西日本新聞

千年書房・九州の100冊

永井隆「長崎の鐘」

 シャギリの音が鳴り響く諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が近づくと、演(だ)し物を奉納する踊町(おどりちょう)の家々は、衣装や道具、祝儀や家宝を恭しく並べた座敷を開けっぴろげて道行く人を招き入れる。
 今や観光の見どころともなった庭見世(にわみせ)という習わしは、キリシタン禁制の世にあって十字架や祭具など何も隠してはおりませんとつまびらかにする年中行事でもあった。
 お諏訪さんをたたえる港町長崎と、259年に及ぶ弾圧に耐え、仏徒を装い信仰を守り伝えた北部の浦上(うらかみ)。この対比を永井隆は「エロスのまち長崎」「マリアのまち浦上」と称した。そして1945年8月9日、原子爆弾ファットマンは、浦上上空500メートルに炸裂(さくれつ)したのである。
 浦上信徒の山田市太郎は永井にこう尋ねる。「誰に会うてもこういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」
 永井は答える。「さあね、私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」

 これこそ私の最初の文章であり、最後の文章であると著者自ら語った『長崎の鐘』(46年8月脱稿)は、爆撃の光景や救護、原爆の威力の科学的考察から永井と市太郎の対話に至る。
 そこに挟み込まれているのが、爆死した8500の浦上人(びと)の合同葬で信徒代表の永井がよんだ弔辞である。
 「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき潔(きよ)き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか…然(しか)るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫(わ)びをきき、忽(たちま)ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります
 この言説を詩人の山田かん氏は「独善的なカトリックエゴイズム」と指弾した。一方でキリシタンの末裔(まつえい)で前長崎市長の本島等氏は、永井の信心を忖度(そんたく)し賛意を表す。殊に締めくくりに目を向ける。
 「この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します」
 本島氏は述懐する。故郷上五島の尋常高等小学校1年の紀元節の練習。最敬礼の号令に頭を早く上げすぎた。「お前はキリシタンだろう」と校長が怒鳴った。佐世保の夜間中学時代には教会で祈っていて石を投げられた。熊本の西部軍管区教育隊では、教官に「君は成績は抜群だが1番にはなれん。キリスト教だから」と言われた。
 永井を看取(みと)った中島万利(まんり)司祭も99歳を間近に壮健だが、敗戦までは獄舎にいた。敵性宗教を喧伝(けんでん)するスパイ容疑のためであった。

 燔祭(はんさい)の炎の中にうたいつつ白百合少女(おとめ)燃えにけるかも 永井隆
 讃美歌(さんびか)をうたい息絶え、灰になった女生徒が通っていた純心女学校。その歴史を継ぐ長崎純心大学の卒業式は浦上天主堂で挙行される。
 数年前の式辞で修道女の片岡千鶴子学長は爆心の歴史をひもといた。迫害に耐え七代にわたり教えを伝承した先達が幕末、信仰を表明したことで総流罪となったこと。信仰の自由を得るや庄屋屋敷を買い取り天主堂を建てたこと。その祈りの家は原爆で瞬時に壊滅し、生き残った人は再建に取り組んだこと。「この人間の生きようを思い出し、自身を再建する力をくみ取ってください」と呼びかけた。
 苦難に苦難をなめた末に原爆を身に受け「お諏訪さんに参らなかった罰があたった」と指さされた浦上信徒に、永井の弔辞にまさる慰めの言葉はなかったのかもしれない。
 それにしても不条理を悲しむ。テニアンを飛び立ったボックスカーの機長チャールズ・スウィーニーはカトリックだった。プルトニウム爆弾は従軍司祭の祝福を受け、小倉、長崎市街地と目標をさまよった揚げ句、日本でも希有(けう)なカトリックの里を奇襲した。被造物たる人間は全能の神から、自由意思と責任を賜ったはずである。

 旧約時代のユダヤの民が、動物を祭壇で丸焼きにして神に罪の赦(ゆる)しを請うた燔祭と原爆死没者とをだぶらせた永井の思想を浦上燔祭説と呼び、神を持ち出したことで日・米の戦争指導者を免責してしまったと指摘するのは哲学者の高橋眞司・長崎大学教授である。永井の著作群を貫く燔祭説は浦上ならではの信仰の発露とはいえ「集団殺戮(さつりく)された死者の憤怒や怨念(おんねん)を慰める意味では重要な定式化といえるが、死者が願っているであろう平和の制度化という面では、病床に伏し、被爆後6年で亡くなった永井には限界があった」と話す。
 連合国軍総司令部(GHQ)は『長崎の鐘』の出版に際し、GHQ諜報(ちょうほう)課が編纂(へんさん)した『マニラの悲劇』を特別付録とする条件をつけた。フィリピンでの日本軍の残虐行為の記録と、原爆投下を神の摂理と説く被爆記録を並べた意図は明白である。
 だが、独裁者を目の敵にしたイラク攻撃。それを諸手(もろて)で支持する国に暮らすわれわれに、高みから論評する資格はあるまい。凝視すべきは、神の名による戦争を傍観する己の罪にほかならない。
 (文=編集委員・田川大介 写真=写真グループ・岩崎拓郎)

▼ながい・たかし

 1908年2月3日、島根県松江市で出生。松江高等学校から長崎医科大学に進む。浦上キリシタンの潜伏組織の代表・帳方(ちょうかた)の血をひく森山家に下宿したことで34年、浦上天主堂で受洗。森山家の1人娘緑(みどり)と結婚。
 長崎医科大助教授時代に慢性骨髄性白血病と診断される。付属病院で被爆、救護に尽くす。46年1月に教授となるが間もなく療養。48年3月、母屋から二畳一間の如己堂に移る。『この子を残して』『花咲く丘』など翻訳を含め著書17。長崎名誉市民第1号。51年5月1日死去。市公葬には2万人が参列した。

●私の推薦文

科学者ならではの考察 深堀柱さん(76)=カトリック長崎 大司教区広報委員(長崎市)

 如己堂の窓越しに見た病臥(びょうが)の博士の執筆姿は半世紀をはるかに越えた今も褪(あ)せることはない。原子野に伏せつつ、浦上天主堂のアンゼラスの鐘に鼓舞され執筆した『長崎の鐘』は、被爆都市の知的財産である。長崎医科大での被爆体験、救護活動、被害状況などが克明に記録されている。
 放射線が生物に及ぼす影響についても、原子爆弾による直接的な破壊作用や、照射後数時間にして発生する放射宿酔、残留放射能の脅威など、被爆者と直接向き合った科学者ならではの考察は「被爆証言集第一号」といわれるゆえんである。
 核保有論議を容認する発言を繰り返す政治家に『長崎の鐘』を手に取ってほしい。戦争は人類の自殺行為。浦上人は世界に向かって叫ぶ。「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと」。平和を祝福する鐘は今日も鳴っている。

●メモ

 ■長崎医大で看護婦だった女性は被爆前の救護訓練で「おまえはいつも担架に乗って楽をしとる」と永井に怒られたそうです。食料難で誰しも栄養が足りず、最も小柄な女性が病人役を務めるのは暗黙の総意だったそうですが…。聖人君子と伝えられる永井の、意地悪く言えば気配りのなさ、人間らしい一端に触れる逸話です。また浦上のある長老は「私が考えた青年会報の表題が、教会史では永井先生の発案となっていて驚いた」と。数々の永井伝説には、周囲の人々が作り上げた理想像も反映しているようです。世界平和を希求する一方で愛国心に燃え、親天皇、反共主義者でもありました。

 ■2008年の生誕100年に向けて記念行事が催されています。如己堂に隣接した長崎市永井隆記念館=095(844)3496。

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