胸の痛みに立ち返る夏
山田かんの妹シュウ子(ゆうこ)が佐世保の日野峠で自死したのは原爆から8年の冬の日だった。病室が空いていないからと毛布も掛けられず廊下に放置された21歳の妹への「つきせぬ痛恨」が、詩と文章を綴(つづ)る兄の基点となった。
1945年8月9日。徹夜の学徒動員から帰宅した14歳の山田は寝転んだまま新聞を手にとる。「そして、11時2分、時針は示し、全(すべ)てが停(と)まり、全てが始まった」。爆心から2.7キロの長崎市下西山47番地。
金柑(きんかん)色の閃光(せんこう)。七輪をあおいでいたシュウ子の「ニゲンバヨ」の声で我に返った山田は、妹を置き去りにして脱兎(だっと)のごとく壕(ごう)へ走る。そして兄の靴を手に追ってきたシュウ子にいう。「ダイドコロノヒケシテキタカ?」。「アッ、ワスレテキタ」。「バカッ ハヨイッテコイ バカガ ナンシヨットカ ハヨイケ」。妹は従順に踵(きびす)を返した。
「ギリギリ胸が痛む。何故(なぜ)自分が行く勇気がでぬか。だがぼくは腰を暗い壕に据えたまま起(た)てぬ」
原子野をさまよう兄と妹は、累をきづいてつづく屍体(したい)のあるひとつの頭部に脚をかけ、じっと身じろぎもなく静かな一羽の鴉(カラス)をみる。
「ぼくの原形質的な出発はこの鴉を見てしまったことから始(はじま)ったのかもしれぬ。ぼくにとって原爆というとき必ず、鴉はみじろぎし、ぼくの内側をとびまわり啄(つい)ばみはじめる」
敗戦後、ヒロイズムから政治闘争にかまける山田に「兄ちゃん、平和平和って言うけれども自分の家の平和の問題はどうしとっとね」とつぶやき、新しい母との確執や生活の貧しさに絶望し、逃げ場を定められなかった妹。その悔恨に山田は生きた。病に伏してからも、命日が近づくと「シュウ子には済まんことをした…」と1人落涙した。
原爆に重ねて己の内奥を凝視した山田かん。その姿勢は、比較的初期の詩や論考を集成することで原体験をあからさまにした『記憶の固執』(1969年)以来一貫した。翻って被爆地としてのナガサキはどうだったか。
爆心地浦上(うらかみ)のカトリック医学者永井隆はこうよんだ。「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」
永井の主著が世に出た1949年の原爆の日、長崎市は国際文化都市を宣言、公募した「新長崎文化音頭」にはこんな囃子(はやし)が寄せられた。
「アトムネー/アトム長崎 茜(あかね)の空に/鐘が鳴る鳴る 夜明けだ朝だ/サッサ働こ みんなで築こ/文化日本のモデル都市/ソラ どどんとどんと来い モデル都市」
諏訪神社の「長崎くんち」は被爆翌年から賑々(にぎにぎ)しく催され、地元紙は「観光長崎の再出発」と報じた。聖公会の幼児洗礼を受けた山田を「耶蘇(やそ)」と罵(ののし)っていた同級生が聖書研究会に通うようになった。「好戦詩人」は口を拭(ぬぐ)って平和の歌をうたった。
思想の不在と保身は教会も然(しか)りだった。被爆3年を経ても死にゆく信徒は後を絶たない。だが葬儀を司(つかさど)る牧師はいなかった。「牧師は米軍政官の通訳を兼ね、日夜多忙であり、ぼくは…ある日、仮の牧師館を訪ねた。室内にアメリカ給与のジャムとバターの匂(にお)いがただよい、テーブルに白パンの塊(かたまり)が散乱し、パン屑(くず)が地の塩のような色合いでこぼれているだけで、無人の廃屋のように不在であった」
時は移ろいでも、爆心の丘には「何とかして観光長崎を代表しうるものにしたい」と制作者北村西望(せいぼう)がもくろんだ巨大な男性裸身像が居座り、「炎天下原水協」「炎天下原水禁」は「ダイインと呼ばれる仮象」を繰り返す。
夏が巡り来たるたび個人的体験に立ち返った山田かんは、ナガサキという風土の「恢復(かいふく)の早さ」に戸惑い、「ピクニック気分のなかに消化されていく」反核に何かが違うと感じていた。そんな思考がほとばしる作品や発言は飾らず攻撃的で、ジャーナリズムは祈りのナガサキにおける怒りの詩人ともてはやした。だが「祈り」か「怒り」かという単純な区分けこそがいかに虚構であることか。
長崎原爆を神の摂理と説いた永井に対し、山田は「気象条件による偶然」と事実のみを見た。悪天候で断念された小倉。目標の1つだった新潟。戦争が長引けば他の地点にも及んだことを考えれば「国民が『若(も)しも』の仮定において被爆しなければならないのである…自分の痛みにひきすえてみることをしない限り、被爆は地域の事件として埋没されていくであろう…被爆した風土への怨(うら)みをいかに己のものとして育てるか」と問うのである。
山田は被爆の日の早朝まで働いた学校工場で手榴(しゅりゅう)弾を作っていた。そして後年、沖縄戦を振り返るテレビ番組で壕(ガマ)から連れ出される老幼婦女子の足元に置かれた3個の手榴弾を見る。「ぼくは、あれがあそこに、と一瞬思ったのである。この弾は安全ピンもない危険なもので、落としただけで暴発しそうな、思えば兵器というよりも沖縄人の自決用に作ったものではなかったろうか。その時、ぼくは殺したのか? と呟(つぶや)いていたのだった」
相対する加害と被害。「悲しくも憤りにやり場のない思いに耐えながらあの8月を思いかえす時、父と子と聖霊への祈りにこの世の悲惨を赦(ゆる)し求めること。それは浦上の祈りを超えて世界への真実の生を訴えていることにならないであろうか」
祈りなき怒りがなんになろう。
(文=編集委員・田川大介 写真=写真部・納富猛)
▼やまだ・かん 本名 寛(ひろし)
1930年10月27日、長崎市に生まれる。旧制長崎中3年で被爆。48年、父の死去に伴い新制長崎高3年で中退、恩師の紹介で長崎県立長崎図書館に勤務。このころから詩作に取り組む。58年「鯨と馬」で第1回現代詩新人賞。69年に詩集エッセイ集「記憶の固執」で第1回長崎県文芸賞。詩誌「炮氓(ほうぼう)」「草土」「カサブランカ」主宰。詩誌「列島」「現代詩」会員、旧「九州文学」「西九州文学」同人。詩集に「アスファルトに仔猫の耳」(75年)「予感される闇」(81年)「長崎碇泊所にて」(2002年)など。エッセイ集「長崎・詩と詩人たち―反原爆表現の系譜」(84年)「長崎原爆・論集」(01年)。がんを患い2003年6月8日、72歳で死去。
●私の推薦文
生命の尊厳をうたった 東 義人さん(71)=早良美術館るうゑ主宰(福岡市早良区)
詩集「長崎碇泊所(ていはくしょ)にて」の掉尾(ちょうび)は「書かない」。ベトナム戦争からはじまり湾岸戦争を経て9.11直後のアメリカ報復戦争までを綴(つづ)る。34行の詩章は、正義というものは難民と民衆の側だけにある/それだけが残された、で終わる。2002年2月3日に脱稿するも未発表。
標題がなぜ「書かない」なのか。戦争は繰り返し続く。互いの正義の名のもとに。労苦と死を強いられるのは民衆。正義が厄災(やくさい)をもたらす世界の矛盾。それでも正義は民衆の側だけに、と宣告して断念し、もうこれ以上書かない、と口惜しさを堪えたのではないか。
同じく未発表詩「ヒメダカ」は美しいヒメダカに比して愚劣傲慢(ぐれつごうまん)な人間を照応させ静かに告発する。かんさんはつねに生命の尊厳をうたった。爆後10年発表「地点通過」の地点は原爆落下之(の)地点。毎日落下の地点を通過していく、と書いた。それは本人だけでなくわれわれ後輩への痛烈なメッセージであり励ましである。戦争放棄の憲法を捨ててはなるまい。
●メモ
■記者は長崎に勤務した2001―02年、闘病する山田氏を自宅に訪ねました。厳しい人柄を想像し緊張して出向いたのですが、拍子抜けするほどに柔和で、作品や社会事象について、はにかみながら語っていただいたのが印象に残っています。その後も通い続けることとなりました。
■妻和子さんと2人の子息を愛し、1990年に住み慣れた長与町から諫早市に転居したのも、幼稚園で働く和子さんの通勤の便を考えてのことでした。生まれて間もない3人目の孫の写真が病床に届いて目を細めた翌未明、看病に疲れた和子さんに「もうよかよ寝らんね」と声をかけ、そのまま亡くなったそうです。
■記事で引用した作品は表題作に加え「長崎原爆・論集」。山田氏の著作は自費出版が多く発行部数も少ないため古書店でも入手困難です。ただ「記憶の固執」はインターネットで読むことができます。
商品のご購入について
このページで紹介している著書は、リンク先のサイト「Amazon.co.jp」でご購入いただけます。 ご利用の際には「Amazon.co.jp」の利用規約をご一読ください。また、その利用規約に同意の上、登録や購入手続きを行ってください。



関東地区・受験特集2011
必見!今冬のインフルエンザ対策
ダイハツ クーザ 福岡公演!
長期間家を不在に…そんな時!
NEWオープンの店教えて下さい!
福岡の賃貸・売買物件ならココ!
ライオンズマンション高取
















