリジナルではない。阿部家の隣人、栖本(すもと)又七郎という武士が書いたとされる「阿部茶事談」を参考にしている。阿部茶事談にある権兵衛の縛り首や一族の滅亡は史実とされるが、戦後の研究で、物語の重要な部分が脚色されていることが分かった。
熊本大文学部の吉村豊雄教授(58)は「許しがないまま腹を切った者は弥一右衛門だけではないし、権兵衛が無謀な行為に走った直接の原因、跡目相続の差別的な扱いも事実ではない」と話す。
熊本市の観光スポットの一つ、北岡自然公園は細川家の菩提(ぼだい)寺跡だ。忠利の霊廟(れいびょう)を取り囲むように19基の墓石が立つ。その中の1つの石に「阿部弥市(一)右衛門」の文字が刻まれていた。弥一右衛門の殉死は他の18人と同等に扱われていたのだ。
「阿部一族」は鴎外の作品のなかでは平易な文体で淡々と書かれている。歴史小説という分類もあって、史実と思っていた読者も多いだろう。鴎外は脚色されていることを知らなかったのだろうか。知っていて、あえて引用したのだろうか。同大の首藤基澄名誉教授(69)は「藩主と反りが合わない苦しみ、こじれていく人間関係を描くために参考にしたのだと思う。鴎外は非常に頑固な人間だった。自分の苦しみを弥一右衛門に反映させたかったのだろう」と見る。
鴎外は、軍でも文壇でも大論争を巻き起こして衝突を繰り返してきた。ゆがむ人間関係の中で孤立、苦しんできた自身を、弥一右衛門に重ねた。すでに「阿部茶事談」が史実であるかどうかは問題ではなかったろう。
物語には一連の事件を裏で操る大目付が登場し、一族を滅亡に追いやる悪役として描かれている。組織のトップにおもねり、誰彼となくおとしめる小ざかしい人物だ。
弥一右衛門や嫡男権兵衛は、現代風に言えば、悪知恵の働く上司にいじめられ、社長からもしかとされる。悶々(もんもん)としているうち、根も葉もないうわさが立ち、次第に孤立感を深めた。行き詰まった人間関係のなか、ついに一線を越える。心を病むサラリーマンが増えている現代社会に一脈通じるところはないだろうか。
鴎外は、乃木の殉死に共感していたと伝えられている。同じ軍人としての立場がそうさせたのかもしれない。だが、「阿部一族」からは殉死への賛美を読み取ることはできない。むしろ、殉死を引き金に、不信、憎悪、欲望が渦巻く人間関係の悲劇が強調される。いずれの時代にあっても避けては通れない人間関係のしがらみ。鴎外が「阿部一族」で人間関係の苦悩を伝えたかったとすれば、封建制下の物語が一気に普遍性を帯びてくる。
「ほら、あなたのそばにも苦悩する弥一右衛門や権兵衛がいる」。鴎外からのメッセージを、私はそう受け止めた。
(文=熊本総局・新志有裕 写真=写真グループ・岡部拓也)
▼もり・おうがい
1862年、石見国(現・島根県)津和野に藩医の長男として生まれる。本名森林太郎。81年に東京帝国大学医学部を卒業。軍医となり84年ドイツ留学。88年に帰国後、文筆活動を本格化。訳詩編「於母影」(89年)、小説「舞姫」(90年)などを発表。91年には「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を展開。99年、第12師団軍医部長として小倉に赴任。1907年、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。09年、「スバル」に性を描いた「ヰタ・セクスアリス」を発表、発禁となる。12年、乃木希典の殉死に影響され「興津屋弥五右衛門の遺書」を発表。「阿部一族」(13年)「高瀬舟」(16年)などの歴史小説を書いた。22年7月、60歳で死去。
●私の推薦文
肥後人気質が見える 一木 和世さん(58)=熊本市歴史文書資料室(熊本市)
肥後人は「頑固」で「一本気」だと言われている。許可なく切腹した弥一右衛門や、縛り首に処せられる暴挙に出た嫡男権兵衛からは肥後人気質が見える。殿様に逆らうのは並大抵のことではない。
「阿部茶事談」は、多くの武士たちに書き写された。あの悲劇が自分たちに訪れないように教訓にしたのだろう。人の命よりも「お家」の存続が大切だとされていた当時でさえ、尊厳を傷付けられた「個人」の思いは爆発してしまった。「公と個」という人間社会のテーマを考える上では、いつの時代でも面白く読める1冊だと思う。
鴎外自身は、登場人物に感情移入することなく、客観的に描いているが、もし自分が弥一右衛門だとしたら、やはり意地を張って切腹を遂げるか、他に解決策がないか探してみるか。歴史に思いをはせて、選択肢を想像してみると非常に興味深い。
●メモ
■「阿部一族」は新潮社や岩波書店などから出版されているほか、インターネット電子図書館「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)では無料で読むことができます。
■熊本市山崎町のRKK熊本放送の敷地には、阿部一族の屋敷があったとされています。1961年に作家の荒木精之さん(故人)が発見しました。小さな碑文が立っています。
■JR熊本駅の近くには、忠利を火葬した春日寺があります。忠利に愛されていた鷹が、飛び込んで殉死したとされる井戸もあります。
■95年には、深作欣二監督によるテレビドラマ版が制作された。山崎努さんや佐藤浩市さん、蟹江敬三さんらが出演。DVDも発売されています。
■北九州市小倉北区鍛冶町には、鴎外が小倉に赴任した際の旧居があります。「我をして九州の富人たらしめば」などを書きました。市の文化財に指定され、当時の姿に復元されています。
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