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2007年06月24日

内田春菊「ファザーファッカー」 

 〈私は娼婦の顔をしていると言われる〉

 主人公静子-内田春菊は、27歳のとき、少女時代の記憶を手繰り寄せる作業を始めた。
 〈それだけはぜったいしないという考えで暮らしていたのだ。人が私をどう見ようが構わないが、いったい何故私はそんな顔をしているのだろうか〉

 自伝的小説「ファザーファッカー」は1993年、春菊33歳の年に出版された。構想から7年。それは「遺言状」として記された、決別の文章だった。

 〈やっと思い出した。私は娼婦だったのだ〉
 長崎港を望む50段坂。急な階段を上りつめた辺りに、その「売春宿」はあった。おかみは実の母で、ただひとりの客の男は、育ての父だった。
 ほとんど寄り付かなくなっていた実父と入れ替わるようにやってきた男は家長の座につき、家庭を支配する。愛人であるはずの母は殴られ、子どもたちは見ず知らずの男を「お父様」と呼ばされた。大声で笑ったといっては「ばか笑いをするな!」と怒り、流行歌を歌うと「そんな歌を歌うな」、絵を描いても「止めさせろ」と怒鳴った。
 静子には空想癖がつき、焦点の合わない目でぼんやりしていることが多くなった。思春期に差しかかると、養父は性について異常な反応を見せ始める。「本当にこいつは要注意だからな」
 〈私は、淋しかった。いつも、家の中では〉
 外に生きる場を求めた静子は、中学2年のとき同じ学校の男子生徒と恋愛し、妊娠する。「この淫売が」。養父は家中の物で静子を殴り倒し、ののしり、泣き、そして自分の寝台で〈手術〉に及んだ。「おれがつついてみる」

 「実体験、じゃないですよね?」
 漫画家としてすでに50冊近い単行本を刊行していた春菊の初めての小説に、世間の反応はほぼこれに尽きた。
 養父から逃れるため16歳で家を出て、ホステスやクラブ歌手、ウエートレスなどさまざまな職を経て漫画家デビューを果たした。東京で安定した生活を手に入れつつあったころ、かつて養父の性的虐待を黙認、というよりむしろ進んで娘を差し出していた母親と大げんかして縁を切った。
 「そんなこと言っても実の親子なんだからね。絶対に離れないよ」
 母の捨て台詞(ぜりふ)が春菊には財産目当てにしか聞こえず、過去を証言する意味を込め筆を執る。勢いで書き始めたが、しまい込んできた記憶を浮かび上がらせる作業に、ひとり泣きした。
 親しくなった何人かの男に、虐待の過去を打ち明けたこともある。春菊の気持ちと裏腹に反応はいつも同じだった。「じゃあ、この女は何しても平気だな」。タイトルの「ファザーファッカー」は、交際し子どもまで作った男から浴びせられた罵(ののし)りの言葉である。

 淡々と、ひたすら記憶を順序立てて回想する。余計な心理描写が一切ない文章は「新世代の文学」として賛否両論を呼びもした。しかし、おそらく世代という括(くく)りは的外れだろう。感傷的な描写のない文章そのものが、養父による性的虐待という過去に対する、春菊なりの対処の姿勢を表しているように思えるからだ。春菊は言う。
 「ほんとに辛いことがあると主人格が耐えられなくなって、パシンと閉じちゃって別人格が出てくるっていう、多分それに近いことをやって乗り切ったと思うんです」
 逃れることのできない状況への最後の手段-「無感動」という抵抗をそのまま体現した、ひとつの文学の形が「ファザーファッカー」にはある。
 作品は70万部を超えるベストセラーになり、出版から2年後に映画化される。ヌードシーンを最低限に抑えて撮影されたが、制作陣の意図に反し完成作はR指定を受けた。子どもたちにこそ見てほしい、少女の旅立ちを描いた青春映画を目指していたという。

 小説「キオミ」「息子の唇」、漫画「目を閉じて抱いて」…女優、歌手としての横顔も持ちながら、春菊は数多くの作品を生みだしてきた。
 養父からの度重なる性的虐待や交際相手との不本意な妊娠と中絶、強姦(ごうかん)被害など決して少なくないトラウマを抱えながら、作品にはあらゆる性愛の姿が現れる。見方によっては、あっけらかんと、至極当たり前のこととして。春菊の考えはシンプルだ。
 「そんなに『ないこと』にしてる人が多いことが逆に不思議なんです」
 「ファザーファッカー」が育児漫画「私たちは繁殖している」と合わせてドゥマゴ文学賞を受賞したとき、審査員を務めた宗教学者で作家の中沢新一は、こんな選評を寄せている。
 「教育やら家庭やらメディアやら日本の男特有の心理やらのせいで、すっかりこんがらかってしまった、性と生命のリアルを、すなおに、まっすぐに表現してみせた。(中略)こんな生命の描き方をしている人は、ほかにいない。じぶんの生命を、こんなふうに生きている人も、ほかにいない」
 気持ちに偽り無く、繊細な感性のまま生きてきた。「最近の人たちって、なるべく傷つかないように先に情報仕入れようって言う傾向ありますけど、人からもらったものよりも自分で経験して積んだデータのほうが絶対に役に立つんです」
 過去の昇華と言えばあまりに短絡的だが、経験は得難い創作の源となり、やがては強(したた)かな生命力に変わる。不敵な笑みを浮かべられる自分にだってなれるのだ-。春菊のエッセーから一節を借りるなら〈まあ人生とは面白いものよのお〉(「やられ女の言い分」)、と。中沢は、こうも言っている。
 「内田春菊という生き物の存在じたいに、ぼくは賞をあげたい」
(文=文化部・平原奈央子写真=写真グループ・納富  猛)

▼うちだ・しゅんぎく

 1959年長崎市生まれ。84年に四コマ漫画でデビュー。「南くんの恋人」などで一躍人気作家になる。93年「ファザーファッカー」が漫画「私たちは繁殖している」と合わせて第4回ドゥマゴ文学賞を受賞。直木賞候補にもなる。翌94年「キオミ」が芥川賞候補。漫画、小説作品のほか、エッセー集も人気が高い。女優としてもテレビドラマや舞台、映画(阪本順治監督「顔」、松尾スズキ監督「恋の門」タナダユキ監督「月とチェリー」ほか多数)に出演し、独特の存在感を見せている。事実婚の夫と、4人の子どもとともに東京都に暮らす。

●私の推薦文

理屈では割り切れぬ葛藤見える 橋口 譲二さん(58)=写真家(東京都)

 映画のスチール写真を頼まれた縁で作品と接することになったのですが、単なるスチールを撮る気になれず、現場で写真集「ひと夏」を撮影しました。春菊さんは小説でカムアウトされましたが、写真を撮りながら、一見普通に見えて表に出てこない、たくさんの歪(ゆが)んだ家族があることを考えました。家族の「形」とは何だろうかと。春菊さんが「(家族は)こうあるべき」という幻想にとらわれず「こうだった」としたからこそ、作品は読まれたのだと思います。
 僕は、この本は「お母さんの物語」なのではないかとも感じていました。娘の虐待を知りつつ苦悩されていたわけで、理屈では割り切れない生き方、大人の葛(かっ)藤(とう)が見えてくるんです。
 センセーショナルなとらえ方をされましたが、「ファザーファッカー」は、長崎にいたひとりの人の心の悲鳴であり、社会の転換期のなかで、家族というコミュニティーについて何らかの発信をしていたのではないかと思います。

●メモ

 

■「ファザーファッカー」の続編には「あたしが海に還るまで」(文芸春秋、1427円)が出版されています。16歳から23歳までの軌跡を描いた作品です。

■北上次郎編「14歳の本棚─青春小説傑作選 家族兄弟編」(新潮社、580円)に、「ファザーファッカー」の短編版である「田中静子14歳の初恋」が収録されています。

■橋口譲二さんの写真集「ひと夏-「ファザーファッカー」The Photography」は、リトル・モア社から4027円で発売されています。

■2月には、初めての創作論「作家は編集者と寝るべきか」(草思社、1260円)が出版されました。「たくさん書くコツって?」「小説を書き出す前のこと」など創作の秘訣から出版界の裏話までを盛り込んだ一冊になっています。

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2007年06月17日

城山三郎「落日燃ゆ」 

 彼の生涯、その始点と終点にはそれぞれ石碑が建っていた。
 始点には生誕地を示す石柱。福岡市中央区天神3丁目、雑居ビルの裏路地にひっそりとあった。
 終点には「永久平和を願って」と書かれた碑。東京・東池袋中央公園内にある。彼の名はない。碑文から、かつて第二次大戦の戦争犯罪人を収容し、刑が執行された巣鴨プリズンがここにあったことが知れる。
 ふたつの碑は、彼の波乱に満ちた生涯を象徴しているように思えた。
 彼とは、広田弘毅(1878-1948)である。福岡県出身のただ1人の総理大臣、終戦後にA級戦犯として絞首刑になった。今年3月に死去した作家、城山三郎の小説「落日燃ゆ」は彼、広田が主人公だ。

 経済小説のパイオニアとして知られる城山には、もうひとつ、戦争文学といえる作品群がある。「落日燃ゆ」はその流れの中にある。
 広田は石屋のせがれから外交官をへて三度の外相、総理大臣にまで登りつめた。だが、城山が書きたかったのは彼の出世譚(たん)ではない。
 前半は、満州事変(1931年)から太平洋戦争(41年開戦)へと突き進む〈天皇という神輿(みこし)をかついだ現代の荒法師たち〉〈野放しのあばれ馬〉軍部と協和外交を掲げる広田との戦いを、後半は〈戦争について自分には責任がある。無罪とはいえぬ〉と、東京裁判で一切の弁明をせずに逝った広田の生きざまを、描いた。
 「城山先生は綿密に調査、取材する方でしたが、『落日燃ゆ』にはかなり苦労されていました」。当時の新潮社担当編集者、梅澤英樹さん(73)はそう述懐する。人間・広田を描くためには、遺族へのインタビューが欠かせない。だが、遺族はマスコミとの接触を一切断っていた。
 それを可能にしたのは作家の大岡昇平だった。大岡は広田の長男と小学校の同級生。城山の苦労を知った大岡が仲介し、遺族への取材が実現した。
 「落日燃ゆ」は1973年3月31日に脱稿。この日、城山は手帳に次のようなメモを残す。〈集中してかかりきってきた作品である。資料山積身動きならず〉
 身を削って紡いだ作品は翌年、新潮社から出版された。毎日出版文化賞と吉川英治文学賞を受賞する。城山の代表作となった。

 「広田弘毅に対して後世の歴史研究者の多くは、城山さんの『落日燃ゆ』よりも厳しい評価をしています」
 昭和戦前期の政治外交史が専門の久留米大法学部准教授、森茂樹さん(41)は語る。「抵抗及ばず戦争を止められなかったというよりは、軍部の暴走を放置したという見方です」。そのうえでこうも指摘した。「ただ、広田個人に関する資料はほとんど残っていない。その曖昧(あいまい)な部分に、いろいろな思いが投影できるとも言えます」
 では、城山が広田に託した思いとは何だったのか。
 城山はかつて熱烈な皇国少年だったという。17歳の1945年5月、両親の反対を押し切って海軍特別幹部練習生として志願入隊した。だが、4カ月の軍隊生活で見たのは、将校たちの腐敗、新兵へのいじめ、組織の理不尽さだった。そこには彼が抱いていた「お国のため」という大義はなかった。骨髄に染みた嫌悪感が、大義と個人、組織と個人の関係を突き詰めていく作品へとつながっていく。
 友人で評論家の佐高信さん(62)は「城山さんは(終戦の)17歳で時間が止まっていた」と語った。
 城山は、戦争という暗闇の時代に抗(あらが)おうとした理想の指導者像を広田にみたのではないか。城山三郎というレンズを通して像を結んだ広田弘毅であったからこそ、「落日燃ゆ」は単なる史書や伝記を超えた文学作品として今も人々の心を打つ。

 「落日燃ゆ」の中で、城山は広田の生き方を「自ら計らわぬ」という言葉で象徴した。自らのために策を弄(ろう)しない、つまり「無私」の姿勢である。広田がオランダ大使に左遷されたときに詠んだ句「風車(かざぐるま) 風の吹くまで昼寝かな」も同様の心境だろう。逆境にも倦(う)まず、風が吹けば無私となって懸命に回る風車として。
 そして城山自身も、自ら計らわぬ生き方を通した。
 勲章を辞退し、出版社差し向けのハイヤーに乗ったり銀座のクラブに通ったりする“流行作家らしさ”を嫌った。移動はいつも電車。住基ネットや個人情報保護法には「自由の根幹にある『言論・表現の自由』を駄目にする」と強く反対し、憲法を擁護する「憲法行脚の会」の呼び掛け人にもなった。
 5月21日に都内のホテルであった「城山三郎さん お別れの会」には約750人が参列した。中曽根康弘、小泉純一郎、土井たか子、菅直人ら政治家も姿をみせた。党派や主義を超えて愛された作家だった。
(文=文化部・西山宏 写真=写真グループ・納富猛)

▼しろやま・さぶろう 

 927年8月、名古屋市中区生まれ。本名杉浦英一。杉本五郎中佐著「大義」などに心酔し、45年に海軍特別幹部練習生として志願入隊。52年に一橋大学卒業後、愛知学芸大(現・愛知教育大)で助手、専任講師として63年まで景気論など担当した。57年「輸出」で文學界新人賞、59年「総会屋錦城」で直木賞を受賞。著作に「大義の末」「官僚たちの夏」「男子の本懐」「粗にして野だが卑ではない─石田禮助の生涯」「指揮官たちの特攻─幸福は花びらのごとく」など多数。「伝記文学の新しい領域を拓いた功績」で96年に菊池寛賞を受賞した。2007年3月22日、79歳で死去。

●私の推薦文

潔い人間性を感じる 大崎 信昭さん(67)=福岡市・大名公民館館長(福岡市中央区)

 「落日燃ゆ」の主人公、広田弘毅は私の母校である福岡市立大名小学校の大先輩です。小学校の講堂には今も広田の写真が掲げてあり、以前から親しみを感じていました。
 小説からは、広田の清潔さ、無欲さ、責任感が強く感じられます。国際協調に尽力し、軍部の独走を止めようとしますが、止められなかった。その責任を一身に背負い、黙したまま死んでいく。自らも軍隊経験のある城山さんは、その潔い人間性にほれて小説にしたのではないでしょうか。小説の中で広田が「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」とつぶやいた言葉が印象に残っています。あんな激動の時代でなければ、例えば現代であったなら、広田は素晴らしい政治をしたのではないでしょうか。金にまつわる政治家のスキャンダルを聞くにつけ、そう思います。
 古里の福岡でも広田弘毅を知る人が少なくなったようです。「落日燃ゆ」を読むことで、より多くの人に彼と彼の生きた時代を知ってもらいたい。

●メモ

 

■「落日燃ゆ」は当初「風の中の背広の男」という仮題でした。「落日燃ゆ」を考えたのは、新潮社の担当編集者だった梅澤英樹さんで、城山三郎さんはあまり気に入ってなかったようです。しかし妻の容子さんが「あなたの今までの小説の中で1番いい題名」と言ったことで、納得したそうです。

■福岡市中央区天神1丁目、水鏡天満宮(小鳥居良彦宮司)の鳥居に掲げられている「天満宮」の文字は広田弘毅が少年時代に書いたと伝えられています。そのことは「落日燃ゆ」にも記されてますが、初版本では記述に一部誤りがありました。城山さんは後年、同神社を訪れ「作家として恥ずかしいことです」と謝罪したそうです。誠実な人柄を感じさせます。

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2007年06月10日

林房雄「繭」

 身なりも物腰も、かっちりとした中年男性は、突然、こちらの言葉を遮った。
 「勘弁してください。林房雄と結び付けられることは、どんな形であろうとお断りします」
 林の出身地、大分市の某所。ゆかりの地をようやく訪ね当て、話が本題へと入った途端、取材はあっけなく打ち切られた。
 「こういう職にある者として、林房雄へのコメントは絶対タブーです。申し訳ないですが」
 男性は公職の管理職。
 「やっぱり『大東亜戦争肯定論』ですか」
 記者の問い掛けに、男性は「自宅の本棚には今でも(本刊、続刊の)2冊とも持っていますが」と言いかけ、慌てて「本を持っているというだけで問題になるから」と口をつぐんだ。
 林房雄とは、そういう作家である。
 文芸評論家で久留米大教授の松原新一さん(67)=福岡県久留米市=は「忌避された作家」と呼ぶ。
 「1つには、あまりに激しく転変した思想遍歴ゆえに。1つには、反動的な名称を持ち出してあの戦争を語り、あまつさえ『肯定』しようとしたそのスタンスゆえに、でしょう」

 全集では、わずか8ページの自伝的小説『繭(まゆ)』は、1926(大正15)年に発表されたプロレタリア文学作品。前年公布の治安維持法が初めて発動された「京都学連事件」の未決囚として、林は当時、京都の獄中にある。
 〈正確に言えば、大学ではなく、『新人会』に入学した〉(「狂信の時代」)と述懐する通り、東京帝国大学に進んだ林は、共産主義革命を志向する学生が集った新人会を舞台に、マルクス主義へと傾倒していく。
 〈ぐつぐつと煮られ眼に見えない一筋の絹糸でその生命を吸いとられ、しだいに細く細く痩(や)せて行き、やがて真黒な蛹(さなぎ)-不用な死体となって煮湯の中にほうりだされる。
 ところがその一方には-よく注意して見ると-彼女たちの頭の上でぐるぐるまわっている糸枠のように、繭の命を吸いとりながらだんだん太って行く人間たちの群があるではないか〉
 痩せ細っていく繭と、肥え太っていく糸枠と。林は生糸つむぎの二面性の中に、貧富の格差拡大という近代資本主義の矛盾を見事に描いてみせる。さらにその繭には、女工として身の細るような労働を強いられている母の姿を重ね合わせながら。
 〈母とても、あの工場にいる限り、またあの哀れな繭の1つではないか。眼に見えない絹糸が、その命を吸いとって行く〉

 「傲慢(ごうまん)でも卑屈でもなく、丁寧な言葉を使う紳士でした」
 元大分県庁職員で「九州文学」同人の長谷目源太さん(78)=大分市=には、40年ほど前、林が県庁に当時の知事を訪ねてきたときの記憶が、今も鮮烈だ。
 「ちょうど『大東亜戦争肯定論』が発表されたころです。社会党政治家として『憲法九条論』をまとめられようとしていた木下(郁(かおる))知事との間で、面白い対談が聞けるのでは、と期待しました。でも林さんは穏やかに笑って、昔話をするだけでしたね」
 二度の投獄を経た後、林は1936年に「プロレタリア作家廃業」を宣言する。『大東亜戦争肯定論』は、愛国的「日本主義」へと思想のかじを大きく切った後の林を集大成する作品だ。
 〈あの戦争はアジアを植民地化する欧米諸国との『東亜100年戦争』の帰結。そもそも勝ち目のない抵抗だったが、やらなければならない戦争だった〉
 その特異な理論は、直視できない強烈さを伴った。がゆえに、戦後日本に生きる私たちの目から、他の一切の「林房雄」を覆い隠してしまったのではなかろうか。『繭』もまたその1つ。
 長谷目さんは言った。
 「あのたった1冊のために、地元大分でさえ、『繭』の透き通るような親子愛でさえ、人々は目を背けてしまったんです」

 大分市三芳(みよし)。北大平寺村と呼ばれていた当時、林一家が農家の土蔵を借りて暮らした地域を歩きながら、ずっと心にわだかまり続けた謎とあらためて向き合った。
 なぜ、林は「転向」したのか-。
 小説と同じく、息子の学費工面のために母・ヒデが女工として働いた製糸工場は既にない。跡地は、携帯電話のサービス会社のプレハブ事務所になっていた。
 あの戦争を境に様変わりしたもの。それは林ではなく、国家や社会の方ではなかったか。「1億総玉砕」から「1億総ざんげ」へ。時代の振り子は大きく振れ、その真ん中で時代を、社会を、批判的ににらみ続けた1人の作家を置き去りにした。そして、忘れた-のではなかったか。
 66年、作家三島由紀夫との対談の中で、林はこう語っている。
 「自分は真理の的を射当てたいと願っている弓だと思っている。そして、弓は必ず曲がっている。しかし、曲がっている弓は-創作者というものは-自分はまっすぐだと思っている」
 林は生涯、曲がった弓であり続けたのだ、と思う。
(文=社会部・東 憲昭 写真=写真グループ・納富 猛)

▼はやし・ふさお

 1903年、大分市生まれ。本名後藤寿夫。10歳のとき雑貨商を営む父が破産し、一家で生地を離れて農家の土蔵に暮らす。16年、旧制大分中学(現大分上野丘高校)入学。この時、若い教師が説く人道主義に引かれて文筆に目覚めた。第五高等学校(現熊本大)を経て、23年に東京帝大法学部政治学科に入学。学生組織「新人会」を通じてマルクス主義思想に接近し、治安維持法違反などで入獄も2度経験。36年にプロレタリア作家廃業を宣言した後は、代表作「西郷隆盛」「大東亜戦争肯定論」に見られる日本主義的傾向を強めた。75年、72歳で死去。

●私の推薦文

ほの暗い世相を平易に活写 吉田 豊治さん(78)=元大分県立図書館長(大分市)

 大正から昭和へのほの暗い雰囲気を、うまくすくい取っています。第一次大戦の疲弊から復興しつつあった欧州諸国に押され、日本の製糸業は斜陽化へと向かいますが、そうしたしわ寄せが地方の九州にまで及びつつあった時代背景を、平易な筆致で見事ににおい立たせていると思います。
 そうした時代感を縦糸とするならば、「母」へと向かう素直な情愛が、この小説の横糸でしょうか。特に〈50近い、静な古風な眉(まゆ)をもった人〉〈不思議な上品さと謙譲さとをたたえた顔〉という母の描写に、林の母への思いの強さを感じずにはいられません。言い換えれば、プロレタリアート文学としては純粋すぎる作品なのかもしれません。林の他の作品にある強烈なまでの熱情も、過激さもここにはありません。林の膨大な著作群の中で、異彩を放っている作品ではないでしょうか。
 林自身への歴史的な評価とは別に、ゆっくり味わいたい1冊です。

●メモ

 ■「林房雄」のペンネームは中学時代の家庭教師先で知り合った恋人、林房子に由来します。房子は後にその家庭教師先の夫人となり、林は自筆年譜の18歳の項に「恋文の束を…夕闇に焼き捨てた」と記します。

 ■林は父の死後、母ヒデを新人会の合宿の世話役に迎えています。合宿に参加した思想研究家の故石堂清倫は、著書に「林はきらいでも彼女にはみな会いたがった」と書いています。

 ■林は生涯、ひどい吃音(きつおん)に悩まされました。しかし五高時代、仲間と開いたマルクス主義の演説会では「吃音を全く忘れて1時間近い大雄弁をふるうことができた」と後に回想しています。

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2007年06月03日

中村汀女「汀女句集」

 梅雨入り前だというのに、早くも熊本市はうだるような暑さだ。江津湖には涼を求めて散策する人々や、釣り人の姿があった。ゆったりと時間が流れる。そんな湖畔の風景に溶け込むように句碑が立つ。周囲には満開のころを少し過ぎたツツジが咲いていた。

 つつじ咲く母の暮(くら)しに加はりし (句集「都鳥」)

 汀女は自宅のすぐそばにあった江津湖を愛した。少女時代、彼女は毎日のように釣りに出掛けた。祖母が「すみらのごとなって(真っ黒になって)」と嘆くほどだった。
 県立高等女学校(現・県立第一高校)の4年生のころの日記。
 〈雨後の湖、ほんとに静か、森のみどりが急にこくなった様に見える。まあよく水にうつってること。神水のもり、健軍の杉、あそさん等みんなその彩色がちがってそのままさざなみ一つない湖にうつっている。(中略)ともに立って居るのも今は私一人、私の湖のよう〉
 第二句集「汀女句集」の冒頭にはこうある。
 〈朝夕湖を見て育った。走る魚の影も、水底の石の色も皆そらんじている。父母尚在ます江津湖畔に私の句想はいつも馳(は)せてゆく〉
 高浜虚子の姉妹弟子だった星野立子(虚子の二女)からは「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」と言われた。湖面の色、さざ波、魚の影、水底の石…。幼いころから親しんだ「私の湖」は句作の源、いや汀女の句の世界そのものだった。

 汀女は「良妻賢母」の俳人だったといわれる。
 仲間との句会は、家族がいない時間を縫って出かけた。こんなことがあった。句会で帰りが遅くなった。急いで帰宅すると、夫が今にも玄関を開けようとしている。慌てて裏口から駆け込み、何事もなかったように夫を迎えた。
 〈現代ほど主婦の自由がなかった時代。(中略)あちこちの会に気軽に行きたかっただろう。後年、私にそのことの不満を洩(も)らしたこともあった〉と、長女で俳人の小川濤美子(なみこ)さん(83)は著書「中村汀女との日々」で明かしている。そんな汀女の句に対して、評論家は揶揄(やゆ)を込めて、しばしばこう評した。台所俳句-。
 汀女の反論が小気味良い。
 〈私たち普通の女性の職場ともいえるのは、家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がどうしていけないのか。ひとりの女の明け暮れに、感じ浮かぶ想いを、ひとりだけの言葉にのせ文字にする、それだけでよろしいのではあるまいか〉(「汀女自画像」)
 思いは行動に表れた。句誌「風花」を主宰。「俳句は誰にでも作れる。私たちは折に触れ、ものに触れ、何かを言いたいのです」。全国各地に「台所俳句」の担い手が誕生した。最盛期には全国に千人以上の会員を集めた。
 尚絅(しょうけい)大学(熊本市)の今村潤子教授(日本文学)は「汀女さんはラジオや講話を通じて、主婦たちに『自分もやってみよう』という気を起こさせた。それまで重要視されてこなかった『生活』を、俳句という形で芸術に引き上げた」と、その功績を高く評価する。
 「普通の女性」として俳句の世界を生き抜こうとする気概と果敢な行動力。良妻賢母というより、たくましい「火の国の女」の姿が浮かび上がってくる。

 「汀女句集」には、句作を始めた18歳から、子育ての手が離れた43歳ごろまでの作品が収められている。この間、汀女は官吏であった夫に従い、熊本、横浜、東京、仙台、また東京と転居している。それでも句集には、古里に住む親や熊本を詠んだものが多い。例えば横浜での作品。

 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)抱くほどとれど母恋し
 (「汀女句集」)

 今村教授は「汀女は1人娘だった。どこに転居しようが、いつも親や故郷を思っていた」と話し、さらに第一句集「春雪」の第一章「熊本」を「汀女句集」に再録する際、「湖畔抄 江津」と改題したことを挙げ、「湖畔での生活が原風景だと自覚し、自分の句の特性として、江津湖をより強く打ち出したのでしょう」と解説する。
 句誌「風花」の名の由来について、汀女は〈『今日の風、今日の花』 それは、今日心新しくあれば、風も新た、花も新たといいたく、私はこれを自戒の言葉としているのであります〉と書いている。
 汀女は日常の風景であった江津湖で日々、新しい発見をした。幼いころからの体験こそが、古里を離れた後、自らを「心新しく」と鼓舞するエネルギーになったに違いない。
 もう、生家はないと聞いていたが、汀女が育った江津湖界隈(かいわい)を歩いてみた。大地主だったという汀女の実家の名残はどこにもなかった。汀女は、夕支度にまだ間のある昼下がり、メモ用紙と鉛筆だけを持って、近所を吟行することを好んでいたという。

 枇杷(びわ)熟れて銭こぼすほどバス揺れて (同)

 いつも暮らす街中に、何でもない光景に、目を輝かす汀女。そんな姿を想像しながら、ふと振り返ると、アパートの軒先に、びっしりと実をつけたびわの木が目に飛び込んできた。
 私のささやかな発見かもしれない。
 (文=熊本総局・大矢和世 写真=写真グループ・納富 猛)

▼なかむら・ていじょ

 1900年、熊本市生まれ。本名破魔。18歳のとき、玄関を掃除していて、初めて「我に返り見直す隅に寒菊赤し」の句が浮かんだという。地元紙に投句、選者の三浦18公から絶賛された。翌年「ホトトギス」に初投句・初入選する。20歳で結婚し、夫の仕事で東京に転居。約10年間句作から離れる。32歳、杉田久女に勧められて句作を再開する。40年、初の句集「春雪」を出版。47年に「風花」を創刊。随筆も多く、67年には本紙に「その日の風」を連載した。88歳、呼吸不全で死去。病床でも句作、選句に専念した。熊本市名誉市民、名誉都民、文化功労者。

●私の推薦文

身の回りを気取らずに詠む 坂本 松枝さん(98)=元「風花」会員(熊本県菊池市)

 高等女学校の8年後輩にあたります。在学中に句作を始め、1951年ごろから汀女先生主宰の「風花」に参加しました。
 初めてお会いしたとき、世の中にこんなきれいな方がいるかと驚いたものです。同窓生による句会「白梅句会」にもたびたび足を運んでいただき、熱心に皆を教育されていた姿が印象に残っています。
 先生の句の良さは、身の回りのことをあまり気取らずに詠んでいるところにあると思います。「今日の風、今日の花」の言葉の通り、自然を素直な心でとらえることで、俳句が生まれるのでしょう。
 先生は「俳句はどんどん作りなさい」とおっしゃっていました。私も日々俳句を作らねばと思い、いつも句帳をそばに置いています。今は、窓から見える草花が題材です。

●メモ

 ■汀女の単独句集は計12冊。全句集なども出版されていますが、現在手に入るものはほとんどないようです。図書館や古書店へ足を運んでください。小川濤美子「中村汀女との日々」に収録の「汀女俳句12カ月」、「中村汀女百句抄」では特に印象的な句が挙げられているほか、今村潤子「中村汀女の世界」には、季題別の作品リストもあります。

 ■汀女は和菓子好きとしても知られ、随筆と句を組み合わせて日本各地の銘菓を紹介した「ふるさとの菓子」は昨年復刻され、手に入りやすくなりました。

 ■横浜時代の句「とどまればあたりにふゆる蜻蛉(とんぼ)かな」は、江津湖の風景にもぴったりです。湖から程近い熊本近代文学館の裏手に、句碑が立っています。館内のソファには、本人とそっくりの汀女人形が、夏目漱石人形とともに仲良く座っています。

 ■汀女の実家、斎藤家はもうありませんが、近くに「江津斎藤橋」という名の立派な橋があります。斎藤家のかすかな名残です。

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