戦争の傷跡がまだ残る1950年、野田宇太郎は「文学散歩」の旅に出かけた。作品と資料を読み込み、文学者ゆかりの地を訪ね、当時を知る人から話を聞き、作品を生んだ風土を肌で知る。旅は北海道から沖縄におよび、遠くヨーロッパに足を運んだこともある。病床に伏すまでの34年間、移動距離にして延べ10万キロを超える旅を続け、ライフワークとして出版を重ねた文学散歩シリーズは、26巻(文一出版)にまとめられた。中で、多くの研究者が白眉と認めるのが、野田が敬愛した作家、森鴎外、北原白秋、若山牧水などを取り上げた九州文学散歩(全3巻)である。
〈白秋の思い出に連なる筑後路から肥後路は、(中略)その中に、白秋の心もあると信ずる一種の幸福感〉。野田は白秋の母の里・熊本県南関へと向かうバスの中で、沸き立つ気持ちをこう綴(つづ)っている。
文学散歩は単なる作品解説でも、ましてや文学的観光ガイドでもない。「野田は生涯『詩人』を自らの肩書としています。文学散歩はあくまで詩人の感性と文学観で書かれたものです」と福岡女学院大学名誉教授の原武哲さん(75)=近代文学=は語る。「作者の息遣い、鼓動を感じたいという気持ちがあったはずです」
南関を訪ねた野田は、はるか遠くに見える龍瀬川の水音を、この川を詠んだ白秋の歌を通して聞く。小倉では文明開化の情緒を漂わせるレストランで鴎外のせき払いを夢想する。
詩人の感性が脈打つ部分である。それこそ野田が目指したものだった。文学散歩の前書きに記されている。〈私の念願したことは、先人の心を感じて(略)、私の文学を創ることである〉
タイトルに反して、野田の取材は散歩というような閑雅な歩き方ではなかった。
「ハンチングをかぶり、重いショルダーバッグを肩にかけて、とにかく歩き回ってました。カメラは文学碑の文字を記録するための接写用、遠景用など最低3台は携帯し、時には八ミリカメラも持って行った。何冊ものノートを詰め込んだため、上着の重さは6キロはあったといいます」
晩年の取材旅行に同行した二男、野田牧夫さん(65)=東京在住=が記憶する野田の取材スタイルである。
野田と親しく交わり、現在は野田宇太郎文学資料館(福岡県小郡市)の館長を務める中村良之さん(73)は「皆が止めるのを振り切って、冬の赤城山(群馬県)に取材に出掛けるときの様子は鬼気迫るものがあった」と振り返る。「文学散歩」にかけた野田の真摯(しんし)な情熱を伝えるエピソードには事欠かない。何がそこまで野田をこの仕事に駆り立てたのだろうか…。
東京都文京区に、森鴎外が晩年まで暮らした「観潮楼」があった。鴎外の住居というだけでなく、明治の文学者が集ったサロンでもあり、近代日本文学がはぐくまれた建物として知られていたが、戦火で焼失。野田は戦後すぐの46年にその再建に向けて動き始める。文芸誌「芸林カン歩」に再建を呼びけた一節は熱い。
〈これは一人の人間の夢であるかもしれない。然(しか)し、これは一個人のみの夢であろうか。いや、夢ではないと断定しよう。これは我々の悲願である〉〈芸術と学問の中にこそいかなる暴力にも屈せぬ自由の精神がある〉
4年後、「文学散歩」が始まる。中村館長は語る。「野田にとって、敬愛した森鴎外ゆかりの観潮楼再建は、終戦後の文芸再興の第一歩でした。明治の文学を見直し、それを再興の土台にしたいという思いが文学散歩シリーズには込められていたのではないでしょうか」
もう一つだけ、野田がこれほど文学散歩にこだわった理由を挙げるとしたら、おそらくは「風土が文学をはぐくむ」という信念だろう。
野田の詩にも、郷里の小郡市松崎にちなむ作品がある。〈ふるさとがわたくしに生きる勇気と力を与へた、(略)もしふるさとがなかったら、わたくしは自身で選んだ一すぢの道をひたすら一人で歩くこともできなかったらう〉と記したこともある。
文学散歩の旅をまねて、福岡市から電車に乗って松崎を訪ねた。車窓から見えるビルの数が減るとともに、青々とした水田が増えてきた。江戸時代、宿場町としてにぎわった松崎は、田に囲まれたのどかな街だった。地元の人の案内であぜ道を歩き、野田の墓に参った。隣には両親の墓があった。野田の詩「松崎の道」の一節を思い出した。
〈ちちありき/ははありき/われはおさなく/ちちははの/はかにこけむし/われもはやおい/かえりきぬ/おさなごころに/おもいでのみち/ののなはの/さきみだれる/松崎のみち〉
妥協を許さない一本気な性分であったために、編集者と対立することも多かったという野田が、つかの間羽を休めたのがこの静かで、思い出深い故郷だったのだろう。
文学散歩は一時代前の作家を取り上げることが多かったため、「単なる回顧主義」といった批判を受けたことがあった。また、街歩きの手引書のように過小評価された時期もあった。しかし、全国の街並みが均質化し、のっぺらぼうになった今こそ、野田が風土に注いだ熱いまなざしを手に入れたい。そんな思いを抱いた松崎訪問だった。
▼のだ・うたろう
1909年、福岡県立石村松崎(現・小郡市松崎)生まれ。旧制朝倉中学卒業後、久留米で詩作に入り、丸山豊らと親交を結ぶ。33年、処女詩集「北の部屋」を自費出版した。40年に東京に移住し、48年まで出版編集を手掛ける。その間、下村湖人らを発掘し、文芸雑誌「文芸」、「芸林カン歩」の編集責任者を務めた。その後、詩作と近代文学史研究の著述生活に入る。49年の著作「パンの会」で北原白秋らの紀行文学「五足の靴」を発掘し、日本の耽美(たんび)文学を評価。その後増補し「日本耽美派文学の誕生」として発表。75年度の芸術選奨文部大臣賞を受賞した。50年に始めた「文学散歩」シリーズでは近代文学研究の新分野を開いた。84年、74歳で死去。
●私の推薦文
日本文学の〈熱い〉読み方 藤井 淑禎さん(57)=立教大学教授・日本文学(神奈川県)
野田宇太郎の〈文学散歩〉シリーズは、皮相だけを見ると、単なる好事家的な町歩き・文学遺跡探訪、略式の文学史か作家紹介のように受け取られがちだ。しかしその内部には、作家や作家ゆかりの場所への共感をバネとして作品に肉薄し、さらには作品の舞台と時間とを追体験することで作品理解を深めていく独自な方法がある。無機的な当世風アプローチとは正反対の〈熱い〉読み方だ。野田を〈文学散歩〉へと向かわせたのは、灰燼(かいじん)と化した東京だった。過去や歴史を愛惜する思いは、一方では残存する欠片(かけら)に感激させ、他方では失われたものをイメージの中に復元させる。その意味で「九州文学散歩」中の白眉は、東京灰燼にも比すべき惨禍に見舞われた長崎編だろう。同じ場所を繰り返し訪れるのが野田流だ。長崎の場合は昭和二十七年と四十年であり、二つの時代を複眼的に見渡す野田の目は、単なる過去憧憬(どうけい)でもまた現代批判でもなく、そのあわいに、重層的な歴史像を浮かび上がらせていく。

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〈べつだん、とりたてていうほど奇矯な風景ではない〉。所々に丘があり、川が流れ、竹やぶがあり、並木が連なる〈ごくありきたりな田舎の眺めをもっているにすぎない〉
控えめな筆致で郷里、宮崎平野の叙述を始めた中村地平は〈しかし、そのくせ、その風景は、よその土地ではけっしてかんじることのできない、一種独特な調子、もち味といったものを持っている〉と続ける。
〈どことなしに澄んだ、南方的なかがやきのある、そのくせ古典性に共通なあるふかい悲しみをかくした、一種の調子-うっかりすると、ついみおとしてしまいそうな、味のこまかい感覚的な調子を持っているのである〉
風土記「日向」の一節である。
論理的な文体で知られる中村にしては、やや抑制を欠き、もどかしい記述になったのは、古里に対する愛着と執着の大きさゆえだろうか。それでも、この短文には中村の郷土観だけでなく、その創作、さらには自身の存在の核までが描かれているような気がする。
中村が生まれ育った宮崎市を訪ねた。市街地を貫いて、大淀川がゆったりと流れ、陽光にあふれた大きな空が広がっていた。「日向」が書かれた時代から半世紀以上が過ぎた今も、〈この日向の国へはいればだれでも気がつく、一種気の遠くなるような明るさは、その土地いたるところの山河にゆらめいて〉いる雰囲気は濃厚である。しかし、〈古典性に共通なあるふかい悲しみ〉まではなかなか実感できない。
「中村にとって、日向には二つの要素があるんです。明るく伸びやかな南方性。もう一つは国生みに至る神話性です」と岡林稔・宮崎大学教授(地域文化)は語る。一ツ葉海岸は南国的明るさに満ちているが、記紀に親しんだ中村は、黄泉(よみ)の国からこの世に戻ったイザナギノミコトが身を清めた〈荒れはてた海岸〉として記憶している。太古へとさかのぼる時間の堆積から漂い出す神や人の〈ふかい悲しみ〉。「明るさだけではなく、光の中にある微妙な影を見いだす感受性」(岡林教授)をもって、中村は日南海岸、飫肥(おび)城下、神楽の里・高千穂、民俗芸能の宝庫・椎葉へと巡る。
風土記「日向」は、宮崎の光や風、文化や人々の暮らしを、細かい襞(ひだ)まで丁寧にたどり、近代に記された第一級の風土記となった。
「日向」を出した1944年、中村は長い東京生活を切り上げて宮崎に疎開した。しばらくして宮崎県立図書館長に就任し、以後は死ぬまで宮崎で暮らすことになる。東大在学中に小説を発表し、井伏鱒二門下で太宰治と並ぶ秀英と評された新進作家、中村にとって、さまざまな事情が重なったとはいえ、挫折感を伴った帰郷だったであろう。「日向」は節目の年に世に問うた郷土の再評価であり、再発見だったといってよい。同時に今風の言葉でいえば「自分探し」でもあった。中村は「日向」の後書きにこう記しているのだから。
〈故郷はひっきょう自分自身である〉
そして、この時期、中村には自分自身を見つめ直す必要もあった。
〈僕自身が考えている文学の指標であるが、それは南方文学の樹立である〉と中村がエッセイで高らかに宣言したのは40年。南方性とは〈明るさであるとか、楽天性であるとか、行動的描写の卓越さとか、感情的な詩情とか、神話的空想力とか、熱情的飛躍性〉と記している。既にそれらの特性は、高校時代を過ごした台湾を舞台にした初期代表作「熱帯柳の種子」に打ち出されていた。
中村にとって南方は二つあった。台湾と郷里・宮崎である。前者の作品には、台湾の少数民族が日本の支配に抗った霧社事件に材を採った「霧の蕃社」、「長耳国漂流記」などがあり、後者の代表作には「土竜(もぐら)どんもぽっくり」がある。いずれにしろ、中村にとっての南方性とは、近代批判としての前近代的な素朴、野蛮、力強さであった。しかし、「日向」出版に前後して、中村は南方文学から徐々に遠ざかり、戦後は私小説に移行してしまう。
岡林教授が転向のきっかけと推測するのは41年末から翌年にかけて、陸軍報道班員として駐在したマレーでの見聞である。
「中村の南方文学が戦争翼賛ではなかったことは、評価すべきです。しかし、南方志向が、大日本帝国の南進と重なっていたことは間違いない。マレーで侵略戦争の実相に触れたことが大きかったのではないでしょうか」
中村は57年、「日向」の改訂版を別の出版社から出した。加筆された部分は主に観光的な情報が多いとされている。県立図書館長となり、宮崎の文化行政に携わる立場となった中村が、観光PRを意識したという見方がある。妥当な説だろうが、自ら闇に葬った南方性を、風土記というスタイルの中では存分に表現できたことも、中村がこの本を再販するほど愛着を抱いた理由だったのではないだろうか。
晩年の中村と出会い、文芸同人誌「竜舌蘭」で今も作品を発表している宮崎県都城市の久保輝巳さん(78)は、思い出を語る。
「気むずかしい面もありましたが、実にのんびりと、悠然とした人でした。日向からしか生まれない人柄であり、文学です。中村さんは日向そのものです」
故郷はひっきょう自分自身である。
(文=文化部・岩田直仁 写真=写真グループ・岡部拓也)
▼なかむら・ちへい
小説家。1908年、宮崎市生まれ。台湾総督府立台北高等学校を経て、東大美学史科を卒業後、新聞社に入社。2年間勤務の後、退職して作家生活に入る。「熱帯柳の種子」で本格デビューした後、郷里・宮崎や台湾の風土を作品の底流に置いた「南方文学」を提唱。作家、井伏鱒二に師事し「北の太宰治、南の中村地平」と呼ばれるほど、高い評価を受けた。44年に宮崎に疎開し、47年に宮崎県立図書館長に就任。晩年は父の跡を継いで宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長を務めた。こうした業務の傍ら、63年に他界するまで宮崎で小説を書き続けた。現在流通している作品には「日向」(鉱脈社)と「中村地平小説集」(同)がある。
●私の推薦文
宮崎の姿を客観的に描写 巻 庄次郎(54)=宮崎県立図書館員(宮崎市)
拝啓 中村地平様 初めてお便りいたします。
図書館長としてのあなたは、戦後の復興期に、参考相談に始まる先進的な多くの図書館サービスを取り入れ、それは五十余年を過ぎた今でも脈々と後輩たちに受け継がれています。
また、作家としてのあなたの真髄(しんずい)は、この風土記「日向」に凝縮されています。
あなたは、この作品で「ヨダキイ」「ノサン」に象徴される日向人の気質を風土や神話、歴史を織り交ぜながら客観的かつ温かいまなざしで描いておられます。天孫降臨の地であることを誇りにし、進取性には乏しくとも、正直にのんびりと生きる日向人に対する大きな愛情が感じられます。この本に出会ってから、私は宮崎を知りたいという方々に、まず、あなたの著作を紹介するようになりました。
あなたの愛した宮崎が、全国から脚光を浴びる今、あなたの著作にも多くの光が当たることを願ってやみません。 敬具
●メモ
■「日向」は宮崎県の多彩な風土、文化、民俗を描いているが、まずは地平が生まれ育った宮崎市大淀川周辺を訪ねたい。同市一ツ葉市民の森には中村地平文学碑がある。碑文は「雲は どこにでも 似つかわしい姿で あらわれる」。もう一カ所訪ねるなら、民俗の里、椎葉村がいいだろう。地平も「日向」で一節を割いて詳述している。神楽や民俗文化を知るには、南九州の土俗文化をアジア史を視野に収めながら紹介する「椎葉民俗芸能博物館」が最適。問い合わせ=0982(68)7033

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「千年書房・九州の100冊」は、読者のご意見・感想に励まされながら、70回配本を終えました。今回の別冊のテーマは、煩悩が盛んで不安定な生活を炎上する家宅にたとえた「火宅」です。昔は家庭を顧みず、愛人を作ったり、借金を抱えたりする作家が多くいたものです。創作の原動力となった火宅の世界をのぞいてみましょう。
◇
男と女、どっちが悪いか…。
どっちもずるくて悪いのだが、男の美学としては、「そりゃあ、男が悪い」と、見栄でも云(い)っておきたい。作家の書く物は、煎(せん)じ詰めれば、すべて男と女の話である。「♪シャーバダ、シャバダバダ、シャバダバダ」の仏映画のスキャットの如く、悉(ことごと)く娑婆(シャバ)の話である。大衆という生き物は「男と女」の話が大好きなのである。だから、テレビのワイド番組の視聴率は高く、女性週刊誌は売れるのである。
本日は、男女の話をプロとして書かれる、作家なる先生方の、その生身のところをちょいとだけ覗(のぞ)いて、お伝えしたい。小説なんていうものは、平凡に恙(つつが)無く生きている人間をいくら描いても、誰も読んではくれない。背徳、嫉妬(しっと)、アブノーマル、道ならぬ二人を、三角関係を、最期は刃傷三昧こそが、魅力なのである。市井のノーマルな我々が生きること能わない、退廃の人生こそが読み物として光芒を放つ。同時に我々は、文中の人物に「吾」を仮託し、溜飲(りゅういん)を下げるのである。
先ずは、田山花袋の「蒲団」。田山は岡山から内弟子として上京してきた、岡田美千代に惚(ほ)れる。妻持つ身でありながら、弟子に血道をあげる。美千代には他に惚れた男があり、やがて岡山へと帰っていく。彼女の寝ていた蒲団に顔を押しあて、その残り香を嗅(か)ぎながら花袋は泣く。情けないが、実話である。熊本出身徳冨蘆花は、妻愛子に今までの女性関係をすべて告白する。妻が激しい精神障害を起こすと、懺悔(ざんげ)しつつも殴打する。精神的SM、困った九州男児である。大分の佐伯に、教師として赴任したことのある国木田独歩。有島武郎の小説「或(あ)る女」のモデルとなった、佐々城信子に惚れ、結婚にこぎつけるが、それも短刀で脅して脅しての果てである。結局、1年も持たず離婚。独歩の異常なまでの性欲が原因と云われている。若き日からストイックな生活を送ってきた反動かもしれない。人間、極端は極端に走る。何事もほどほどが良い。
有島武郎といえば、「婦人公論」美人記者の波多野秋子との恋愛。双方に妻があり、夫がある。今なら、日常茶飯事のよしなし事であるが、時代は大正時代。有島は秋子の亭主に脅迫され、万事休して、軽井沢の別荘で二人仲良く縊死(いし)をする。むべなるかな。島崎藤村は、困ったことに姪っ子に惚れ、関係を結び、孕(はら)ませる。そのことへの懺悔として、「新生」を著した。君が緑の黒髪も、またいつか見んこの別れ、かぁ。
そうそう、忘れちゃあいけない大事件があった。文豪谷崎潤一郎の奥方千代夫人に惚れて、弟子佐藤春夫は彼女を谷崎に貰(もら)い受けに行く。逆に谷崎は千代夫人の妹せい子に惚れており、「痴人の愛」のナオミとして著している。転んでも、ただでは起きない。柳川出身の北原白秋は隣家の奥方松下俊子と不義密通をし、姦通罪で逮捕されている。これより詩に一層の深みを増す。
女性で言えば、まず与謝野晶子。与謝野鉄幹の妻を追い出し、愛人山川登美子を押しのけ、鉄幹との間に13人の子を為す。親は、人の夫を盗れと教えしや、である。同じく、現福岡市今宿出身の伊藤野枝は、結婚するや否や東京に逐電(ちくでん)し、上野高女時代の英語教師辻潤に奔(はし)る。辻の妻を追い出し、二人の男児をもうけるも、今度は子を置いて、大杉栄に奔る。葉山日蔭茶屋での、神近市子との刃物沙汰はあまりにも有名である。織田作之助の内縁の妻輪島昭子は、織田と同棲中に、織田が藤原義江歌劇団のプリマドンナ笹田和子と結婚するというので、挙式の朝、自ら織田の紋付袴(はかま)の紐(ひも)を結んで送り出している。案の定、二人は直(す)ぐに離婚し、織田は昭子の元へ帰ってくる。母親の如き、女である。宇野千代のことは、もう皆さんしっかりご存知でしょうから、本日は割愛。
とにかく、男と女、どっちが悪いか、凡庸な私にはわからない。素人はただ只管(ひたすら)、妻に寄りかかり、妻を恃(たの)みと、「お里・沢市」の如くに生きていくのが賢明。どうぞ皆様も、作家の先生方の「火宅」を真似(まね)されませぬよう、老婆心ながら書き加えまして、筆を置かせて頂きます。シャバダバダ、シャバダバダ。
●父の小説には「生活のにおい」があった
檀一雄の長男、太郎さん
火宅の作家、と聞いて第一に浮かんでくる作家といえば、やはり「火宅の人」というそのものずばりの作品がある檀一雄(1912-76)であろう。この「火宅の人」に「桂一郎」として登場する長男で、エッセイストの太郎さん(63)は、63年4月号の「婦人公論」に「『火宅』の父 檀一雄を見つめて」と題して寄稿している。こんな一文で始まる。
〈父の一連の小説に、よく僕の家庭のことがそっくりそのまま描かれているものがある。たいてい、父の恋人の話、僕の愚行についてなどである。その小説を読んだ僕の友人とか父の友人とか父の知人などに、よくいろいろな質問や忠告を受けるが、僕は生まれた時から、父の小説のモデルにされつづけているのでなんとも思わない〉
小説は小説、と割り切ったクールな息子の論評だった。太郎さんによると、この文章は檀の師匠になる佐藤春夫にも絶賛されたという。「先生に賞金5万円とパーカーの万年筆をもらったんですよ」
この文章を発表してから40年、檀が亡くなってからでも30年以上が経過したが、太郎さんの「火宅の人」への印象は現在もほとんど変わっていなかった。
「一般的にはね、実体験を基に書いたといわれるんだけど、やっぱり『火宅の人』はフィクションなんだよね。桂一郎と檀太郎は違うんですよ。そこには父の人物を強烈にみせるためのテクニックがあるし、話を面白くするために作り上げた部分もある」
そうはいっても、現実と重ねて読んでしまうのが一般の読者だ。特に当時、同時代に読んでいた人たちはスキャンダラスな視線で読みがちだっただろう。
「僕たちには現実に父との暮らしがあって、小説以外に父をみる土台、要素がいっぱいあった。小説はその一部を取り出したもの。固定観念を捨てて読むともっと深いものがある」
「火宅の人」は完成に20年を費やした。最後は死の床での口述筆記だった。その創作への執念はすさまじい。凡人が「火宅」の生活を表面的にまねたからといって、同じような小説を書けるものではないのだ。野球に一球入魂、という言葉があるが、太郎さんは父親の小説には同様に「魂が宿っていた」と強調する。「魂をもう少し具体的にいうと愛情かな。父はあらゆる人に愛情を注いでいた。それが作品にも反映されている」
世に男と女がいる限り、同じような葛藤(かっとう)を描こうとする小説は今後も出てくるだろう、と太郎さんはみる。「でも、最近の小説はただの美しいラブストーリーになりがちだよね。父の小説には後ろに生活のにおいが描かれていた。そこが今も残って読み継がれる一番の要因じゃない?」
(東京報道部・内門博)
●自分の心に正直な生き方 前原聡子さん(41)=福岡市早良区・主婦
「火宅」と言えばやっぱり檀一雄ですが、私が思春期に夢中になったのは同じ無頼派でも最初が太宰治、続いて坂口安吾でした。太宰は愛人をつくったり、心中未遂をしたり、とにかく一生が「火宅」という感じです。安吾は愛人というわけではないけど、作家の矢田津世子との真剣な恋愛が印象的でした。
彼らに共通しているのは、その時、その時を真剣に生き、誠実に人を愛し、何よりも自分の心に正直に生きたということだと思います。その真っすぐな心が、時代を超えて、多くの人々をひきつけるのでしょう。もちろん、無頼な生き方は一般の人間にはなかなかできないので、憧れもあります。女性として無頼に惹かれるのも事実。もっとも、本当に自分の家が「火宅」ではたまりませんが。

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〈なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う〉
内田百閒の随筆集「第一阿房(あほう)列車」は1950(昭和25)年、61歳の百閒が大阪への旅を思い立った場面から始まる。翌51年6月30日午後9時、博多行きの急行「筑紫」が東京駅を発車した。百閒が陣取るのは最高級の一等個室寝台。集中の一編、「鹿児島阿房列車」の始まりである。
「阿房」に込められた深い意味は後述するとして、まずはその「阿呆」ぶりを紹介しよう。
生涯借金まみれだったにもかかわらず、百閒は常に一等車を選んだ。〈50になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた〉。当時の列車には一、二、三等車があり、運賃はざっと二等は三等の倍、一等は二等の倍。当然、旅費には苦労している。〈なんにも用事がない〉最初の大阪行きも借金で実現した。友人に金を借りる際の弁が奮っている。収入が少なく生活費がかさむというのであれば金を返せる見込みはない、それに比べ自分の借金は〈あんまり用のない金なので、貸す方も気がらくだろう〉。
時刻表で旅程を考えるのは好きなのに、切符を事前に購入するのは大嫌い。〈先に切符を買えば、その切符の日附が旅程をきめて、私を束縛するから〉だ。駅に出向くと売り切れである。すると〈何が何でも是が非でも、満員でも売り切れでも、乗っている人を降ろしても構わないから、是非今日、そう思った時間に立ちたい〉と言い出す。裏から手を回し、何とか切符を手に入れると〈うれしくて堪(たま)らないから、そこの食堂で一杯飲みたい〉とウイスキーを傾ける。赤ら顔をしている隣席の客に〈真っ昼間からお行儀が悪い〉とケチをつけ、自らについては〈旅の恥は掻(か)き捨てだと云(い)う事にした〉。ご都合主義の固まりである。
旅のお供は、常に「ヒマラヤ山系」君こと国鉄職員の平山三郎さん(故人)と酒だった。「筑紫」にもお澗(かん)をした酒が入った魔法瓶二本とつくだ煮、おにぎりを持ち込んでいる。発車間もなく、二人の夕げが始まる。〈何の話しもないけれど、何となく面白くない事もない〉時間を過ごし、差しつ差されつで酒が進む。酒がなくなると、ボーイに頼んで途中の駅で買い足しては飲む。〈今どの辺りを走っているのか解らない。何しろ大分夜更けである〉
評論家の川村二郎さんは「阿房列車」の面白さについて〈一般性を全く持たない点に、笑いを触発する第一の契機がある〉(「内田百閒論」)という。とっぴでわがままな行動と、へ理屈めいた口上が、世間の常識と懸け離れているからこそ、多くの人を魅了するという分析だ。
ところで、「阿房列車」の旅で百閒は何度も熊本県八代市を訪ねている。目的は国指定の名勝史跡「松浜軒(しょうひんけん)」。1688(元禄元)年、細川藩の筆頭家老だった松井家の茶室として建てられ、1951-58年には旅館として営業していた。管理にあたる栗田欣次さん(76)によると「紹介状がないと泊まれなかった」そうだ。百閒は〈巡幸の時行在所になった家だそうで全く恐れ入る。宮様方も度度お泊りになると聞かされた〉と気に入り、計9回も宿泊したという。芸術院会員に推薦された百閒が、「イヤダカラ、イヤダ」という名(迷)セリフで辞退したエピソードは有名だが、一方で名誉や権威を無邪気に喜ぶ側面もあった。
百閒が一筋縄ではいかないとこだ。
新幹線の開通や高速道路の整備に伴い、夜行列車は次々と廃止され、現在、東京-九州を結ぶ夜行はわずか一本になった。空路なら2時間弱で行くことができる東京-熊本を約18時間。現代版「阿房列車」の旅を味わってみようと、午後6時3分、東京駅発の寝台特急「富士・はやぶさ」号に乗り込んだ。
予約したB寝台は長さ2メートル、奥行き70センチ程度で、毛布とシーツ、枕、浴衣が用意されている。上着を脱ぎ、ネクタイをほどいて夕暮れの景色を眺めると、日ごろ味わえないゆったりとした気分に包まれた。
並走する山手線、京浜東北線の電車はサラリーマンでぎっしり。対して、こちらの乗客はこの日約50人。定員の2割前後の乗車率で、まったく乗客がいない車両もあった。同じ鉄道なのに、全く別の時間が流れている。灰皿には国鉄を意味する「JNR」の刻印。「新潟鉄工所 昭和51年」という車両のプレート。どんどん時間感覚がズレていく。
「飛行機が苦手なんです」という同じボックスに乗り合わせた熊本市内の団体職員(58)が、缶ビールを開けた。誘われて、私もビールを飲みながら、規則的な揺れに身を任せてみる。ぼんやり車窓をながめながら考える。
人はどうして「鉄道」に引かれるのだろう。
よく自転車を走らせ、列車を見に行った小学生時代を思い出す。特急、急行、貨物、そして新旧の車両。多彩な顔ぶれには、それぞれ個性があり、見飽きなかった。何より「自分の知らない、どこかへ連れて行ってくれる」という思いに誘ってくれた。そして、時間がかかる列車に乗ることは、移動ではなく、非日常的な旅の一部となる。百閒もまた、列車旅の非日常性を偏愛したのではないだろうか。
「阿房列車」というタイトルは、中国・秦の始皇帝が計画した巨大宮廷「阿房宮(あぼうきゅう)」から取ったとされる。百閒はそこに、実用性を超えた壮大で贅沢な遊びを見たのだろう。阿房宮計画は頓挫(とんざ)したが、百閒の旅は終わらない。東京に戻った時から、次の旅が始まっているのだ。
〈毎晩、お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云うより読み耽(ふけ)るのである〉
(文=文化部・塩津健司 写真=写真グループ・納富 猛)
▼うちだ・ひゃっけん
小説家・随筆家。1889年5月29日、岡山市の造り酒屋の一人息子として生まれる。本名栄造、別号百鬼園。旧制第六高校を経て東京大独文科卒。大学時代から夏目漱石門下となり、芥川竜之介、森田草平らと親交を結んだ。陸軍士官学校教授、法政大教授などとしてドイツ語を教えた傍ら、1922年に初の短編集「冥途」を刊行、以後「旅順入城式」など独特の恐怖感を表現した小説に加え、風刺やユーモアに満ちた随筆「百鬼園随筆」「百鬼園俳句帖」「ノラや」などを出版した。鉄道など乗り物好きとして知られるほか、琴にも堪能で、作曲家・箏曲家の宮城道雄との交流が知られる。71年4月20日、老衰のため死去。
●私の推薦文
「漫画にしたい」思い実現 江上 英樹さん(48)=漫画雑誌「IKKI」編集長(東京都千代田区)
「阿房列車」は、しゃれと気骨と自由という、内田百閒の魅力が詰まった作品です。文学の世界に限らず、筋の一本通った思考を持つ人が減っている今こそ、その魅力を広く知ってもらいたいと漫画化を思い立ち、自分が編集長を務める雑誌で六月から連載を始めました。
作画は「わさび」などの作品で知られる一條裕子さんです。古風な日本家庭を描くことにおいて、右に出る人はいないと思いますが、実現には曲折もありました。原作はモノローグで展開されているので、章立てを設けたり活字に大小をつけて、読者を飽きさせない表現を工夫しました。また当時の風景を正しく再現しようと資料集めにも腐心、「省線電車」の室内灯の位置なども書き直してもらったほどです。
実は私も鉄道ファン。日本国中にレールが張り巡らされ、駅に人があふれるという、列車の旅が元気だった時代を紹介することで、「鉄道頑張れ」という思いを伝えたいです。
●メモ
■「阿房列車」の旅は1950年から55年まで続きました。同行した平山三郎さんの推計では移動距離は3万キロに達しています。九州を舞台にした作品も「鹿児島阿房列車」「春光山陽特別阿房列車」「雷九州阿房列車」「長崎阿房列車」「不知火阿房列車」と数多く、関門トンネル、肥薩線のスイッチバックやループ線に感激した様子などが記されています。
■熊本近代文学館は、百閒が松浜軒を訪ねた模様を描いた「八代行」の生原稿を収蔵しています。故郷の岡山県も百ケン生誕100年を記念し「内田百ケン文学賞」を設けるなど、その魅力を伝える作業も続いています。
■百閒と門下生の交流を描いた映画「まあだだよ」(93年、東宝)は、映画監督、黒澤明さんの遺作になりました。松村達雄さんが百閒を演じています。

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短刀の刃を自らに向け、最期の覚悟。一気に腹に突き立てる。力を込め、横に切り裂く。見届けた介錯(かいしゃく)人の刀が一閃(いっせん)、首を切り落とす。
切腹-。武士道を貫く自決方法として、中世から近世にかけ定着した。動機はさまざま。主君に殉ずるため、責めを一身に受けるため、捕虜の恥辱を避けるため…。それが関ケ原の戦以後、主家の廃絶が進むと、路頭に迷った浪人の間では窮迫を切り抜ける手段としても利用された。
「切腹のためお庭を拝借したい」
衣食に窮した浪人が、神妙な態度で大名の家に訪れる。最期ぐらいは晴れの死に場所で、と。思いとどまらせたい諸侯が金品を与え、帰らせる。体のいいゆすりだった。
「異聞浪人記」の千々岩求女(ちぢいわもとめ)もその1人。彼には深い事情があった。最愛の妻と子が病魔に冒されていた。医者に見せるには金がいる。刀を売っても足りず、切羽詰まって井伊家の屋敷に狂言切腹を申し出た。だが、残酷な老職に謀られ、本当に切腹の場が用意された。周囲からの冷笑の目。事情を説明する事もかなわず、無念のままに命を絶った。
求女は、物語の脇役にすぎない。しかし、滝口はこのくだり、思い入れ強くこう書き記した。
〈人それぞれの心は、とうていはたからはうかがい知れぬものである。-奈落の底にうごめいている浪人者の悲哀は、衣食に憂いのない人々には、所詮(しょせん)わかってもらえることではなかった。血迷った求女の未練を嘲(あざけ)り笑ったその人々が、同じ立場に立たされた時、どれだけのことができるというのか-。〉
封建制下に生きる下級武士や庶民の苦悩、葛藤(かっとう)を描き続けた滝口。時代小説を通して世の不条理を問い、作品群には現代にも通じる「体制と個」という根幹的なテーマが貫かれていた。
滝口の青年時代にさかのぼると、そうした思考の背景が見えてくる。
終戦前の1944(昭和19)年、滝口は当時20歳。配属された海軍の防府海軍通信学校(山口県)は、暴力が人を支配していた。日々続けられる厳しい訓練。懲罰と称して上官は棒で訓練生の尻を打ち、同級生同士で殴り合いをさせた。
滝口と同級生だった都筑均(つづきひとし)さん(83)=福岡県太宰府市=は「あそこではそれがルール。誰も歯向かえんし、従うしかなかったよ」と証言する。
滝口は復員後、佐賀県多久市の炭鉱に就職した。手には何の技術もなかったが、坑外(こうがい)修繕の仕事にまじめに取り組んだ。ところがその3年後、会社から突然の解雇通告を受ける。親族に共産党員がいたことで、無関係だった滝口にも疑いがかけられ、レッドパージ(共産党員追放)の対象となったのだ。懸命に働いてきた会社からの仕打ち。保身のために弱い立場の人間を平気で切り捨てる組織(=権力)への反骨心は、後年になっても忘れなかった。
妻のスエノさん(78)=多久市北多久町=は代弁する。
「そもそも『日本は絶対に正しい』と教育してきた国が、戦前と戦後で舌の根も乾かぬうちに態度をコロリと変えた。曲がった事が嫌いだった主人は、体制や組織に対する不信がぬぐえなかったと思います」
後に、有名作家が所属する「日本ペン・クラブ」から入会を何度も誘われながら断り続けた事実からも、無頼の姿勢がうかがえる。
恨みの文学。そう評された滝口文学。1957年の「高柳父子」から22年間で、直木賞候補六作品を送り出した。
物語の創作時には、資料を探しに地元の図書館によく足を運んだ。武士の理想像を書いた記録書「葉隠」の一文「武士道と云(い)ふは死ぬ事と見つけたり」の精神を貴ぶ佐賀藩に材を求める一方で、空想ものも多かった。
家では普段から和服姿。一度創作に没頭すると家族の者は近づけず、家の廊下を往復しながら思案を重ねた。孤高の文士にふさわしい姿だった。
円熟期を迎えつつあった1983年秋。心臓病に倒れた。脳梗塞(こうそく)も発症し、筆を持てなくなった。武士にとっての刀を永久に奪われ、「西国三人衆」と呼ばれライバルだった古川薫、白石一郎の両氏が次々直木賞を受賞するのを眺めるしかなかった。
それでも、見舞いに訪れる家族や友人たちへの気遣いは忘れなかった。病魔の疲れを隠し、最期まで「つらさを表に見せなかった」(スエノさん)という。思いやりだった。
滝口の死後、親友の古川氏はこんな追悼文を寄せた。
「葉隠れの武士道を体現する人物が、君の作品にあらわれる。そのサムライたちは、滝口康彦そのものだった」
(文=多久小城支局・座親伸吾 写真=写真グループ・永田 浩)
▼たきぐち・やすひこ
本名・原口康彦。1924年、長崎県佐世保市出身。8歳で父を亡くし、9歳のとき母が再婚して佐賀県多久市に転居する。郵便集配員や運送会社員を務め、44年に海軍の相浦海兵団に入団、防府海軍通信学校に転属。戦後は炭鉱員として働く傍ら、小説やラジオドラマを書いては懸賞に応募した。57年発表の「高柳父子」で初の直木賞候補。以後も「かげろう記」「仲秋15日」など計6回同賞候補に選ばれた。59歳の時に心臓病で入院。2004年、急性循環不全のため80歳で死去。
●私の推薦文
2つの「切腹」…その対比 佐藤 和歌子さん(27)=NPO法人理事長(佐賀県神埼市)
制度や規制の制定・撤廃により、社会秩序を維持しようとする指導者の考えは正しいのかも知れないけれど、その行き過ぎは独裁を色濃くし、物事の本質を見失い矛盾を生じることになる…。この本は、さまざまな問題を抱えた「今」を生きる私たちへの強いメッセージが込められ、印象深い一冊でした。
改易や減封による主家の廃絶で浪人が途絶えることのなかった江戸初期に流行(はや)った狂言切腹。この犠牲になった娘婿の敵討ちに残り僅(わず)かの人生を費やした主人公。一方、その主人公の敵討ちにより髷(まげ)を切られ引きこもった家臣たち。
たとえ浪人となっても武士である尊厳を忘れず1つの定めた道に忠実だった故の「切腹」と、武士の身分は保ちながらも、その尊厳を表面的にしか示すもののなかった末の「切腹」。この2つの対比には、人間としての本当に大切な生き方を教えられたように思います。
●メモ
■第68回直木賞候補作「仲秋15日」では、一度は選考会の評決で受賞が決まりかけるも、異論が出て無記名投票となり、「該当作無し」の非運な決着となりました。滝口さんの同賞への並々ならぬ意欲は、二女を「直子」と名付けたことからもうかがえます。
■「異聞浪人記」を原作とした小林正樹監督の映画「切腹」(松竹)は1962年制作。出演者には仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎などそうそうたるメンバーが並び、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。
■滝口さんは酒をほとんど飲まず、たばこは全く吸いませんでした。友人らからの書簡はきれいに整頓するきちょうめんな性格で、自著本の後書きには「出無精、ひどく人見知り」としています。

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