西日本新聞/九州ねっと
 


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2007年03月25日

那珂太郎「はかた」

 博多生まれの詩人那珂太郎にとって、ふるさとは、もうない。ふるさと「はかた」は遠い日の幻像である。4章200行からなる長編詩「はかた」は、その鎮魂として書かれた。
 35年前のことである。

 東京・久我山の自宅で那珂が記憶をたどる。
 十数年ぶり博多に戻ったという1971年のことである。町には、ヒッピーまがいのひげを生やした若者が細身のジーパンをはいて闊歩(かっぽ)していた。「博多言葉もろくにあやつれぬ」のに。「仁輪加もどきのダジヤリズムで きみらわがもの顔」(「はかた」)で、となる。
 そこは「よそよそしい異土」であり「まがひものの博多の町」でしかなかった。ふるさとは、他人の居場所。奪われていた。
 那珂が少年時代を過ごした麹屋町は博多で最もにぎわった一画である。みそせんべいの店、仏具の店、はきもの屋、陶器店…老舗が軒を並べていた。一銭洋食の店からはメリケン粉にしみるソースのにおいがしてきた。かくれんぼができる暗がりの隠れ家もあった。パッチンをしコマを回した。
 那珂は、そんな子どものころの町を詩の中によみがえらせた。自ら詩の中に駆け込んで行く。そして見渡す。
 「遊び仲間は、どこに行った」
 タイムスリップした空間を見渡してもだれもいない。泣き虫のえいちゃんも仏壇屋のじっちゃんもビルマで戦死していた。

 第3章。詩の中の風景は、那珂が旧制福岡高校に通っていたころに移る。西中洲にあった福助足袋の広告塔も、乙ちゃんうどんの大ちょうちんもない。そこは、のちに書肆(しょし)ユリイカの社主となる伊達得夫らと文学を、戦時下の青春を語り合った場所である。しかし、すべてはまぼろしの中…。
 1945年9月、復員してきた那珂の前には、焼け野が原の博多の町が広がっていた。その3カ月前、6月19日の福岡大空襲で博多は跡形もなく焼き尽くされていた。
 ふるさとには何もない。ふるさとの仲間も消えていた。だから詩の中で、伊達に語りかけ、伊達とともに同人誌「こをろ」けん引した詩人矢山哲治の鉄道事故死の現場を訪ね、語りかける。とめどもない虚無-。そうして、その青春も「はかた」の中によみがえらせようとしたのだ。音楽的な言葉の繰り返し。ひびく音律。言霊(ことだま)の力を借りるように。

なみ
  なみなみ
     なみなみなみなみ
  …………
このしろき波の列はさざなみのうたかたの
みをつくしみなわの倭の那の國の
茅の輪なす海のなか道なみのなぎさに
たゆたふ玉藻の香椎潟 箱崎の濱をすぎ

 室町時代の連歌師・宗祇の「筑紫道記」や「万葉集」、あるいは「金槐和歌集」を取りこみながらつづる。
 音楽的なひびき。それは、寂しかった心を癒やしてくれたひびきであり青春の心のときめきだった。自宅の店の近くにあった音楽喫茶で聴いたクラシック音楽が胸の中に共鳴しているのである。
 当時のインタビューに、こう答えている。「言葉は本来、音を持っていて、文字に書かれたものは、その写しです。だから、言葉の発生の根源にある音を生かすことが、言葉の生命をとらえることだと考えます」

 那珂は8人きょうだいの五男である。小学校に上がる直前、父は近所の人の葬儀が行われていた寺で脳出血で亡くなった。41歳だった。倒れている、その場で父の耳のあたりにヒルをはわせ、血を吸いとらせようとしていた光景を覚えている。母も旧制中学2年のときに亡くした。3人の姉妹、2人の兄弟もつぎつぎと世を去った。家族の死の中に生があった。そして戦争-。そのことが、作品の底流に虚無感を漂わせる。
 ふるさとも、なつかしき友も、虚無のかなた。すべてを追悼し、鎮魂歌を捧げる。それはのちの「幽明過客抄」での島尾敏雄や矢山哲治、西脇順三郎らの追悼へと連なる。

 戦前の地図を頼りに、那珂が教えてくれた、詩の舞台にもなった、かつての麹屋町を訪ねた。博多座の前を北へ歩く。郵便局のあたりか、ホテルオークラのあたりか。しかし、見渡しても、どこがどうなのか分からない。店の名も違う、通りも区画整理され全く別世界だ。「中村美律子」と大書したのぼりが春風に揺れていた。
 掛町、蔵本町、行町…大空襲で消えた町は、その後の町界町名変更で、太閤(たいこう)秀吉以来という町の名も消されていた。那珂の原風景はどこにもない。
 いのちも、都市のにぎわいもうつろいやすい。しかし、朗々と詩をつづることによって、いのちを語り伝えているのである。詩は、虚無から美が生まれることを教えているのか。
(文=文化部・松尾孝司 写真=写真グループ・伊東昌一郎)
 

▼なか・たろう

 1922年、福岡市麹屋町(現・下川端町)生まれ。本名・福田正次郎。8人きょうだいの5番目。生後半年ほどで実家近くの福田家に養子に行く。旧制福岡高から東大国文科卒。海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊し、海軍兵学校国語科教官を務める。戦後、東京都の豊島、新宿高教諭を務めたあと、玉川大学教授など歴任。詩集に「ETUDES」「音楽」(室生犀星詩人賞)、「空我山房日乗其他」「幽明過客抄」「鎮魂歌」など。評論集に「萩原朔太郎その他」など。那珂黙魚の号で俳句も作る。日本芸術院会員。東京都杉並区久我山在住。

●私の推薦文

美しい幻影の町のようで…… 和泉僚子さん(37)=福岡市総合図書館特別資料専門員 (福岡市中央区在住)

 「はかた」を本格的に読んだのは、図書館の仕事をするようになってから、もう7、8年前です。大変、ひきつけられたのは

 雨のはもんどおるがんの 古門戸町

 の一節だったかと覚えています。現在は地続きで、歩いて行ける「博多」のことを描いていると分かっていても、こんな柔らかな日本語の、音楽的な響きが重ねられて、ここの「はかた」は、どこか遠い異国のような、美しい幻影の町のようです。しかも、「はかた」には、いろんな古典文学の引用が織り込まれており、文学のテキストの中に自分の町が入っているような魅力があります。
 そして、もう一つ印象深いのは、
 中洲の橋のたもとにたたずみ目をつむると おい伊達得夫よ/あのブラジレイロの玲瓏たるまぼろしが浮んでくるぢやないか
 と詠まれる、那珂氏の親友・伊達得夫の姿です。詩の2章は、那珂氏の青春時代の「博多」の情景ですが、この中で、伊達得夫とは、那珂氏の青春の一つの象徴かと思われます。

●メモ

 ■那珂太郎さんの祖父にあたるのが藤井孫次郎。1877年、ことし創刊130年を迎える西日本新聞の前身に当たる「筑紫新聞」の創刊に参画し、同紙廃刊後は「めざまし新聞」を創刊しました。那珂さんは「いまでも時々送ってくる西日本新聞を読むたびに郷里への感慨をおぼえます」と話しています。

 ■「はかた」(青土社刊)の装丁をしたのは、当時「ユリイカ」編集長だった文芸評論家の三浦雅士さん。「博多という町が単に生まれたところ、なつかしい町である以上に重要な意味を持つ詩。私にとって大変思い入れの熱い詩集で、全力投球しました」といいます。博多の繁華街の店の名前などを網羅した詩集見返しの戦前の博多繁華街地図は三浦さんの手描きです。その数は約500店(軒)にのぼります。

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2007年03月18日

森崎和江「からゆきさん」

 口之津は悲しき港ぞ 幾もの乙女らの涙の海 鳴くぞ千鳥の鎮魂歌

 長崎県・島原半島の南端に位置する「口之津歴史民俗資料館」(同県南島原市)。1984年、ここを訪れた俳優の森繁久弥は、口之津港を眼前にして、こう詩に詠んだ。
 題名は「からゆきさん」。
 明治30年代、口之津港は石炭の積み出し港として栄えた。三池炭鉱(福岡県)から掘り出された石炭は、同港で大型船に積み込まれ、海外に出港した。
 その中で、アジア向けの船倉に押し込まれたのが「からゆきさん」。半ば強制的に身売りされた少女たち。森繁は、乙女の涙を口之津の海に見た。
 島原地方に伝わる民謡「島原の子守唄」には、こんな一節がある。

 はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ 鬼(おん)の池ん久助どんの連れんこらるばい

 「鬼の池」は、口之津港の対岸の熊本県・天草の鬼池地区。「久助どん」とは天草の売人を指す。「早く寝ないと、天草の売人が来て、海外に連れて行かれるぞ」という内容だ。
 口之津港の向こうに天草の島影がくっきりと見える。

 当時、農漁村は貧しかった。出稼ぎは必然だった。海外に出稼ぎに行く男性は「からゆきどん」、女性は「からゆきさん」と呼ばれた。どこか親しみを覚える、これらの呼び名には、故郷に残された家族の期待が込められていた。当人たちも稼ぐことを夢見た。
 だが、男性はともかく、非力な女性の仕事は、限られていた。
 〈天草を歩いたときのことである。老女は「働きにいったちゅうても、おなごのしごとたい」と、こともなげにいったのである〉
 森崎和江は綿密に聞き取り調査をし、当時の新聞記事など膨大な資料調査をもとに「からゆきさん」を書き上げた。
 渡航に抵抗感を抱かなかった天草人気質、人口増大で口減らしが余儀なくされた社会環境、幅広い性愛行為が許された農漁村の性習慣…。森崎は、からゆきさんの悲しみだけを書いたのではない。からゆきさんを生んだ風土も見つめた。
 「からゆきさんを学術的に研究した初めての書物ではないだろうか」
 天草の郷土史家、堀田善久さん(86)の評価は高い。

 森崎が、からゆき研究にのめり込んだきっかけが作品の中に描かれている。要約すると-。
 綾さんから養母のおキミさんの不満を聞かされていた。「母の狂気…。ほんとうに、つかれるわ」。最初、義理関係ゆえの母娘の軋轢(あつれき)と思った。ところが、よくよく聞けば違った。おキミさんは、元からゆきさんで天草出身。綾さんの実母もからゆきさんだった。
 朝鮮半島で身を売ったおキミさんは、ぎりぎりのところで耐え続けた。だが、4、5人の男たちに同時に買われたときは、どうしようもない屈辱感に押しつぶされた。尿意を催しても座を立つことが許されず、尿を漏らす姿を、男たちに笑って見られた。
 その屈辱は、年老いたおキミさんに「狂気」として表れた。尿意を催すたびにおキミさんは身を震わせて、ののしりの言葉を発した。そして介抱する綾さんに一緒に放尿するよう強要するのだ-。
 綾さんは森崎の友人だった。友人の悩みの真実に触れた森崎は「無知を恥じた」。森崎は自らの手で作品を世に出すつもりはなく、本当の苦しみを味わった綾さんに執筆してもらおうと、研究を進めた。
 綾さんが病に倒れた。森崎は新たな資料が見つかるたびに、病床に報告した。だが、日に日に病状は悪化する。ある日、森崎が「あなたしか書けないのだから頑張って」と励ますと、綾さんは「和江さんの肩に乗って世の中を見ていくよ」とだけ答えた。
 綾さんが亡くなったのは、それから間もなくのことだった。

 3月上旬、福岡県宗像市の自宅に森崎を訪ね、こうした経緯を直接聞いた。「からゆきさんを知らなかったことに対する罪深さ…。私の罪を問うために書きました」。さらに「『唐ん国ゆき』を強いられた女性たちの生き様を伝えたかったのです」と付け加え、涙を流した。
 森崎には「生」「死」「愛」「老い」「エロス」など人間の根源をテーマにした作品が数多い。事象を客観視しながら、行間ににじむ人間の多面性。詩人でもある森崎の感性があふれる。
 天草の女性史研究家、大久保美喜子さん(53)は1995年の秋、森崎の自宅に電話した。面識はなかった。話すうち、涙が落ちた。
 大久保さんの曾祖母は、からゆきさんだった。
 父親から聞かされた後、森崎の「からゆきさん」を読んだ。〈いんばいとはね、三代にたたるんです〉との綾さんの言葉に込み上げる感情を抑えられなかった。森崎と話さずにはいられなかった。
 その後、大久保さんは非政府組織(NGO)を発足させ、インドのスラム街に幼稚園を建設する活動に取り組んでいる。生活のために売春をする少女たち。幼稚園は彼女たちが生んだ子どもを受け入れる施設だ。
 「身を売ることを『悲惨』で片付けるのは簡単。彼女たちの真実は何なのか。これを見据えないと、異郷の地に眠った少女たちの魂も浮かばれません」。大久保さんには、スラム街の少女たちの姿が、天草の「からゆきさん」と重なる。
 陽春、森崎も足を運んだことがある、天草下島・富岡半島の高台に立った。東側は有明海とその先に口之津港、穏やかな海だ。西側は、荒々しくうねる天草灘の、遠く向こうに大陸がある。半島を挟んで海の表情はこうも違うのか。
 うねる海を乙女たちは行ったのだ。そして、背負った「期待」と、抱いた「夢」は、涙と一緒に波間に散った。
 (文=天草支局・沢辺克己 写真=写真グループ・納富 猛)

▼もりさき・かずえ

 1927年4月20日、韓国慶尚北道・大邱生まれ。詩人、ノンフィクション作家。福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)家政科卒。同県久留米市に住んでいた50年、詩誌「母音」の同人となり、綾さんと出会う。58年、同県中間市に移り、「サークル村」を創刊。炭鉱労働者の声に耳を傾けたほか、「無名通信」を発行して女性自立の必要性を説いた。「からゆきさん」は1976年出版。「慶州は母の呼び声-わが原郷」「奈落の神々 炭坑労働精神史」などの著書があり、自身の生き様と絡んだ歴史の洞察力には定評がある。福岡県宗像市在住。

●私の推薦文

若い女性は、ぜひ一読を 大塚由子さん(57)=天草市社会教育指導員(熊本県天草市)

 愛知県で教員をしていたころ、この「からゆきさん」と出合いました。女の性の悲しさを感じる作品です。生活が貧しく、自分が出て行くことが、親孝行になると信じた少女たち。「からゆきさん」にならざるを得なかった理由が正確に書かれています。
 私は3年前に帰郷し、現在の職に就きました。天草は海に囲まれています。ですから、天草人は海を渡ることに抵抗感を覚えません。私の場合もそうでした。愛知での教員生活に夢を抱いて島を離れました。
 出稼ぎは当たり前の時代に「からゆきさん」も渡航を恐れず、夢を抱いたことでしょう。
 今の日本、少女たちの援助交際が社会問題となっています。体を売る行為は一緒ですが、理由は随分異なります。生活のために体を売ったのが「からゆきさん」なのです。
 若い女性にぜひ、一読を勧めます。

●メモ

 ■口之津港の周囲は扇状に山々が取り囲んでいます。「からゆきさん」たちは港から小船で出て、沖合で大型船に乗り移りました。その際、山火事をわざと起こし、住民の関心を山の方向に引き寄せたそうです。

 ■口之津歴史民俗資料館の別館2階には「からゆきさん」の特設コーナーがあります。本人たちの写真や現地から持ち帰った衣類、親に渡された身売り証文などを展示。俳優の森繁久弥氏が読んだ詩も紹介しています。資料館=050(3381)5089。

 ■島原半島と天草下島の間の海峡は「早崎瀬戸」と呼ばれています。「からゆきさん」も渡った口之津港‐鬼池港は現在、定期フェリーで30分。早崎瀬戸には約200頭のバンドウイルカが生息しており、イルカウオッチングが盛んです。天草市五和支所=0969(32)1111。

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2007年03月11日

与謝野鉄幹ほか「五足の靴」

 〈五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た〉と始まる紀行文「五足の靴」(1907年)の前文は、5人をこう語る。〈皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ〉と。
 当然だろう。九州西部のキリシタン史跡を約1カ月かけて旅し、紀行文をリレー形式で新聞に連載した5人の詩人・歌人のうち、引率の与謝野鉄幹を除けば、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里は鉄幹が興したばかりの新詩社の機関誌「明星」に寄った若き学生たちである。
 日清戦争に続いて、西洋列強に日本の存在を示した日露戦争の終結が1905年。ロシアに賠償金を負わせない講和条約への不満がくすぶり、講和破棄・戦争継続を求める声さえまだあった。「ふわふわと落ち着かぬ」。近代日本もまだ十分に若かった。

 それから約30年の時が流れ、講和によって得た南満州鉄道で満州事変が起き、日本は泥沼の戦争に突入する。39年暮れ、中国に派兵された浜名志松さん(96)=熊本県天草市=は、野戦病院に入院していた。同じ天草出身の従軍看護婦から1冊の文庫本を見舞いにもらった。白秋著「明治大正詩史概観」(改造社)である。五人の九州旅行に触れた章があり、浜名さんは強く心に残ったという。
 「文学青年だった私にとって、あの過酷で悲惨な戦争で、唯一の心温まる思い出です」
 〈天草に渡り、大江村のカトリックの寺院に目の青い教父(パアテル)と語った。(中略)浪漫的のほしいままな夢想者であった新人、彼等は我ならぬ現実ならぬ空を空とし、旅を旅として陶酔した〉。その結果、「天草雅歌」を始めとした、いわゆる南蛮文学が生まれたと白秋はつづっている。
 戦争を生き延びた浜名さんは、天草に戻り教職に就いた。「戦後は何もかも空(むな)しかった…。だからこそ、若々しい生命力と好奇心に満ちた五人が天草の険路を歩くイメージが、私の心をとらえたんだと思います」
 存命だった吉井勇に手紙を送ると、福岡県の詩人、野田宇太郎が忘却の淵(ふち)から「五足の靴」を“発掘”し、49年の著書「パンの会」で紹介していることを教えられた。以来、野田とも会い、五人の天草での足跡を追う研究にのめり込んでいった。
 「約3週間の旅で30キロも歩いたのは天草だけです。育ちのいいぼっちゃんたちが、ドカ靴はいてね。心の中には雲一つない、朗らかな青年たちが、南蛮文化に魅せられたわけです」
 「平地が少なく、土地が痩(や)せた天草の人間は、昔は『唐芋食い』と笑われたもんです。それが五人の旅で『異国情緒の島』に180度印象が変わる。これこそ、天草の本当の姿なんです」。天草町(当時)の教育長も務めた浜名さんは研究を数冊の本にまとめた。往時をしのばせる山道を「五足の靴文学遊歩道」として整備する事業にも奔走した。

 5人の旅から今年でちょうど100年。富岡港から大江天主堂まで、天草西岸を実際に歩いてみた。〈外海の波が噛(か)みつくがりがりの石多き径(みち)〉であり、時には〈川が路〉であり、杉木立を縫って走る山道であった道は、約3キロの遊歩道を除けば、現在は広い国道である。3つほどの坂を越えて約6時間で天主堂に着いた。一行が会った「青い目の教父」ガルニエ神父は無論他界していたが、神父に信仰を授けられた道田隆俊さん(86)が裏手に住んでいた。
 1891年に来日し、清貧を貫いて天草に没した神父は、土地に溶け込み、5人を天草弁で出迎えている。
 「優しいお父さまのような方でありました」。道田さんの丁寧な語り口から、神父の人柄が伝わってくるような思いを抱いた。
 野田は5人が南蛮文化のエキゾチシズムにひきつけられた理由を、時代に求めている。日清、日露の2つの戦争に勝ったことは〈日本の国際的国家としての内面的自信力とはならなかった。むしろ勝っていよいよ自己の貧しさを知らされたのである〉と「パンの会」に記す野田は、〈貧しさを充(み)たすものはすべてヨオロツパ文化にほかならなかった〉と指摘している。白秋らが掲げた耽(たん)美(び)文学、芸術至上主義はすべてヨーロッパのモードを日本の風土で受け止める作業であった。
 まだ若い近代国家・日本で、西洋に憧(あこが)れ、新たな芸術の地平を切り開こうと意気込む青年たちは、ガルニエ神父の穏やかな青い目の奥に、自らの芸術を支えてくれる優しき父なるヨーロッパを見たのだろうか?
 楽な国道を歩くだけではなんだか五人に申し訳なく、帰路は山中の遊歩道を歩いた。杉の香りが心地よい。落花した赤いツバキが道しるべのように鮮やかだ。振り返ると木立の間から、西日に輝く海が見えた。天草の開放的な自然は今も変わらず、美しい。山道を意気揚々と登っていく五足の靴音が聞こえる気がして、耳を澄ませた。
 (文、写真=文化部・岩田直仁)

▼ごそくのくつ

 新詩社の機関誌「明星」に集った5人の歌人・詩人(与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里)が1907年(明治40年)7月から約1カ月間、九州西部中心に旅をして、東京26新聞に5人がリレー方式で連載した紀行文が「五足の靴」。北原白秋が代表作「邪宗門」の「詩風の曙」と位置付けるなど、近代文学史上、重要な紀行文だが、一時期忘れ去れれていた。1949年、詩人、野田宇太郎が著書「パンの会」で紹介、再評価が進んだ。平戸、長崎、島原などのキリシタン史跡に立る寄る旅のハイライトが天草下島。紀行文は現在、浜名志松著「五足の靴と熊本・天草」などで読むことができる。

●私の推薦文

旅から100年……見つめ直すとき 宮本 忠彦さん(73)=郷土史研究愛好家(長崎市茂木)

 五人が天草に渡った港が長崎・茂木港なんです。今でこそ小さなひなびた港ですが、海上交通が盛んだったころは、随分栄えた土地です。江戸時代初期には、初代長崎代官が茂木に別邸を建て、キリスト教布教を助けたという事実が示すように、キリシタン文化が花開いた土地なんです。外国人用ホテルもあったそうです。しかし残念ながら現在、その歴史を振り返る人はあまりいません。
 「五足の靴」の一行は長崎から馬車で茂木に着き、午前11時には船に乗ってます。多少時間があれば、もしかしたら「茂木のキリシタンも島原の乱に加わった」といった話を地元の人から聞いた可能性もないわけではありません。紀行文自体は新聞連載という制限もあったのでしょうが、そんなに長い文章ではありません。だからこそ、書かれていないことをいろいろ調べて想像する楽しみもあります。今年は「五足の靴」の旅から100年。これを機に、もう一度この旅を、九州西部の観光資源として見つめ直してもよいのではないでしょうか。

●メモ

 ■紀行文の天草関係文を手軽に読むには、熊本国府高校(熊本市)のPC同好会が作成したホームページ「熊本文学散歩」(http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/kumabun.html)がお勧めです。紀行文の抜粋が原文のまま掲載されているほか、大江天主堂や現地に建つ歌碑などを生徒が取材したルポなどもあり、「五足の靴」の格好の入門編となっています。

 ■5人の旅の大きな目的地だった大江天主堂は、1933年にガルニエ神父が私財を投じて建て替え、現在も緑の丘に優雅に建っています。拝観は午前9時から午後5時まで(月曜休館)。あくまで信者のための宗教施設なので、節度ある拝観を。そばには約500点におよぶキリシタン資料を収めた天草ロザリオ館(水曜休館)があります。

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2007年03月04日

国木田独歩「源おぢ」

 宇宙に流れている旋律。その響きは体の奥深いところで感じとれるものかもしれない。自然と人間の「融化」。大分県佐伯市の街並みが一望できる城山の頂に立ち、心を澄まして、国木田独歩を思うとき、こんなふうに自然と感応していたのではないか、と想像される。
 1893(明治26)年、佐伯の私立学校に教師として赴任してきた独歩は、英国の詩人ワーズワースの「熱心な信者」であった。自然のうちに人間を見いだしたワーズワース。その世界が佐伯にあった。〈豊後の地、山険にして渓流多し。(中略)ここに余にとりて別天地の感ありたり〉。わずか10カ月ほどで終わった佐伯の時代を振り返った回想文「豊後の国佐伯」で、独歩はこう記した。
 人生とは何か、と自問するとき、独歩は、その「美妙」な旋律だけに答えを求めなかった。「豊後の国佐伯」では、街頭で見かけた、ある現実について触れている。〈痩(や)せて枯れ木のごとき手に握りて、何とも知れざるものを口に運びつつ行く〉乞食(こじき)である。〈地獄の垣を抜け出でし者かと、傍らの人に語りき〉。独歩は「天地孤独」という言葉を使った後、こう記した。〈余はしばしば『彼は何者』と自ら問はずして止むあたはざりしなり〉。
 人間を自然と融化した「自然の児(こ)」としてとらえるなら、人は決して「天地孤独」とはならないであろう。だが、独歩の心は、現実の世界にわだかまり、そこから、抜け出しはしなかった。ワーズワースを踏み出したところに独歩ならではの深みがある、と思う。初めて書いた小説「源おぢ」からにじみ出す哀愁。詩趣に満ちながらも、悲しみを帯びているのである。

 「源おぢ」は、佐伯の港で、渡しを生業にしていた源叔父と、「紀州」と呼ばれた15、6歳の乞食の物語である。都から来た教師が港近くに下宿していたとき、宿の主人から、源叔父の話を聞いた。櫓(ろ)をこぐ源叔父の美しい歌声にひかれた百合という娘と夫婦になるが、百合は2度目のお産が重く、死んだ。1人息子の幸助も、12歳のとき、誤って海におぼれ、死体は源叔父の舟の底に沈んでいた。
 歌わなくなった源叔父。城下に出たとき、紀州と出会う。母に捨てられ、浮世の〈波の底を這(は)うもの〉として育った。その紀州を源叔父は家に引き取った。紀州に「わが子」としての愛情を注ぐが、それは、死んだわが子に紀州を重ね合わせた、一方的な愛である。渡しを終え、家に待つ子を幸せのうちに思い浮かべて帰る源叔父だが、紀州はいなかった。城下に出て連れ戻したが、源叔父は風邪をひき、床に伏す。目覚めたとき、紀州の姿はなかった。その翌朝、松の枝に首をくくった源叔父が見つかった。
 独歩が「源おぢ」を書いたのは、佐伯を離れて3年後である。その間、有島武郎の「或る女」のモデルになった佐々城信子と結婚。しかし、信子は半年もたたないうちに失(しつ)踪(そう)し、離婚することになる。源叔父が紀州に求めた愛は、独歩のもとを去っていった信子への執着が反映されているとの解釈がある。愛するから、愛せよ。だが、そのような愛は成り立たない。いくら相手を愛しても、相手からは愛してもらえない。行き着くところは、救いようのない孤独だった…。源叔父は自ら死んだのである。

 「人間は、いずれは死ぬ。死と真剣に向き合った独歩の姿が浮かんでくるんです」。独歩文学の愛好者でつくる佐伯独歩会の大野寿一会長は、佐伯を舞台にした小説について、こんな思いを語った。
 代表作に数えられる「春の鳥」は、数を覚えることも出来ない六蔵という少年が主人公である。物語の語り手となる教師は、城山の頂上にある天守台の石垣の角にまたがった六蔵を、こんな気持ちで見た。
 〈白痴と天使、何といふ哀れな対照でしょう。しかし私はこの時、白痴ながらも少年はやはり自然の児であるかと、つくづく感じました〉
 六蔵はある日、天守台の下で死んでいるのが見つかった。〈鳥さえ見れば目の色を変えて騒ぐ〉ほど鳥が好きだった六蔵。枝から枝へ自在に飛んでみせた鳥に、自分もなったのだろうと、教師は感じた。夕べの湖水のほとりで、梟(ふくろう)の鳴くまねをし、梟から返事を受けていた少年を歌ったワーズワースの詩「童なりけり」。教師は、この詩を取り上げて〈その霊は自然の懐に帰ったという心を詠じたものであります〉と、六蔵の死と重ねている。
 六蔵の死と源叔父の死。2つの死を考えるとき、ワーズワースの世界に浸りながらも、一方で、そこを踏み出した現実へのわだかまりから、人間をとらえようとする独歩が見えてくる。
 野嶋松之助。「紀州」の本名である。独歩が佐伯で、その姿を心に焼き付けてから、12、3年後に死んだと伝えられる。風邪をひいたのか、橋の下で、ござにくるまっていたところ、何者かに火をつけられた。病院に担ぎ込まれたが、数日後息を引き取った。独歩が愛した城山のふもとに立てられた紀州の墓標を探すのだが、まだ見つからない。
 (文=佐伯支局・下村佳史 写真=写真グループ・納富 猛)

▼くにきだ・どっぽ

 1871年、千葉県銚子で出生。裁判所勤務の父の転勤で、山口県の岩国、山口市などで少年時代を送った。東京専門学校(早大の前身)英語普通科に入学。1891年にキリスト教に入信。同年、同校を退学した。1893年9月に大分県佐伯の鶴谷学館に教師として赴任、翌年8月まで佐伯で過ごした。その後、国民新聞社に入社して日清戦争の従軍記者となる。帰還後、佐々城信子と恋愛し結婚したが、離婚。失意の中「文学界に突入」し詩や短編小説を発表。処女作「源おぢ」を収録した小説集「武蔵野」、「春の鳥」を収めた「独歩集」など。1908年6月、肺結核のため、神奈川県茅ケ崎で没す。

●私の推薦文

「情愛」考え、読み直す 菅 昇さん(61)=日本文理大付属高講師(大分県佐伯市)

 独歩の作品に初めて触れたのは高校生のときです。国語の教師が佐伯独歩会のメンバーで、昼休みに生徒たちを集めて「春の鳥」を朗読してくれました。耳から入ってくる文章が、何とも美しかったとの印象が残っています。青春時代、親しんできた独歩の再読を始めたのは、9年前のこと。佐伯市教委が毎年行っている「国木田独歩作品読書感想文」コンクールに、生徒たちが応募しているのを知り、自分自身も生徒と一緒にコンクールに挑戦し、もう一度、独歩の世界を味わってみたくなったからです。
 あらためて読んだ「源おぢ」は「家族の回復」が一つのテーマになっています。妻子を失って悲哀のうちに生きる源叔父。しかし、そこにとどまって生きるのではなく、紀州に情愛を注ぎ、自分も救われたいという思いが伝わってくるのです。作品に出てくる大入島など佐伯湾の風景が明治のころと大きく変わっていないのにも気づかされ、郷土を見つめ直すこともできます。

●メモ

 ■城山は佐伯市街地に接しながら現在でもムササビが森を舞い、野生のシカも姿を見せます。独歩はこの山の深樹に立ちフクロウの鳴く声を聞きました。九州屈指の清流・番匠川の上流にある銚子淵には2度訪れています。尺間山、彦岳といった周辺の峰々、小説「鹿狩」の舞台になった鶴見半島にも行きました。

 ■独歩が下宿した坂本永年邸は、現在は国木田独歩館(佐伯市城下東町)として公開されています。城山のふもとの武家屋敷通りにあり、主屋の1階は作品の情景をイメージした映像コーナーや明治の佐伯の写真展示、2階は独歩が使っていた部屋で、当時をしのばせます。土蔵には独歩の生涯や文学を解説した資料展示のほか、読書コーナーもあります。入館料は大人200円、子ども100円。同館=0972(22)2866。

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