西日本新聞

千年書房・九州の100冊

劉寒吉「山河の賦」 

郷土を愛した「同志」の歴史

 揺れた。民意が、地を鳴らした。7月の参院選で、「長州8人目の宰相」、安倍晋三首相率いる自民党が歴史的大敗を喫し、第一党の座から初めて転落した。
 討幕運動の花形、長州。政治を動かしてきた自負。歴史は常に、勝者によって刻まれてきた。強き者こそが、世をつくりあげる、と。だが、明治維新から約140年後、「勝ち組」は、壁に突き当たった。
 「山河の賦」。小倉で生涯暮らした劉寒吉が、初の長編時代小説の題材に選んだのは、郷土の「負け組」である。舞台は、1866年の第二次長州征討。尊王攘夷(じょうい)を掲げて討幕を狙う長州藩と、徳川幕府の譜代大名として九州軍の最前線で戦った小倉藩。物語は、実在の小倉藩家老で戦を率いた島村志津摩を主人公にすえている。
 作品は1941年5-9月、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の夕刊に103回連載された。文芸誌「九州文学」同人を対象にした第3回九州文学賞を受賞。42年出版の単行本に、作家火野葦平が言葉を寄せている。
 〈歴史がつねに担って来た運命全体を暗示し、文学としての象徴にまで到達している〉

 志津摩は1833年に生まれ、20歳の若さで家老職に就任した。それも小倉藩、九州の外様大名に対する幕府の“監視役”だ。極めて優秀な人物だったことが分かる。
 66年6月に始まった第二次長州征討戦では、先鋒の小倉藩第一軍将として出陣。だが、甲冑(かっちゅう)姿の小倉軍は、敗北が続く。長州軍は袢纏(はんてん)にズボンの身軽さで、西洋式銃隊を学んでいた。
 その後、小倉軍は肥後軍の応援で盛り返すが、九州の他藩は傍観した。不満を募らせた肥後軍は撤退し、幕府から派遣されていた総督も、将軍家茂の急逝を理由に小倉を脱した。
 孤立してもなお、小倉軍は戦った。ついには8月1日、開城するくらいなら、と小倉城に自ら火を放ち、南へ後退した。北九州市小倉南区と福岡県香春町の境、金辺(きべ)峠へ。当時の企救郡と田川郡の境だ。志津摩は、ここにあった高橋佐七の家に本陣を置き、粘りの遊撃戦を展開した。
 金辺峠に向かった。佐七の分家にあたる高橋清治さん(72)=香春町=が山道を歩きながら「この峠で、戦がくい止められました」と案内してくれた。うっそうと茂る木々。志津摩の碑がひっそりと立つ。結果的に戦禍を免れた香春の人々は、志津摩を恩人と位置付ける。「この恩を忘れてはならない」。地元の郷土史家、村上利男さん(80)=同町=はそう語る。碑は、峠の小倉南区側にあるが、説明板の主は香春町である。
 だが、小倉にとっては敗北の歴史だ。北九州は明治期以降、工業都市として急速に発展し、仕事を求めて人々が流入、多勢の「よそ者」で膨張した街でもある。「小倉藩に島村あり」と敵の山県有朋がたたえた勇将にもかかわらず、名は次第に消えていった。
 その中で、小倉藩公の砂糖御用達だった商家「濱田屋」に生まれ、代々、小倉に根を張って暮らす劉。郷土を守ろうと命を懸けた名将に、同志にも似た感情を抱いたのではないか。
 劉は「北九州は文化の砂漠」といわれることを嘆き、北九州市の森鴎外旧居保存、美術館や歴史博物館の設立準備など文化の掘り起こしと継承に力を注いだ。文芸誌「九州文学」が運営の危機に陥った1958年、東京の出版社が発行を引き受ける話を、ただ1人、反対し、以後、83年の休刊までの大半の期間、編集人を務めた。ここから、全国的な古代史ブームを巻き起こした宮崎康平のベストセラー「まぼろしの邪馬台国」が世に送り出された。小倉、そして九州。郷土を愛し抜いた。
 作品中、劉は志津摩にこう語らせている。
 〈われらには信ずべき同志あるのみである。わしは荒涼たる故郷の山河を想う。われらは失った故郷の山河を奪還する〉

 実は、「山河の賦」には改訂版が存在する。最初に出されたのは戦時中の42年。それからおよそ半世紀たった90年、劉が晩年、人知れず推敲(すいこう)した改訂版が、遺族の意向で出版された。劉の死去から4年後のことだ。読み比べると、削除された部分が目立つ。
 最も大胆に削られたのは、4ページにわたる小倉城自焼の場面。読者の興味をかき立てる物語最大のヤマ場を、劉はばっさりと捨てた。1866年8月1日。自焼の令を受けた人たちが、松明(たいまつ)を手にして城内を走り、あちらこちらに火を放った。気味の悪い妖気漂う炎が、怒ったように真夏の空に吹き上がる。まるで地獄絵だ。黒い煙が渦を巻いて立ち上った。劉は当初、想像の限りを尽くして描いたはずだ。
 「『史実にできるだけ近い形で残したい』と父は母に話したそうです」。劉の長男、濱田源一郎さん(70)=北九州市小倉北区=が語る。
 作家の命である「想像」を削り取ってまで、「事実」を刻む。「小説は活字になって残る。後々、史実として歩き出すと問題だ、と思ったのではないでしょうか」。劉が郷土に寄せた深い思い、こだわりの表れだ。
 源一郎さんが保管する遺品の古い単行本を開くと、削除部分には×印が記入されている。晩年の劉は、足腰が弱り、車いす生活だった。亡くなる約3年前から指先も不自由になり、細かい文字が書けなくなった。手書きで加筆した部分が、妻の澤江さん(2005年、92歳で死去)の筆跡であることから、恐らくこの時期に口述筆記されたのだろう。作品の発表から約40年後、70歳代後半である。
 執念だ。衰えゆく体で、再び「山河の賦」に向き合った。自分を育ててくれた小倉を記録する作業だった。死ぬまで貫いた郷土愛は、今も、ふるさとの山河で脈打つ。
(文=北九州支社・野中 貴子 写真=写真部・佐藤 桂一)

▼りゅう・かんきち

 1906年9月18日、現在の北九州市小倉北区魚町にあった老舗製菓店に生まれる。本名は濱田陸一。小倉商業学校(現小倉商業高)在学中、文芸活動を開始。筆名の劉は、31年に旅先の朝鮮半島で知り合ったリュウ青年に由来。「寒吉」は、「貧相な男の意味」と本人が記している。32年、尋常小時代の同級、作家の岩下俊作らと詩誌「とらんしつと」を創刊。38年、北部九州の同人誌が結集した第2期「九州文学」に参加して以来45年間、同誌を支えた。「人間競争」「翁」は芥川賞候補、「十時大尉」「風雪」は直木賞候補。小倉郷土会会長、北九州森鴎外記念会会長などを務め、地域文化の振興に尽力。77年、西日本文化賞受賞。86年4月20日、心不全のため79歳で死去。

●私の推薦文

志津摩に見る敗者の美学 轟 良子さん(54)=北九州市立中央図書館主任(北九州市八幡東区)

 1866年8月1日、小倉城は炎上し、譜代大名として栄華を誇った小倉城下は火の海でした。小倉藩家老の島村志津摩にとって、耐え難い光景だったに違いないと思います。小倉の商家に生まれ育った劉寒吉先生も、同じ思いだったのではないでしょうか。牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡の奥で、見えていたのは敗者の美学だったのかもしれません。それを志津摩を通して著したのが「山河の賦」だと思います。
 勝者の歴史に、江戸時代の小倉は埋められてしまいました。城の自焼で多くの書物も焼失しました。北九州市立中央図書館(同市小倉北区)には、全国各地の研究者から当時の文献を調べたいとの問い合わせがありますが、史料はほとんどありません。負けた側の歴史は埋もれる、とはこういうことなのかと思います。長州藩の奇兵隊を創設した高杉晋作関連の本は、これまでに458冊は出版されています。しかし、志津摩については、劉先生と郷土史家・白石壽さん(福岡県行橋市)の著書しかありません。小倉の歴史を語り継ぐ上でも貴重です。

●メモ

■劉寒吉の自筆原稿や同人誌「九州文学」が、北九州市小倉北区城内の同市立文学館に常設展示されています。文学館の前庭には、「吹くは風ばかり」と刻まれた劉の文学碑があり、ここで毎年命日の4月20日に集いが開かれ、出身校・小倉商業高の生徒が、劉作詞の校歌を斉唱します。同文学館=093(571)1505。

■島村志津摩の墓は、同市小倉北区寿山町の広寿山福聚寺にあります。この寺は、小倉藩主だった小笠原家の菩提(ぼだい)寺として知られ、福岡県指定の文化財です。小倉小笠原藩の初代藩主小笠原忠真らの墓があります。

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