西日本新聞

千年書房・九州の100冊

城山三郎「落日燃ゆ」 

皇国少年がみた理想の指導者

 彼の生涯、その始点と終点にはそれぞれ石碑が建っていた。
 始点には生誕地を示す石柱。福岡市中央区天神3丁目、雑居ビルの裏路地にひっそりとあった。
 終点には「永久平和を願って」と書かれた碑。東京・東池袋中央公園内にある。彼の名はない。碑文から、かつて第二次大戦の戦争犯罪人を収容し、刑が執行された巣鴨プリズンがここにあったことが知れる。
 ふたつの碑は、彼の波乱に満ちた生涯を象徴しているように思えた。
 彼とは、広田弘毅(1878-1948)である。福岡県出身のただ1人の総理大臣、終戦後にA級戦犯として絞首刑になった。今年3月に死去した作家、城山三郎の小説「落日燃ゆ」は彼、広田が主人公だ。

 経済小説のパイオニアとして知られる城山には、もうひとつ、戦争文学といえる作品群がある。「落日燃ゆ」はその流れの中にある。
 広田は石屋のせがれから外交官をへて三度の外相、総理大臣にまで登りつめた。だが、城山が書きたかったのは彼の出世譚(たん)ではない。
 前半は、満州事変(1931年)から太平洋戦争(41年開戦)へと突き進む〈天皇という神輿(みこし)をかついだ現代の荒法師たち〉〈野放しのあばれ馬〉軍部と協和外交を掲げる広田との戦いを、後半は〈戦争について自分には責任がある。無罪とはいえぬ〉と、東京裁判で一切の弁明をせずに逝った広田の生きざまを、描いた。
 「城山先生は綿密に調査、取材する方でしたが、『落日燃ゆ』にはかなり苦労されていました」。当時の新潮社担当編集者、梅澤英樹さん(73)はそう述懐する。人間・広田を描くためには、遺族へのインタビューが欠かせない。だが、遺族はマスコミとの接触を一切断っていた。
 それを可能にしたのは作家の大岡昇平だった。大岡は広田の長男と小学校の同級生。城山の苦労を知った大岡が仲介し、遺族への取材が実現した。
 「落日燃ゆ」は1973年3月31日に脱稿。この日、城山は手帳に次のようなメモを残す。〈集中してかかりきってきた作品である。資料山積身動きならず〉
 身を削って紡いだ作品は翌年、新潮社から出版された。毎日出版文化賞と吉川英治文学賞を受賞する。城山の代表作となった。

 「広田弘毅に対して後世の歴史研究者の多くは、城山さんの『落日燃ゆ』よりも厳しい評価をしています」
 昭和戦前期の政治外交史が専門の久留米大法学部准教授、森茂樹さん(41)は語る。「抵抗及ばず戦争を止められなかったというよりは、軍部の暴走を放置したという見方です」。そのうえでこうも指摘した。「ただ、広田個人に関する資料はほとんど残っていない。その曖昧(あいまい)な部分に、いろいろな思いが投影できるとも言えます」
 では、城山が広田に託した思いとは何だったのか。
 城山はかつて熱烈な皇国少年だったという。17歳の1945年5月、両親の反対を押し切って海軍特別幹部練習生として志願入隊した。だが、4カ月の軍隊生活で見たのは、将校たちの腐敗、新兵へのいじめ、組織の理不尽さだった。そこには彼が抱いていた「お国のため」という大義はなかった。骨髄に染みた嫌悪感が、大義と個人、組織と個人の関係を突き詰めていく作品へとつながっていく。
 友人で評論家の佐高信さん(62)は「城山さんは(終戦の)17歳で時間が止まっていた」と語った。
 城山は、戦争という暗闇の時代に抗(あらが)おうとした理想の指導者像を広田にみたのではないか。城山三郎というレンズを通して像を結んだ広田弘毅であったからこそ、「落日燃ゆ」は単なる史書や伝記を超えた文学作品として今も人々の心を打つ。

 「落日燃ゆ」の中で、城山は広田の生き方を「自ら計らわぬ」という言葉で象徴した。自らのために策を弄(ろう)しない、つまり「無私」の姿勢である。広田がオランダ大使に左遷されたときに詠んだ句「風車(かざぐるま) 風の吹くまで昼寝かな」も同様の心境だろう。逆境にも倦(う)まず、風が吹けば無私となって懸命に回る風車として。
 そして城山自身も、自ら計らわぬ生き方を通した。
 勲章を辞退し、出版社差し向けのハイヤーに乗ったり銀座のクラブに通ったりする“流行作家らしさ”を嫌った。移動はいつも電車。住基ネットや個人情報保護法には「自由の根幹にある『言論・表現の自由』を駄目にする」と強く反対し、憲法を擁護する「憲法行脚の会」の呼び掛け人にもなった。
 5月21日に都内のホテルであった「城山三郎さん お別れの会」には約750人が参列した。中曽根康弘、小泉純一郎、土井たか子、菅直人ら政治家も姿をみせた。党派や主義を超えて愛された作家だった。
(文=文化部・西山宏 写真=写真グループ・納富猛)

▼しろやま・さぶろう 

 927年8月、名古屋市中区生まれ。本名杉浦英一。杉本五郎中佐著「大義」などに心酔し、45年に海軍特別幹部練習生として志願入隊。52年に一橋大学卒業後、愛知学芸大(現・愛知教育大)で助手、専任講師として63年まで景気論など担当した。57年「輸出」で文學界新人賞、59年「総会屋錦城」で直木賞を受賞。著作に「大義の末」「官僚たちの夏」「男子の本懐」「粗にして野だが卑ではない─石田禮助の生涯」「指揮官たちの特攻─幸福は花びらのごとく」など多数。「伝記文学の新しい領域を拓いた功績」で96年に菊池寛賞を受賞した。2007年3月22日、79歳で死去。

●私の推薦文

潔い人間性を感じる 大崎 信昭さん(67)=福岡市・大名公民館館長(福岡市中央区)

 「落日燃ゆ」の主人公、広田弘毅は私の母校である福岡市立大名小学校の大先輩です。小学校の講堂には今も広田の写真が掲げてあり、以前から親しみを感じていました。
 小説からは、広田の清潔さ、無欲さ、責任感が強く感じられます。国際協調に尽力し、軍部の独走を止めようとしますが、止められなかった。その責任を一身に背負い、黙したまま死んでいく。自らも軍隊経験のある城山さんは、その潔い人間性にほれて小説にしたのではないでしょうか。小説の中で広田が「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」とつぶやいた言葉が印象に残っています。あんな激動の時代でなければ、例えば現代であったなら、広田は素晴らしい政治をしたのではないでしょうか。金にまつわる政治家のスキャンダルを聞くにつけ、そう思います。
 古里の福岡でも広田弘毅を知る人が少なくなったようです。「落日燃ゆ」を読むことで、より多くの人に彼と彼の生きた時代を知ってもらいたい。

●メモ

 

■「落日燃ゆ」は当初「風の中の背広の男」という仮題でした。「落日燃ゆ」を考えたのは、新潮社の担当編集者だった梅澤英樹さんで、城山三郎さんはあまり気に入ってなかったようです。しかし妻の容子さんが「あなたの今までの小説の中で1番いい題名」と言ったことで、納得したそうです。

■福岡市中央区天神1丁目、水鏡天満宮(小鳥居良彦宮司)の鳥居に掲げられている「天満宮」の文字は広田弘毅が少年時代に書いたと伝えられています。そのことは「落日燃ゆ」にも記されてますが、初版本では記述に一部誤りがありました。城山さんは後年、同神社を訪れ「作家として恥ずかしいことです」と謝罪したそうです。誠実な人柄を感じさせます。

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