西日本新聞

千年書房・九州の100冊

海音寺潮五郎「西郷隆盛」

 司馬遼太郎の才能を最初に見いだしたのは海音寺潮五郎であった。
 1956年、司馬が講談倶楽部賞を受賞してデビューしたとき、さらに4年後に直木賞を受賞したとき、ともに海音寺が選考委員を務めていた。司馬の候補作を強く推薦したという。
 その司馬が西郷隆盛と大久保利通を主人公にした新聞小説「翔ぶが如く」を連載していた75年10月、文芸評論家の磯貝勝太郎さん(71)=東京都=は海音寺宅を訪ねた。司馬の新聞小説が話題に上り、海音寺が漏らした言葉を磯貝さんは覚えている。
 「朝刊が来るのが楽しみだが、司馬君でさえ西郷が書けてない」
 海音寺は司馬を「天才」と評価していた。その上での感想である。
 「やはり自分が書くしかないと思っている」
 「西郷隆盛」の執筆を進めていた海音寺は言葉を継いだ。司馬の描く西郷のどこに満足しなかったのか具体的には語らなかったという。
 「司馬さんは関西の人。薩摩人気質は、鹿児島出身で西郷を敬愛している自分しか書けないと思ったのでは」。磯貝さんはそう推測する。
 海音寺にとって、西郷は単なる同郷の偉人ではない。海音寺が生まれたのは、西南戦争に敗れた西郷が城山(鹿児島市)で切腹してから、わずか24年後。生地の鹿児島県大口市は西南戦争の激戦地である。海音寺が物心ついたとき、西郷と接し西南戦争を経験した人がまだ存命だった。海音寺は、そんな人々から西郷の話を聞いて育った。西郷は身近な英雄だったのだ。

 「西郷隆盛」は歴史小説家の海音寺が後半生をかけた大著である。61年から新聞小説で約500回連載したが終わらず、その後は大半を書き下ろし、単行本九巻にまとまっている。
 小説ではない。史伝という。小説が作家の想像力を駆使するのに対して、それを排し、史実や史料をもとに書いた歴史文学を指す。
 随所にこんな表現がみられる。〈小説でないこの文章では、これ以上のことは書けない〉〈精写するのは小説の領分だ〉などとして、創作を退けている。必要な場合は〈…に相違いない〉〈…であったろう〉と、想像である旨をことわる注意深さだ。
 史伝は歴史書に近いものと言えるが、海音寺のそれには堅苦しさがない。想像力の代わりに手紙、日記、伝承などあらゆる史料を駆使してディテールを書き込み、さらに登場人物の評価、現代への警句なども織り交ぜる。
 例えばこんな具合に。
 西郷の為政者としての徳目を記した部分では〈愛情を欠いた為政者をぼくは信ずることが出来ない〉と述べ、現在の国会議員のぜいたくぶりに言及。〈国民の苦しみを自分の苦しみとして感ずる心を失わないことこそ、政治家や官僚の第一資格であろうと言いたいのだ〉と苦言を呈する。
 別の個所では〈維新志士中の快男子ベスト・スリーを選ぶとすれば、ぼくは高杉晋作、平野国臣、坂本龍馬の3人をあげたい〉と、自身の人物評を披歴する。
 こうした工夫が無味乾燥になりがちな歴史記述に血肉を通わせた。
 作家の童門冬二さん(79)=東京都=は海音寺作品を敬愛する一人。「史実のとらえ方、史実の押さえ方がきちんとしている。後輩には教科書になる作品、導き手となる作家です」

 海音寺はどんな西郷像を書こうとしたのか。先述した司馬遼太郎は「翔ぶが如く」のあとがきで「主人公は要するに西郷という虚像である」と記している。つまり、周囲が作り上げた偶像に翻弄される西郷の姿を描いたのだと。対して海音寺が描こうとしたのは激動の時代に屹立(きつりつ)した、道義国家を目指す理想主義者としての西郷の実像だったのではないか。道義とは、西洋流のロジックでは導けない信や義を重んじる東洋の伝統的考え方であり、西郷の座右の銘である「敬天愛人」に凝縮される。
 西郷の話を子守唄代わりに育った自分にしか書けないし、史実に基づいた史伝形式が最もふさわしいと、海音寺は考えたに違いない。とはいえ、これは記者の推測の域を出ない。なぜなら「西郷隆盛」は未完に終わっているからだ。
 海音寺は69年末、新聞や雑誌の原稿依頼を受けない“引退声明”を発表する。「西郷隆盛」の執筆に専念するためだった。「当時68歳。余生の長くないことを感じていたのでしょう」と、同居していた二女の末冨明子(あきらこ)さん(77)=川崎市=は述懐する。
 その明子さんが「西郷はなぜ西南戦争をし、大久保と敵になったの」と尋ねたことがある。「これから書くから、それを読め」が答えだった。だが、それはかなわなかった。
 77年11月17日、栃木県・那須の別荘で海音寺は倒れた。意識は戻らず12月1日死去。机には書きかけの「西郷隆盛」原稿が置かれていた。

 海音寺は「西郷隆盛」以外にも多くの史伝作品を手掛けた。同じ史伝作品の「武将列伝」あとがきで書いている。〈歴史が一般の人に結縁(けちえん)し、人生の知恵になるのは、こういう史書によるとも、ぼくは思っている。ぼくが好んで史書を書き、史伝を書く理由の一つはここにある〉
 「結縁」という言葉が印象的だ。また「歴史と断絶してこの世に存在するのは、自信が持てず、頼りなく寂しい」という主旨の文章もある。海音寺は「西郷隆盛」を通して、現代につながる転換点となった幕末・維新の歴史と読者とを結縁させたかったのだ。さらには歴史と結縁しながら今を生き、将来を見通すことの大切さも訴えたかったろう。
 今年後半、高校で歴史系教科を中心にした未履修問題が噴き出した。歴史の軽視。私たちの社会は、海音寺の願いからずいぶん遠い場所へ、迷いこんでしまったのではないだろうか。
 (文と写真=文化部・西山宏)

▼かいおんじ・ちょうごろう

 1901年、鹿児島県大口市に生まれる。本名は末冨東作。大口尋常小学校、加治木中学校を経て、21年に伊勢神宮皇学館に入学。このころから文学を一生の仕事にしようと思い始める。国学院大卒業後、鹿児島や京都で中学教師を務める。29年に「サンデー毎日」の小説募集に「うたかた草紙」を投稿し当選。34年に教師を辞め、執筆に専念する。36年に第3回直木賞受賞。歴史小説を次々に発表する傍ら、史実に即した史伝作品も精力的に手がけ、その復権に尽力する。77年に大口市名誉市民となる。同12月1日、脳内出血と心筋梗塞のため76歳で死去。著作は小説に「天と地と」「海と風と虹と」など、史伝に「武将列伝」「悪人列伝」など。

●私の推薦文

薩摩気質とあふれる人間味 斉木 貢さん(55)=鹿児島県大口市立図書館係長(大口市)

 海音寺潮五郎先生は、私たち大口市の出身です。大口市立図書館には、東京の海音寺潮五郎記念館から寄贈された書籍をもとにした「海音寺文庫」が設置されています。
 海音寺先生の大口市関連作品には、気宇壮大な「二本(ふたもと)の銀杏(ぎんなん)」「火の山」「風に鳴る樹」の三部作をはじめ、「おどんな日本一」「南風薩摩歌」などがあります。
 海音寺先生は子どものころから西郷隆盛と西南戦争の話を聞いて育ち、西郷をもっとも敬愛されていたといわれます。このようなことから史伝「西郷隆盛」をライフワークとして取り組まれたのでしょう。「西郷隆盛」は先生の死去で未完に終わっていますが、この作品には先生の人間美学が凝縮されていると思います。それゆえに、現代社会に深い示唆を与えてくれるような本です。海音寺文学には薩摩気質と人間味あふれる作品が多数あります。ぜひ読んでみられてはいかがでしょうか。

●メモ

 ■海音寺潮五郎の古里・鹿児島県大口市では命日の12月1日に「海潮忌」が開かれています。今年は市内の海音寺小説の舞台となった場所を巡りました。また同市は海音寺を記念し、短歌とエッセーを対象にした「銀杏文芸賞」、県内の小、中、高校生を対象にした読書感想文・画コンクールも開いています。

 ■東京都世田谷区経堂には海音寺の旧宅を基にした記念館があり、資料の公開や講演会などの文化事業を行っています。火─金曜開館、来館には予約が必要です。電話=03(3429)1338。

amazon.co.jp

商品のご購入について

 このページで紹介している著書は、リンク先のサイト「Amazon.co.jp」でご購入いただけます。 ご利用の際には「Amazon.co.jp」の利用規約をご一読ください。また、その利用規約に同意の上、登録や購入手続きを行ってください。

     

おすすめ情報【PR】
おすすめ情報【PR】
東日本大震災特設ページ
西日本新聞公式アプリ
天気・交通情報
  • 2月 2012年
  • 10
  • 金曜日
  • 道路交通情報
  • 九州のりものinfo.com
福岡 7℃
2℃
長崎 7℃
2℃
佐賀 7℃
0℃
宮崎 11℃
2℃
大分 8℃
0℃
鹿児島 10℃
2℃
熊本 8℃
-1℃
山口 6℃
-3℃
記事写真ご利用はこちら
アクセスランキング
  1. 氷点下の朝再び、9日朝にかけ大雪も
  2. 県職員360人削減へ 行革大綱素案を公表
  3. 札幌雪まつり、雪像崩れ女性けが 6...写真付記事
  4. 福岡市役所・1階ロビーを情報発信拠...写真付記事
  5. トンネル事故、直前にトラブルか 岡...写真付記事
注目コンテンツ
47CLUB探検隊

「もつ鍋万十屋」さんに行ってきました!

年末に差し掛かりコートが手放せなくなってきましたが皆さまはお元気ですか? これから一段と冷え込むこの季節、特に恋しくなっ...

>> 記事を読む

>> 47CLUB探検隊へ