西日本新聞

千年書房・九州の100冊

野田宇太郎「九州文学散歩」

先人の心感じた10万キロの旅

 戦争の傷跡がまだ残る1950年、野田宇太郎は「文学散歩」の旅に出かけた。作品と資料を読み込み、文学者ゆかりの地を訪ね、当時を知る人から話を聞き、作品を生んだ風土を肌で知る。旅は北海道から沖縄におよび、遠くヨーロッパに足を運んだこともある。病床に伏すまでの34年間、移動距離にして延べ10万キロを超える旅を続け、ライフワークとして出版を重ねた文学散歩シリーズは、26巻(文一出版)にまとめられた。中で、多くの研究者が白眉と認めるのが、野田が敬愛した作家、森鴎外、北原白秋、若山牧水などを取り上げた九州文学散歩(全3巻)である。

 〈白秋の思い出に連なる筑後路から肥後路は、(中略)その中に、白秋の心もあると信ずる一種の幸福感〉。野田は白秋の母の里・熊本県南関へと向かうバスの中で、沸き立つ気持ちをこう綴(つづ)っている。
 文学散歩は単なる作品解説でも、ましてや文学的観光ガイドでもない。「野田は生涯『詩人』を自らの肩書としています。文学散歩はあくまで詩人の感性と文学観で書かれたものです」と福岡女学院大学名誉教授の原武哲さん(75)=近代文学=は語る。「作者の息遣い、鼓動を感じたいという気持ちがあったはずです」
 南関を訪ねた野田は、はるか遠くに見える龍瀬川の水音を、この川を詠んだ白秋の歌を通して聞く。小倉では文明開化の情緒を漂わせるレストランで鴎外のせき払いを夢想する。
 詩人の感性が脈打つ部分である。それこそ野田が目指したものだった。文学散歩の前書きに記されている。〈私の念願したことは、先人の心を感じて(略)、私の文学を創ることである〉

 タイトルに反して、野田の取材は散歩というような閑雅な歩き方ではなかった。
 「ハンチングをかぶり、重いショルダーバッグを肩にかけて、とにかく歩き回ってました。カメラは文学碑の文字を記録するための接写用、遠景用など最低3台は携帯し、時には八ミリカメラも持って行った。何冊ものノートを詰め込んだため、上着の重さは6キロはあったといいます」
 晩年の取材旅行に同行した二男、野田牧夫さん(65)=東京在住=が記憶する野田の取材スタイルである。
 野田と親しく交わり、現在は野田宇太郎文学資料館(福岡県小郡市)の館長を務める中村良之さん(73)は「皆が止めるのを振り切って、冬の赤城山(群馬県)に取材に出掛けるときの様子は鬼気迫るものがあった」と振り返る。「文学散歩」にかけた野田の真摯(しんし)な情熱を伝えるエピソードには事欠かない。何がそこまで野田をこの仕事に駆り立てたのだろうか…。
 東京都文京区に、森鴎外が晩年まで暮らした「観潮楼」があった。鴎外の住居というだけでなく、明治の文学者が集ったサロンでもあり、近代日本文学がはぐくまれた建物として知られていたが、戦火で焼失。野田は戦後すぐの46年にその再建に向けて動き始める。文芸誌「芸林カン歩」に再建を呼びけた一節は熱い。
 〈これは一人の人間の夢であるかもしれない。然(しか)し、これは一個人のみの夢であろうか。いや、夢ではないと断定しよう。これは我々の悲願である〉〈芸術と学問の中にこそいかなる暴力にも屈せぬ自由の精神がある〉
 4年後、「文学散歩」が始まる。中村館長は語る。「野田にとって、敬愛した森鴎外ゆかりの観潮楼再建は、終戦後の文芸再興の第一歩でした。明治の文学を見直し、それを再興の土台にしたいという思いが文学散歩シリーズには込められていたのではないでしょうか」

 もう一つだけ、野田がこれほど文学散歩にこだわった理由を挙げるとしたら、おそらくは「風土が文学をはぐくむ」という信念だろう。
 野田の詩にも、郷里の小郡市松崎にちなむ作品がある。〈ふるさとがわたくしに生きる勇気と力を与へた、(略)もしふるさとがなかったら、わたくしは自身で選んだ一すぢの道をひたすら一人で歩くこともできなかったらう〉と記したこともある。
 文学散歩の旅をまねて、福岡市から電車に乗って松崎を訪ねた。車窓から見えるビルの数が減るとともに、青々とした水田が増えてきた。江戸時代、宿場町としてにぎわった松崎は、田に囲まれたのどかな街だった。地元の人の案内であぜ道を歩き、野田の墓に参った。隣には両親の墓があった。野田の詩「松崎の道」の一節を思い出した。
 〈ちちありき/ははありき/われはおさなく/ちちははの/はかにこけむし/われもはやおい/かえりきぬ/おさなごころに/おもいでのみち/ののなはの/さきみだれる/松崎のみち〉
 妥協を許さない一本気な性分であったために、編集者と対立することも多かったという野田が、つかの間羽を休めたのがこの静かで、思い出深い故郷だったのだろう。
 文学散歩は一時代前の作家を取り上げることが多かったため、「単なる回顧主義」といった批判を受けたことがあった。また、街歩きの手引書のように過小評価された時期もあった。しかし、全国の街並みが均質化し、のっぺらぼうになった今こそ、野田が風土に注いだ熱いまなざしを手に入れたい。そんな思いを抱いた松崎訪問だった。

▼のだ・うたろう 

 1909年、福岡県立石村松崎(現・小郡市松崎)生まれ。旧制朝倉中学卒業後、久留米で詩作に入り、丸山豊らと親交を結ぶ。33年、処女詩集「北の部屋」を自費出版した。40年に東京に移住し、48年まで出版編集を手掛ける。その間、下村湖人らを発掘し、文芸雑誌「文芸」、「芸林カン歩」の編集責任者を務めた。その後、詩作と近代文学史研究の著述生活に入る。49年の著作「パンの会」で北原白秋らの紀行文学「五足の靴」を発掘し、日本の耽美(たんび)文学を評価。その後増補し「日本耽美派文学の誕生」として発表。75年度の芸術選奨文部大臣賞を受賞した。50年に始めた「文学散歩」シリーズでは近代文学研究の新分野を開いた。84年、74歳で死去。

●私の推薦文

日本文学の〈熱い〉読み方 藤井 淑禎さん(57)=立教大学教授・日本文学(神奈川県) 

 野田宇太郎の〈文学散歩〉シリーズは、皮相だけを見ると、単なる好事家的な町歩き・文学遺跡探訪、略式の文学史か作家紹介のように受け取られがちだ。しかしその内部には、作家や作家ゆかりの場所への共感をバネとして作品に肉薄し、さらには作品の舞台と時間とを追体験することで作品理解を深めていく独自な方法がある。無機的な当世風アプローチとは正反対の〈熱い〉読み方だ。野田を〈文学散歩〉へと向かわせたのは、灰燼(かいじん)と化した東京だった。過去や歴史を愛惜する思いは、一方では残存する欠片(かけら)に感激させ、他方では失われたものをイメージの中に復元させる。その意味で「九州文学散歩」中の白眉は、東京灰燼にも比すべき惨禍に見舞われた長崎編だろう。同じ場所を繰り返し訪れるのが野田流だ。長崎の場合は昭和二十七年と四十年であり、二つの時代を複眼的に見渡す野田の目は、単なる過去憧憬(どうけい)でもまた現代批判でもなく、そのあわいに、重層的な歴史像を浮かび上がらせていく。

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