西日本新聞/九州ねっと
 


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2007年05月27日

徳冨蘆花「灰燼」

 〈風息つけば、五棟に別れて炎々と立ち上る焔(ほのお)、また烈風の吹く毎(ごと)に五所の火焔一塊にもつれ、凄(すさま)じき音たてゝのの字に渦まき、しの字に狂ひ、餘炎籔(よえんやぶ)を炙(あぶ)つて千竿(かん)の竹立ちながら爆發(ばくはつ)すれば、焔の中に包まれし老楠(ろうなん)の葉は焦れ、幹は〓(〓は「虫へん」に「慈」)々(ちりぢり)脂を流して、夥しき樟(くす)の臭(か)を放ちつつ火龍の如(ごと)く燃へぬ。〉(原文のまま)
 1877(明治10)年の西南の役。西郷隆盛を盟主に仰ぐ士族が九州各地で政府に反旗を翻した。豊前国中津の城下から西南二里にある上田家。三男茂は西郷軍に身を投じたものの、友軍とはぐれて故郷に逃げ帰る。そこに待っていたのは家督の相続と恋人の簒奪(さんだつ)を狙う次兄猛ら家族の冷酷さ。茂は自刃し、その後、母の失火によって家は全焼する-。
 「灰燼」。茂を切腹に追い込んだ家そのものを焼き尽くした炎。徳冨蘆花は燃え盛る炎に、何を見たのか。

 大分県中津市から車で3時間弱の熊本市沼山津。大きな農家と新しい民家が混在する住宅地の南に田畑が広がる。「当時と同じなのは、まあ山くらいでしょう」。そう言いながら、弥冨孝一さん(77)は、黒塗りの塀と蔵に囲まれた母屋に招き入れてくれた。横井小楠の旧居から近い。
 実は、小説の基になった事件は中津ではなく、この旧家で起きた。
 茂のモデルは、弥冨さんの曾祖父の弟、直治郎だという。北陸で県令の秘書官を務めていた。直治郎は西南の役が起こると直ちに郷里の熊本に帰還。2月23日、西郷軍の呼び掛けに応じた兄の代理として、戦地に赴いた。
 県令の秘書である直治郎は政府側の立場。集まった兵士を説得したが、聞き入れられずに行進が始まったため、思い余って隊長を射殺した。翌日、弥冨家は親族会議を開き、殺人の罪はぬぐえないと判断して切腹を決めた。直治郎は一差し舞い、おじの介錯(かいしゃく)で自刃して果てた。
 蘆花は10歳のとき、沼山津の農家にいた。近所で起きた、この悲劇を伝え聞く。自伝的小説「冨士」でこう振り返っている。
 〈「阿母、あなたも!」を最後の一語に、彼は腹を切つて了ふた。熊次は何時此(この)話を聞いたか、はつきり記憶せぬ。然し(中略)不幸な子の一言は熊次の腹を〓(えぐ)つた。(中略)そこで切腹の事實(じじつ)と、最後の一言を基礎に、舞臺(ぶたい)を未(いま)だ知らぬ豊後の中津に移して、全くの小説を結構した。〉(原文のまま)

 蘆花の生家である徳富家は代々、惣庄屋兼代官だった豪農。横井小楠の高弟だった父一敬、ジャーナリストや歴史家として明治以後の言論、政界に重きをなした兄の徳富蘇峰。親族には各界で活躍する人物が居並んでいた。
 中でも大きな存在だったのは、長兄の蘇峰である。蘆花は、同じ京都の同志社英学校に入り、蘇峰が自邸で開いた私塾に学んだ。蘇峰が創刊した国民新聞に記者として就職。思想的立場の違いなどから35歳のときに絶交した後も、影響を受け続けた。
 「灰燼」は1899(明治32)年末、ベストセラーとなった「不如帰」の校正の傍らに執筆され、翌年に文集「自然と人生」の巻頭を飾る短編として発表された。
 家督相続を確実にし、恋人を奪うために、弟茂に詰め腹を切らせた張本人である二男猛。かわいがっていたはずの息子への愛情よりも、家の存続を優先させた両親。兄弟の葛藤(かつとう)や、家名の重みは、当時の蘆花自身が悩んでいたことでもあった。
 明治、大正期を代表する作家だった蘆花。だが、研究はあまり進んでいない。「熊本・蘆花の会」会長で元熊本大教育学部教授の中村青史さん(73)は「ベストセラー作家だったが通俗的な作品が多い。研究に及ばないという風潮がある」と指摘する。恋愛と家族の問題を劇的な結末で終わらせる「灰燼」も、そう見られたのかもしれない。

 大逆事件で幸徳秋水ら12人が死刑執行されて、わずか8日後の1911(明治44)年2月1日、蘆花は旧制第一高等学校(現東大)で講演した。題目は「謀叛(むほん)論」。
 信念を持った志士によってなされた明治維新に触れた後、幸徳らと立場が違うことを明らかにした上で、明治政府を痛烈に批判した。「西郷も逆賊であった。しかし、今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子(らんしんぞくし)となった。しかし100年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう」。当時、公に大逆事件を批判したのは、蘆花だけだった。
 〈勝てば官軍負けては賊(ぞく)の名を負はされて〉で始まる「灰燼」。茂が加わった西郷軍を「賊」「逆賊」と書く。が、蘆花の思いは決してそうではなかった。自らの信念に基づいて行動した人間を機械的に殺した体制への怒りこそ、あの炎なのだ。
 兄・蘇峰への劣等感や、家への鬱屈(うつくつ)した気持ちが、同時に、強大な体制に反抗する信念への共感を育てたのだろうか。
 「自ら謀叛人になるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」
 蘆花が「謀叛論」で若者たちに訴えたこの言葉は、西南戦争から130年がたった今でも普遍的な光りを放ち続けているように思える。
 (文=中津支局・中原興平 写真=写真グループ・納富 猛)

▼とくとみ・ろか

 1868年、熊本県水俣出身。本名徳富健次郎。父は思想家横井小楠の高弟、兄はジャーナリストで評論家の蘇峰。同志社英学校に2度入学するが、2度とも退学。89年に上京し、蘇峰が設立した民友社に入社。1900年に刊行した『不如帰』がベストセラーとなり、続いて発表した文芸小品集「自然と人生」で文名を得た。03年には蘇峰との不和から「黒潮社」を設立。3年後にはエルサレムへ巡礼し、トルストイと会見。11年、大逆事件を受けて「謀叛論」と題した講演を行い、幸徳秋水らを弁護した。主な作品に「黒い眼と茶色の目」、「みゝずのたはこと」など。晩年には自伝的作品「冨士」を執筆。27年、58歳で死去。

●私の推薦文

美しく力強い文体が魅力 小崎 太一さん(34)=熊本大非常勤講師(熊本市)

 燃え盛る火炎を「の」や「し」、龍の姿に例えながら書き連ねる結末近くの描写は、あたかも、目の前で巨大な炎を見ているようなリアリティーがあります。「灰燼」の魅力の一つは、その美しく、力強い文体でしょう。ただ、文語体で書かれており、今の若い世代には少し近寄りがたいかもしれません。
 本職は中国文学の研究。蘆花を顕彰する熊本・蘆花の会に入ったのは、外国のことを学ぶには、日本、とりわけ地元の文学を知る必要があると思ったからです。それまでは正直、郷土の偉人なのに名前くらいしか知りませんでした。まだまだ本当の蘆花を分かっているとは言えない状態です。でも、手探りでも勉強していると蘆花が影響を受けたり、蘆花とかかわりがあったりした人たちにも興味がわいてきます。国際的な時代だからこそ、もう一度足元を見つめ直して、故郷の先人たちに学ぶ必要があるのではないでしょうか。

●メモ

 ■蘆花は熊本県水俣市で生まれ、熊本市で幼少時代を過ごしました。水俣市には生家があり蘇峰、蘆花兄弟の遺品などを展示しています。熊本市の徳富記念園にも2人が少年のころ住んだ旧邸があり資料を公開しています。徳富蘇峰・蘆花生家=0966(62)5899、徳富記念園=096(362)0919。

 ■「熊本・蘆花の会」は2001年に発足。現在、60人が2カ月に1回の勉強会を開いています。同会事務局=096(344)5203。

 ■徳富蘇峰ほかの徳富家の人々は点のある「富」ですが、蘆花だけが点のない「冨」を用いています。本稿では蘆花にかかわる部分だけ「冨」を使いました。

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2007年05月20日

大西巨人「神聖喜劇」

 戦争が始まったら、私たちはどう生きるのだろう。国家の命令に従って戦場に赴くのか、あるいは徴兵を拒否しようともがくのか。胸にあるのは愛国の心か、おびえか、あきらめか…。
 かつて巨大砲台が随所に布置され、「要塞(ようさい)の島」と呼ばれた長崎県対馬の戦争史跡を訪ね歩きながら、そんなことをぼんやり考えた。
 1942年1月10日夜、補充兵として入隊した東堂太郎は〈世界は真剣に生きるに値しない〉という虚無主義を抱いて、対馬・厳原港に到着した。戦争は肯定できないが、個人の力で阻止もできない。圧倒的な無力感から生まれた虚無主義に染まりながら、同時に死んでいく無数の兵隊をよそに、戦争から逃げることを〈偸安(とうあん)と怯懦(きょうだ)と卑屈〉とみなす東堂は、奇怪な願望を胸に兵となった。
 -私はこの戦争で死ぬべきである。一匹の犬として-
 しかし、対馬要塞重砲兵連隊本部が置かれた鶏知に到着した東堂は3カ月の教育期間を通して、軍隊という場でむき出しになった国家権力の支配システムに真っ向から対抗していくことになる。
 一人の人間として。

 原稿用紙約4700枚の大作「神聖喜劇」は、さまざまな意味で破格、類書が見当たらない小説である。
 「長い小説なのに、描写も構成も精密で、非常に密度が高い。原作の世界をまるごと漫画にすることは不可能でした」
 昨年、漫画「神聖喜劇」(企画・脚色=岩田和博、全6巻)を発表したのぞゑのぶひささん(58)=佐賀県出身=が語るように、小説にはさまざまな軍紀を始め、短歌、英詩、漢詩などが、時に数ページに及んで奔流のごとく引用される。一つの場面に挿入された追憶が、長編小説並みの分量を持つこともある。現在と過去が交錯し、引用がさらなる引用を誘う作品世界は極めて重層的で、多様なテーマを含み込む。中で最も大きな核が、権力との闘争である。
 下着をつける際は〈睾丸(こうがん)ハ左方ニ容ルルヲ可トス〉-といったことまで明文化されるほど、日常のあらゆる場面に入り込んだ微細な規則の網を、東堂は冷静な観察眼と驚異的な記憶力で、徹底的に白日の下にさらけだしていく。網の目をかいぐって、かすかな自由を見いだす闘争である。その作業を通して、「聖戦」を続ける「神聖」な軍隊の実態が、奇怪で残酷、そして滑稽(こっけい)な「喜劇」としてあぶり出される。
 しかし、東堂の闘いは常に決定的な壁に阻まれる。
 〈上官が烏(からす)の色は白いと言うたからにゃ、烏の色は白い〉という絶対服従を強いる暴力である。東堂はそこに、〈上級者は下級者の責任をほしいままに追及することができる〉のに対し〈下級者は上級者の責任を微塵(みじん)も問うことができない〉連綿と続く無責任の体系という、日本軍の真実を透視するが、状況を打破する活路を得るには至らない。
 巨大な力が「個」をすりつぶすとき、突破口はどこにあるのか。

 「法による制限を明らかにすることで、自らの小さな権利を確認していく東堂の作業は、しょせんは負け戦の中での闘いです」
 最近発刊された単行本「未完結の問い」で大西巨人さんの聞き手を務めた評論家、鎌田哲哉さん(44)は5月、福岡市の西南学院大学で行った講演で「神聖喜劇」の読み方の変遷に触れてこう語った。闘争が新たな段階に突き進めたのは、東堂がさまざまな個性を持った兵隊たち出会い、ともに歩むためである。
 被差別部落出身で、ある事件のため執行猶予中である冬木。知識人の神官、生源寺。実直な庶民、橋本。顔がゆがんだ元炭鉱労働者、鉢田。ユニークな個性を持ち、それぞれの生き方で軍の権力に抗う人々が胸襟を開いて語り合い、力を合わせる小説後半、抑圧的な状況に大きな変化はないにもかかわらず、明るい力がみなぎってくる。そして、印象的な「模擬死刑の午後」の章に突入する。
 知的障害があるらしい兵を「模擬死刑」に処してからかう上官に、東堂と冬木が抗議する。〈人のいのちを玩具にするのはやめてください〉。お寺の坊さんが言いそうなことを言っても軍人は成り立たないという上官が冬木に問う。
 〈お前は、戦地で、どっち向けて、鉄砲を撃つつもりか〉
 冬木は決然と答える。
 〈天向けて〉
 「つまり非戦です。軍隊の〈法〉に対し、全く新しい〈法〉を創造しようという行動がここで起こされているわけです」と鎌田さんは言う。無論、軍隊の中では反抗は、頓挫せざるを得ない。それでも、読む者に大きな勇気を与えてくれる。

 対馬・鶏知の重砲兵連隊本部があった場所には、現在は中学校がある。通り掛かった老人に、往事をしのぶ史跡について訪ねると、学校横の小道に案内してくれた。そこに本部裏門のれんが柱と石碑がひっそりと建っていた。
 老人は1942年に歩兵として満州に渡り、敗戦は台湾で迎えた。郷里の対馬に戻った後は、代々続いてきた漁業を継ぎ、今年で85歳になるという。3年間の兵隊暮らしの思い出をしばらく聞かせてくれた後、つぶやいた。
 「いいしこ仲間が死んだですよ…。なんも得るもんがなかったですなぁ」
 2007年5月14日、衆議院に続いて参議院で国民投票法案(日本国憲法の改正手続に関する法律)が可決された。3年後に施行される。
 (文=文化部・岩田直仁 写真=写真グループ・納富 猛)

▼おおにし・きょじん

  1919年、福岡市生まれ。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部中退。新聞社勤務を経て、対馬要塞重砲兵連隊に入隊。戦後、福岡市で「文化展望」編集。52年に上京し「新日本文学会」に入る(72年退会)。「神聖喜劇」は60年から連載が始まり、80年に完結。現在、光文社文庫(全5巻)で読むことができる。反権力の視点から戦争、差別を主なテーマに執筆を続け、主な著書に小説「精神の氷点」「三位一体の神話」「深淵」などがある。

●私の推薦文

平和な今の社会にそっくり 板坂 燿子さん(60)=福岡教育大学教授(福岡県宗像市)

 これはもちろん、戦争や軍隊の理不尽さや狂気をとことん教えてくれる本だ。だが、それ以上に恐ろしくもおかしくもあるのが、読んでいて、それが平和な今の私たちの職場や学校、地域社会とそっくりなのに気がつくことだ。どんな愚かな醜いことも、きちんと法的な手続きを踏まないではやれない人間の滑稽(こっけい)さと哀(かな)しさが、いとしくて切ない。
 すべての組織や共同体に共通する、その弱点に気づいた主人公は、どんな文章でも一度見たら完璧(かんぺき)に覚えてしまうスーパーインテリで、その暗記力だけを武器に国家と軍隊という巨大な機構に立ち向かう。それも実に痛快でどきどきするが、そんな彼とは対照的に「名刺」や「何某(ぼう)」が何かも知らない、無学な庶民たちの骨太な群像もまた楽しく魅力的。それらすべての愛すべき登場人物とつきあう中で、教養にも肩書にも関係ない、人間の本当の「品格」とはどんなものかが、いつしかずっしりと伝わってくる。

●メモ

 ■舞台となった長崎県対馬には多くの戦争史跡が残されています。重砲兵連隊本部があった鶏知には石碑がある程度ですが、鶏知から約20キロの岬にある芋崎砲台跡や、日本最大級のカノン砲が据えられた対馬北端にある豊砲台跡が有名です。

 ■佐賀県太良町出身の漫画家のぞゑのぶひささんが作画、岩田和博さんの企画・脚色した漫画「神聖喜劇」(幻冬舎)が5月、手塚治虫文化賞・新生賞と日本漫画家協会賞・大賞をダブル受賞しました。「原作のエンターテインメント性の強い部分を中心に漫画化した」(のぞゑさん)といいます。

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2007年05月13日

郭沫若「行路難」

 〈川上川の渓流は昼夜をおかず流れていく。平坦(たん)な所に流れて行くと集まって小さな深淵を作るが、しかしまた絶えず流れる。流れが通れない所にさしかかるとまた激しくなって荒々しく怒り、ごうごうという急流の響きを立て、牙をむき出し、飛沫(しぶき)をあげて獅子奮迅する。(中略)流れよ。流れよ。涇(けい)水は渭(い)水と清さを争わない。黄河は長江と濁りを比べない。大海のうちでは一切が清流だ。一切が浄化する時があるのだ。流れよ。流れよ。大海は遠けれども必ず流れつく日があるのだ。〉
 「行路難(こうろなん)」は、こう結ばれている。
 さすらいの日々の果てにたどり着いた異国の山中にありながら、その男は、細き川の流れの向こうに、大海を見ていた。
 大海とは、何だったのだろうか。

 佐賀市富士町の嘉瀬川沿いにある熊の川温泉。郭沫若が川を見つめてから83年の時を経た2007年5月、私は同じ川のほとりに立ち、きらきらとほとばしる水の流れを見て思った。
 川の流れが海へ続くことが道理至極であるとしても、それを信じるのは決してたやすいことではない、と。
 後に中国を代表する文学者、政治家となる郭沫若が、ひなびた湯治場に家族と身を寄せたのは1924年秋のことだった。
 郭は、留学していた九州帝国大医学部(現・九州大医学部)を卒業しながらも、十代で患った腸チフスによる難聴で医の道を断念し、それまで秘めていた文学への道を志す。だが、中国人に対する激しい蔑視(べっし)と、貧しさの中で妻と子ども三人を養う困難さに耐えかねて、福岡を去ることを決めた。借家を引き払い、保養と執筆の〈背水の陣〉を敷くために選んだ場所が、熊の川温泉であった。
 異郷の温泉地は、生まれ育った四川省の山紫水明に似ていた。郭は帰国するまでの約1カ月半、熊の川と古湯に滞在し、多くの小説や詩を書き上げた。最も有名な作品が、私小説「行路難」である。自伝「続創造10年」の中で〈この6、7カ月は私が最も多産だった時期と言わねばならない〉と振り返っている。「行路難」は李白の詩の引用から始まっている。
 〈行路難 帰去来〉
 なんと人生行路のつらくけわしいことか。いっそのこと郷里に帰ろうか-。中国という国家を、民族を、異国で背負ったがゆえの、つらさだった。

 行路難の主人公は作家志望で、日本人の妻と子ども3人の5人家族。郭一家そのものだ。
 〈俺(おれ)はこの福岡は本当にきらいだ。この福岡は嫌でたまらん〉
 〈この癪(しゃく)に障る国の中で長いこと住まなければならないのか〉
 翻訳の仕事もままならず、本国で大学教授をという話も立ち消え、暮らしは困窮していた。そこで妻は、辺ぴな温泉への移住を提案した。熊の川を選んだのは、妻が買ってきた地図が、風光の秀麗さ、人心の素朴さ、生活の簡易さをほめていたからである。
 九州大で郭沫若を研究した武継平・上海財経大教授の調査では、郭は福岡で七度、転居した。家賃が払えず追い出されたり、清掃を条件に廃虚の旅館に住んだこともあった。唐津で家を探したときには、中国人だと分かった途端に、手のひらを返された。
 〈お前たちのその腐った良心、しびれてしまった美感、閉鎖してしまった知性、どうしてこの「流民」の二字の美妙を理解することができよう(中略)ああ、さすらおう。さすらおう。絶え間なくさすらおう〉
 郭沫若を研究する岩佐昌〓(〓は「日へん」に「章」)・熊本学園大教授は「昔の中国は弱い国であり、弱い民族だった。郭は日本人による蔑視を、個人にではなく、民族に対するものととらえていた」とみている。
 憎悪にもなりかねないその憤りを和らげたのは子どもたちだった。
 〈彼らの意識の中には何らさすらいの気持ちも、貧富の感じなんかなく〉〈経済的な打算がない。いたずらに作る難題もない。彼らは汎美主義者だ〉
 日本人の妻との間に生まれた命の瞳。高校や大学で多くを教えてくれた人々を思えば、日本人を恨み切ることはできなかった。その思いは、後に日中友好に力を尽くした郭の功績が証明している。

 「行路難」は、佐賀で執筆した小説や随筆を収めた短編集「橄欖(かんらん)」(26年に上海で出版)の一編である。その中に「本を売る」という話がある。
 岡山で高校を卒業した郭は、大学進学を前に、「陶淵明全集」など二冊の本を売りに行く。書店に断られ、ゲーテやニーチェを学んだ図書館へ寄贈した。その二冊の本への思いを、佐賀の山中でつづった。
 〈あなた方の生命は、私よりも長いことでしょう。私の骨が灰となり、肉が泥となった時に、私の魂はあなた方の身を借りて、永久に生きながらえるのです〉
 行路難をはじめ、多くの作品を翻訳してきた郷土史研究家、牧山敏浩さん(81)=佐賀市=は「郭の考え方の根本には、思想は本の中に残るという信念があるのです」と話す。
 ならば「大海」とは、この世界に生きる人々を指していたのではないか。書くという行為は、残すことであり、書き残したものはいつか誰かの元に届く日がきっと来る。「書くからには、大海を見据えなさい」。背水の地でつづった小説に込められた、次代への伝言。いま、記者である私は、それを受け止めたいと思う。
 郭一家が最初に身を寄せた熊の川温泉の「新屋旅館」は、この春、ひっそりと看板を下ろしていた。旅館裏の川原は、護岸整備で姿を変えた。
 川は、流れ続けている。
 (文=文化部・塚崎謙太郎 写真=写真グループ・納富 猛)

▼かく・まつじゃく

 1892年、中国・四川省楽山市生まれ。名は開貞。1914年に日本留学。岡山を経て、18年に九州帝大医学部入学。在学中に「創造社」を結成し、福岡で創作した詩集「女神」を上海で出版。24年、佐賀県に滞在し「行路難」を書く。26年北伐革命軍に参加したが、28年に日本へ亡命。千葉・市川で中国古代文字を研究した。37年、日中戦争勃発後に単身帰国。新中国の成立後、政務院副総理など周恩来の側近として活躍。55年に訪日科学代表団長として来日し、九州大で講演した。文化大革命時の自己批判は内外で失望を買い、日本国内でも急速に読まれなくなり、次第に忘れられた存在となっていった。78年、85歳で死去。

●私の推薦文

厳しい現実へのいら立ち 岩佐 昌〓さん(65)=熊本学園大教授・中国現代文学(福岡市)

 「行路難」の主人公は、文学で身を立てようと考えているが、その自負に違って現実は厳しい。これは郭沫若自身が当時おかれていた状況をそのまま描いている。
 それより前に出した詩集「女神」によって中国詩壇の新星として知られていた郭沫若も、福岡では一介の外国人貧乏書生にすぎなかった。貧しい知識人は金策に、家捜しにと走り回らねばならない。その度に彼は、資本主義勃興(ぼっこう)期のナショナリズムを背景にした日本人の金持ち、軍人から差別的な言葉を投げかけられる。加えて彼の創作は思うにまかせない。「行路難」はそういう現実に歯ぎしりする郭沫若のいら立ち、民族蔑視(べっし)への敵意などを主調音としてつづられた私小説だと思う。
 一昨年中国では反日運動が巻き起こったが、「行路難」はその根(歴史的根源)の深さを教えてくれる。日中関係がまだ不安定なこの時期、じっくり読んでみたい一編である。
 ※(〓は「日へん」に「章」)

●メモ

 ■佐賀市富士町の嘉瀬川沿いにある雄淵雌淵公園には、佐賀県日中友好協会が建立した「郭沫若先生記念碑」があります。熊の川、古湯温泉と合わせて訪ねてはいかがでしょう。千葉県市川市には「郭沫若記念館」があります。

 ■郭沫若の著書は絶版になっており、古書店での入手も困難です。記事本文で引用した「行路難」の訳文は、郷土史家の牧山敏浩さんが1982年に自費出版した本によります。図書館で「行路難」を所蔵するのは佐賀県立と佐賀市立、佐賀大付属、九州大付属六本松分館などです。抄録を収めた「ふるさと文学館第48巻佐賀」(ぎょうせい)は多くの図書館にあります。

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2007年05月06日

石沢英太郎「羊歯行」

 -三原哲郎は天草・角山(かどさん)にシダ採取に出かけ転落死する。脳腫瘍(のうしゅよう)手術をした哲郎にとって初めての遠出だった。親友の嬉野は、哲郎が採取しようとした希少な「サツマシダ」が天草には存在するはずがないことから、その死に疑問を抱く。何者かが彼を危険な現場に誘導したのではないか。つまり、哲郎の死は、仕組まれた犯罪だったのではないか。
 石沢英太郎の出世作「羊歯行(しだこう)」は単独の遭難が殺人だったプロバビリティー(可能性)を暴く短編である。
 嬉野は東京から遭難現場に向かう。何につけ現場を踏まなければ物語は展開しない。記者も角山を目指した。

 〈定刻、特急『はやぶさ』は、かすかに車体をふるわせて、九州に向かって滑りだした。5月、空は薫風かおる快晴ではあった〉
 石沢の筆は、無駄をそぎ落として明快である。次の行ではもう、嬉野が角山の見える地点に立っている。
 〈宮路岳で、村野という老人が、嬉野と入江を待っていた。「あれが角山です」〉
 前段に〈三角から、本渡に渡り、角山に登る〉とあるので、辛うじてルートが分かる。簡潔な記述とは裏腹に、角山は遠かった。熊本県天草市の本渡市街地から宮路岳地区まで車で30分ほど。宮路岳は1957年まで一つの村だっただけに広い。宮路岳のどこから角山が見えたのか、見当もつかない。バス待ちの年老いた女性、クリーニング店の女性、田植え帰りの軽トラの男性などに聞くが、角山の存在すら知らないという。
 焦りを感じ始めたとき、コンビニの若い店員が「確かそんな山があったはず」と地図を広げてくれた。空白地帯に「▲」の記号があり、小さく「角山」とある。だがそれだけで、ルートは分からない。大方の方角を定めてさらにアクセルを踏んだ。
 石沢が「村野」という地元老人や、シダ採取の案内役「入江」を登場させた理由がここにきて分かった。彼も角山にたどり着くまで苦労したのだ。
 迷いに迷って登山口。そこから歩いて1時間ほど。その山頂に立ったのは日も傾きかけたころだった。眼下に連なる天草の山々。哲郎の遭難地点は特定できなかったが、シダが生い茂る頂上付近には、落ちれば助かるまいと思われる急峻(きゅうしゅん)な個所があり、石沢の筋立てに矛盾はなかった。

 「本当に凝り性でした。探求心旺盛、何事にも熱心で、石沢さんの質問攻めにまいった人も多いでしょう」
 そう語るのは元フクニチ新聞文化部長の深野治さん(69)=福岡市在住=である。
 「羊歯行」(講談社文庫)の後書きでは石沢と親しかった作家の野呂邦暢が二人で行った韓国旅行の思い出を語っている。石沢は、ホテルで出されたキムチの漬け方を執拗(しつよう)に聞き、従業員を憤慨させたという。野呂は「キムチ殺人事件」でも書くつもりかと思ったと記す。
 石沢の自宅(福岡県太宰府市)の庭には、シダが植えられて美しかった。「奥さんの趣味だった」と深野さんはみる。そのシダが作品のヒントになったことは言うまでもない。
 「羊歯行」には、随所にシダの名前や、その子細な特徴が出てくる。図鑑類はもとより、同好会の会報にいたるまで、石沢は徹底的に調べた。その膨大な知識がディテールに反映され、物語に真実味を与える。
 松本清張の強い支持によって、「羊歯行」は双葉推理賞を受賞。石沢は作家デビューを果たした。別の選考委員は「ぼくもシダを集めてみようかという気になった」と語ったという。
 -角山山頂に「サツマシダ」があると哲郎に信じ込ませたのは、哲郎の従兄弟(いとこ)にあたる三郎だった。そこは危険極まりない場所である。哲郎の死後、三郎は哲郎の妻・亜矢子に求婚し、二人は近く結婚する運びだった。東大出のエリート哲郎と、漁船員からたたき上げ腕一本でのし上がった三郎。二人の男の間で揺れる亜矢子。
 トリックは単純だが、登場人物が生き生きと描かれて血が通い、読者を物語に引き込む。松本清張が絶賛したゆえんであろう。

 石沢は、満州国の大連に生まれ、30歳のころ日本に引き揚げている。植民地からのエトランゼであった。旧南満州鉄道系の九州経済調査協会に落ち着くまで職を転々とし、労働運動に身を投じたことも、配管工をやったこともある。描く人物の“彫り”が深いのは、裏も表も知り抜いた石沢の人生経験が根っこにあろう。
 その後の石沢は、多様なテーマのミステリーを描き続けた。福岡県警の実在の刑事を徹底取材して描いた「牟田刑事官事件簿」は、晩年の傑作シリーズである。1983年からは、小林桂樹主演でテレビドラマ化された。その大ヒットが、石沢の命を縮める遠因にもなった。
 「多作になって筆が荒れる、といったことに悩まれていたのじゃないでしょうか。はっきり、そう聞いたわけではないですが」(深野さん)。
 石沢は1988年、自宅で亡くなった。墓所も手配し、友人ら百人以上に追悼文を依頼しての自殺であった。
 (文と写真=文化部・井口幸久)

▼いしざわ・えいたろう

 1916年、中国・大連市生まれ。大連商業学校を卒業して南満州電機会社に入社したころから執筆活動を始めた。48年、日本に引き揚げ、職を転々とする。53年から九州経済調査協会に勤務しながら、同人誌などで活動。66年「羊歯行」で双葉推理賞を受賞した。「乱蝶」、「カラーテレビ殺人事件」、「キタタキ絶滅」など多様なジャンルをミステリーに仕立て作家としての地歩を固めた。晩年は「牟田刑事官事件簿」が小林桂樹主演のテレビドラマでシリーズ化「刑事官もの」を連作した。88年に自殺、72歳だった。

●私の推薦文

ストーリーの深みが魅力 簑原 美由紀さん(48)=主婦 (福岡市中央区)

 読み始めるとグイグイと引き込まれました。私は普段は斜め読みですが、この小説は細部までしっかり読みました。それでも30分で読み終わりました。
 最初、犯人は奥さんだろうと思いました。再婚が早すぎるし、闘病生活に疲れていたのだろうと。その後、二人の男の背負ってきた運命、人生の明と暗が語られます。育ちのいい坊ちゃんのエリートは、鈍感な所もあるもの。もう少し周りへの配慮があれば殺されることもなかったでしょう。他方は、厳しい環境からたたき上げた人物。
 トリックは単純ですが、そこにシダという植物を絡ませているところがストーリーに深みを与えて、面白いのです。結末にはちょっと異論があります。いかにも男の人が書いたものだなあと感じました。女の立場からみて、自分を愛していれば罪も許す。あるいはその逆、といったことがあり得るでしょうか。その点、ご自分で読んで考えてみてください。

●メモ

 ■「羊歯行」には「福岡植物友の会」という組織が登場しますが、同会は当時実在し、天草でも例会を実施したようです。石沢が出席したか否かは分かりません。

 ■初の長編「カーラリー殺人事件」執筆に際しては、石沢は北海道・宗谷岬から鹿児島県・佐多岬まで7200キロを、33日かけてポンコツ自動車で旅したといいます。

 ■福岡市総合図書館が昨年12月に発行した「福岡ミステリー案内 赤煉瓦館事件簿」に、石沢英太郎の作品や人物紹介が掲載されています。福岡市文学館(福岡市中央区天神1の15の30=092・722・4666)で販売しています。1000円。

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