那珂太郎「はかた」
博多生まれの詩人那珂太郎にとって、ふるさとは、もうない。ふるさと「はかた」は遠い日の幻像である。4章200行からなる長編詩「はかた」は、その鎮魂として書かれた。
35年前のことである。
東京・久我山の自宅で那珂が記憶をたどる。
十数年ぶり博多に戻ったという1971年のことである。町には、ヒッピーまがいのひげを生やした若者が細身のジーパンをはいて闊歩(かっぽ)していた。「博多言葉もろくにあやつれぬ」のに。「仁輪加もどきのダジヤリズムで きみらわがもの顔」(「はかた」)で、となる。
そこは「よそよそしい異土」であり「まがひものの博多の町」でしかなかった。ふるさとは、他人の居場所。奪われていた。
那珂が少年時代を過ごした麹屋町は博多で最もにぎわった一画である。みそせんべいの店、仏具の店、はきもの屋、陶器店…老舗が軒を並べていた。一銭洋食の店からはメリケン粉にしみるソースのにおいがしてきた。かくれんぼができる暗がりの隠れ家もあった。パッチンをしコマを回した。
那珂は、そんな子どものころの町を詩の中によみがえらせた。自ら詩の中に駆け込んで行く。そして見渡す。
「遊び仲間は、どこに行った」
タイムスリップした空間を見渡してもだれもいない。泣き虫のえいちゃんも仏壇屋のじっちゃんもビルマで戦死していた。
第3章。詩の中の風景は、那珂が旧制福岡高校に通っていたころに移る。西中洲にあった福助足袋の広告塔も、乙ちゃんうどんの大ちょうちんもない。そこは、のちに書肆(しょし)ユリイカの社主となる伊達得夫らと文学を、戦時下の青春を語り合った場所である。しかし、すべてはまぼろしの中…。
1945年9月、復員してきた那珂の前には、焼け野が原の博多の町が広がっていた。その3カ月前、6月19日の福岡大空襲で博多は跡形もなく焼き尽くされていた。
ふるさとには何もない。ふるさとの仲間も消えていた。だから詩の中で、伊達に語りかけ、伊達とともに同人誌「こをろ」けん引した詩人矢山哲治の鉄道事故死の現場を訪ね、語りかける。とめどもない虚無-。そうして、その青春も「はかた」の中によみがえらせようとしたのだ。音楽的な言葉の繰り返し。ひびく音律。言霊(ことだま)の力を借りるように。
なみ
なみなみ
なみなみなみなみ
…………
このしろき波の列はさざなみのうたかたの
みをつくしみなわの倭の那の國の
茅の輪なす海のなか道なみのなぎさに
たゆたふ玉藻の香椎潟 箱崎の濱をすぎ
室町時代の連歌師・宗祇の「筑紫道記」や「万葉集」、あるいは「金槐和歌集」を取りこみながらつづる。
音楽的なひびき。それは、寂しかった心を癒やしてくれたひびきであり青春の心のときめきだった。自宅の店の近くにあった音楽喫茶で聴いたクラシック音楽が胸の中に共鳴しているのである。
当時のインタビューに、こう答えている。「言葉は本来、音を持っていて、文字に書かれたものは、その写しです。だから、言葉の発生の根源にある音を生かすことが、言葉の生命をとらえることだと考えます」
那珂は8人きょうだいの五男である。小学校に上がる直前、父は近所の人の葬儀が行われていた寺で脳出血で亡くなった。41歳だった。倒れている、その場で父の耳のあたりにヒルをはわせ、血を吸いとらせようとしていた光景を覚えている。母も旧制中学2年のときに亡くした。3人の姉妹、2人の兄弟もつぎつぎと世を去った。家族の死の中に生があった。そして戦争-。そのことが、作品の底流に虚無感を漂わせる。
ふるさとも、なつかしき友も、虚無のかなた。すべてを追悼し、鎮魂歌を捧げる。それはのちの「幽明過客抄」での島尾敏雄や矢山哲治、西脇順三郎らの追悼へと連なる。
戦前の地図を頼りに、那珂が教えてくれた、詩の舞台にもなった、かつての麹屋町を訪ねた。博多座の前を北へ歩く。郵便局のあたりか、ホテルオークラのあたりか。しかし、見渡しても、どこがどうなのか分からない。店の名も違う、通りも区画整理され全く別世界だ。「中村美律子」と大書したのぼりが春風に揺れていた。
掛町、蔵本町、行町…大空襲で消えた町は、その後の町界町名変更で、太閤(たいこう)秀吉以来という町の名も消されていた。那珂の原風景はどこにもない。
いのちも、都市のにぎわいもうつろいやすい。しかし、朗々と詩をつづることによって、いのちを語り伝えているのである。詩は、虚無から美が生まれることを教えているのか。
(文=文化部・松尾孝司 写真=写真グループ・伊東昌一郎)
▼なか・たろう
1922年、福岡市麹屋町(現・下川端町)生まれ。本名・福田正次郎。8人きょうだいの5番目。生後半年ほどで実家近くの福田家に養子に行く。旧制福岡高から東大国文科卒。海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊し、海軍兵学校国語科教官を務める。戦後、東京都の豊島、新宿高教諭を務めたあと、玉川大学教授など歴任。詩集に「ETUDES」「音楽」(室生犀星詩人賞)、「空我山房日乗其他」「幽明過客抄」「鎮魂歌」など。評論集に「萩原朔太郎その他」など。那珂黙魚の号で俳句も作る。日本芸術院会員。東京都杉並区久我山在住。
●私の推薦文
美しい幻影の町のようで…… 和泉僚子さん(37)=福岡市総合図書館特別資料専門員 (福岡市中央区在住)
「はかた」を本格的に読んだのは、図書館の仕事をするようになってから、もう7、8年前です。大変、ひきつけられたのは
雨のはもんどおるがんの 古門戸町
の一節だったかと覚えています。現在は地続きで、歩いて行ける「博多」のことを描いていると分かっていても、こんな柔らかな日本語の、音楽的な響きが重ねられて、ここの「はかた」は、どこか遠い異国のような、美しい幻影の町のようです。しかも、「はかた」には、いろんな古典文学の引用が織り込まれており、文学のテキストの中に自分の町が入っているような魅力があります。
そして、もう一つ印象深いのは、
中洲の橋のたもとにたたずみ目をつむると おい伊達得夫よ/あのブラジレイロの玲瓏たるまぼろしが浮んでくるぢやないか
と詠まれる、那珂氏の親友・伊達得夫の姿です。詩の2章は、那珂氏の青春時代の「博多」の情景ですが、この中で、伊達得夫とは、那珂氏の青春の一つの象徴かと思われます。
●メモ
■那珂太郎さんの祖父にあたるのが藤井孫次郎。1877年、ことし創刊130年を迎える西日本新聞の前身に当たる「筑紫新聞」の創刊に参画し、同紙廃刊後は「めざまし新聞」を創刊しました。那珂さんは「いまでも時々送ってくる西日本新聞を読むたびに郷里への感慨をおぼえます」と話しています。
■「はかた」(青土社刊)の装丁をしたのは、当時「ユリイカ」編集長だった文芸評論家の三浦雅士さん。「博多という町が単に生まれたところ、なつかしい町である以上に重要な意味を持つ詩。私にとって大変思い入れの熱い詩集で、全力投球しました」といいます。博多の繁華街の店の名前などを網羅した詩集見返しの戦前の博多繁華街地図は三浦さんの手描きです。その数は約500店(軒)にのぼります。
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