転転、転居…文士の人生 コピーライター 矢野寛治
「千年書房・九州の100冊」は、関係者の快い取材協力と読者の励ましにより60回配本を終えることができました。引き続き連載を進めて参りますので、ご愛読ください。今回の別冊は、作家たちの書斎、家の特集です。魂を搾り出すようにして紡ぎ出された名作。その制作現場に足を踏み入れます。ご同行ください。
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お腹(なか)が燃えて燃えて、いらついて、ペンは微動だにせず、胃液はたまり、中空をにらみ、ため息をつく。そのうちには髪の毛をむしり、頭をかき、爪先(つまさき)にふけがたまり込む。漱石先生を真似(まね)て、鼻毛を抜く、しばしムキになる。血がにじむ。莫迦(ばか)である。断末魔的焦燥的膠着(こうちゃく)状態である。家に散弾銃でもあれば、窓からがむしゃらに打ち放したくなる。
こうなるとどう足掻(あが)いても、埒(らち)はあくものではない。気分を変えなくてはならない。窓を開ける、空気を入れ替える。書物を元ある場所にキチンと戻す。屑篭(くずかご)のゴミの始末をする。床の間の掛け軸の前で座禅を組む、後ろにひっくり返る。あちこちと書く場所を変えてみる。狭い家の中を、山頭火のごとくにペンと紙を携えて放浪するのである。あそこに座れば必ず書けるという得意の場所はある。が、先(はな)からそこに座ったのでは効力は無い。呻吟(しんぎん)転々の末に開き直るまで待たなくては御利益はないのである。
そのトランス状態に至るまでは、リビングの片隅、ダイニングテーブル、狭い寝室のライティングデスク、和室の文机、納戸での腹ばい、家人のミシン台と浮草を続け、最期に学生時代から、40年も人生の苦楽を共にしている、小さなコタツへとたどり着くのである。尻にちょいと座布団を半分に折ってあて、前傾姿勢をつくり、戦意を高揚させていく。調子が出れば、山本リンダの♪もうどうにも止まらない♪なんぞを、わざと口ずさむ。こうなるまでが大変なのである。
素人の私はせいぜい家の中だけを彷徨(ほうこう)するのであるが、職業作家や文士たちは、もっともっと土地柄に凝り、家に凝り、書斎に凝り、作品を新鮮ならしむるために、転転、転居の人生なのである。
まず、小説の神様志賀直哉、人生で20数回の転居を行っている。まずは尾道の家、山の中腹土堂町にある三軒長屋。坂道の石垣の上に建てられた簡素な借家である。書斎から裾野を見下ろす方向に文机が置かれている。父といさかい都を離れ、尾道で約1年を暮らした。名作「暗夜行路」の端緒についた家でもある。一旦(いったん)東京に戻り、次に松江に3カ月暮らしている。これもまた簡素な木造の平屋である。大正3年に武者小路実篤の従姉妹(いとこ)を娶(めと)り、我孫子で新婚時代を過ごす。このお家も小ぢんまりとした茅葺(かやぶき)の2階建で、昔、日本にたんとあった平均的な家屋である。以後、京都山科に、奈良幸町に移り、同じ奈良の高畑町に自らの設計で数奇屋(すきや)つくりの家を建てる。俗に言う「高畑サロン」である。洋風のダイニングと、瓦を敷き詰めたサンルームが、今でもモダンで素敵(すてき)である。「暗夜行路」後編を書き上げた木製洋机とモスグリーンの洋椅子(いす)が書斎に展示されている。庭は子供たちが怪我(けが)をせずに遊べるようにと、広々とした芝生。左右2個所、陶製の暾(とん)数個が置かれており、しばし、腰掛け若草山を眺めた。
谷崎潤一郎は関東大震災の後、関西に移住。打出、反高林、岡本、魚崎(芦屋)等(など)六軒は転居している。三度目の妻松子と所帯を持ったことから、すべて「倚松庵(いしょうあん)」、松子に寄りかかって生きていく家と号している。いま東灘区に現存している家で、「細雪」は書かれた。1階には洋間応接を兼ねた書斎がある。しばし、木枠の革張りソファに腰を下ろす。妙に気持ちの落ち着く空間である。隣の広いダイニングには、淡い灰茶色のレンガで施されたマントルピースがあり、木製のシックなドアには碧地に金の菱(ひし)形のステンドグラスが嵌(は)められている。2階の東南の八畳間は開開としており、窓の外には欄干が取り付けてある。昔、間借り人は、ここに七輪(しちりん)を置いて煮炊きしていたことを思い出した。谷崎の机は重厚な両抽斗(ひきだし)の文机であった。
人生転転といえば、林芙美子である。売れるまでのお話は「放浪記」に詳しい。新宿線中井界隈(かいわい)を三度は転居している。終(つい)の棲家(すみか)は四の坂に、これまた数奇屋風つくりで建てられている。ここに越す前は、五の坂の洋風モダン建築の借家に住んでいた。庭には桜、ブナ、欅(けやき)、孟宗竹(もうそうちく)、ざくろと植えられてあり、家内の端正さは志賀の高畑邸にも劣らない。林も重厚な文机で、脇息と手あぶり火鉢が置かれている。行商で苦労をした母を引き取り、被布を着せていたことを思い出した。
それにつけても、こちとらは狭いウサギ小屋である。いくら得意の場所に座っても、一行も浮かばぬ時がある。もともと文才が無いのだから当たり前であるが。仕方なく、浜辺へ散歩する。ただ徒然(つれづれ)に波うち際をさるく。いいかげん草臥(くたび)れて戻り、シャワーを浴び、家人の膝(ひざ)枕で一睡する。少し、調子が出る。庶民にはそれくらいの術(すべ)しかない。
●ライオンもいた河伯洞
火野葦平の旧居・河伯洞(かはくどう)は、高塔山のふもと(北九州市若松区白山1丁目)にある。「麦と兵隊」など兵隊三部作の印税を用いて、父・玉井金五郎が葦平のために建てた。当時の印税は莫(ばく)大で、その和風建築は広々とし、材にも贅(ぜい)を尽くしている。1940年から60年まで葦平はここで「花と龍」ほかの作品を執筆した。今は記念館として無料開放され、葦平をしのぶ人々が絶えない。
葦平の三男・玉井史太郎さん(70)は、来訪者たちに思い出を語る。
「九州文学というのは、すごかったと思いますよ。毎月、毎月同人誌を出していたのですから」
岩下俊作、原田種夫…、きら星のような文学者たちが河伯洞に集って口角に泡し、酒を酌み交わした。新年宴会ともなると座敷、次の間では納まりきれず廊下にもあふれた。
「糞尿譚」で芥川賞、兵隊三部作の成功で国民的作家になった葦平は、九州文学の物心両面での支柱だったろう、彼らは兄貴のように慕った。飾られている当時の写真が、そのころの熱気を伝える。
数葉の意外な写真があった。その一枚は、廊下に寝そべりライオンと戯れる葦平である。
「京都で興行中のサーカスのライオンが子どもを産んだというので、父が譲り受けてきたのですよ」
人間の手のひらに乗った写真が最初のころ。ネコの赤ちゃんのようである。とはいえ、そこは百獣の王。1年もすると、見違えるほど大きく、たくましくなった写真がある。
「なついてじゃれるのですが、そこはライオンですから…。父と私しかエサをやることができなくてね」
犬猫はもとよりキジなどの鳥類。そして、一時期はクマも養っていたというから、玉井家の人々の動物好きも尋常でない。
「ライオンは庭にしつらえたケージに飼っていましたが、庭を飛び回ることもありましたよ」
最晩年の葦平は、昼間は来客の相手をし、ライオンと戯れ、原稿の執筆はもっぱら夜間だったという。
豪放磊落(らいらく)な人物が、一方で細心であることは珍しくない。戦争に協力したということで葦平は非難され、一時公職追放を受けた。そのことは深部の傷として葦平の心に刻まれた。
戦場の兵隊たちのことを書き、河伯洞もその印税で建てられたことを死ぬまで気に病んでいたという。葦平が、その書斎で自殺したのは1960年1月24日。53歳であった。
(文化部・井口幸久)
●梅崎春生の生誕地は? 坂口博さん=福岡市文学館資料委員会委員
小説「桜島」で知られる梅崎春生は、かごしま近代文学館に常設展示されている。鹿児島には桜島のほかに坊津にも文学碑があり、どうも出生地の福岡市より大切にされているむきがある。
編集を手伝っている福岡市文学館の「文学館倶楽部」第4号が3月末に出た。ここでは毎号、福岡都市圏ゆかりの文学者を新旧交互に紹介しているが、夢野久作、片山恭一に続いて、梅崎春生を取り上げている。戦災前、1938年の住宅地図とともに春生自身のエッセイ「簀子町の家」の一節も掲載した。
実のところ、梅崎春生の生誕地がよく分からない。これは困ったことだと思う。よその土地では、作家や画家など著名人の生まれた家・住んだ家が、観光名所になっている。そこを訪れたからといって何が得られるのかという異論もあろうが、それはひとまずおこう。福岡ゆかりの文学者の生誕地、居住地(跡)の把握を、関係者の生存中に成し遂げたいものだ。
とはいっても、福岡市生まれの作家は数多い。檀一雄がリツ子と暮らした伊崎浦の家も知りたい。まずは、中央区のこのあたりから始めるのがいいようだ。
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