母住む江津湖畔に心馳せ
梅雨入り前だというのに、早くも熊本市はうだるような暑さだ。江津湖には涼を求めて散策する人々や、釣り人の姿があった。ゆったりと時間が流れる。そんな湖畔の風景に溶け込むように句碑が立つ。周囲には満開のころを少し過ぎたツツジが咲いていた。
つつじ咲く母の暮(くら)しに加はりし (句集「都鳥」)
汀女は自宅のすぐそばにあった江津湖を愛した。少女時代、彼女は毎日のように釣りに出掛けた。祖母が「すみらのごとなって(真っ黒になって)」と嘆くほどだった。
県立高等女学校(現・県立第一高校)の4年生のころの日記。
〈雨後の湖、ほんとに静か、森のみどりが急にこくなった様に見える。まあよく水にうつってること。神水のもり、健軍の杉、あそさん等みんなその彩色がちがってそのままさざなみ一つない湖にうつっている。(中略)ともに立って居るのも今は私一人、私の湖のよう〉
第二句集「汀女句集」の冒頭にはこうある。
〈朝夕湖を見て育った。走る魚の影も、水底の石の色も皆そらんじている。父母尚在ます江津湖畔に私の句想はいつも馳(は)せてゆく〉
高浜虚子の姉妹弟子だった星野立子(虚子の二女)からは「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」と言われた。湖面の色、さざ波、魚の影、水底の石…。幼いころから親しんだ「私の湖」は句作の源、いや汀女の句の世界そのものだった。
汀女は「良妻賢母」の俳人だったといわれる。
仲間との句会は、家族がいない時間を縫って出かけた。こんなことがあった。句会で帰りが遅くなった。急いで帰宅すると、夫が今にも玄関を開けようとしている。慌てて裏口から駆け込み、何事もなかったように夫を迎えた。
〈現代ほど主婦の自由がなかった時代。(中略)あちこちの会に気軽に行きたかっただろう。後年、私にそのことの不満を洩(も)らしたこともあった〉と、長女で俳人の小川濤美子(なみこ)さん(83)は著書「中村汀女との日々」で明かしている。そんな汀女の句に対して、評論家は揶揄(やゆ)を込めて、しばしばこう評した。台所俳句-。
汀女の反論が小気味良い。
〈私たち普通の女性の職場ともいえるのは、家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がどうしていけないのか。ひとりの女の明け暮れに、感じ浮かぶ想いを、ひとりだけの言葉にのせ文字にする、それだけでよろしいのではあるまいか〉(「汀女自画像」)
思いは行動に表れた。句誌「風花」を主宰。「俳句は誰にでも作れる。私たちは折に触れ、ものに触れ、何かを言いたいのです」。全国各地に「台所俳句」の担い手が誕生した。最盛期には全国に千人以上の会員を集めた。
尚絅(しょうけい)大学(熊本市)の今村潤子教授(日本文学)は「汀女さんはラジオや講話を通じて、主婦たちに『自分もやってみよう』という気を起こさせた。それまで重要視されてこなかった『生活』を、俳句という形で芸術に引き上げた」と、その功績を高く評価する。
「普通の女性」として俳句の世界を生き抜こうとする気概と果敢な行動力。良妻賢母というより、たくましい「火の国の女」の姿が浮かび上がってくる。
「汀女句集」には、句作を始めた18歳から、子育ての手が離れた43歳ごろまでの作品が収められている。この間、汀女は官吏であった夫に従い、熊本、横浜、東京、仙台、また東京と転居している。それでも句集には、古里に住む親や熊本を詠んだものが多い。例えば横浜での作品。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)抱くほどとれど母恋し
(「汀女句集」)
今村教授は「汀女は1人娘だった。どこに転居しようが、いつも親や故郷を思っていた」と話し、さらに第一句集「春雪」の第一章「熊本」を「汀女句集」に再録する際、「湖畔抄 江津」と改題したことを挙げ、「湖畔での生活が原風景だと自覚し、自分の句の特性として、江津湖をより強く打ち出したのでしょう」と解説する。
句誌「風花」の名の由来について、汀女は〈『今日の風、今日の花』 それは、今日心新しくあれば、風も新た、花も新たといいたく、私はこれを自戒の言葉としているのであります〉と書いている。
汀女は日常の風景であった江津湖で日々、新しい発見をした。幼いころからの体験こそが、古里を離れた後、自らを「心新しく」と鼓舞するエネルギーになったに違いない。
もう、生家はないと聞いていたが、汀女が育った江津湖界隈(かいわい)を歩いてみた。大地主だったという汀女の実家の名残はどこにもなかった。汀女は、夕支度にまだ間のある昼下がり、メモ用紙と鉛筆だけを持って、近所を吟行することを好んでいたという。
枇杷(びわ)熟れて銭こぼすほどバス揺れて (同)
いつも暮らす街中に、何でもない光景に、目を輝かす汀女。そんな姿を想像しながら、ふと振り返ると、アパートの軒先に、びっしりと実をつけたびわの木が目に飛び込んできた。
私のささやかな発見かもしれない。
(文=熊本総局・大矢和世 写真=写真グループ・納富 猛)
▼なかむら・ていじょ
1900年、熊本市生まれ。本名破魔。18歳のとき、玄関を掃除していて、初めて「我に返り見直す隅に寒菊赤し」の句が浮かんだという。地元紙に投句、選者の三浦18公から絶賛された。翌年「ホトトギス」に初投句・初入選する。20歳で結婚し、夫の仕事で東京に転居。約10年間句作から離れる。32歳、杉田久女に勧められて句作を再開する。40年、初の句集「春雪」を出版。47年に「風花」を創刊。随筆も多く、67年には本紙に「その日の風」を連載した。88歳、呼吸不全で死去。病床でも句作、選句に専念した。熊本市名誉市民、名誉都民、文化功労者。
●私の推薦文
身の回りを気取らずに詠む 坂本 松枝さん(98)=元「風花」会員(熊本県菊池市)
高等女学校の8年後輩にあたります。在学中に句作を始め、1951年ごろから汀女先生主宰の「風花」に参加しました。
初めてお会いしたとき、世の中にこんなきれいな方がいるかと驚いたものです。同窓生による句会「白梅句会」にもたびたび足を運んでいただき、熱心に皆を教育されていた姿が印象に残っています。
先生の句の良さは、身の回りのことをあまり気取らずに詠んでいるところにあると思います。「今日の風、今日の花」の言葉の通り、自然を素直な心でとらえることで、俳句が生まれるのでしょう。
先生は「俳句はどんどん作りなさい」とおっしゃっていました。私も日々俳句を作らねばと思い、いつも句帳をそばに置いています。今は、窓から見える草花が題材です。
●メモ
■汀女の単独句集は計12冊。全句集なども出版されていますが、現在手に入るものはほとんどないようです。図書館や古書店へ足を運んでください。小川濤美子「中村汀女との日々」に収録の「汀女俳句12カ月」、「中村汀女百句抄」では特に印象的な句が挙げられているほか、今村潤子「中村汀女の世界」には、季題別の作品リストもあります。
■汀女は和菓子好きとしても知られ、随筆と句を組み合わせて日本各地の銘菓を紹介した「ふるさとの菓子」は昨年復刻され、手に入りやすくなりました。
■横浜時代の句「とどまればあたりにふゆる蜻蛉(とんぼ)かな」は、江津湖の風景にもぴったりです。湖から程近い熊本近代文学館の裏手に、句碑が立っています。館内のソファには、本人とそっくりの汀女人形が、夏目漱石人形とともに仲良く座っています。
■汀女の実家、斎藤家はもうありませんが、近くに「江津斎藤橋」という名の立派な橋があります。斎藤家のかすかな名残です。
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