山と山とが讃嘆(さんたん)しあうように
星と星とが讃嘆しあうように
人間と人間とが讃嘆しあいたいものだ (「君も僕も美しい」)
詩の世界が、眼前の大パノラマと重なって胸に迫る。宮崎県木城町石河内の峠に建つ、武者小路実篤の文学碑。ただ、黒い石に刻まれているのは、よく言えば童心あふれる、正直言うと小学生の手習いのような字である。
「それが先生なのよ。体裁なんてまるで考えないのね」
実篤が始めた「日向新しき村」の住民、松田ヤイ子さん(74)が楽しげに言うので、町役場にある原本を見せてもらった。厳重な金庫から出てきた書は、なんと「讃嘆しあいたい」の「た」を間違え、堂々とバッテンを付けて書き直してある。町に贈られたのは1968(昭和43)年。実篤が83歳の時だ。
ヤイ子さんの夫、省吾さん(63)は笑って擁護する。「だって、詩が生まれた心には『間違い』はないからね」
実篤の絵を思い出した。おおらかで前向きで天衣無縫。「仲よき事は美しき哉(かな)」と達観し、カボチャにもジャガイモにも美を見いだして一心に描いた。努力家でもあったらしい。
「本当に80過ぎても90になっても、あきらめたくなかった人だった。父の印に『牛一歩』というのがあって、これは『モウ一歩』と読むそうで、まったくいつもその気だった」
実篤の三女辰子さん(78)=東京都小金井市=は、回想記にこうつづっている。
90年の長命を全うした実篤は、何を考え懸命に生きた人だったのか。峠を下りて日向新しき村へと向かった。
生い茂る木々にぐるりと囲まれた敷地は約5.5ヘクタール。刈り取られたばかりの田んぼに、シュンギクやナスの畑、幾つかの民家-ここは1918(大正7)年、人間らしく生きる理想郷を目指した33歳の実篤が、全国から集まった若者とともに創設した。
彼にとっては文学をやらうと思つたのと、新しき世界を生み出したいと思つたのとは、殆(ほと)んど同時である。それは彼の双生児である (「或る男」)
実篤は18歳の時、叔父の薦めでトルストイの著作と出会い心酔する。理想社会について考えるにつれ、メーテルリンクやロダンにも刺激を受けて思想世界を深めていく。そして24歳で文芸誌「白樺」を創刊。このころは、社会や個人のあり方が模索された大正デモクラシー前夜でもあった。
村の建設を志したのには、実篤自身の願望もあった。華族階級に生まれ、額に汗して働いたことのない自分は世の中の食客である…自己を生かし、互いに協力しあう理想社会を求める中で沸き上がってきた、自分を変えたいという強い思いがあった。
長年の夢だった村を実現した実篤は、喜びと意欲に満ちていた。7年の在村期間に出した作品は単行本だけで30冊以上。代表小説の「友情」や「幸福者(こうふくもの)」も生まれた。詩作も多く、「君も僕も美しい」も村で星空を見上げて作った一篇という。
しかし、現実は厳しかった。入村した若者は農業の素人ばかり。やせた土地で水の便も悪く、生活は実篤の原稿料や支援者の寄付に頼らざるを得なかった。1925(大正14)年12月、実篤は村を離れる。執筆に専念して村の経済を支えるため、そして妻と別れて再婚した女性との間に二女が生まれたことなどが理由だった。
それでも、村は絶えなかった。1938年には村の肥えた土地がダムに沈むことになり、入村者は埼玉県に移住。村は実篤の元妻と再婚相手の2人のみとなっていたが、76年、松田省吾さんが移り住んで後継者となった。
社会科教員を目指していた省吾さん。「人間が土地にどう働き掛けて自然の恵みをもらっているのか、全く知らないまま教師になっていいのか」と入村し、5年の予定が今に至っている。「自分を育てるのは一生の仕事だから」。省吾さんの言葉は、実篤が伝えたかった生き方を表している。
村は5人が住まうだけとなったが、実篤の精神は、時も所も超え、今も静かに息づいている。晩年の20年を過ごした東京都調布市の邸宅の隣に立つ記念館。学芸員の伊藤陽子さん(42)は85年の開館以来、「まっすぐな目をして質問を投げかけてくる若者」と絶えず出会ってきたという。
「自分を生かして生きるという実篤の理想は、時代は変わっても誰もが願う普遍的なもの。実篤は一生をかけてそれを追求した人だから、今もなお共感されるのではないでしょうか」
小説や戯曲、随筆、詩など生涯に6300篇を超える作品を残した実篤。「君も僕も美しい」の冒頭には、この3行がある。
君も美しい、僕も美しい
僕も美しい、君も美しい
美しいものだらけの世界
強烈な人間賛歌は、実篤の、自分自身への鼓舞ではなかったか。そして、挫折や困難が行く手を遮っても、理想へ「もう一歩」進もうとする人間の姿をたたえたものだったのではないか。だからこそ、人は立ち止まるとき、実篤の言葉と出会うのだろう。
(文と写真=佐賀総局・南陽子)
▼むしゃのこうじ・さねあつ
1885年、東京生まれ。父の子爵・実世は2歳の時に亡くなり「この子をよく育ててくれる人があったら、世界に1人という人間になる」と言い残した。母と姉、兄とのつつましい家庭で育ち、叔父とトルストイ、そして3度の失恋に大きな影響を受ける。学習院中等科で同級になった志賀直哉らと1910年、「白樺」を創刊。志賀は生涯、無二の友となる。1913年、竹尾房子と結婚。後に新しき村で飯河安子と再婚し、3女をもうける。晩年には「真理先生」など「山谷もの」といわれるシリーズを確立。野菜や静物を描いた書画にも情熱を燃やし、愛用のすずりに穴が開いたことは有名である。1976年、死去。90歳。
●私の推薦文
年を重ね、あらためて眩しく 南 邦和さん(73)=詩人(宮崎市)
たった一度だけ、武者小路実篤という巨人と出会ったことがある。私がまだ“研修生”と呼ばれる身分で、本郷・湯島の旧岩崎邸(最高裁書記官研修所)で学んでいた昭和30年。学内誌「道程」の編集長だった私は、たまたま一般教養の講師として来所していたこの老大家に題字の揮毫を直々にお願いしたのである。ゼイタクな青春の思い出の一こまである。
そのころ、私はこの〈白樺派〉の作家の「友情」や「愛と死」に熱中していた。その後いつしか武者小路実篤の名は私から遠ざかり、文学史的な意味での「新しき村」への関心から、村を訪ねるようになる昭和の終わりごろまで、この作家は若き日の“おもいでの巨人”であった。
この年齢になって、あらためて武者小路実篤の理想主義や、その楽天性が眩(まぶ)しく感じられるようになってきている。「真理先生」や「馬鹿一」の心境やその言葉が、だんだん身近になってくるこのごろである。
●メモ
■「君も僕も美しい」をはじめ実篤が残した詩の大半(約2300篇)は、小学館の実篤全集11巻に収められています。
■「山と山とが…」の文学碑は1968年、新しき村の創立50周年を記念して建てられました。木城町内の白木八重牧場には「人間萬歳」の碑もあります。建立に当たり、実篤は「(村に住んでいた時の)星の光りの明らかだった事は今だに思い出しております。私は、星と星とが、又山と山とがお互いに讃嘆しあう光景の美しさを想い、(略)人間達もお互いに獨立性を認めあって讃嘆しあえるようになりたい。それが新しき村の理想でもあるわけです」との手紙を町に送っています。
■新しき村には実篤が暮らした家が今も残っていますが、2001年、当初の間取りで新たに復元されました。実篤の書画や著作などを紹介しています。見学自由。0983(39)1139。また、東京都調布市の武者小路実篤記念館=03(3326)0648=のホームページも充実しています。

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千年書房「九州の100冊」は、好評のうちに40回を重ねました。今回の別冊は「親子で物を書いた人々」の特集です。"親の七光"と言いますが、作家の世界は甘くない。親の影を引きずり、乗り越え…。さまざまな親子作家を紹介します。
◇
親というものは、自分の来た道を志す子を、可愛(かわい)いと思うのだろうか。ノウハウを伝えられる道ならばいいが、文学はそうはいかない。血は水よりも濃いが、血の哀(かな)しみもある。
私は高校時代から、吉行淳之介にあこがれていた。インテリヤクザ風のととのった風貌(ふうぼう)、張った形の良い額、涼やかな目元、細く高い鼻梁(びりょう)、そげた頬(ほほ)、美しく怜悧(れいり)なナイフを思わせた。
「原色の街」「驟雨(しゅうう)」「娼婦の部屋」、いつも密(ひそ)かに息を殺して読み続けた。特に「砂の上の植物群」を読んでからは、成績は急転直下。ベルイマン監督の「沈黙」を見たのも同じ頃(ころ)であっただろうか。神聖視していた女性というものに、男以上の生臭さを感じ滅入(めい)った。どちらも姉妹の性的な確執である。
吉行の父は、吉行エイスケといい、ダダイズム、アナーキズムの作家である。岡山の土建業吉行組の坊(ぼっ)ちゃんで、16歳で高校を中退、17歳であぐりさんと結婚、18歳で淳之介をもうけている。流行作家となるが、27歳で筆を折り、株屋に転向、34歳で亡くなっている。
作品としては「新種族ノラ」「地図に出てくる男女」など。吉行は若き日、父の小説をほとんど読んでいない。新興芸術派という、形容デフォルメの強い筆致で、「文章が私の生理に合わず、ついていけないのである」と述懐している。
めったに家には帰ってこず、たまに帰って来ては怒鳴り散らし、また出ていくという、遊びに遊んだ父である。吉行には、父エイスケが重くのしかかっており、「砂の上の植物群」で、やっと父をふっきれたとエッセイに書いている。父とは正反対の無駄のない、クリスタルグラスのような文体である。私自身は、何度も写しマネをしたが非才でムリだった。代わりに肺結核だけはしっかりマネをした。療養で一層、学業がおろそかになった。吉行には大層迷惑を蒙(こおむ)っている。仕方が無い、惚(ほ)れた弱みだ。
作家の家は、親子、夫婦、愛人、兄弟、姉妹、その関係のどこかがいびつで欠けている。もちろん、すべてではないが、欠けているからこそ、心の懊悩(おうのう)や葛藤(かっとう)や、人の人生が書けるのである。「欠ける=書ける」はリンクしているのである。
太宰治(津島修治)には、本妻美知子との間に津島佑子があり、愛人太田静子との間には太田治子がある。「生まれて、すみません」といった、太宰が生ませた子たちである。津島は太宰の二女、数々の文学賞を受賞。「火の山-山猿記」は、最近のNHK連続テレビ小説「純情きらり」の原案、母美知子の実家石原家を描いたものである。太田の母静子は、「斜陽」のモデルである。治子は「心映えの記」で直木賞候補となる。「手記」では、太宰亡き後の母静子と自らの、辛(つら)き日々を隠さず余さず著している。共に昭和22年生まれの、異母姉妹である。
もっと凄(すご)い父子がいる。そのすさまじさは尋常ではない。佐藤紅緑、「ああ玉杯に花うけて」を筆頭に少年小説で一時代を成した。最初の妻の長男が、「リンゴの唄」や「おかあさん」の詩で有名なサトウハチロー。後妻の二女が、「戦いすんで日が暮れて」の直木賞作家佐藤愛子。紅緑には他に愛人もいた。非常に複雑な家庭環境であり、最初の妻の子たちはハチローを筆頭にすべてグレている。詳しいことは佐藤愛子の「血脈」をぜひご一読あれ。土性骨の入った一族である。すべては、紅緑の罪に起因する。少年たちに立志忠孝の道を説く小説を書きながら、我が子たちには正しい愛情を注げなかった。表大きく、裏も大きく、その落差がハチローと愛子という作家を育(はぐく)んだのであろうか。グレて、荒れて、叫んで、暴れて、身を持ち崩して、生き代わり死に代わりして、文学が絆(きづな)とは、哀しい異母兄妹である。
親子作家、他は列記とさせて頂く。森鴎外(父)、後妻の長女森茉莉、同二女小堀杏奴。幸田露伴(父)、幸田文(娘)。萩原朔太郎(父)、萩原葉子(娘)。斎藤茂吉(父)、北杜夫(息子)。吉本隆明(父)、よしもとばなな(娘)。江國滋(父)、江國香織(娘)。まだまだ多くいらっしゃるが、紙数が尽きた。みな命を削る大変な仕事をしている。父親の生き方がもたらした才能か、それともDNAか。偉大な父たちの、裸の姿を目の当たりにしたことが、同じ道、同じ業に進ませているのであろうか…。
●父には生活スタイル学んだ よしもとばななさん
よしもとばななさんのエッセー集「バナタイム」(幻冬舎文庫)に「遺伝かも」と題した文章がある。
「原稿を書くために1日ずっと家にいると、夕方なんとなく落ち着かなくなる。目も疲れているし、ずっと外に出ていないなんてなんとなくいやな感じがする。(中略)自然と足は夕飯の買い物のために商店街に向かう」
子どものころ、父親が同じように散歩がてら夕食の買い物に出掛けていたことを回想するのだ。
「その気持ち、今ならすごーくよく分かる」
父親とはもちろん、批評家・詩人の吉本隆明さんである。彼女は技術的なことより、こうした気分転換の取り方など「作家としての生活スタイルを学んだ」と強調する。「どういう風に自分を律していくか、という部分で影響を受けていると思うんです」
作家には決められた時間割というのがない。自分で1日を組み立てなくてはならない。自分を追い込んで書くような面もある。一方で追い込みすぎると体を壊す。「その調整が意外と難しい。こういうときに気を抜いて、こういうときに集中する、というのを父から自然と学んだのは大きい」
1987年に「キッチン」でデビューして間もないころに、そのことを痛感したという。うまく緩急を付ける術が分からずに、自滅してしまう新人作家が多いことに気づいた。「急に執筆しなさいと言われても、どこまで何をしたらいいのか、分からないですよね。私は父を見ていたから、その辺で迷わなかった」
母親も俳人、姉も漫画家の、もの書き一家である。「英才教育みたいなものは全然受けていない。同じもの書きといっても、父とは、大工と設計士のように職種が違うんだよな、と思っています」
影響を受けたのは、生々しい生活上のことだった。「ローンは組めるのか、払えるのか。1年間に何冊ぐらい本を出すと生活していけるのか、とか(笑)。知らないとものすごく不安だったはず」
吉本家のルーツは熊本県・天草の船大工。吉本家の血筋を感じるのは海辺にいるときという。「ソテツをみると妙にしっくりするし、船をみるとドキドキする。漁師さんをみても、ほっとするようなザワザワした気持ちになる」
いつか天草を描いた小説を読んでみたい気がする。
(東京報道部・内門博)
●原風景にある「大きな書棚」 徳永圭子さん=書店員 福岡市南区
雑誌文藝春秋10月号増刊『悠々として急げ』の中で、作家が父母の1冊を選んでその思いを語るという特集がありました。
福永武彦を父に持つ池澤夏樹さんは「なまじ似ているだけに突き放せない」と語っており、そこには尊敬や思慕の念とともに、遺された文章と戦う姿が垣間見えます。作家を親に持つ文章家には共通する思いのようです。
親族であることを公表したがらない方もいらっしゃいますが、作家の原風景の中にある「大きな書棚」を想像しながら作品を読むということも、私の読書の楽しみ方のひとつです。

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血沸き、肉躍る小説というのがある。戦国時代末期、海賊に身を投じた若者の成長を描く、この歴史小説も、そうした1冊だろう。出無精で、どちらかと言うと「腰の重い作家」と言われた、白石一郎が、何かに突き動かされるように、取材・執筆に3年、徹底的に現場を踏み、足で書いた小説である。
この作品を書くに当たり、白石は「舞台の空気を吸いたい」と松浦党ゆかりの長崎県の平戸・壱岐・対馬に計15回も通った。村上水軍ゆかりの瀬戸内の島々にも20回近く足を運び、資料を集め、イメージを膨らませた。嵐の海のシーンを書くため、台風の日を選んで玄界灘に面したホテルに泊まり、一昼夜、荒れ狂う海を凝視した。「主人は、この小説に賭けていました。原稿料はすべて取材費に使うと言っていました」(妻の文子さん)。
執筆にも、全体重を傾けた。原稿用紙3枚分の物語の導入部分を、10回も書き直した。海戦の場面を描くときは、色紙で折った船を机上に並べ、想定した天候、風向、潮流、波高に合わせて、紙の船を動かしながら原稿用紙のマス目を埋めていった。
白石のファンで壱岐・対馬航路の現役の船員、中野和久氏(43)は、この小説を支える正確な航海の知識にうなった。
「壱岐・対馬海域では、冬の北西の季節風より、春と秋に吹く北東の風が時化(しけ)を呼び恐ろしい。それに、船の後ろからやってくる追い波が、船のバランスを崩し、操船の脅威になることも書いている。船員でもない人が、なんで、こんなことまで知っているのかと驚いた」
『海狼伝』は、日本の歴史・時代小説に「海洋冒険小説」という新しいジャンルを確立した小説である。今から20年前の1986(昭和61)年元旦から9月23日まで、「ウルフたちの海」のタイトルで本紙をはじめ、北海道新聞、東京新聞、中日新聞に連載され、翌87年に改題して文藝春秋社から刊行。この年、第97回直木賞を受賞した。
物語は、海と船へのあこがれを抱いて長崎の対馬で育った青年・笛太郎が、これまで見たこともない船に魅せられ、朝鮮から対馬に帰国した海賊の手下になるところから動きだす。海賊の一味となった笛太郎は、対馬近海を航行する商船を襲い始めるが、翌年、瀬戸内海を根城とする村上水軍の海賊衆を襲撃して捕らえられ、瀬戸内に連行される。しかし、彼の父が、かつて村上水軍の船大将だったことが分かり、今度は村上水軍の手下となり、やがて“海のウルフ”へとたくましく成長していく姿がスケール大きく描かれる。
目を見張るのは、海賊衆の生活や掟(おきて)、海戦の調練などが克明に描写されていることだ。そして、当時の船の構造や操船方法、合戦場面、武器の数々も微細に描かれている。さらに、織田信長や小西行長ら実在の人物も登場させながら、笛太郎の恋や、当時の平戸や堺の商人たちの様子なども書き込み、ストーリーに厚みを持たせている。
その出来栄えは、当時、直木賞の選考委員だった田辺聖子氏をして〈読み終えて私はたしかに潮の匂(にお)いをかぎ、海鳴りの音を聞き、浪(なみ)のしぶきが顔にあたるのを感じた〉と絶賛させたほどだ。
生前、白石は、アシスタントで作家の杉洋子氏(67)に、しばしば「作家は『ひとつ歌』を歌え」と、語ったという。そして「自分は生活のこともあって、なかなか『ひとつ歌』を歌えなかった」ともこぼしたという。
そうなのだ。この小説は、若いころから、優れたストーリーテラーとして伝奇小説をはじめ、捕物帳、世話物などを器用に書きこなしてきたものの、自分を貫くマスト、羅針盤ともいうべき『ひとつ歌』を模索していた白石が、以前から温めてきた「海」を主旋律に『ひとつ歌』を高らかに熱唱した作品なのだ。
そして、海をテーマとした熱唱は、80年代後半、「地上げ」「土地転がし」という言葉が流行(はや)った土地バブルの時代の中で、一陣の涼風のように読者を魅了し、従来、陸上の領土争いからしか論じてこられなかった日本中世・近世史にも、歴史を「海」の視点から見詰め直させるきっかけを作った。
秋の1日、小説の舞台で、笛太郎を海のロマンに駆り立てた対馬・佐須奈(さすな)湾の磯場に立った。そして、金砂を流したようにきらめく夕暮れの海峡を眺めながら、白石が、なぜ海をテーマに小説を書き続けたのかを想(おも)った。それは「日本は四方を海に囲まれているのに海の小説が少ない。ならば自分がその一里塚になろうではないか」というある種の気概だったのだろうし、当時の出版界に流布していた「海の小説は売れない」というジンクスへの反発心だったのだろう。
晩年、白石は選考委員を務めていた「九州芸術祭文学賞」に、海をテーマとした小説を応募してくる男性をことのほか可愛(かわい)がった。食道がんで余命3カ月の宣告を受けたとき、彼に電話をかけた。こう言った。「これからも海と船の小説を書いてください。もう、多分、僕は君と会えないだろうから」
(文=文化部・藤田中 写真=写真グループ・佐藤桂一)
▼しらいし いちろう
1931年、韓国・釜山生まれ。戦後、引き揚げて、福岡県柳川市、長崎県佐世保市で育った。早稲田大学政治経済学部卒。大学在学中から懸賞小説に応募を始め、卒業後はタイヤ販売に従事するが、性に合わず帰郷。父の経理事務所で働く傍ら、創作活動に励んだ。57年から福岡市で作家活動を続け、同年「雑兵」で第10回講談倶楽部賞受賞。直木賞の候補に8回なった末、87年「海狼伝」で同賞受賞。主な作品に「戦鬼たちの海-織田水軍の将・九鬼嘉隆」(柴田錬三郎賞)「怒濤のごとく」(吉川英治文学賞)など。また、福岡藩の老武士を主人公にした「十時半睡事件帖」シリーズはTVドラマ化され、好評を博した。95年、西日本文化賞を受賞。2004年9月20日死去。
●私の推薦文
海のすべてを学ぶテキスト 山田 吉彦さん(44)=日本財団広報チームリーダー海賊史研究家(東京都小金井市)
対馬、平戸、そして瀬戸内海。私は、日本に生きた海賊の足跡をたどる旅を続けています。それは、「海狼伝」の主人公・笛太郎の航跡でもあります。そこには、海賊の時代から変わらない海風や波の音や磯の香りが今もあります。村上水軍の本拠地・瀬戸内海に浮かぶ能島では、轟々(ごうごう)と音を立て渦巻く潮流に漁船で乗り出し、笛太郎が生きた「海」を体験し、海の美しさ、怖さ、不思議さを感じました。
海賊は海を知り尽くしていました。風や雲や潮を読む力、造船技術、祈り、友情、貿易、そして海を越え交わる文化。海とともに生きるために必要なすべての要素が、この「海狼伝」には書かれています。
そんなこともあって、私は、講師である東海大学海洋学部で、小説を楽しみながら、海のすべてを学ぶテキストとしてこの本を紹介しています。
●メモ
■『海狼伝』には、続編『海王伝』があります。1989年5月から90年5月まで「週刊文春」に連載され、文藝春秋社から刊行されました。続編では、“海の狼”となった笛太郎が、種子島、琉球を経てシャムへたどり着き、明国海賊の一頭目となった実父・馬格芝(マゴーチ)と対決、“海の王”に成長する姿がダイナミックに描かれています。
■笛太郎を海の男に育てた「村上水軍」については、瀬戸内海を結ぶ「しまなみ海道」の大島に、「今治市村上水軍博物館」(同市宮窪町宮窪)が04年に開館。「海を舞台に活躍した海賊衆の視点から、日本の歴史を見直す」をテーマに村上水軍の歴史や活躍を古文書や、復元品を通して分かりやすく紹介しています。3階の展望室からの眺望、復元され屋外に展示されている水軍の機動力「小早船」も見どころです。

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谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ
福岡県の霊峰・英彦山を詠んだ句である。1931年、日本新名勝俳句の帝国風景院賞(金賞)句に選ばれ、杉田久女の代表作の1つとなった。
「谺」の堅い一文字で始まり「ほしいまま」とやわらかに広がっていく。久女は下の五文字が浮かばず、苦吟を重ねた。何度か英彦山を再訪し「ほしいまま」にたどり着くまでに何カ月もかかっている。
記者も英彦山に登った。句の開放感、壮大さが全身に伝わり、久女がその場の空気まで詠み込んだことが明らかである。妻であり母であった久女。家事による物理的な圧迫と、句作に賭けた精神のほとばしり。両者のせめぎ合いの中で、久女のエネルギーは句作に向かって弾けていく。言葉を選び、そぎ落とし、それが17文字に結実した一句、一句が、彼女の人生を丸ごと物語っているのだった。
久女が句作を始めたのは26歳のころ。しばらく自宅に滞在した実兄から手ほどきを受けた。
「子供達を寝かせつけて、夜なべに冬着など縫ひつつ、台所の竈(かまど)の辺で夜毎になく、虫の音をぢいっと聞きながら、生まれて初めて俳句と云ふものに親しみ初めた」(「久女文集」より)。忙しい日常の合間に、ささやかな楽しみを見つけた様子が目に浮かぶ。高浜虚子に見いだされ、すぐに頭角を現す。間もなく、初期の代表作が生まれる。
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
花見に出掛けた女性が晴れ着を脱ぐ際にまとわりつく何本もの紐-。耽美的で濃艶さ漂う作品は、虚子らから高い評価を受けた。一方で、家事と俳句の両立問題が久女を悩ませ続ける。当時の様子がのぞく文章がある。
「どうかしてよい一句を得たい、雑詠によい成績をあげ度いという一心から俳句にはげめばはげむほど、家事に切りこんで来て、夕餉(ゆうげ)がおくれたり、ぼんやりしてて『家庭や子をかえり見ぬ』と夫の不機嫌に毎度あいます。用事はあとからあとから来る」
(「杉田久女随筆集」より)
家事という切れ間のない仕事、女性の社会進出への障壁。一時は離婚話も出た。
足袋つぐやノラともならず教師妻
イプセンの戯曲「人形の家」の主人公で、新しい生き方の女性「ノラ」を引用しながら、旧態依然とした価値観に束縛される女性たちの現況を描いた。32年、久女は主宰誌「花衣」を創刊。句集を出したいという夢を抱く。
今月1日に開館した同市立文学館(北九州市小倉北区城内)で、ある資料を見せてもらった。久女が知人に宛てた書簡だ。自筆の色紙や短冊を販売することを考え協力を呼び掛けている。
「次女の学資補助のため/またわが句集出版の費用/でもすこしえたくと思ひたち」
しかし、句集発行の夢はかなわなかった。久女ほどの俳人が一冊の句集も出せなかったのは、今では信じ難い。
久女は突然、ホトトギス同人を除籍される。36年のことであった。師である虚子から理由の明示はないままだった。除籍の背景について、「杉田久女ノート」の著者で、久女研究で知られる増田連さん(76)=北九州市=は、「俳句界の状況があった」と推測する。虚子の娘・星野立子が主宰誌を発行していたり、俳句界をリードする虚子自身の立場だったり。久女の行動や才能に警戒感を抱き排除した、との見方を示す。
やがて久女は失意のうちに生涯を終える。55歳。ホトトギス除籍の影響は死後も続いた。「除籍」が「異質者の排除」などに向かい、悪意に満ちた人物像で一時は語られた。北九州市立文学館の今川英子・副館長は言う。
「わい雑なものは最終的には薄れ、消えていく。残るのは作品。私たちはそこに誠実に寄り添い、向き合っていくべきだ」
彼女が切望してやまなかった「杉田久女句集」は、没後の52年に遺族によって刊行された。その句集は、思ったより小さく、手のひらにほどよく収まった。50年以上の歳月を経て、紙は随分もろくなっていたが、ページをめくると、目の前に情感あふれる世界が広がった。
そこには、久女の日常が収録されている。庭の草花、子どもたちの愛らしい様子、彼女が見聞きした自然の情景…。久女の暮らしぶりが浮かぶと同時に、日々の生活の中に芸術の萌芽が宿ることを如実に示す。
久女を振り返ると、孤独の影が付きまとう。孤独は今日も人々をさいなみ、その心に深く沈殿している。久女にとって孤独は、人間性の解放という側面もあった。英彦山についての一文(「杉田久女随筆集」)で、こう述べている。
「息づまる様な人間界の圧迫感もここではなく、大自然の深い呼吸の中に絶対の!孤独感を味わう。(中略)自然のふところに抱かるる和らぎ、じつに爽快な孤独の心地なのである」
久女は、日本人の伝統的生活基盤である「世間」と、明治以降に持ち込まれた西洋の個人主義との狭間に呻吟した。ままならぬ人生にあって、その魂を燃焼させ、ひた向きに生きた。その証しが「句集」にある。
(文=文化部・簑原亜佐美 写真=写真グループ・岩崎 拓郎)
▼すぎた・ひさじょ
1890年、鹿児島市生まれ。本名は久(ひさ)。官吏だった父の転勤に伴い沖縄、台湾で幼少期を過ごす。東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業後、杉田宇内と結婚。宇内の小倉中学校赴任に伴い現在の北九州市に移り住む。その後、市内で数回転居している。
1911年に長女を、16年に二女を出産。次兄の影響で俳句を始める。32年、主宰誌「花衣」を創刊(5号で廃刊)。ホトトギス同人となるが、36年に突然、除籍される。46年、福岡県の筑紫保養院で死去。念願だった「杉田久女句集」は52年に刊行され、69年には増補新版の「杉田久女句集」も出版された。
●私の推薦文
季節ごとに句味わう 中嶋 重利さん(50)=北九州市文書課長(福岡県築上町)
谺して山ほととぎすほしいまゝ
10年も前になる。北九州市・小倉の書店で、装丁の美しさに誘われ、久女の評伝小説「花衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女」(田辺聖子著)を手にした。開いたページに載っていたのが、この句。私の好きな英彦山が舞台と知り購入した。久女が小倉に暮らし、俳句一途に生きたことを知った。
久女の句を季節ごとに味わう。今の季節なら「紫陽花に秋冷いたる信濃かな」「三山の高嶺づたひや紅葉狩」だろうか。春、花見のころなら「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」。夏になれば「朝顔や濁り初めたる市の空」「谺して…」。私にとって、四季は久女の句と共にある。
地元ゆかりの久女と橋本多佳子を顕彰する「久女・多佳子の会」に参加している。昨年は俳句結社に入会した。久女を通じ友人も増え、俳句も詠むようになった。今後は、久女の句の舞台を訪ね、現地でその句を味わいたい。
●メモ
■「杉田久女句集」(1952年)や、長女・石昌子さんの編集で出された「杉田久女句集」(69年)とも、角川書店から出版されていますが絶版になっています。図書館で探すか、古書店などを回るしかないようです。
■北九州市小倉北区の堺町公園や円通寺に、久女の句碑があります。円通寺では毎年1月21日、「久女・多佳子の会」による久女忌が行われます。久女忌の問い合わせ先は同区まちづくり推進課=093(582)3335。
■11月1日に開館した「北九州市立文学館」(小倉北区城内)に、久女関連の資料が展示されています。久女が贈った菊枕に対する虚子の礼状などです。鹿児島市城山町の「かごしま近代文学館」にも約1400点の資料があり、一部が展示されています。

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