忌避された作家の母への情
身なりも物腰も、かっちりとした中年男性は、突然、こちらの言葉を遮った。
「勘弁してください。林房雄と結び付けられることは、どんな形であろうとお断りします」
林の出身地、大分市の某所。ゆかりの地をようやく訪ね当て、話が本題へと入った途端、取材はあっけなく打ち切られた。
「こういう職にある者として、林房雄へのコメントは絶対タブーです。申し訳ないですが」
男性は公職の管理職。
「やっぱり『大東亜戦争肯定論』ですか」
記者の問い掛けに、男性は「自宅の本棚には今でも(本刊、続刊の)2冊とも持っていますが」と言いかけ、慌てて「本を持っているというだけで問題になるから」と口をつぐんだ。
林房雄とは、そういう作家である。
文芸評論家で久留米大教授の松原新一さん(67)=福岡県久留米市=は「忌避された作家」と呼ぶ。
「1つには、あまりに激しく転変した思想遍歴ゆえに。1つには、反動的な名称を持ち出してあの戦争を語り、あまつさえ『肯定』しようとしたそのスタンスゆえに、でしょう」
全集では、わずか8ページの自伝的小説『繭(まゆ)』は、1926(大正15)年に発表されたプロレタリア文学作品。前年公布の治安維持法が初めて発動された「京都学連事件」の未決囚として、林は当時、京都の獄中にある。
〈正確に言えば、大学ではなく、『新人会』に入学した〉(「狂信の時代」)と述懐する通り、東京帝国大学に進んだ林は、共産主義革命を志向する学生が集った新人会を舞台に、マルクス主義へと傾倒していく。
〈ぐつぐつと煮られ眼に見えない一筋の絹糸でその生命を吸いとられ、しだいに細く細く痩(や)せて行き、やがて真黒な蛹(さなぎ)-不用な死体となって煮湯の中にほうりだされる。
ところがその一方には-よく注意して見ると-彼女たちの頭の上でぐるぐるまわっている糸枠のように、繭の命を吸いとりながらだんだん太って行く人間たちの群があるではないか〉
痩せ細っていく繭と、肥え太っていく糸枠と。林は生糸つむぎの二面性の中に、貧富の格差拡大という近代資本主義の矛盾を見事に描いてみせる。さらにその繭には、女工として身の細るような労働を強いられている母の姿を重ね合わせながら。
〈母とても、あの工場にいる限り、またあの哀れな繭の1つではないか。眼に見えない絹糸が、その命を吸いとって行く〉
「傲慢(ごうまん)でも卑屈でもなく、丁寧な言葉を使う紳士でした」
元大分県庁職員で「九州文学」同人の長谷目源太さん(78)=大分市=には、40年ほど前、林が県庁に当時の知事を訪ねてきたときの記憶が、今も鮮烈だ。
「ちょうど『大東亜戦争肯定論』が発表されたころです。社会党政治家として『憲法九条論』をまとめられようとしていた木下(郁(かおる))知事との間で、面白い対談が聞けるのでは、と期待しました。でも林さんは穏やかに笑って、昔話をするだけでしたね」
二度の投獄を経た後、林は1936年に「プロレタリア作家廃業」を宣言する。『大東亜戦争肯定論』は、愛国的「日本主義」へと思想のかじを大きく切った後の林を集大成する作品だ。
〈あの戦争はアジアを植民地化する欧米諸国との『東亜100年戦争』の帰結。そもそも勝ち目のない抵抗だったが、やらなければならない戦争だった〉
その特異な理論は、直視できない強烈さを伴った。がゆえに、戦後日本に生きる私たちの目から、他の一切の「林房雄」を覆い隠してしまったのではなかろうか。『繭』もまたその1つ。
長谷目さんは言った。
「あのたった1冊のために、地元大分でさえ、『繭』の透き通るような親子愛でさえ、人々は目を背けてしまったんです」
大分市三芳(みよし)。北大平寺村と呼ばれていた当時、林一家が農家の土蔵を借りて暮らした地域を歩きながら、ずっと心にわだかまり続けた謎とあらためて向き合った。
なぜ、林は「転向」したのか-。
小説と同じく、息子の学費工面のために母・ヒデが女工として働いた製糸工場は既にない。跡地は、携帯電話のサービス会社のプレハブ事務所になっていた。
あの戦争を境に様変わりしたもの。それは林ではなく、国家や社会の方ではなかったか。「1億総玉砕」から「1億総ざんげ」へ。時代の振り子は大きく振れ、その真ん中で時代を、社会を、批判的ににらみ続けた1人の作家を置き去りにした。そして、忘れた-のではなかったか。
66年、作家三島由紀夫との対談の中で、林はこう語っている。
「自分は真理の的を射当てたいと願っている弓だと思っている。そして、弓は必ず曲がっている。しかし、曲がっている弓は-創作者というものは-自分はまっすぐだと思っている」
林は生涯、曲がった弓であり続けたのだ、と思う。
(文=社会部・東 憲昭 写真=写真グループ・納富 猛)
▼はやし・ふさお
1903年、大分市生まれ。本名後藤寿夫。10歳のとき雑貨商を営む父が破産し、一家で生地を離れて農家の土蔵に暮らす。16年、旧制大分中学(現大分上野丘高校)入学。この時、若い教師が説く人道主義に引かれて文筆に目覚めた。第五高等学校(現熊本大)を経て、23年に東京帝大法学部政治学科に入学。学生組織「新人会」を通じてマルクス主義思想に接近し、治安維持法違反などで入獄も2度経験。36年にプロレタリア作家廃業を宣言した後は、代表作「西郷隆盛」「大東亜戦争肯定論」に見られる日本主義的傾向を強めた。75年、72歳で死去。
●私の推薦文
ほの暗い世相を平易に活写 吉田 豊治さん(78)=元大分県立図書館長(大分市)
大正から昭和へのほの暗い雰囲気を、うまくすくい取っています。第一次大戦の疲弊から復興しつつあった欧州諸国に押され、日本の製糸業は斜陽化へと向かいますが、そうしたしわ寄せが地方の九州にまで及びつつあった時代背景を、平易な筆致で見事ににおい立たせていると思います。
そうした時代感を縦糸とするならば、「母」へと向かう素直な情愛が、この小説の横糸でしょうか。特に〈50近い、静な古風な眉(まゆ)をもった人〉〈不思議な上品さと謙譲さとをたたえた顔〉という母の描写に、林の母への思いの強さを感じずにはいられません。言い換えれば、プロレタリアート文学としては純粋すぎる作品なのかもしれません。林の他の作品にある強烈なまでの熱情も、過激さもここにはありません。林の膨大な著作群の中で、異彩を放っている作品ではないでしょうか。
林自身への歴史的な評価とは別に、ゆっくり味わいたい1冊です。
●メモ
■「林房雄」のペンネームは中学時代の家庭教師先で知り合った恋人、林房子に由来します。房子は後にその家庭教師先の夫人となり、林は自筆年譜の18歳の項に「恋文の束を…夕闇に焼き捨てた」と記します。
■林は父の死後、母ヒデを新人会の合宿の世話役に迎えています。合宿に参加した思想研究家の故石堂清倫は、著書に「林はきらいでも彼女にはみな会いたがった」と書いています。
■林は生涯、ひどい吃音(きつおん)に悩まされました。しかし五高時代、仲間と開いたマルクス主義の演説会では「吃音を全く忘れて1時間近い大雄弁をふるうことができた」と後に回想しています。
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