内田春菊「ファザーファッカー」
〈私は娼婦の顔をしていると言われる〉
主人公静子-内田春菊は、27歳のとき、少女時代の記憶を手繰り寄せる作業を始めた。
〈それだけはぜったいしないという考えで暮らしていたのだ。人が私をどう見ようが構わないが、いったい何故私はそんな顔をしているのだろうか〉
自伝的小説「ファザーファッカー」は1993年、春菊33歳の年に出版された。構想から7年。それは「遺言状」として記された、決別の文章だった。
〈やっと思い出した。私は娼婦だったのだ〉
長崎港を望む50段坂。急な階段を上りつめた辺りに、その「売春宿」はあった。おかみは実の母で、ただひとりの客の男は、育ての父だった。
ほとんど寄り付かなくなっていた実父と入れ替わるようにやってきた男は家長の座につき、家庭を支配する。愛人であるはずの母は殴られ、子どもたちは見ず知らずの男を「お父様」と呼ばされた。大声で笑ったといっては「ばか笑いをするな!」と怒り、流行歌を歌うと「そんな歌を歌うな」、絵を描いても「止めさせろ」と怒鳴った。
静子には空想癖がつき、焦点の合わない目でぼんやりしていることが多くなった。思春期に差しかかると、養父は性について異常な反応を見せ始める。「本当にこいつは要注意だからな」
〈私は、淋しかった。いつも、家の中では〉
外に生きる場を求めた静子は、中学2年のとき同じ学校の男子生徒と恋愛し、妊娠する。「この淫売が」。養父は家中の物で静子を殴り倒し、ののしり、泣き、そして自分の寝台で〈手術〉に及んだ。「おれがつついてみる」
「実体験、じゃないですよね?」
漫画家としてすでに50冊近い単行本を刊行していた春菊の初めての小説に、世間の反応はほぼこれに尽きた。
養父から逃れるため16歳で家を出て、ホステスやクラブ歌手、ウエートレスなどさまざまな職を経て漫画家デビューを果たした。東京で安定した生活を手に入れつつあったころ、かつて養父の性的虐待を黙認、というよりむしろ進んで娘を差し出していた母親と大げんかして縁を切った。
「そんなこと言っても実の親子なんだからね。絶対に離れないよ」
母の捨て台詞(ぜりふ)が春菊には財産目当てにしか聞こえず、過去を証言する意味を込め筆を執る。勢いで書き始めたが、しまい込んできた記憶を浮かび上がらせる作業に、ひとり泣きした。
親しくなった何人かの男に、虐待の過去を打ち明けたこともある。春菊の気持ちと裏腹に反応はいつも同じだった。「じゃあ、この女は何しても平気だな」。タイトルの「ファザーファッカー」は、交際し子どもまで作った男から浴びせられた罵(ののし)りの言葉である。
淡々と、ひたすら記憶を順序立てて回想する。余計な心理描写が一切ない文章は「新世代の文学」として賛否両論を呼びもした。しかし、おそらく世代という括(くく)りは的外れだろう。感傷的な描写のない文章そのものが、養父による性的虐待という過去に対する、春菊なりの対処の姿勢を表しているように思えるからだ。春菊は言う。
「ほんとに辛いことがあると主人格が耐えられなくなって、パシンと閉じちゃって別人格が出てくるっていう、多分それに近いことをやって乗り切ったと思うんです」
逃れることのできない状況への最後の手段-「無感動」という抵抗をそのまま体現した、ひとつの文学の形が「ファザーファッカー」にはある。
作品は70万部を超えるベストセラーになり、出版から2年後に映画化される。ヌードシーンを最低限に抑えて撮影されたが、制作陣の意図に反し完成作はR指定を受けた。子どもたちにこそ見てほしい、少女の旅立ちを描いた青春映画を目指していたという。
小説「キオミ」「息子の唇」、漫画「目を閉じて抱いて」…女優、歌手としての横顔も持ちながら、春菊は数多くの作品を生みだしてきた。
養父からの度重なる性的虐待や交際相手との不本意な妊娠と中絶、強姦(ごうかん)被害など決して少なくないトラウマを抱えながら、作品にはあらゆる性愛の姿が現れる。見方によっては、あっけらかんと、至極当たり前のこととして。春菊の考えはシンプルだ。
「そんなに『ないこと』にしてる人が多いことが逆に不思議なんです」
「ファザーファッカー」が育児漫画「私たちは繁殖している」と合わせてドゥマゴ文学賞を受賞したとき、審査員を務めた宗教学者で作家の中沢新一は、こんな選評を寄せている。
「教育やら家庭やらメディアやら日本の男特有の心理やらのせいで、すっかりこんがらかってしまった、性と生命のリアルを、すなおに、まっすぐに表現してみせた。(中略)こんな生命の描き方をしている人は、ほかにいない。じぶんの生命を、こんなふうに生きている人も、ほかにいない」
気持ちに偽り無く、繊細な感性のまま生きてきた。「最近の人たちって、なるべく傷つかないように先に情報仕入れようって言う傾向ありますけど、人からもらったものよりも自分で経験して積んだデータのほうが絶対に役に立つんです」
過去の昇華と言えばあまりに短絡的だが、経験は得難い創作の源となり、やがては強(したた)かな生命力に変わる。不敵な笑みを浮かべられる自分にだってなれるのだ-。春菊のエッセーから一節を借りるなら〈まあ人生とは面白いものよのお〉(「やられ女の言い分」)、と。中沢は、こうも言っている。
「内田春菊という生き物の存在じたいに、ぼくは賞をあげたい」
(文=文化部・平原奈央子写真=写真グループ・納富 猛)
▼うちだ・しゅんぎく
1959年長崎市生まれ。84年に四コマ漫画でデビュー。「南くんの恋人」などで一躍人気作家になる。93年「ファザーファッカー」が漫画「私たちは繁殖している」と合わせて第4回ドゥマゴ文学賞を受賞。直木賞候補にもなる。翌94年「キオミ」が芥川賞候補。漫画、小説作品のほか、エッセー集も人気が高い。女優としてもテレビドラマや舞台、映画(阪本順治監督「顔」、松尾スズキ監督「恋の門」タナダユキ監督「月とチェリー」ほか多数)に出演し、独特の存在感を見せている。事実婚の夫と、4人の子どもとともに東京都に暮らす。
●私の推薦文
理屈では割り切れぬ葛藤見える 橋口 譲二さん(58)=写真家(東京都)
映画のスチール写真を頼まれた縁で作品と接することになったのですが、単なるスチールを撮る気になれず、現場で写真集「ひと夏」を撮影しました。春菊さんは小説でカムアウトされましたが、写真を撮りながら、一見普通に見えて表に出てこない、たくさんの歪(ゆが)んだ家族があることを考えました。家族の「形」とは何だろうかと。春菊さんが「(家族は)こうあるべき」という幻想にとらわれず「こうだった」としたからこそ、作品は読まれたのだと思います。
僕は、この本は「お母さんの物語」なのではないかとも感じていました。娘の虐待を知りつつ苦悩されていたわけで、理屈では割り切れない生き方、大人の葛(かっ)藤(とう)が見えてくるんです。
センセーショナルなとらえ方をされましたが、「ファザーファッカー」は、長崎にいたひとりの人の心の悲鳴であり、社会の転換期のなかで、家族というコミュニティーについて何らかの発信をしていたのではないかと思います。
●メモ
■「ファザーファッカー」の続編には「あたしが海に還るまで」(文芸春秋、1427円)が出版されています。16歳から23歳までの軌跡を描いた作品です。
■北上次郎編「14歳の本棚─青春小説傑作選 家族兄弟編」(新潮社、580円)に、「ファザーファッカー」の短編版である「田中静子14歳の初恋」が収録されています。
■橋口譲二さんの写真集「ひと夏-「ファザーファッカー」The Photography」は、リトル・モア社から4027円で発売されています。
■2月には、初めての創作論「作家は編集者と寝るべきか」(草思社、1260円)が出版されました。「たくさん書くコツって?」「小説を書き出す前のこと」など創作の秘訣から出版界の裏話までを盛り込んだ一冊になっています。
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彼の生涯、その始点と終点にはそれぞれ石碑が建っていた。
経済小説のパイオニアとして知られる城山には、もうひとつ、戦争文学といえる作品群がある。「落日燃ゆ」はその流れの中にある。
927年8月、名古屋市中区生まれ。本名杉浦英一。杉本五郎中佐著「大義」などに心酔し、45年に海軍特別幹部練習生として志願入隊。52年に一橋大学卒業後、愛知学芸大(現・愛知教育大)で助手、専任講師として63年まで景気論など担当した。57年「輸出」で文學界新人賞、59年「総会屋錦城」で直木賞を受賞。著作に「大義の末」「官僚たちの夏」「男子の本懐」「粗にして野だが卑ではない─石田禮助の生涯」「指揮官たちの特攻─幸福は花びらのごとく」など多数。「伝記文学の新しい領域を拓いた功績」で96年に菊池寛賞を受賞した。2007年3月22日、79歳で死去。
身なりも物腰も、かっちりとした中年男性は、突然、こちらの言葉を遮った。
全集では、わずか8ページの自伝的小説『繭(まゆ)』は、1926(大正15)年に発表されたプロレタリア文学作品。前年公布の治安維持法が初めて発動された「京都学連事件」の未決囚として、林は当時、京都の獄中にある。
1903年、大分市生まれ。本名後藤寿夫。10歳のとき雑貨商を営む父が破産し、一家で生地を離れて農家の土蔵に暮らす。16年、旧制大分中学(現大分上野丘高校)入学。この時、若い教師が説く人道主義に引かれて文筆に目覚めた。第五高等学校(現熊本大)を経て、23年に東京帝大法学部政治学科に入学。学生組織「新人会」を通じてマルクス主義思想に接近し、治安維持法違反などで入獄も2度経験。36年にプロレタリア作家廃業を宣言した後は、代表作「西郷隆盛」「大東亜戦争肯定論」に見られる日本主義的傾向を強めた。75年、72歳で死去。
梅雨入り前だというのに、早くも熊本市はうだるような暑さだ。江津湖には涼を求めて散策する人々や、釣り人の姿があった。ゆったりと時間が流れる。そんな湖畔の風景に溶け込むように句碑が立つ。周囲には満開のころを少し過ぎたツツジが咲いていた。
汀女は「良妻賢母」の俳人だったといわれる。
1900年、熊本市生まれ。本名破魔。18歳のとき、玄関を掃除していて、初めて「我に返り見直す隅に寒菊赤し」の句が浮かんだという。地元紙に投句、選者の三浦18公から絶賛された。翌年「ホトトギス」に初投句・初入選する。20歳で結婚し、夫の仕事で東京に転居。約10年間句作から離れる。32歳、杉田久女に勧められて句作を再開する。40年、初の句集「春雪」を出版。47年に「風花」を創刊。随筆も多く、67年には本紙に「その日の風」を連載した。88歳、呼吸不全で死去。病床でも句作、選句に専念した。熊本市名誉市民、名誉都民、文化功労者。