赤川次郎「三毛猫ホームズの無人島」
「あっ珍しいな、と思いました」
光文社(東京)で長年、赤川次郎を担当した編集者石坂茂房さん(42)は、「別冊小説宝石」1996年初冬号に掲載された「三毛猫ホームズの無人島」の原稿を受け取ったときのことをよく覚えていた。「実在の地名が書かれていましたから。〈軍艦島〉って」
赤川の作品で、人名以外の固有名詞が登場するものは皆無に近い。
天才的推理能力を持つ飼い猫にヒントをもらいながら、殺人事件を解決する「三毛猫ホームズ」シリーズ。主人公は警視庁捜査一課の刑事だが、40冊を超えた同シリーズには「東京」という文字すら、めったに出てこない。物語の舞台を特定する場合も、N女子高校、T高原とイニシャルで表記するだけ。風景の具体的な描写も極端に少ない。現実世界を連想させる表現をなるべく控え、会話を主体にテンポよく話を進めることで、血なまぐさい殺人劇さえも軽妙なユーモア・ミステリーに仕立て上げてしまう。幅広いファン層を持ち、毎年約20冊という驚異的なペースで作品を刊行し続けてきた赤川の流儀の一端が、そこにはある。
ところが「無人島」には、長崎港沖に浮かぶ端島(はしま)(通称・軍艦島)が舞台と分かる言葉や情景描写が並ぶ。
現在、端島への上陸は禁止されている。ヘリコプターで空から迫った。長崎市上空に差しかかったころ、濃紺の海原にセピア色の“艦影”が浮き上がってきた。コンクリートで塗り固めた岩礁に、高層アパートの群れを植え込んだ異形の島がそこにあった。
最盛期の1960年には、周囲約1.2キロのこの島に5200人以上が暮らした。人口密度は世界一。学校や病院だけでなく、パチンコ店、映画館、神社まであった。「住民同士は家族同然。あんな暮らしやすいところはなかった」。島で生まれ育った加地英夫さん(74)=長崎市=は振り返る。
隆盛を極めた後に訪れた劇的な凋(ちょう)落(らく)。74年、石炭が掘り尽くされると島はまるごと棄(す)てられた。閉山から33年。最先端を誇った高層アパートはどれも爆撃を受けたかのように朽ち果て、瓦(が)礫(れき)が路地をふさいでいた。防波堤の内側に、壁画が見えた。島の子どもたちが卒業記念で制作したものだ。激浪でひび割れてはいたが、まだ色を失っていなかった。
島民が総員“退艦”を余儀なくされたのは閉山のわずか3カ月後。当時、小学1年だった松村洋子さん(40)=長崎県時津町=は「船が出るたび、蛍の光が大音量で流れていた」と話す。
10年前、炭鉱の突然の閉山で無人島となった〈軍艦島〉。廃虚と化したはずの島に不思議な明かりがともり、かつてヤマで働いていた人々のもとに島でのパーティーの招待状が届く。差出人は閉山後に自殺したはずの元労働組合役員。懐かしさのあまり旧島民が続々と島に集まるが、かつての炭鉱会社の責任者が殺される。閉山をめぐる会社と労組の対立。会社による労組の分裂工作と裏切り。島民同士の愛憎。三毛猫のホームズは、冷徹な眼で人間たちを見つめ、謎解きの糸口を見つけ出す。
描かれた題材はあくまで重いが、赤川の手にかかれば、あっさりし過ぎとも思えるほどの娯楽作品になる。ただ、「ある島」や「G島」ではなく〈軍艦島〉の物語として描かれていることで、赤川作品としては異色の“現実臭”が棘(とげ)のように読者を刺す。
「ここは私たちの故郷とも言うべき町でした。その町が、わずか半年ほどの間に、無人の、死の町となってしまいました」。登場人物の1人の叫びは、端島の旧島民の思いと重なる。
折からの廃虚ブーム。「軍艦島を世界遺産にする会」理事長で、高校時代まで島で暮らした坂本道徳さん(52)=同県長与町=は声を上げずにいられない。「端島を面白がるだけでなく、なぜ廃虚になったのかを考えてほしい」
「ある炭鉱の閉山をめぐるドキュメンタリーをテレビで見たことがある」。赤川は脱稿後、こんな一文を光文社に寄せた。
「炭鉱の町が閉山によってたちまちゴーストタウンになってしまう光景は息づまるようだった。そして子供たちに訪れる突然の別れ。そのときの強烈な印象をもとに書いた」
文章は、こう結ばれている。「国や企業の身勝手を見て、ホームズなら呆(あき)れてものも言えないかもしれない」
デビュー直後からヒット作を飛ばし、文壇の高額納税者リストの上位を維持し続けてきた赤川だが、道のりは順風満帆ではなかった。
有名私立高校に通っていた16歳のとき、父親が失業。一家は収入の道が断たれた。姉は大学を退学し、兄は学習塾を開いて家計を支えた。赤川自身も進学を断念。同級生で就職の道に進んだのは赤川だけだったという。昨年、日本ミステリー文学大賞を受けた赤川は、授賞式でこう語った。「世の中には、路頭に迷っても一言の抗議の声も上げられない人が大勢いる。そういう社会の大多数の人々の楽しみ、慰め、励みになると同時に彼らの思いを伝えられたら、作家として最高だ」
赤川が描いた〈軍艦島〉。石坂さんは「強者の論理で弱者が理不尽な状況に追い込まれることへの憤りを込めたんじゃないでしょうか」と読み解く。
ヘリが少し傾き、島の上空から離れた。端島の岸壁に打ち寄せる白い波。巨艦が沖へ向かって進んでいるように見えた。島は、どこへ行くのか。
(文=社会部・坂本 信博 写真=写真グループ・伊東昌一郎)
▼あかがわ・じろう
1948年2月29日、福岡市生まれ。映画会社の九州支社長だった父の転勤で、小学2年のとき東京に転居。中学3年で「シャーロック・ホームズの冒険」を読んでミステリーに没頭、小説を書き始める。
桐朋学園高校を卒業後、書店勤務を経て日本機械学会に就職、学会誌編集に携わる。28歳のとき「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞。30歳で刊行した「三毛猫ホームズの推理」がベストセラーになり作家専業に。
「三姉妹探偵団」「吸血鬼」などシリーズ物を中心に、執筆作品は約500作、累計発行部数は約3億冊に上る。「セーラー服と機関銃」「探偵物語」「ふたり」など映像化された作品も多い。東京都在住。
●私の推薦文
重いテーマも軽妙に 鈴木綾子さん(30)=メトロ書店 ミステリー倶楽部主宰 (長崎市)
さらっと読みやすいのが赤川作品の魅力。現実の世界で相次ぐ凶悪犯罪のニュースにうんざりしている人には、特におすすめです。この作品もそうですが、家族愛が描かれていることが多く、物語に温かみがあります。
時間差で殺人事件が起きますが、動機は何か、犯人は誰か、といった二重の謎解きが本作の特徴です。フィクションとはいえ、労働組合と会社の対立という重たいテーマですが、胸が切なくなるような読後感があります。
長崎市民にとって軍艦島は、すぐそばにあるのに決して入れない島、謎めいた島、というイメージがあります。長崎のミステリー愛好家でつくる倶楽部(くらぶ)でも、島の見学を計画したことがありますが、もちろん上陸はできません。この島を見つめ直し、世界遺産や産業遺産に登録しようという動きが数年前から盛んになっています。近い将来、利口な猫ホームズのように、過去の遺産をこの目で見られるようになるのではと楽しみにしています。
●メモ
■海原に浮かぶ廃虚が創作意欲をかき立てるのか、軍艦島を描いた作品は少なくありません。手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」にも要塞島として登場します。ミステリーでは内田康夫の「棄霊島」、恩田陸の「puzzle」などがあります。
■長崎半島先端部の野母崎総合運動公園の展望台から、端島(軍艦島)が見えます。展望台の近くには「軍艦島資料館」があり、往時の島のにぎわいや現在の様子を伝える写真などが展示されています。同公園=095(893)2689。
■端島への上陸は禁止されていますが、遊覧船で島のすぐ近くまで寄って一周する「軍艦島クルーズ」が長崎港から定期運航されています。やまさ海運=095(822)5002。
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