西日本新聞/九州ねっと
 


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2006年12月24日

横光利一「旅愁」

 今でいえば、村上春樹や大江健三郎以上の存在だろうか-。そんなことをぼんやり考えながら、山道をたどった。大分県宇佐市赤尾にある光岡城跡。標高130メートルの頂きに「旅愁」の一節を刻んだ文学碑はある。地元の地域おこしグループ「豊の国宇佐市塾」が市民から浄財を募り、1993年10月に建立したものだ。
 「家を一歩外に出たもので 胸奥に絶えず 描きもとめてゐるふるさとと 今身を置く郷との間に 心を漂はせぬものは 恐らく誰一人も ゐなかつたことだらう」
 碑文の文字は、愛(まな)弟子の芥川賞作家・森敦(1912-89)が書いた。「横光を『大恩の人』と呼んでおられたのが印象的でした。書痙(しょけい)に震える手で立派な書を書いてもらいました」。碑に案内してくれた松寿敬さん(42)が振り返る。松寿さんは横光文学研究の第一人者、井上謙・元日大教授の門下生である。宇佐市塾が88年に横光利一のシンポジウムを開いた際、頼まれて井上氏と一緒に揮毫(きごう)のあっせん役を引き受けた。その縁で宇佐市民図書館に職を得て10年になる。
 碑からは広大な宇佐平野と青い周防灘が一望できる。だが、あいにくこの日は曇り空。「もっとも、天気が良すぎてもはっきりとは見えませんが」と松寿さんは笑う。
 小説の後半、主人公の矢代耕一郎は父の納骨のため、父祖の地である宇佐を訪れる。碑の言葉はこのときの感慨だ。矢代は、光岡城にこもった祖先がキリシタン大名大友宗麟の軍勢に滅ぼされるさまを、峰々をわたる松風の音の中にまざまざと思い描く。実際の城主赤尾氏は大友方に名を連ねており、史実とはまったく逆なのだが。横光はそう信じていたのだろう。
 九州帰郷のくだりは、矢代をそのまま作家本人と置き換えてもいい。実際、横光の父梅次郎の出身地は赤尾であり、自身、43年11月に「旅愁」取材のため宇佐を訪れている。

 「当時珍しかった大型ハイヤーが山門前にとまり、父はびっくりしたそうです。蓬髪(ほうはつ)をかき上げるしぐさがさまになっていて、顔を上向き加減にして正座する姿に『東京の偉い人は違う』と妙に感心していました」。
 横光家の菩提(ぼだい)寺・西福寺の紫雲正順住職(53)が先代の玄順さん=2000年死去=から聞いた話をしてくれた。当時、玄順さんは20歳。作中にも「悧發(りはつ)な眼鼻立ちも美しかつた」と表現されている。
 墓参のため横光が山門を出ようとすると、勤労奉仕に来ていた女学生の一団が「頭(かしら)っ中!」と軍隊式の敬礼で歓迎したともいう。なじみの薄い「古里」での思わぬもてなしに、いたく感激したことだろう。
 横光は福島県の東山温泉で生まれた。トンネル工事の測量技師だった父の仕事の関係で、幼いころから各地を転々とした。故郷を持たない根無し草の自意識がこの作家の生涯を望郷の念で覆っていたといえば、感傷に過ぎるだろうか。
 「みなそれぞれ旅をしてゐるのだ、すべてのものは旅のものだ」との一節にも、作家の心情がうかがえる。子ども時代の多くを母の郷里三重県の柘植(現伊賀市)で過ごし、初期作品の舞台とした横光だが、宇佐には自らのルーツとして特別な思い入れがあったようだ。30年、満鉄の招きで菊池寛(1888-1948)らとともに満州に向かう飛行機の中で、夫人にあてて「僕の國(くに)宇佐が見える」と記している。

 30代半ばで「文学の神様」と称された横光の評価は、敗戦を境に地に落ちた。文壇のトップランナーとして文芸銃後運動の中心にあったことが指弾されたのだ。「戦犯文学者」との汚名を着せられ、多くの弟子、崇拝者が離れていった。敗戦の悲しみと混乱の中、49歳で鬼籍に入った。
 その軌跡は、ともに「新感覚派」として出発し、弟分だった川端康成(1899-1972)がノーベル文学賞の栄に輝いたのとは非情な対照をなしている。横光は戦後、黙殺され忘れられた作家となった。「旅愁」の不評が拍車を掛けたことも、論をまたないところだろう。
 「旅愁」は、パリ、東京を舞台に、日本の精神文化と西洋の物質文明との相克を描いた思想小説と評される。確かに、矢代が古神道に関心を寄せ、国粋主義的傾向を強めていくなど、いわゆる「近代の超克」がテーマであることは一目瞭然(りょうぜん)だ。この点が批判の対象となり、未完に終わった要因ともなった。しかし、短編「機械」に代表される観念的作品を数多く手掛けてきた横光が、最後は自らの足元に回帰せざるを得なかった背景にこそ、この作品を読み解く鍵があるような気がしてならない。
 横光家の墓にも足を運んだ。荒れた竹林の中、大小の墓石群が小糠(こぬか)雨にぬれて、ひっそりとたたずんでいた。63年前、横光が目にした光景と、さほど変わってはいないはずだ。
 横光という姓は全国的に珍しく、宇佐が発祥という。光岡城の隣だから「横光」-。西福寺の周辺は多くが横光姓だった。
 (文=宇佐支局・本山友彦 写真=写真グループ・納富 猛)

▼よこみつ・りいち

 1898年福島県生まれ。小説家。早大中退。菊池寛に師事し、1924年川端康成らと「文芸時代」を創刊、擬人法や比喩(ひゆ)を多用した独特の文体で「新感覚派」の中心的存在となる。プロレタリア文学に対抗、心理主義に進み、自意識をもった現代人を描いた「機械」(30年)は文壇に大きな衝撃を与えた。「上海」「寝園」「紋章」「家族会議」などを発表、文壇を代表する作家に。36年ベルリン五輪取材のため新聞社の特派員として渡欧。翌年から46年までの約10年間、「旅愁」を新聞、雑誌に断続的に書き継いだ。47年日記体の小説「夜の靴」を発表後、胃かいように急性腹膜炎を併発し死去。49歳。

●私の推薦文

テーマは「日本とは何か」 平田 崇英さん(58)=豊の国宇佐市塾塾頭(大分県宇佐市)

 今から十数年前、「旅愁」の舞台であるパリを訪れ、この小説が理解できたように思った。ノートルダム寺院などゴシック様式の壮大な建築物を目の当たりにし、西洋を礼賛する自分を発見した。同時に、木と紙で成り立った情趣あふれる日本文化の良さも再認識できた。
 作中、国粋派の主人公矢代と、友人で西洋派の久慈はしばしば論争をするが、どちらも作者の分身であり、矢代イコール作者では決してない。横光と同じ場所に立ってみて、そのことがよく分かった。
 この作品は、「日本的なものとは何か」を問うた骨太な思想小説だ。明治の文明開化以降、日本人が外国文化を受容するうえで直面せざるを得なかったアイデンティティーの危機の問題と正面から切り結んでいる。この問いは今日においても何ら解決していない。60-70年前に書かれながらも、「旅愁」は古びていないどころか、真に新しい小説といえるだろう。

●メモ

 ■「光岡城跡」は16世紀の赤尾氏の山城遺構。「旅愁」では「城山」の名で登場します。宇佐市赤尾、国道10号を中津方面に向かう左手の丘陵にあります。県の史跡公園として整備され、地元保存会を中心に毎秋、横光利一を顕彰する「秋光祭」を開いています。

 ■宇佐市は横光家の旧蔵資料64点を購入しました。絶筆の小説「洋燈(らんぷ)」などの自筆原稿、川端康成らからの書簡、本籍欄に「大分縣宇佐郡長峰村大字赤尾」と記されたパスポートなど、市民図書館が所蔵しています。

 ■同図書館は毎月第4土曜に「『旅愁』を読む会」を開催しています。無料で参加できます。また生誕100年記念行事の一環として1999年から毎年「横光利一俳句大会」を開催しています。同図書館=0978(33)4600。

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2006年12月17日

海音寺潮五郎「西郷隆盛」

 司馬遼太郎の才能を最初に見いだしたのは海音寺潮五郎であった。
 1956年、司馬が講談倶楽部賞を受賞してデビューしたとき、さらに4年後に直木賞を受賞したとき、ともに海音寺が選考委員を務めていた。司馬の候補作を強く推薦したという。
 その司馬が西郷隆盛と大久保利通を主人公にした新聞小説「翔ぶが如く」を連載していた75年10月、文芸評論家の磯貝勝太郎さん(71)=東京都=は海音寺宅を訪ねた。司馬の新聞小説が話題に上り、海音寺が漏らした言葉を磯貝さんは覚えている。
 「朝刊が来るのが楽しみだが、司馬君でさえ西郷が書けてない」
 海音寺は司馬を「天才」と評価していた。その上での感想である。
 「やはり自分が書くしかないと思っている」
 「西郷隆盛」の執筆を進めていた海音寺は言葉を継いだ。司馬の描く西郷のどこに満足しなかったのか具体的には語らなかったという。
 「司馬さんは関西の人。薩摩人気質は、鹿児島出身で西郷を敬愛している自分しか書けないと思ったのでは」。磯貝さんはそう推測する。
 海音寺にとって、西郷は単なる同郷の偉人ではない。海音寺が生まれたのは、西南戦争に敗れた西郷が城山(鹿児島市)で切腹してから、わずか24年後。生地の鹿児島県大口市は西南戦争の激戦地である。海音寺が物心ついたとき、西郷と接し西南戦争を経験した人がまだ存命だった。海音寺は、そんな人々から西郷の話を聞いて育った。西郷は身近な英雄だったのだ。

 「西郷隆盛」は歴史小説家の海音寺が後半生をかけた大著である。61年から新聞小説で約500回連載したが終わらず、その後は大半を書き下ろし、単行本九巻にまとまっている。
 小説ではない。史伝という。小説が作家の想像力を駆使するのに対して、それを排し、史実や史料をもとに書いた歴史文学を指す。
 随所にこんな表現がみられる。〈小説でないこの文章では、これ以上のことは書けない〉〈精写するのは小説の領分だ〉などとして、創作を退けている。必要な場合は〈…に相違いない〉〈…であったろう〉と、想像である旨をことわる注意深さだ。
 史伝は歴史書に近いものと言えるが、海音寺のそれには堅苦しさがない。想像力の代わりに手紙、日記、伝承などあらゆる史料を駆使してディテールを書き込み、さらに登場人物の評価、現代への警句なども織り交ぜる。
 例えばこんな具合に。
 西郷の為政者としての徳目を記した部分では〈愛情を欠いた為政者をぼくは信ずることが出来ない〉と述べ、現在の国会議員のぜいたくぶりに言及。〈国民の苦しみを自分の苦しみとして感ずる心を失わないことこそ、政治家や官僚の第一資格であろうと言いたいのだ〉と苦言を呈する。
 別の個所では〈維新志士中の快男子ベスト・スリーを選ぶとすれば、ぼくは高杉晋作、平野国臣、坂本龍馬の3人をあげたい〉と、自身の人物評を披歴する。
 こうした工夫が無味乾燥になりがちな歴史記述に血肉を通わせた。
 作家の童門冬二さん(79)=東京都=は海音寺作品を敬愛する一人。「史実のとらえ方、史実の押さえ方がきちんとしている。後輩には教科書になる作品、導き手となる作家です」

 海音寺はどんな西郷像を書こうとしたのか。先述した司馬遼太郎は「翔ぶが如く」のあとがきで「主人公は要するに西郷という虚像である」と記している。つまり、周囲が作り上げた偶像に翻弄される西郷の姿を描いたのだと。対して海音寺が描こうとしたのは激動の時代に屹立(きつりつ)した、道義国家を目指す理想主義者としての西郷の実像だったのではないか。道義とは、西洋流のロジックでは導けない信や義を重んじる東洋の伝統的考え方であり、西郷の座右の銘である「敬天愛人」に凝縮される。
 西郷の話を子守唄代わりに育った自分にしか書けないし、史実に基づいた史伝形式が最もふさわしいと、海音寺は考えたに違いない。とはいえ、これは記者の推測の域を出ない。なぜなら「西郷隆盛」は未完に終わっているからだ。
 海音寺は69年末、新聞や雑誌の原稿依頼を受けない“引退声明”を発表する。「西郷隆盛」の執筆に専念するためだった。「当時68歳。余生の長くないことを感じていたのでしょう」と、同居していた二女の末冨明子(あきらこ)さん(77)=川崎市=は述懐する。
 その明子さんが「西郷はなぜ西南戦争をし、大久保と敵になったの」と尋ねたことがある。「これから書くから、それを読め」が答えだった。だが、それはかなわなかった。
 77年11月17日、栃木県・那須の別荘で海音寺は倒れた。意識は戻らず12月1日死去。机には書きかけの「西郷隆盛」原稿が置かれていた。

 海音寺は「西郷隆盛」以外にも多くの史伝作品を手掛けた。同じ史伝作品の「武将列伝」あとがきで書いている。〈歴史が一般の人に結縁(けちえん)し、人生の知恵になるのは、こういう史書によるとも、ぼくは思っている。ぼくが好んで史書を書き、史伝を書く理由の一つはここにある〉
 「結縁」という言葉が印象的だ。また「歴史と断絶してこの世に存在するのは、自信が持てず、頼りなく寂しい」という主旨の文章もある。海音寺は「西郷隆盛」を通して、現代につながる転換点となった幕末・維新の歴史と読者とを結縁させたかったのだ。さらには歴史と結縁しながら今を生き、将来を見通すことの大切さも訴えたかったろう。
 今年後半、高校で歴史系教科を中心にした未履修問題が噴き出した。歴史の軽視。私たちの社会は、海音寺の願いからずいぶん遠い場所へ、迷いこんでしまったのではないだろうか。
 (文と写真=文化部・西山宏)

▼かいおんじ・ちょうごろう

 1901年、鹿児島県大口市に生まれる。本名は末冨東作。大口尋常小学校、加治木中学校を経て、21年に伊勢神宮皇学館に入学。このころから文学を一生の仕事にしようと思い始める。国学院大卒業後、鹿児島や京都で中学教師を務める。29年に「サンデー毎日」の小説募集に「うたかた草紙」を投稿し当選。34年に教師を辞め、執筆に専念する。36年に第3回直木賞受賞。歴史小説を次々に発表する傍ら、史実に即した史伝作品も精力的に手がけ、その復権に尽力する。77年に大口市名誉市民となる。同12月1日、脳内出血と心筋梗塞のため76歳で死去。著作は小説に「天と地と」「海と風と虹と」など、史伝に「武将列伝」「悪人列伝」など。

●私の推薦文

薩摩気質とあふれる人間味 斉木 貢さん(55)=鹿児島県大口市立図書館係長(大口市)

 海音寺潮五郎先生は、私たち大口市の出身です。大口市立図書館には、東京の海音寺潮五郎記念館から寄贈された書籍をもとにした「海音寺文庫」が設置されています。
 海音寺先生の大口市関連作品には、気宇壮大な「二本(ふたもと)の銀杏(ぎんなん)」「火の山」「風に鳴る樹」の三部作をはじめ、「おどんな日本一」「南風薩摩歌」などがあります。
 海音寺先生は子どものころから西郷隆盛と西南戦争の話を聞いて育ち、西郷をもっとも敬愛されていたといわれます。このようなことから史伝「西郷隆盛」をライフワークとして取り組まれたのでしょう。「西郷隆盛」は先生の死去で未完に終わっていますが、この作品には先生の人間美学が凝縮されていると思います。それゆえに、現代社会に深い示唆を与えてくれるような本です。海音寺文学には薩摩気質と人間味あふれる作品が多数あります。ぜひ読んでみられてはいかがでしょうか。

●メモ

 ■海音寺潮五郎の古里・鹿児島県大口市では命日の12月1日に「海潮忌」が開かれています。今年は市内の海音寺小説の舞台となった場所を巡りました。また同市は海音寺を記念し、短歌とエッセーを対象にした「銀杏文芸賞」、県内の小、中、高校生を対象にした読書感想文・画コンクールも開いています。

 ■東京都世田谷区経堂には海音寺の旧宅を基にした記念館があり、資料の公開や講演会などの文化事業を行っています。火─金曜開館、来館には予約が必要です。電話=03(3429)1338。

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2006年12月10日

岡松和夫「志賀島」

 「志賀島」は、博多湾の海岸線が今日のように埋め立てられていない時代、戦中、戦後の博多が舞台である。主人公の宏と友人の竹元という2人の少年が、志賀島で訓練を受けるところから物語は始まる。
 宏は勉強が得意だった。竹元は、双葉山のような強い力士に…と、その祖母が願うほど、腕力が自慢の子どもだった。訓練は海軍下士官が指導者となり6年生の男子を引率して志賀島に行く。罵声(ばせい)を浴びせられ、体罰もあり、少年たちは3日間の訓練に苦しむ。そんな中で、宏らの目は、引率した2人の先生に向けられる。彼らは軍人には何も言えず、息を殺して黙認するしかなかったのだった。

 岡松和夫は、福岡中学校(現・福岡高校)から旧制福岡高等学校(現・九大)に進み、1950(昭和25)年、東京大学に入学するまで福岡で暮らしている。父は早く死に、母が派遣看護婦として病院で働きながら岡松を育てた。福岡大空襲で家が焼失し、戦後は職も失うなど、母も神経をすり減らして亡くなっている。
 福岡市博多区対馬小路に住む黒岩富重さん(77)が振り返る。奈良屋国民学校(現在の博多小)で、岡松より2学年上だった人物だ。
 「志賀島、玄界島、能古島…うちの2階から博多湾がぐるりと見渡せました。その家は空襲で焼けて、今の家とは違うとですが…。ジグザグに逃げ回って、最後は現在の那の津大橋付近から海に飛び込んだ。何百人って浮かんどりました」。空襲の記憶は今も鮮明であった。
 岡松は「僕にとっては自分の家が無くなってしまった6月19日(福岡大空襲の日)が敗戦」と言う。子どもにとっては、玉音放送があった8月15日が終戦ではなかった。大空襲で岡松が暮らした奈良屋校区は、小学校の鉄筋校舎を残して焼け野原となり、博多湾に浮かぶ島々が、よく見えるようになったという。
 岡松作品の多くは博多で暮らした日々をベースに綴(つづ)られ、この時代の体験が岡松の作家としての基盤を作ったことを物語る。

 志賀島での訓練の最終日、竹元はカッターを漕(こ)いでいて遭難し、水死しかける。自力で助かったが右目は失明状態となる。大らかな夢を持っていた竹元の人生は、しだいに暗転していく。大空襲をはじめさまざまな不幸が2人を襲い、最終的には宏も竹元も天涯孤独の身となるのだった。
 岡松の筆は淡々として明るさを失わなわない。そして、少年の視線に徹する。空襲や九州大の米軍捕虜生体解剖実験などにも触れるが、深入りはしない。むしろ物語の節目ごとに出てくる双葉山(1912-68)についての記述が印象的。この大横綱が時節の推移を現すのに重要な役割を果たしているのだ。
 双葉山は不滅の69連勝で知られるが、その連勝記録が始まったのは、2・26事件の約1カ月前。引退は終戦年の11月。黄金期は軍国日本の時代と重なる。その連勝が日本軍の不敗神話と重なり、国民に神格化されていった。
 岡松は、大横綱の力の衰えを通じて日本の敗戦をにおわせていく。自身も、作中の少年2人のように双葉山にあこがれていた。双葉山と懇意にしていた親せきもいて、戦後、上京したときに双葉山本人も見かけたことがあるという。
 「でも、そういう、『私的な双葉山』ではなく、この作品では戦前の『公的な双葉山』のイメージを使った。双葉山を時代の変動のシンボルみたいに使おうと思った」と岡松は言う。
 宏の母親は終戦を境にふさぎ込むようになって自殺し、陽気だった竹元の母も何者かに殺される。小説に無常感が漂う。双葉山はそんな激動期の象徴であった。

 東京大学への進学のために上京する宏を送るラストシーン。2人は博多港の船だまりで、志賀島の方に視線をやる。靄(もや)がかかり、宏の眼に志賀島は見えない。竹元は目を閉じて言う。
 「志賀島が見えるねえ。昔のままや」
 博多の人々がそれぞれに終戦を実感したころ、周囲は焼け野原で視線を遮(さえぎ)る建物はなかった。失意の日々の中で、ふとした視線の先に志賀島を含む博多湾の風景をみて、心の安らぎや希望を感じた人もいたのではないか。
 時代は様変わりし、2人は少年から大人になろうとしていた。それでも志賀島は、厳かに泰然として存在している。竹元はさらにこう続ける。
 「こうして眼をつぶらんと見えんとやけん」
 風景は同じでも眺める側の眼(まな)差(ざ)しは変化する。すでに無(む)垢(く)な子どもの視線では無い。ゆえに、眼をつぶらないと見えない風景もあるのだ。惨めな時代に決別し、不幸な運命と和解して2人は巣立っていくのだった。
 今日、志賀島は林立した高層建築物に遮(さえぎ)られてなかなか見えない。「眼をつぶらないと見えない」という竹元の逆説は、私たちに訴えかけているようである。「想像力」という眼差しを、今、あなたは持っているだろうかと。
 (文=東京報道部・内門 博 写真=写真グループ・納富 猛)

▼おかまつ・かずお

 1931年6月23日、福岡市妙楽寺町(現在の博多区古門戸町の一部)に生まれる。1浪後、東京大に入学。59年に「壁」で文学界新人賞。「墜ちる男」「小蟹のいる村」「熊野」がそれぞれ芥川賞候補作となり、76年に4作目の候補作「志賀島」で同賞を受賞した。中上健次の「岬」との同時受賞だった。初期は福岡大空襲、戦後の母の死など少年期の体験を基にした作品が多かったが、上京後の東大時代を描いた作品、一休や源実朝など中世の人物を題材にした歴史小説など作風の幅を広げていく。86年、「異郷の歌」で新田次郎文学賞。98年、「峠の棲家」で木山捷平文学賞。近作は04年の短編集「少年飛行兵の絵」。

●私の推薦文

郷土色にとどまらず普遍的 長野 秀樹さん(48)=長崎純心大学教授(長崎県諫早市)

 以前、岡松和夫さんにお話を伺ったときに話された「21世紀は戦争のない世紀になると思っていた」という言葉が忘れられません。戦争の世紀としての20世紀を生きてこられた岡松さんの原点とも言うべき作品が「志賀島」だと思います。
 福岡市出身作家の初の芥川賞作品として、またその題名に表されたように、地元福岡を舞台とした作品として、郷土と色濃く結びついていますが、それにとどまらず、戦中の少年の姿を描いた普遍的な作品となっていると思います。
 主人公宏の目を通して、第二次大戦中の福岡とその周辺での幾つかの事件、たとえば、九州大学での生体解剖事件や、双葉山のエピソードなどが語られますが、それらは宏という少年の目を通して語られているということが大事なことなのだと思います。いまの少年たちが大人になったとき、戦争は無くなっているのか、読みながらそうしたことも考えさせられます。

●メモ

 ■岡松さんの双葉山への関心は深く、やはり戦中戦後の福岡を舞台に旅館の娘を主人公にした小説「手弱女(たおやめ)」(89年)でも、双葉山を思わせる「安徳山」なる横綱を登場させています。主人公の恋愛相手で「志賀島」よりも正面から等身大の双葉山を描いています。

 ■双葉山については自伝を収録した「双葉山定次‐相撲求道録」(日本図書センター)のほか、ノンフィクション作家、工藤美代子さんの「一人さみしき双葉山」(筑摩書房)などがあります。

 ■単行本「志賀島」(文藝春秋)は表題作など5編を収録した短編集。86年には文庫化もされましたが、いずれも絶版、品切れとなっています。「芥川賞全集 第10巻」(文藝春秋)でも読むことができます。

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2006年12月03日

栗林慧「栗林慧全仕事」

 おそらく多くの読者が、どこかで一度は目にしたことがあるはずだ。虫の目線で見たような、迫力満点の虫の写真。通称「虫の目レンズ」で撮影された作品である。
 〈虫=小さな生物〉という固定観念を吹っ飛ばすように圧倒的な存在感を放つ昆虫たちは、まるで恐竜だ。見ているうちに、別世界に迷い込んだような不思議な気持ちになる。実際の虫の目に映る世界は、複眼の構造やその位置から、人間と比べてはるかに視野は広く(時に360度)、ずっと解像度が低い。つまり、写真のような像ではないのだ。

 「人間であるぼくが『虫の目』を手に入れて、撮影できたんです」
 栗林慧さん(67)はうれしそうに解説してくれた。一般的な接写レンズでは、虫は写せても背景はボケてしまう。手前の虫を拡大しながら、遠距離まで写し込めるのが栗林さんが独自に開発した「虫の目レンズ」による写真である。「内視鏡やビデオカメラなどいろんなレンズを使って、20年近い試行錯誤を重ねました。たどり着いたのが、急速に精度がアップした監視カメラの小さなレンズ」。セキュリティー社会の思わぬ副産物というわけだ。
 撮りたい作品のためにレンズから手作りするのが栗林流。「栗林慧全仕事」は、「誰も撮影したことがない写真を撮る」ことを自らに課してきた栗林さんの業績をまとめた、2001年時点の総括である。表紙を飾るのは、長崎県平戸島の川内峠で撮影した威風堂々たるトノサマバッタ。人の目と虫の目が1つになった視野に広がるのは、なじみ深くも、「新鮮な驚きを与え続けてくれる」西九州の里山の緑、海の青である。

 アンリ・ファーブル(1823-1915)は、人生半ばを過ぎて南仏の小さな村、セリニアンに移り住んだ。地元でアルマス(荒れ地)と呼ばれる裏庭で昆虫観察を行い、「昆虫記」をつづっていった。トノサマバッタが見下ろす長崎県・田平の里山こそ、栗林さんにとってのアルマスである。
 その原形は約40年前、東京都の高井戸にあった。当時、学習研究社(学研)で児童向け雑誌「科学」に携わっていた編集者、桑原隆一さん(66)=東京在住=は、カメラ雑誌で見たアリの写真に息をのんだ。
 「1番驚いたのは、生きて動き回るアリの生活が撮影されていたこと。当時は、信じられないことでした」
 サラリーマン生活の傍ら昆虫の撮影を始めていた栗林さんのデビュー作となった組み写真「アリ君の日記」である。桑原さんは「科学」用に新たな撮影を依頼し、数日後、高井戸にあった栗林さんの借家を訪ねた。桑原さんら学研スタッフを待っていたのは、裏庭の穴掘りだった。
 「巣の奥にいるアリの生態を観察するために一晩かかって深さ約4メートルの穴を掘ったんです。翌日、クリ(栗林)さんが撮影したんですが、そのときのカメラが独特なものでした」
 「昆虫スナップカメラ」と名付けた改造カメラである。当時のフィルム感度は低く、動く昆虫の接写は極めて困難という時代だった。不可能な撮影を可能にする-。写真家・栗林さんのキャリアは、新技術開発の積み重ねでもある。光学や加工に関する知識はすべて独学。「必要こそ発明の母ってわけです」
 昆虫スナップに次いで挑戦したのは「瞬間を止める」こと。チョウの羽ばたきは3000分の1秒程度のシャッター速度で止めることができたが、花から花粉が飛散する瞬間など「植物の動き」を止めるには5万分の1秒が求められた。自作の高速電磁シャッター、光センサーを用いた自動撮影システムを開発した。98年に完成し、バッタやカマキリなどある程度の大きさの昆虫をとらえてきた「虫の目レンズ」は、デジタル時代に入って、アリの目線でアリを撮ることができるように進化した。
 「アリの行動は社会的で観察して飽きない。体が小さくて、巣穴が狭いなど撮影条件が厳しいから、アリが撮れたら、撮れない昆虫はない」。アリの撮影から始め、アリに導かれて、ついに手に入れたアリの目である。

 時計を解体して親にしかられる。昆虫採集や飼育に熱中する…。多くの男の子をひきつけてやまない「メカと虫」。思春期の終わりとともに関心は薄れていくが、栗林さんの場合、2つは融合したまま雪だるまのように膨らんで、今に至る。自然豊かな田平は「子どものころから友達だった虫がたくさんいる格好のフィールド」。昆虫が活動を停止する冬季は、静かに技術の研究開発、工作に集中できる。「永遠の少年」の生活である。
 以前、撮影中の栗林さんを追ったテレビ番組を見た。撮影中の栗林さんの背中か肩の辺りにトンボが止まったシーンは今も鮮明だ。約6年間、栗林家に“居候”した兵庫県立大学教授の大谷剛さん(59)=昆虫行動学=は語る。「自然と一体化するのか、気配がなくなるのか、なぜか虫が逃げない。不思議な人です」
 「アリの目になって足元を見つめると、実に豊かな世界が広がってることにあらためて驚いてます。ファーブルがペンで描いた世界をぼくはカメラで表現しているんです」
 不思議な形のカメラを手に、腰を折って、地面を見つめる男を田平で見かけたら、それは現代のファーブル、栗林さんである。(文=文化部・岩田直仁)

▼くりばやし・さとし

 1939年、中国・瀋陽で生まれ、3歳の時、父の郷里・長崎県北松浦郡田平町(現・平戸市田平町)に転居。父の死に伴い、50年に一家で東京に移り住んだ。保険会社勤務の傍ら写真の基礎を学び、69年にフリーの生物生態写真家になる。77年、郷里の田平町に戻り、長崎県北部をフィールドに昆虫を追うことになる。78年、日本写真協会新人賞を受賞するとともに、写真展「源氏蛍」で伊奈信男賞を受ける。独自に開発した撮影機材を駆使して昆虫の近接撮影を行うほか、5万分の1秒という超高速写真で飛翔中の昆虫を撮影するなど、前例のない生態写真を次々に発表し、91年には西日本文化賞を受賞。主な著作に日本写真協会年度賞に輝いた写真集「栗林慧全仕事」のほか、「The MOMENT」「昆虫の飛翔」など。2006年、科学写真のノーベル賞といわれる「レナート・ニルソン賞」を受賞した。

●私の推薦文=エンジニアとしても独創的 川浪 敏明さん(42)=第14回たびら昆虫自然園 写真コンクールで最優秀賞に輝いたアマチュアカメラマン(佐賀市北川副町)

 「虫の目レンズ」による作品を初めて見た時は、すごいカルチャーショックを覚えました。なぜなら、本当に自分が虫になったような気がしまして、まるでリトルキッズになったような錯覚を覚えました。  私自身、20年近くトンボを撮影していますが、既存のレンズで撮影するばかりで、自分でレンズシステムをつくろうなんて、考えもしませんでした。栗林先生は、カメラマンとしても素晴らしい方ですが、同じくらいエンジニアとしての独創性も持ち合わせており、そこが、他の昆虫カメラマンと大きく違うところです。昨年、昆虫写真コンクールの表彰式でお会いした際、気さくにいろいろな相談に乗っていただきました。そんな大好きな先生の集大成がこの作品集です。


●メモ


 ■「虫の目レンズ」は小口径レンズによって「超被写界深度接写技術」を確立した高性能ピンホールカメラのようなもの。「昆虫スナップカメラ」は一眼レフのレンズとボディーの間に自作の蛇腹装置を挟んで拡大率を上げ、採光のために市販ストロボを解体してレンズの左右に装着した画期的なカメラでした。
 ■栗林さんがフィールドとしている長崎県平戸市田平町には小川、池、雑木林、草原など里山をまるごと活用した「たびら昆虫自然園」がある。園外から昆虫を持ち込まず、長崎の里山に生息する約3000種の昆虫を自然のままに観察できるユニークな施設。藪や木陰に隠れている小さな昆虫を観察するため、解説員が常駐している。月曜休館。入園料は高校生以上400円、小・中学生300円。問い合わせは同園=0950(57)3348。

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