西日本新聞/九州ねっと
 


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2007年02月25日

赤川次郎「三毛猫ホームズの無人島」

 「あっ珍しいな、と思いました」
 光文社(東京)で長年、赤川次郎を担当した編集者石坂茂房さん(42)は、「別冊小説宝石」1996年初冬号に掲載された「三毛猫ホームズの無人島」の原稿を受け取ったときのことをよく覚えていた。「実在の地名が書かれていましたから。〈軍艦島〉って」
 赤川の作品で、人名以外の固有名詞が登場するものは皆無に近い。
 天才的推理能力を持つ飼い猫にヒントをもらいながら、殺人事件を解決する「三毛猫ホームズ」シリーズ。主人公は警視庁捜査一課の刑事だが、40冊を超えた同シリーズには「東京」という文字すら、めったに出てこない。物語の舞台を特定する場合も、N女子高校、T高原とイニシャルで表記するだけ。風景の具体的な描写も極端に少ない。現実世界を連想させる表現をなるべく控え、会話を主体にテンポよく話を進めることで、血なまぐさい殺人劇さえも軽妙なユーモア・ミステリーに仕立て上げてしまう。幅広いファン層を持ち、毎年約20冊という驚異的なペースで作品を刊行し続けてきた赤川の流儀の一端が、そこにはある。
 ところが「無人島」には、長崎港沖に浮かぶ端島(はしま)(通称・軍艦島)が舞台と分かる言葉や情景描写が並ぶ。

 現在、端島への上陸は禁止されている。ヘリコプターで空から迫った。長崎市上空に差しかかったころ、濃紺の海原にセピア色の“艦影”が浮き上がってきた。コンクリートで塗り固めた岩礁に、高層アパートの群れを植え込んだ異形の島がそこにあった。
 最盛期の1960年には、周囲約1.2キロのこの島に5200人以上が暮らした。人口密度は世界一。学校や病院だけでなく、パチンコ店、映画館、神社まであった。「住民同士は家族同然。あんな暮らしやすいところはなかった」。島で生まれ育った加地英夫さん(74)=長崎市=は振り返る。
 隆盛を極めた後に訪れた劇的な凋(ちょう)落(らく)。74年、石炭が掘り尽くされると島はまるごと棄(す)てられた。閉山から33年。最先端を誇った高層アパートはどれも爆撃を受けたかのように朽ち果て、瓦(が)礫(れき)が路地をふさいでいた。防波堤の内側に、壁画が見えた。島の子どもたちが卒業記念で制作したものだ。激浪でひび割れてはいたが、まだ色を失っていなかった。
 島民が総員“退艦”を余儀なくされたのは閉山のわずか3カ月後。当時、小学1年だった松村洋子さん(40)=長崎県時津町=は「船が出るたび、蛍の光が大音量で流れていた」と話す。

 10年前、炭鉱の突然の閉山で無人島となった〈軍艦島〉。廃虚と化したはずの島に不思議な明かりがともり、かつてヤマで働いていた人々のもとに島でのパーティーの招待状が届く。差出人は閉山後に自殺したはずの元労働組合役員。懐かしさのあまり旧島民が続々と島に集まるが、かつての炭鉱会社の責任者が殺される。閉山をめぐる会社と労組の対立。会社による労組の分裂工作と裏切り。島民同士の愛憎。三毛猫のホームズは、冷徹な眼で人間たちを見つめ、謎解きの糸口を見つけ出す。
 描かれた題材はあくまで重いが、赤川の手にかかれば、あっさりし過ぎとも思えるほどの娯楽作品になる。ただ、「ある島」や「G島」ではなく〈軍艦島〉の物語として描かれていることで、赤川作品としては異色の“現実臭”が棘(とげ)のように読者を刺す。
 「ここは私たちの故郷とも言うべき町でした。その町が、わずか半年ほどの間に、無人の、死の町となってしまいました」。登場人物の1人の叫びは、端島の旧島民の思いと重なる。
 折からの廃虚ブーム。「軍艦島を世界遺産にする会」理事長で、高校時代まで島で暮らした坂本道徳さん(52)=同県長与町=は声を上げずにいられない。「端島を面白がるだけでなく、なぜ廃虚になったのかを考えてほしい」

 「ある炭鉱の閉山をめぐるドキュメンタリーをテレビで見たことがある」。赤川は脱稿後、こんな一文を光文社に寄せた。
 「炭鉱の町が閉山によってたちまちゴーストタウンになってしまう光景は息づまるようだった。そして子供たちに訪れる突然の別れ。そのときの強烈な印象をもとに書いた」
 文章は、こう結ばれている。「国や企業の身勝手を見て、ホームズなら呆(あき)れてものも言えないかもしれない」
 デビュー直後からヒット作を飛ばし、文壇の高額納税者リストの上位を維持し続けてきた赤川だが、道のりは順風満帆ではなかった。
 有名私立高校に通っていた16歳のとき、父親が失業。一家は収入の道が断たれた。姉は大学を退学し、兄は学習塾を開いて家計を支えた。赤川自身も進学を断念。同級生で就職の道に進んだのは赤川だけだったという。昨年、日本ミステリー文学大賞を受けた赤川は、授賞式でこう語った。「世の中には、路頭に迷っても一言の抗議の声も上げられない人が大勢いる。そういう社会の大多数の人々の楽しみ、慰め、励みになると同時に彼らの思いを伝えられたら、作家として最高だ」
 赤川が描いた〈軍艦島〉。石坂さんは「強者の論理で弱者が理不尽な状況に追い込まれることへの憤りを込めたんじゃないでしょうか」と読み解く。
 ヘリが少し傾き、島の上空から離れた。端島の岸壁に打ち寄せる白い波。巨艦が沖へ向かって進んでいるように見えた。島は、どこへ行くのか。
 (文=社会部・坂本 信博 写真=写真グループ・伊東昌一郎)

▼あかがわ・じろう

 1948年2月29日、福岡市生まれ。映画会社の九州支社長だった父の転勤で、小学2年のとき東京に転居。中学3年で「シャーロック・ホームズの冒険」を読んでミステリーに没頭、小説を書き始める。
 桐朋学園高校を卒業後、書店勤務を経て日本機械学会に就職、学会誌編集に携わる。28歳のとき「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞。30歳で刊行した「三毛猫ホームズの推理」がベストセラーになり作家専業に。
 「三姉妹探偵団」「吸血鬼」などシリーズ物を中心に、執筆作品は約500作、累計発行部数は約3億冊に上る。「セーラー服と機関銃」「探偵物語」「ふたり」など映像化された作品も多い。東京都在住。

●私の推薦文

重いテーマも軽妙に 鈴木綾子さん(30)=メトロ書店 ミステリー倶楽部主宰 (長崎市)

 さらっと読みやすいのが赤川作品の魅力。現実の世界で相次ぐ凶悪犯罪のニュースにうんざりしている人には、特におすすめです。この作品もそうですが、家族愛が描かれていることが多く、物語に温かみがあります。
 時間差で殺人事件が起きますが、動機は何か、犯人は誰か、といった二重の謎解きが本作の特徴です。フィクションとはいえ、労働組合と会社の対立という重たいテーマですが、胸が切なくなるような読後感があります。
 長崎市民にとって軍艦島は、すぐそばにあるのに決して入れない島、謎めいた島、というイメージがあります。長崎のミステリー愛好家でつくる倶楽部(くらぶ)でも、島の見学を計画したことがありますが、もちろん上陸はできません。この島を見つめ直し、世界遺産や産業遺産に登録しようという動きが数年前から盛んになっています。近い将来、利口な猫ホームズのように、過去の遺産をこの目で見られるようになるのではと楽しみにしています。

●メモ

 

 ■海原に浮かぶ廃虚が創作意欲をかき立てるのか、軍艦島を描いた作品は少なくありません。手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」にも要塞島として登場します。ミステリーでは内田康夫の「棄霊島」、恩田陸の「puzzle」などがあります。

 ■長崎半島先端部の野母崎総合運動公園の展望台から、端島(軍艦島)が見えます。展望台の近くには「軍艦島資料館」があり、往時の島のにぎわいや現在の様子を伝える写真などが展示されています。同公園=095(893)2689。

 ■端島への上陸は禁止されていますが、遊覧船で島のすぐ近くまで寄って一周する「軍艦島クルーズ」が長崎港から定期運航されています。やまさ海運=095(822)5002。

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2007年02月18日

永井隆「長崎の鐘」

 シャギリの音が鳴り響く諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が近づくと、演(だ)し物を奉納する踊町(おどりちょう)の家々は、衣装や道具、祝儀や家宝を恭しく並べた座敷を開けっぴろげて道行く人を招き入れる。
 今や観光の見どころともなった庭見世(にわみせ)という習わしは、キリシタン禁制の世にあって十字架や祭具など何も隠してはおりませんとつまびらかにする年中行事でもあった。
 お諏訪さんをたたえる港町長崎と、259年に及ぶ弾圧に耐え、仏徒を装い信仰を守り伝えた北部の浦上(うらかみ)。この対比を永井隆は「エロスのまち長崎」「マリアのまち浦上」と称した。そして1945年8月9日、原子爆弾ファットマンは、浦上上空500メートルに炸裂(さくれつ)したのである。
 浦上信徒の山田市太郎は永井にこう尋ねる。「誰に会うてもこういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」
 永井は答える。「さあね、私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」

 これこそ私の最初の文章であり、最後の文章であると著者自ら語った『長崎の鐘』(46年8月脱稿)は、爆撃の光景や救護、原爆の威力の科学的考察から永井と市太郎の対話に至る。
 そこに挟み込まれているのが、爆死した8500の浦上人(びと)の合同葬で信徒代表の永井がよんだ弔辞である。
 「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき潔(きよ)き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか…然(しか)るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫(わ)びをきき、忽(たちま)ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります
 この言説を詩人の山田かん氏は「独善的なカトリックエゴイズム」と指弾した。一方でキリシタンの末裔(まつえい)で前長崎市長の本島等氏は、永井の信心を忖度(そんたく)し賛意を表す。殊に締めくくりに目を向ける。
 「この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します」
 本島氏は述懐する。故郷上五島の尋常高等小学校1年の紀元節の練習。最敬礼の号令に頭を早く上げすぎた。「お前はキリシタンだろう」と校長が怒鳴った。佐世保の夜間中学時代には教会で祈っていて石を投げられた。熊本の西部軍管区教育隊では、教官に「君は成績は抜群だが1番にはなれん。キリスト教だから」と言われた。
 永井を看取(みと)った中島万利(まんり)司祭も99歳を間近に壮健だが、敗戦までは獄舎にいた。敵性宗教を喧伝(けんでん)するスパイ容疑のためであった。

 燔祭(はんさい)の炎の中にうたいつつ白百合少女(おとめ)燃えにけるかも 永井隆
 讃美歌(さんびか)をうたい息絶え、灰になった女生徒が通っていた純心女学校。その歴史を継ぐ長崎純心大学の卒業式は浦上天主堂で挙行される。
 数年前の式辞で修道女の片岡千鶴子学長は爆心の歴史をひもといた。迫害に耐え七代にわたり教えを伝承した先達が幕末、信仰を表明したことで総流罪となったこと。信仰の自由を得るや庄屋屋敷を買い取り天主堂を建てたこと。その祈りの家は原爆で瞬時に壊滅し、生き残った人は再建に取り組んだこと。「この人間の生きようを思い出し、自身を再建する力をくみ取ってください」と呼びかけた。
 苦難に苦難をなめた末に原爆を身に受け「お諏訪さんに参らなかった罰があたった」と指さされた浦上信徒に、永井の弔辞にまさる慰めの言葉はなかったのかもしれない。
 それにしても不条理を悲しむ。テニアンを飛び立ったボックスカーの機長チャールズ・スウィーニーはカトリックだった。プルトニウム爆弾は従軍司祭の祝福を受け、小倉、長崎市街地と目標をさまよった揚げ句、日本でも希有(けう)なカトリックの里を奇襲した。被造物たる人間は全能の神から、自由意思と責任を賜ったはずである。

 旧約時代のユダヤの民が、動物を祭壇で丸焼きにして神に罪の赦(ゆる)しを請うた燔祭と原爆死没者とをだぶらせた永井の思想を浦上燔祭説と呼び、神を持ち出したことで日・米の戦争指導者を免責してしまったと指摘するのは哲学者の高橋眞司・長崎大学教授である。永井の著作群を貫く燔祭説は浦上ならではの信仰の発露とはいえ「集団殺戮(さつりく)された死者の憤怒や怨念(おんねん)を慰める意味では重要な定式化といえるが、死者が願っているであろう平和の制度化という面では、病床に伏し、被爆後6年で亡くなった永井には限界があった」と話す。
 連合国軍総司令部(GHQ)は『長崎の鐘』の出版に際し、GHQ諜報(ちょうほう)課が編纂(へんさん)した『マニラの悲劇』を特別付録とする条件をつけた。フィリピンでの日本軍の残虐行為の記録と、原爆投下を神の摂理と説く被爆記録を並べた意図は明白である。
 だが、独裁者を目の敵にしたイラク攻撃。それを諸手(もろて)で支持する国に暮らすわれわれに、高みから論評する資格はあるまい。凝視すべきは、神の名による戦争を傍観する己の罪にほかならない。
 (文=編集委員・田川大介 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼ながい・たかし

 1908年2月3日、島根県松江市で出生。松江高等学校から長崎医科大学に進む。浦上キリシタンの潜伏組織の代表・帳方(ちょうかた)の血をひく森山家に下宿したことで34年、浦上天主堂で受洗。森山家の1人娘緑(みどり)と結婚。
 長崎医科大助教授時代に慢性骨髄性白血病と診断される。付属病院で被爆、救護に尽くす。46年1月に教授となるが間もなく療養。48年3月、母屋から二畳一間の如己堂に移る。『この子を残して』『花咲く丘』など翻訳を含め著書17。長崎名誉市民第1号。51年5月1日死去。市公葬には2万人が参列した。

●私の推薦文

科学者ならではの考察 深堀柱さん(76)=カトリック長崎 大司教区広報委員(長崎市)

 如己堂の窓越しに見た病臥(びょうが)の博士の執筆姿は半世紀をはるかに越えた今も褪(あ)せることはない。原子野に伏せつつ、浦上天主堂のアンゼラスの鐘に鼓舞され執筆した『長崎の鐘』は、被爆都市の知的財産である。長崎医科大での被爆体験、救護活動、被害状況などが克明に記録されている。
 放射線が生物に及ぼす影響についても、原子爆弾による直接的な破壊作用や、照射後数時間にして発生する放射宿酔、残留放射能の脅威など、被爆者と直接向き合った科学者ならではの考察は「被爆証言集第一号」といわれるゆえんである。
 核保有論議を容認する発言を繰り返す政治家に『長崎の鐘』を手に取ってほしい。戦争は人類の自殺行為。浦上人は世界に向かって叫ぶ。「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと」。平和を祝福する鐘は今日も鳴っている。

●メモ

 ■長崎医大で看護婦だった女性は被爆前の救護訓練で「おまえはいつも担架に乗って楽をしとる」と永井に怒られたそうです。食料難で誰しも栄養が足りず、最も小柄な女性が病人役を務めるのは暗黙の総意だったそうですが…。聖人君子と伝えられる永井の、意地悪く言えば気配りのなさ、人間らしい一端に触れる逸話です。また浦上のある長老は「私が考えた青年会報の表題が、教会史では永井先生の発案となっていて驚いた」と。数々の永井伝説には、周囲の人々が作り上げた理想像も反映しているようです。世界平和を希求する一方で愛国心に燃え、親天皇、反共主義者でもありました。

 ■2008年の生誕100年に向けて記念行事が催されています。如己堂に隣接した長崎市永井隆記念館=095(844)3496。

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2007年02月11日

別冊・同人誌の力の源泉

  「千年書房・九州の100冊」は、読者から励ましのお頼りなど頂きながら、折り返しの50回を迎えました。今回の別冊は、同人誌を取り上げます。かつて多くの作家を輩出し作家へのと登竜門だった同人誌ですが、今は雑誌の文学賞からデビューする人が多くなりました。とはいえ、同人誌の値打ちが下がったのではありません。

     ◇

 金を儲(もう)けたい奴(やつ)は兜町に集まり、絵を極めたい奴は巴里(パリ)モンマルトルに集まり、小説家になりたい奴は同人誌に寄る。みな同じ夢と魂と野心を持っており、接しあうことで、挫(くじ)けそうになる心に鞭(むち)を打っていく。

 今でこそ、各雑誌に新人賞があり、懸賞小説があり、同人誌に参加せずに、世に出る作家は増えたが、つい最近まで、同じ魂は相寄り合い、切磋琢磨(せっさたくま)し、ソッタク同機しあった。友を選ばば書を読みて、六分の侠気(きょうき)、四分の熱というが、気と熱を生かすも殺すも、すべては「友」である。
 莫逆(ばくぎゃく)の友を何人持つか、はたまた辛辣(しんらつ)犬猿の友でも良い。若き修行時には、他人と優劣を争うことも必要なのではないかと思う。この世は死ぬまでイクサなのだから。
 同人誌というものは、1人が飛ばしだすと、熱い核融合が起こり、後も陸続と続きだす。例えは古いが、松下村塾の高杉晋作、久坂玄瑞が飛ばし、後輩たちが続いたように。また、適塾の大村益次郎や福沢諭吉が飛ばし、あとが続いたように、である。

 まず、名門「新思潮」第十五次からは入りましょう。因(ちな)みに一次には田山花袋、正宗白鳥、二次には谷崎潤一郎、和辻哲郎、第三次には山本有三、芥川龍之介、四次には菊池寛、六次には川端康成と日本の文壇を作った観のある同人誌である。当時のライバル同人誌は学習院派の「白樺」。志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤、里見惇ほかで、あまりにも有名周知故に割愛する。十四次に吉行淳之介がおり、十五次には、三浦朱門、村上兵衛、阪田寛夫、梶山季之、曽野綾子、有吉佐和子ら、錚々(そうそう)たるメンバーばかりである。一期上の吉行が飛ばしたことで、十五次も刺激されて、どんどん世に出る。曽野は中河与一の同人誌「ラマンチャ」から移り、「鰊漁場」をすぐ発表。有吉は吾妻徳穂の秘書をしながら、「盲目」を発表。梶山は阿佐ケ谷駅北口で喫茶店をやっていた。同人誌というのは、会費だけではとても賄えない。有吉が広告を取り、梶山が販売に売り歩いたという。ふだんの仕事をしながら、作品を書き、かつ発行し続けるための、軍資金を集める。なかなかに大仕事なのである。
 もう1つの名門をご紹介しよう。同人誌「文芸首都」(主宰・保高徳蔵)である。ここも錚々たるメンバーを輩出している。北杜夫、川上宗薫、佐藤愛子、なだいなだ、中上健次、林京子、津島佑子、田畑麦彦ほか、である。保高の発想である公募投稿制が、若い有為の才能を多く蹊(けい)ならしめたといえる。

 同人誌というものは、自分たちで刷った雑誌に自分の小説が載る、それで自己満足しているものではない。当然、世に出るためである。1人が世に出るということは、心中おだやかならず、劣等感に苛(さいな)まされるのであるが、半面、自分たちのパーティーが世の中に認められたという証しにもなる。ハロー効果的自信にも繋(つな)がるのである。1人光る、皆光る、誰も彼も光るの状態に変貌(へんぼう)すると、芥川賞、直木賞目白(めじろ)押しの会となる。先に飛び出すのは誰からでも良いのである。明るい連鎖が始まれば、入れ食いが始まり、チューリップは開きっぱなしと成るのである。
 作家輩出同人誌に共通しているのは、合評会の在り方が優れている。まず、「けなし合いの会」はしない。もちろん、俗にいう「仲間褒めの会」も脆(もろ)い。確かに人間は誰しもお世辞を好む。褒め殺しはいけないが、けなすより、良いところを認め合って、楽天的な会からプロは多く誕生している。最悪は評論家の多い会であり、気取ったパセティック屋(文学青年)さんの多いところである。昔のように、みかん箱いっぱいに書いてからとか、そんなストイックも止めた方がいい。もし同人誌に入会されて、あまりに理屈っぽいお歴々が多いところは、ぜひお辞めになったほうがと、老爺(婆)心ながら書き添える。
 最後に、ご当地「九州文学」をと思いましたが、紙数が尽きてしまった。火野葦平、岩下俊作、原田種夫,劉寒吉ほかのご活躍は、ぜひ「博多に強くなろう」(西日本シティ銀行、刊)シリーズの中の、「九州文学を支えた群像」をご覧ください。

●鍛錬に仲間が必要だった 作家・佐藤愛子さん

 佐藤愛子さん(83)は、父が作家の佐藤紅緑(こうろく)、異母兄が詩人のサトウハチローという物書き一家に育ったが、作家を志したのは父を亡くしてからだ。父の死をきっかけにモルヒネ中毒の夫と別居。紅緑が生前、「愛子は文才がある」と言っていたのを母が思い出し、「書くものさえよければ食べていける」と勧めたのだ。
 「私みたいにけんかっ早い人間は組織に入っても一週間ともたないし、ほかに何もできないと母は判断したんでしょう。私も世間知らずで、兄が大した勉強もしていないのに世に出たから、簡単にご飯が食べられるようになるだろうと思った」。26歳の決心。だが、直木賞受賞まで20年を要した。まず「文芸首都」の会員になった。
 「文学賞もあまりない時代だから、同人雑誌で勉強する以外に方法がなかった。作品が掲載されても、作家を育てようという出版社の編集者に巡り会えるかどうか。狭き門でした」
 初投稿で「次作に期待します」と書かれた選者のはがきに励まされ、机に向かう日々。初めて自作が採用されたときは「直木賞をもらったときよりうれしかった」という。「活字になることが何か世界が広がったような感じで、希望が生まれた」
 敗戦直後で失業者の同人も多く、印刷所に借金しながらの発行。合評会では歯に衣(きぬ)を着せぬ意見が飛び交った。「同人会での悪口は覚悟の上、聞くべき意見もあれば無視していい意見もある。自分の中で選択して切磋琢磨(せっさたくま)していくわけです」
 「文芸首都」に飽きたらず、「半世界」を創刊。川上宗薫、宇能鴻一郎、窪田般弥も参加した。69年には「戦いすんで日が暮れて」で直木賞受賞。同人雑誌から足は遠のいた。
 今や同人雑誌はかつての活況を失い、文学賞が花盛り。出版界は若い才能の発掘に躍起だ。そうした風潮には懐疑的だ。
 「若い人は作品を悪く批評されると怒るそうですね。われわれは悪口を言われて当たり前、切磋琢磨していい作品を、と考えていたから仲間が必要だったけれど、今は文壇に出るのが目的で仲間はいらないのよ」
 書くという行為の意味を今、どう考えるのか。
 「若いころの私は兄のハチローを酷薄なエゴイストと思っていた。散々親不孝しておいて母を懐かしむ詩を書くなどウソだ、と。しかし、『血脈』を書いているうちに、両方ともハチローの真実だったということが分かった。書くことによって人間が分かっていく-それが私の書くことの意味です」。12年間かけた大作「血脈」は76歳で完成させた。「作家でいる限り、修業は続く」。同人雑誌時代の志は衰えていない。
(東京報道部・神屋由紀子)

●カンカンガクガク、競い合ってこそ

水上平吉さん=同人誌「小さい旗」主宰 北九州市八幡東区

 児童文学誌「小さい旗」は55年、5人の同人で創刊された。2号から参加した平吉は、3号から入った浅野かずよと結婚し、18号から夫婦2人3脚で主宰することになった。かずよは早くから頭角をあらわし、特に少年詩で、小学国語に相次いで掲載されるようになって全国的な詩人となったが、88年に死去。以後、平吉が継続につとめ、この2月には123号を発行するまでになった。
 児童文学の創造と普及を車の両輪として創刊52年目となり、全国的にも屈指の同人誌と言われるようになった。歴史の長さだけでなく、同人の創作活動の成果が出版点数の多さとなり、各種受賞にもつながった。
 同人誌は基本的に勉強会だ。月例会に作品を持ち寄り、カンカンガクガク合評し合うことに意味がある。最近は公募が多く、特に若い人は安易な応募に走りがちだし、同人の勉強会への参加も消極的だ。努力を抜きにして成果は得られない。同人誌が各地にあって競い合ってこそ文学的レベルアップにつながると思うのだが…。

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2007年02月04日

種田山頭火「山頭火日記」

 満州事変から3カ月後の1931年12月24日朝、山頭火は熊本県山鹿市の宿を出立し、福岡県境の峠を目指していた。
 菅笠(すげがさ)をかぶり、色あせた黒染めの法衣をまとっている。ずだ袋には大学ノートと万年筆をしのばせている。宿から峠まで16キロ。途中、門前や往来で経を唱え、米や金銭の施しを受けながらの上り道だから、峠を越えたのは日差しが傾き始めた午後だろう。夜には雪が降り、辺りを白く染めた。

うしろすがたのしぐれてゆくか

 山頭火の作で最も有名なこの句は、峠を下ってたどりついた福岡県八女市で作られている。日記に、この日のことを次のように記している。
 〈昨夜は雪だつた、山の雪がきらきら光つて旅人を寂しがらせる、思ひだしたように霙(みぞれ)が降る〉
 49歳。4度目となる放浪の途上だった。

 山頭火は旅路の出来事を大学ノートに記し、1冊書き上げるごとに、生涯の支援者で親友だった福岡県柳川市出身の医師木村緑平(1888-1968)のもとに送っている。最初の日付は1930年9月9日、熊本県八代市。「行乞記(ぎょうこつき)」と名付け、次のような文で始まる。
 〈私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外(ほか)に私の生き方はないのだ〉
 この言葉は、山頭火の人生そのものと言っていい。
 山口県防府市にある実家の造り酒屋を破産させ、妻子を連れて熊本市へ。酒浸りの日々を送り、3年後には単身で上京。関東大震災に遭い、いったんは家族のもとに戻るものの、再び酒におぼれて禅寺に入門。熊本県植木町の観音堂の堂守となり、1年後にはここも放り出している。何度か自殺も試みているらしい。

分け入っても分け入っても青い山

 観音堂を出た直後の26年4月、宮崎県高千穂あたりで作られた句。前書きに〈解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た〉とある。このときは東九州から山陰地方、四国と4年近く歩いているが、詳しい道筋は分かっていない。山頭火は「行乞記」以前の日記や手記をすべて焼いてしまっているからだ。
 「解くすべもない惑ひ」とは何か。自殺した母と弟への思慕。妻子への自責。文学への情熱。断ち切れない煩悩。破滅への願望-。とどまれば押しつぶされそうになり、歩き続けるしかなかった。

 八代市の日奈久温泉に、山頭火が宿泊した「織屋」を訪ねた。現在は旅館を廃業しているが、2階建てのこぢんまりとした建物は当時のまま保存されている。引き戸を開けると土間の先に急な階段があり、旅人を泊めた八畳間へ続く。「行乞記」2日目。山頭火はここに3泊し、なかなか腰を上げようとしない。
 〈温泉はよい、ほんとうによい、ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、-いや一生動きたくないのだが(それほど私は労(つか)れているのだ)〉
 それでも山頭火が旅立つのは、彼の研究を続ける熊本市在住の俳人、星永文夫さん(73)が指摘するように「文学者としての業」だったのだろう。歩き、句をつくることで「解くすべもない惑ひ」は昇華されていく。その後に残るのは、幼子のような魂を持つ人間・山頭火である。
 「行乞記」によると30年9月-12月、山頭火は宮崎から鹿児島、大分、下関、北九州、福岡、久留米と九州をほぼ一周している。前半は僧侶らしく、托鉢(たくはつ)をして日々の糧と宿代を得ているが、後半は木村緑平ら各地の友人を訪ね、酒ざんまいの日々。

酔うてこほろぎと寝てゐたよ
 あるひは乞ふことをやめ山を観てゐる

 気楽というか勝手というか。その稚気に読者は苦笑せざるをえない。もちろん、本人は大まじめなのだが。

 戦後4度目の山頭火ブームだという。60年代半ばの高度成長期、70年代半ばの激動期、昭和から平成を挟んだバブル経済期、そして団塊世代の大量定年期。時代の節目に、人々は放浪の俳人を求めてきた。
 「かつては社会のアウトサイダーとして興味を持つ人が多かった。今は幅広い年齢層が山頭火に生き方を学ぼうとしている」。全集や句集など数多くの著作を出版する出版社「春陽堂書店」(東京)の編集者、安永浩美さん(55)は言う。私たちにとって山頭火そのものがひとつの物語であり、俳句や日記はその作品の一部と言えなくもない。
 植木町の観音堂を出て13年。山頭火は松山市に庵(いおり)を結ぶ。亡くなる1カ月前にはこんな句を作っている。

もりもりもりあがる雲へ歩む

 今、あの空のどのあたりを歩いているのだろう。
(文=熊本総局・山本敦文 写真=写真グループ・納富 猛)

▼たねだ さんとうか

 1882年、山口県西佐波令村(現防府市)生まれ。本名は正一、後に耕畝(こうほ)と改名。山頭火は俳号。9歳のとき母フサの投身自殺を目撃する。早稲田大文学科中退。実家の酒造場を手伝い、26歳でサキノと結婚。このころから俳句に傾倒し、自由律俳句を提唱した荻原井泉水に師事。33歳で破産、熊本市に移り、古書店を開業する。やがて妻子を残して上京。関東大震災に遭い、熊本市で酔って電車を急停車させる事件を起こし、禅寺に入門。熊本県植木町の観音堂の堂守となったが、1年後に行乞の旅へ。4年余りの放浪の末、いったんは熊本に戻り、再び出立。九州各地を巡り、一時は山口市にも定住。1939年に松山市で納屋を改造した「一草庵」に落ち着く。翌年、心臓まひで死去。57歳。

●私の推薦文

一歩手前で本質つかむ 出水 晃さん(62)=喫茶店主(熊本県八代市)

 山頭火を知ったのは30年ほど前、知人から「行乞記」の日記を渡されたのがきっかけです。目からうろこが落ちましたね、日本語にはこういう使い方があったのかと。誰にでも覚えやすい、俗っぽさに陥る一歩手前の言葉で物事の本質をぽんとつかむ。例えば、「殺した虫をしみじみ見てゐる」。主観も客観も超えて、内面をとことんまで見詰めた哲学者だと思いました。
 以来、山頭火のファンです。仲間と句碑を建立したり、宿泊した旅館「織屋」の保存を呼び掛けたり…。誰もが心のどこかで弱さをさらけ出し、楽になりたい。だから弱さに開き直ることができた「白髪のセンチメンタリスト」に共感するのでしょう。彼はなぜそういう生き方ができたのか。一緒に酒を飲むことができたら、ぜひ聞いてみたいですね。
 

●メモ

 ■現存する山頭火の日記は、熊本県八代市を出立した1930年9月から亡くなる直前の40年10月まで大学ノート21冊。山頭火は当時の旅路や住まいに合わせて「行乞記」「389日記」「其中日記」などと名付けています。原本は松山市の子規記念博物館に保存されています。

 ■山頭火は37歳で戸籍上は離婚してますが、放浪の旅に出た後もたびたび妻サキノや長男のもとを訪ねています。山口県防府市の種田家の墓に納められた遺骨は戦後、長男の手で分骨され、現在は熊本市の安国寺に親子3人で眠っています。

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