「千年書房・九州の100冊」は80回の配本を終えて、いよいよ終盤に入ります。過去の掲載分をスクラップしているという読者から「水に関係する本が多いですね。海に囲まれた九州の風土を再確認しました」という声が届きました。100冊の配本を終えたとき、どんな九州像が浮かび上がるのか。楽しみですね。さて、今回の別冊は作家の散歩道。作家にとって、散歩も単なる息抜きではないようです。
◇
前方から、武者小路が歩いてきた。別人か、いや間違いない、武者小路実篤である。
昭和四十二年の春、私は大学に入るべく上京した。下宿は三鷹市井の頭四丁目。門を出て、左に二十メートルも歩けば、三鷹市牟礼という町名に変わる。
下宿のおばさまは明治生まれ、女子師範を出て、高等女学校の教師をしていたというから、それはそれは凛(りん)として、下宿のおばさんとはとても形容しがたい。下宿初日のご挨拶での質問が、「矢野さんは、どんな方の御本をお読みに…」だった。高校時代は、井伏鱒二にぞっこん傾倒していたので、即座に「井伏です」と偉そうに答えた。すると、「武者小路は…」と問うので、「『友情』を少々」と答えた。
「武者小路先生は、井の頭公園寄りの牟礼に住んでましたよ。調布に引っ越されてもう大分になりますが、その頃は、よく公園を散歩されてました」と、教えてくれた。
春四月、井の頭は満開の桜と聞き、公園に散歩に出た。下宿のお向かいの家から、ヴァイオリンの音色が流れてくる。表札を見ると、江藤俊哉とある。あの有名なヴァイオリニストの方かと、二、三度表札を振り返った。井の頭の南側から、公園に入る。吉祥寺側と違って、木立は太く、武蔵野の面影がある。木立の向こうに池と弁天橋、紅雲のごとき桜が覗(のぞ)く。しばらく歩いていると、冒頭の三行である。
着物に、マフラーを襟にそってふっくらと巻き、懐に折り込んでいる。ハットを被り、ツバは前に倒さず、上に少し上げている。上質のステッキをつき、近づいてくる。胸が高鳴る。教科書で見た人である。もう八十歳くらいか、すれ違う瞬間、思わず踵(かかと)をそろえてお辞儀をしてしまった。先生も一瞬立ち止まり、笑みを返してくれた。以来、毎日のようにこの道を散歩した。
大学三年の時、高校の先輩である松下竜一が「豆腐屋の四季」で日本中にブレークした。緒形拳主演のテレビドラマを食い入るように見た。ふるさと中津(大分県)が、風間完のイラストでタイトルバックになっていた。冬休み、帰心矢の如し、日豊線中津駅に着くなり家に寄らず、先(ま)ずまっすぐに北門界隈(かいわい)から、三角州小祝に渡る北門橋を目指した。橋の上で、山国川の河口から周防灘までに目をやり、先輩の散歩道を反芻(はんすう)した。この風景が、彼の純粋な文章を作り出すことを確信した。
春に、吉祥寺南町、前進座のすぐそばに引っ越した。駅北口から成蹊大の方に歩いていると、着流し姿にマフラーを巻き、小ぶりの布袋を持つおじいさんと遭遇した。どこかで見たことのある爺様だ。すれ違った瞬間に思い出した。金子光晴である。しばらく後姿を見つめた。春風のごとく、フワフワと歩いていく。この界隈が散歩道か…。以来、興味を持って彼の詩や著作を購い、精読した。いつも夕方待ち構えていると、よく出会えた。踵をそろえてご挨拶こそしなかったが、貪欲(どんよく)な生き方にほれて、胸のうちで最敬礼をしていた。
作家の散歩道をなぞるだけで、同じ道を同じように歩くだけで、憑依(ひょうい)同化していく自分が居た。同じ景色を見て、同じ風に当たり、同じ空気を吸っている。その空間に身をおくだけで、作家たちの「気」さえ、頂いている心地がした。
今は家内と二人、月に一度、小戸渡船場(福岡市西区)から船に乗り、能古島に渡る。港から左回りに歩き、遊歩道を目指す。ゆるやかな勾配(こうばい)を、さまざまな鳥達の鳴き声を聴きながら散策している。時々、林間に開ける糸島側を見ながら、あれが小田の浜かとリツ子を思い、檀一雄の見つめた風景に身を委ねている。
●散歩から生み出された作品たち
オフィスビルや高層マンションが建つ瀟洒(しょうしゃ)な福岡市・百道浜地区。その一角に「サザエさん発案の地」の記念碑がある。
長谷川町子が夕刊フクニチに「サザエさん」の連載を始めたのは一九四六年。当時、長谷川は百道に暮らしており、妹と一緒によく散歩した百道浜でサザエさんの構想を得たことを後日、明かしている。〈私の家のすぐ裏は松原で、さくさくと砂をふんでゆくと、青い海が展(ひら)けています(中略)案を練るため、私はよくその浜に寝ころびにゆきました〉(「長谷川町子思い出記念館」より)
夢野久作にも海辺で創作のヒントを得た作品がある。息子の杉山龍丸が「九州文学」に発表した「西の幻想作家」(一九七八年)には、久作に連れられ、博多湾、志賀島の浜辺をよく歩き回った思い出がつづられている。香椎浜を散歩中、〈ゆるい波にゆれながら流れて来る瓶を見つけて、父は服を脱いで海に飛び込み、抜手を切ってその瓶に泳ぎ着き(中略)中を調べていました〉。その体験から、名作「瓶詰地獄」が生まれたという。
海辺を離れて、福岡市街地で作家の散歩道を探せば、多くの作家に親しまれた那珂川のほとりがある。詩人の原田種夫、作家の火野葦平らがこの辺りを散策し、一九三四年にオープンした岸辺のカフェ「ブラジレイロ」で文学議論に熱中したのは有名な話である。詩人、那珂太郎にとっても、そのペンネーム通り那珂川は特別な存在であったようだ。「わがふるさと」というエッセーにある。
〈上手にはブラジレイロの白い建物があり、下手に福助足袋の電飾塔が聳(そび)え、そして西の対岸には水上公園の木の間がくれに音楽堂が望まれる〉〈流れは水底の砂まで透けて、鮎(あゆ)や鮠(はや)やぼらなどのすばやく泳ぐ影が、橋の上からもはっきり見える〉
しかし、これは戦前の光景である。戦後約二十年後に那珂が発表した代表作、長編詩「はかた」は、福岡大空襲で奪われた故郷・はかたを、時空を超えてさまよう“心の散歩”から生まれた詩といえるのかもしれない。
=敬称略
(文化部・岩田直仁)
●視点を変え、楽しみ方を無限に広げる
ブックオカ実行委員 末崎光裕さん(36)=福岡市中央区
路上観察学会は、画家であり作家の赤瀬川原平さん率いる、歩きながら「街のディテールに潜むさまざまな物を観察し、記録する」おかしな集団です。その裏に「事件」の存在を感じさせる「物」がお目当てで、それは入り口のない屋外の階段や、絶対そこにないはずの物が道端にふと落ちていたことだったりします。一見すると無用の長物だけども、それをどう見て何を想像するか、視点を変え、楽しみ方を無限に広げる、それが路上観察学会のモットーです。
ここでちょっとPR。10月1日から福岡の本のお祭り「ブックオカ」が始まります。サブテーマは「街へ出よう、街で見つけよう」。何げない物を楽しみに変える“散歩の達人”となって、新たな街の表情や人、そしてお気に入りの1冊を見つけてください。

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夜の海は黒く、辺りの建物から漏れる明かりが水面にぬるりとした光の紋をつくっていた。
北九州市・若松港。
〈悲しいのと嬉(うれ)しいので半分半分だから。明日になったらきっと嬉しいほうが大きくなるはずだわ〉
戦時下、朝鮮半島から九州の炭坑に連行された青年、河時根(ハ・シグン)と将来を誓った千鶴(ちず)は、時根の故郷を目指してここ若松をたつ前の晩、目を潤ませて気丈に言う。
希望と不安。焦燥、喜びと憎しみ、そして絶望。波間には時根や千鶴、そして多くの人々の数限りない記憶が漂い、浮かんでは沈む。海峡を越え、その先に霞(かす)むのは、半島―。
帚木蓬生の小説「三たびの海峡」の主人公、時根は17歳のとき強制的な「徴用」で九州に渡った。送り込まれた炭坑では過酷な労働に加え、凄惨(せいさん)なリンチが日常化していた。仲間たちが次々に命を落とすなか、決死の脱走に成功した時根は敗戦後、日本人女性・千鶴を連れ二度目の海峡を渡る。しかし、「倭奴(ウェノム)の女」を連れた時根を故郷は受け入れず、安住の地ではなかった。千鶴は日本に連れ戻される。以来、時根は体の内に根付いた“日本”を抹殺し、無我夢中で働いて、やがて財を成す。物語はここから終盤に入っていく。
小説は多くの在日朝鮮・韓国人一世の体験と重なるだろう。とりわけ、福岡・筑豊ではよく知られたある在日朝鮮人の人生は、驚くほど時根の人生と共鳴する。
福岡県飯塚市に暮らす裴来善(ペレソン)さん(85)。全羅南道高興郡南陽面大谷里の出身。20歳で佐賀県の造船所に連行された。4カ月後、父の危篤を知るも帰国を許されず、脱走。故郷に戻ると父は亡くなっており、幼い2人の弟と母の4人で貧しいながら水入らずの暮らしを始めたが、わずか11日後に再度日本に連れ戻された。「役人が警察を連れてきた。行け、絶対行かない、としたんだけれど、それなら家族の配給券をくれないという」。渡った先は筑豊の炭坑だった。24時間2交代で、昼食は30分。弁当の雑穀は一口か二口の量だった。同じ朝鮮人労働者たちが栄養失調で、落盤で、拷問で死んだ。なんとか脱走し、逃走先の福岡県筑紫野市で終戦を迎えた。
終戦直後、半島に戻ろうとした。帰国船に乗るため博多の築港に急いだが、何万もの朝鮮人に加え、大陸からの日本人帰国者であふれ返り乗船どころではなかった。その後、在日二世の女性と結婚。家族五人を養うために職を点々とするうちに、日本での暮らしが定着していった。
裴さんはやがて食肉処理場で責任者を任され、ホルモン店を営むようになった。傍ら、朝鮮学校の建設に情熱を注ぎ、在日への指紋押捺(おうなつ)強制問題や無年金問題にかかわった。「同等に生きていきたい。私たちも、人間だから」。新聞に取り上げられると賛同者の輪が出来ると同時に、脅迫電話に悩まされた。「チョウセン人!」。名を名乗らない電話は「文句があるなら、半島に帰れ」と言って、切れた。「でも、もう帰れないんですよ」。裴さんの声が静かに上ずる。祖国は分断された。朝鮮籍を取得した裴さんを韓国は受け入れなかった。
1995年。戦後50年を迎えた年、裴さんは一人で、筑豊全域の寺という寺を回り、無念の死を遂げた同胞たちの遺骨や名簿を集め始めた。「どんなことがあっても逃げてやる、報復してやると決意したんだけど、大きな政府、炭鉱を相手に報復しようもなかった」。その無念と憤怒を胸に、「朝鮮人」でも「韓国人」でもなく「在日」を生きながら、裴さんは戦いを続けた。仲間を募り、自治体に理解を求めた。裴さんの執念は2000年、飯塚市営墓地の一角に納骨堂「無窮花(ムグンファ)堂」として結実した。
物語では、老実業家となった時根が、北九州の友人の手紙で心を揺さぶられる。手紙は行政がボタ山と廃坑をつぶし、企業誘致を計画していると伝えていた。ボタ山には、かつての仲間たちが粗末な墓石の下に眠っていたのだ。時根は「三たび」の渡航を決意、日本に戻る。その後の行動を染め上げるのは真っ赤な憤怒である。
福岡県中間市で心療医院を開く帚木さんを訪ねた。執筆の動機は北九州市内の病院に勤務中、在日の患者に多く出会ったことという。
「一番腹が立ったのは」。終始淡々とした口調を崩さなかった帚木さんが、ふと語気を強めた。「教育に対してです。曲がりなりにも文・理の教育を受けてきたのに、私は何一つ知らなかった」。時根は語る。
〈自分の都合のよいように、粉飾したり改変を加えた歴史からは、束(つか)の間のつじつま合わせしか生まれて来ない。たとえそれがいかに心地よいものであっても、長続きはせず、いつかしっぺ返しが訪れるのだ。私は日本にそういう道を歩んでもらいたくはない〉
「誰かが時代のなかで書いておかなければならないことがある」と語る帚木さんはこれを「土壌を作る」と表現する。飯塚市は「無窮花堂」の一帯を「国際交流広場」と名付けた。これもまた、過去を見据え、未来を拓く人々を育む「土壌」だろう。
朝鮮半島と九州の間に横たわる海は、あまたの歴史と現在を抱え込み、今日も波打つ。たゆたう水には涙や血が、そしてあの時、千鶴が抱いたような見果てぬ土地や未来への希望や夢もまた溶け込んでいる。海峡は流れを止めない。
(文=文化部・平原奈央子 写真=写真部・納富 猛)
▼ははきぎ・ほうせい
1947年福岡県小郡市生まれ。東京大学仏文科を卒業後、TBS勤務を経て九州大学医学部に入学。精神科医となる。医療業務の傍ら執筆活動を続け「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、「逃亡」で柴田錬三郎賞をそれぞれ受賞した。「ギャンブル依存とたたかう」など医学書もある。95年には福岡県文化賞を受賞した。「帚木蓬生」のペンネームは、「源氏物語」54帖の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生(よもぎう)」から。2005年から通谷(とおりたに)メンタルクリニック(福岡県中間市)院長。60歳。
●私の推薦文
勇気ある意義深い作品 安 元泰さん(74)=韓国版翻訳者(韓国・ソウル)
日本の知り合いから「三たびの海峡」を紹介され、12年前に韓国語版の翻訳を手掛けました。ただでさえ読みが難解な日本の名前のなかでも突出して難しい「帚木蓬生」という名前に加え、その特異な学歴に、まず興味を覚えました。内容も日本の作家として勇気ある作品であり、また細かな叙述について特に韓国を舞台とする部分など、当時を生きた私が読んでもそのころの暮らしがありありと思い浮かび、よく調べてあると思いました。
小説は物語として面白いということはもちろんですが、胸が締め付けられ、自然とこぶしに力が入り誰かに勧めたくなる読み物であったら、と思っています。この作品はまさにそういう小説です。韓国語の翻訳出版後、韓国の読者からも「これまで知らなかった」という声が多く寄せられました。
繰り返しになりますが、この作品は「書いたこと」それ自体が意義ある作品であり、作者の勇気をいま一度たたえます。
●メモ
■小説は、1995年に神山征二郎監督によって映画化されました。主演は三國連太郎さん、ヒロインは南野陽子さん。この映画で、三國さんは日本アカデミー賞主演男優賞を受賞しています。
■安元泰さんによる韓国語翻訳版「三たびの海峡」のタイトルは「情炎海峡」。95年10月、韓国・ハソ出版社から出版されました。
■日本人妻の生きざまをルポした作品には、上坂冬子「慶州ナザレ園-忘れられた日本人妻たち」(中公文庫)、伊藤孝司「日本人花嫁の戦後」(LYU工房)などがあります。
■9月18日、在日コリアン高齢者の無年金問題が福岡地裁に提訴されました。在日1世たちの戦後は終わりません。

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〈ぶつかった。太刀を振りあげて叫び声をあげている騎馬武者を、懐良(かねよし)は横ざまに薙(な)ぎ倒した。躰(からだ)の中に、荒々しい咆哮(ほうこう)をあげているけものがいる。太刀を合わせるたびに、それは大きくなっていくようだった〉
朝廷が分裂した南北朝時代、北朝の足利尊氏に対抗し、南朝の後醍醐天皇の皇子牧宮(まきのみや)懐良は征西将軍宮として九州に派遣され、五条頼元、忽那(くつな)義範、菊池武光らとともに、統一を目指して九州各地で戦いを重ねた。
ハードボイルド作家としてデビューした北方謙三が、初めて手掛けた歴史小説。だが史実をなぞるだけでない。時代に息づく男たちのたぎる思い、壮大な夢、わき上がる高ぶりをわれわれの心に焼き付ける熱いメッセージが込められている。
九州を舞台に懐良は駆け巡る。桜島の火山灰が降る薩摩や大隅、菊池武光という力強い味方を得た肥後、総勢約10万の兵が激突した筑後、そして、朝鮮半島の高麗へ渡る拠点を置いた肥前。北朝軍勢との戦いは激しくなり、ページをめくるたびに緊張感が加速する。その一役を買っているのが、北方が紡ぎ出すスピード感ある描写だ。
〈右へ、懐良は回った。相手のひとりが、肩で息をした。誘い。乗った。肩が下がった刹那(せつな)、踏みこんで斬りつける。残りのひとりが、同時に動いた。斬りつけた太刀を、そのまま反転させた。ひとりの胴を薙いだ。風。背後からだ。阿久里の気合が重なった。背中に痛みがあったが、深く食いこんできた感じではない〉
40代で「三国志」、50代で「水滸伝」を執筆した北方。歴史小説を通して伝えたいのは男の生きざま、死にざまだ。相次ぐ戦いで流れる血、高まる殺気、熱気。だが、懐良が見せるのは単純な覇気だけでない。その言動には敵方への優しさも表れる。
懐良は博多から海沿いに西進中、松原が広がる周辺で松浦党の佐志(さし)氏の攻撃に遭う。筑後川の戦いで戦死した首領佐志披(ひらく)の一派だ。力の差は圧倒的。敗北後、披の息子祝(いわう)は首をはねてほしいと嘆願する。
だが懐良は拒絶。〈おまえとの戦は終わった。そう言っているだけだ。いつまでもこだわって、領民を戦に駆り出し、苦しめるものではない〉〈死ぬことで、矜持(きょうじ)を守れると思うな。佐志祝。なにによって矜持を守れるかわからぬなら、わかるまで生きよ〉
豪快なオーラを発する一方で、相手を包みこむような優しさを見せる懐良。その姿は懐良を描く北方本人の姿と重なる。
北方は1986年から約5年間、若者向け雑誌「ホットドッグ・プレス」(講談社)で悩み相談のコーナーを持った。人間関係、性や進路などの悩みを持ちかける若者に対し、北方の返答たるや、ハードボイルド作家らしく攻撃的かつ過激だ。
周囲の人間が無気力だと嘆く相談者に「独りで泣け」と一撃。だが、「(しばらく泣いた後は)他人がやらないことが問題なんだということではなく、自分がやれるかやれないかが問題なんだというところに、君は行き着かなくてはいけない」と続く。強さの中に、相対した人間への優しさが漂っていた。
懐良は海を愛し、大陸を見詰めた。自らたびたび高麗に足を運び、元(げん)、さらに遠くに広がる世界の情報を集め、九州の未来に思案を巡らせた。高麗には息子の月王丸を派遣し、後に倭寇(わこう)となる水軍の長、忽那義範のもとで見聞を広めさせた。
北方が生まれ、幼少期を過ごしたのは佐賀県唐津市の海岸沿い。唐津湾の向こうに横たわる玄界灘の果てには大陸がある。海岸に立つ。潮風が心地いい。快晴のときは青々とした空と海が無限に続くかのような広がりを見せる景色。だが嵐になると一転、不気味な灰色の波が容赦なく打ちつける場所だ。
北方の生家には現在、遠い親類の浦元弘さん(71)が住む。北方家が関東に移った後、謙三の祖母と二人暮らしを始め、今は素潜り漁を続けながら妻と子どもと三人暮らしだ。
日焼けした肌に、がっちりした体格。鋭い眼光。海の男だ。北方本人を連想させる。だが、愛嬌(あいきょう)のある温かい目つきで笑顔も見せる。厳しくも優しい玄界灘に育てられた男の姿か。「謙三君は唐津の海岸でよく遊んでいた。今は新刊が出るたびに贈ってくれる。古びれた港町が登場すると、古里を思いだして書いているのかなとうれしくなるよ」
外国を回る船乗りだった北方の父親は1年に数回しか帰国しなかったという。ここから、父のいるはるかな海洋を想像したのだろうか。懐良も最期の時まで海を思った。
〈風の音。そして波。躰が揺れているのか。海が見えた。どこまでも、果てることのない海だった。夢と海は似ている。そう思った。陽の光が海面に射して、鮮やかな照り返しが交錯している。眠ろうとしている自分を、懐良は感じた。光。風。夢。海。遠くなった〉。海とともに、男たちの熱は高まり、燃焼した。
(文=唐津支局・小川俊一 写真=写真部・納富 猛)
▼きたかた・けんぞう
1947年、佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部法律学科卒。在学中に純文学に取り組み、81年にハードボイルド小説一作目の「弔鐘はるかなり」を発表。「眠りなき夜」で吉川英治文学新人賞(83年)を受賞後、「渇きの街」で日本推理作家協会賞長編部門(85年)、「破軍の星」で柴田錬三郎賞(91年)など、多くの受賞歴を持つ。執筆のスピードが群を抜いて速いことで有名。88年には南北朝を舞台にした歴史小説「武王の門」を発表して新境地へ挑戦。全13巻の長編小説「三国志」を完成後、「楊家将」で吉川英治文学賞(2004年)を受賞し、解説本と合わせて全20巻に渡る「水滸伝」は06年に司馬遼太郎賞に輝いた。直木賞選考委員を務める。
●私の推薦文
躍動する理想のスター 松浦 稔さん(64)=呼子海運代表取締役(佐賀県唐津市)
さまざまな歴史小説を読むのですが、北方謙三さんの著書には、のめり込んで最後まで一気に読破できる魅力を感じます。それはほかの作家が焦点を当てない人物を取り上げ、スターとして仕立て上げる手法、そして、そのスターが醸し出す男くささが、石原裕次郎世代の私にはたまらないのです。
さらに、どの本にも「唐津市出身」と堂々と記してあり、同じ郷土勢としてうれしい次第。私自身は名字の通り、本編に登場する武士団の集合体「松浦党」の子孫であると伝え聞いています。九州統一を目指した牧宮懐良たちが、先祖とかかわり、刃を交えたと想像するとぞくぞくします。
物語に登場する男たちは、躍動感たっぷりに生き、戦い、それぞれの道を突き進みます。無駄な表現を排除した北方さんの描写はまるで劇画のよう。その中で活躍する懐良は特に、力強さのみならず人間味にあふれ、包容力もあります。これこそ、私たち現代人が理想とするスター、男の姿ではないでしょうか。
●メモ
■1995年に発表された続編の「陽炎の旗」(新潮社)は、足利尊氏が開いた室町幕府3代将軍義満の時代が舞台。懐良の息子月王丸、孫竜王丸が登場し、征西将軍府に九州を追われた足利直冬の息子頼冬と出会います。尊氏の孫という設定で描かれた頼冬は、政敵として義満に命を狙われることに。それぞれの運命を背負って行動をともにする3人が、新たな物語を展開します。
■北方謙三さん出身の地である佐賀県唐津市。幼いころに引っ越したせいか、地元では本人に関連した施設などは少ないです。ですが今年、松浦稔さんの熱狂的なリクエストもあって、ようやく地元の図書館に郷土作家コーナーが設置されました。今、ひそかに人気を集めています。

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真夏の沖縄で、一本の木を探した。
名前は「うむまあ」。那覇市で尋ね歩いたが見つからない。「モモタマナ」という和名を告げると、ようやくある男性が公園に案内してくれた。
幹から水平に伸びた枝に、大人の手のひらよりも大きな葉を茂らせたうむまあは、立派な木陰をつくる木だった。詩人、山之口貘が「世はさまざま」に書いている。
〈木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ/いつも墓場に立ってゐて/そこに来ては泣きくづれる/かなしい声や涙で育つといふ/うむまあ木といふ風変りな木もある〉
大きな葉は、陽光を透かして柔らかく輝いていた。全体におおらかで優しい風情がある。貘の詩を思わせる木だった。
19歳で沖縄を出て、59歳で他界するまで、貘は東京でつつましく暮らしながら、詩を書いた。「精神の貴族」と仲間から慕われた人柄は真っすぐで温かく、すがすがしかった。貧しくも実直な生活に材を採った詩は、柔らかく膨らんでいる。
貧乏暮らしを見つめた詩から「ものもらひの話」。〈家々の戸口をのぞいて歩くたびにごとに/ものもらひよ/街には沢山の恩人が増えました。/恩人ばかりを振(ぶ)ら提げて/交通妨害になりました。/狭い街には住めなくなりました〉。
結婚願望の詩も多い。例えば「求婚の広告」。〈1日もはやく私は結婚したいのです/結婚さへすれば/私は人1倍生きてゐたくなるでせう/かように私は面白い男であると私もおもふのです〉
「平易な言葉で生活の詩を書いた人」と評される。初期こそ語と語、行と行の間にアクロバティックな飛躍をはらんだ詩も目立つが、全体的には的を射た言葉だろう。琉球大学の仲程昌徳教授(64)=近代文学=は「ユーモアと、生活や自身を距離を持って見つめるアイロニカルな視線があって初めて可能な詩」という。
貘を語るときに頻繁に使われるもう1つの表現がある。「沖縄を代表する詩人」である。沖縄近代史を踏まえて詩業を振り返るとき、その評価は複雑な綾を持っていることに気づかざるを得ない。
貘が残した詩は約200編。生前に詩集にまとめたのは戦前に作った70編余りで、うち、はっきりと琉球・沖縄にかかわる詩はわずか数編しかない。初期代表作の「会話」はその一作である。
〈お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草(たばこ)に火をつけるんだが、刺青(いれずみ)と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずっとむかふ〉
女と男の会話が続く。〈ずっとむかふとは?〉〈南方〉〈南方とは?〉〈亜熱帯〉。そして最後の段落。
〈アネツタイ!
亜熱帯なんだが、僕の女よ(中略)この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生まれた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長(しゅうちょう)だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所〉
「戦前の貘は『会話』の男のように、沖縄出身をあまり表に出していなかったと思います」。山之口貘賞の選考委員を務める那覇市在住の詩人、与那覇幹夫さん(67)はその理由を「(ヤマトの)沖縄人への強烈な偏見と差別」とみる。「会話」を例外として、貘はそれを直接、詩に織り込むことはしなかった。地をはう生活を送りながら、「地球」という語の多様に象徴されるように、精神を高みに浮かべて、ほのかにさびしく温かく、そして気高い詩を書いた。
戦後、過酷な地上戦で傷ついた沖縄に思いをはせるエッセーを次々と書くようになる。同様のテーマで「弾を浴びた島」「正月と島」といった詩も書く。短詩が多い貘にしては、破格の長編詩となった「沖縄よどこへ」は最も有名な詩だろう。
独立国・琉球から近代沖縄に至る歴史をたどる詩を、貘はこう締めくくる。
〈それにしても/蛇皮線の島/泡盛の島/沖縄よ/傷はひどく深いときいているのだが/元気になって帰って来ることだ/蛇皮線を忘れずに/泡盛を忘れずに/日本語の/日本に帰って来ることなのだ〉
貘が生まれた1903年、後に「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(1876-1947年)は東京帝国大学文学科に入学。「おもろそうし」などの研究を重ね、大和民族と琉球民族の祖先が同じという「日琉同祖論」を展開していく。
ヤマトによる同化(皇民化)と排除(差別)という相反する圧力を止揚するひとつの道が、日琉同祖であったことは想像に難くない。「貘もその時代の空気を吸って育った」(仲程教授)。そして、「沖縄よどこへ」を書いたのは、多くの沖縄人が米軍統治の圧政からの脱出口を本土復帰に求めた時代であった。
出身地を問われて口ごもった「会話」と、切々と沖縄への思慕をつづる「沖縄よどこへ」の間には、巨大な時代の断層がある。しかし、いずれの詩もヤマトによって翻弄された沖縄人の〈かなしい声や涙で育つ〉真実の詩であった。
悲願だった帰郷で変わり果てた沖縄の姿に打ちのめされた貘は63年、病死した。9年後、貘が願った沖縄の本土復帰が実現した。しかし、その時残された巨大な米軍基地は、今も沖縄にある。
(文=文化部・岩田直仁 写真=写真部・岩崎拓郎)
▼ やまのくち・ばく
1903年、沖縄県那覇区(現那覇市)生まれ。沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高校)を中退後、22年に上京するが翌年、関東大震災に遭い帰郷。24年、詩稿を抱いて再び上京。以後、清掃業、薬品販売などさまざまな仕事に就き、時には放浪者のように暮らしながら詩を書き続けた。生前に詩集「思弁の苑」(38年)「山之口貘詩集」(40年)「定本山之口貘詩集」(58年)、死後に「鮪(まぐろ)と鰯(いわし)」(64年)がある。63年没。
●私の推薦文
あるがままに生き続けたバクさん 松下 博文さん(50)=筑紫女学園大学教授(福岡県久留米市)
バクさんの思想はタゴールのそれに近いように思う。タゴールの中心思想は、自身にふりかかってくる災難や苦しみをありのままに受け入れ、その災難や苦しみが自分の生活であり人生であることをそのまま肯定することで人は救われるというそれであった。宇宙から地球を見るように自分の人生を神の高みから見るなら、人の一生は地球をも宇宙をも包含しているという思想であった。こうしたタゴールの思想は、夜の底を野良犬のように歩きながら、しかしその生活を肯定も否定もせずに、あるがままに生き続けたバクさんの生涯にまっすぐ繋がっているような気がする。
「大儀」はバクさんの生き方を正面から描いた作品。〈躓(つまづ)いたら転んでいたいのである〉〈空でも被って側には海でもひろげて置いて人生か何かを尻に敷いて膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中をまるめていたいのである〉。生き方はなんとなくひょうげて悲しいけれども、人生のつかみ方にはおそらく神やタゴールも一目も二目も置くに違いない。
●メモ
■ フォーク歌手の高田渡さんが大工哲弘さん、佐渡山豊さん、嘉手苅林次さんら沖縄のミュージシャンとともに、「会話」「結婚」「ものもらひの話」といった山之口貘の詩を歌にしたCD「貘‐詩人・山之口貘をうたう」を制作しています。現在、入手困難のようですが、中古ショップなどでは手に入ります。素晴らしいCDなので是非お聴きください。
■現在、郷里の那覇市には貘ゆかりの建物はほとんどありませんが、同市内の与儀公園に建立された詩碑があります。そこには詩「座蒲団」が刻まれています。
■「山之口貘詩集」(思潮社)を5人の読者にプレゼントします。〒810―8721(住所不要)、西日本新聞社文化部「九州の100冊プレゼント係」へ。

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1971年9月7日朝、熊本県水俣市の駅に寝台列車から降り立った夫婦がいた。2人の視線の数十メートル先には、水俣病原因企業チッソの正門がどっしりと構えていた。世界的にも著名な写真家になっていたW・ユージン・スミスは52歳。10日ほど前に結婚したばかりのアイリーン・M・スミスは21歳。3年3カ月に及ぶ水俣での取材生活の幕開けだった。
「世界へ伝えなければならない」。そう直感して訪れた水俣の地であった。2人は地域社会の一員となり、その暮らしの内側から患者や被害者らの心情、水俣という町を写し取っていった。高度成長という逆らいようのない時代の流れ、変わる市民生活と変わらない漁師の生活。その中での差別、偏見、中傷…。日本の片隅の町で起こった比類なき水俣病事件の実相を、どう表現すればよいのか。患者や住民を巻き込んだ共同作業は4年後に、米国で出版する「MINAMATA」(英語版)として結実する。
2人が暮らした借家は、今は取り壊されてもうない。同市南部に広がる水俣病多発地区の一角にあった。寝起きする部屋は一間で、まきでたき付ける五右衛門風呂があった。ユージンは、常に酒を手放さなかった。従軍特派員として赴いた沖縄戦で、砲弾の破片が体にくい込み、取り除けずに残っている。その痛みを和らげるために飲んだが、量は尋常ではなかった。640ミリリットル瓶のウイスキーを1日で飲み干した。
風変わりな夫婦を、子どものようにかわいがってくれた患者家族や、お金の工面に苦心する2人を気遣って晩ご飯に誘ってくれた隣人たちとのきずなは次第に深まっていった。胎児性患者たちが集まる「若衆宿」でも飲み、ともに踊った。写真集に「拾い集め生きる命」の章を設けられた胎児性患者の坂本しのぶさん(51)=同市袋=は当時、まだ中学生。若いアイリーンを「お姉ちゃん」と慕い、恋の悩みを打ち明ける仲だった。
水俣に「故郷」のような親近感を抱いたユージンだったが、感性で被写体に迫ることを優先させたのだろうか、日本語を積極的に身に着けようとはしなかった。それゆえに日本人の母を持ち、日本語と日本文化に通じたアイリーンは大切な存在であった。助手であり、マネジャーであり、通訳であり、妻である。なにより複雑な位相を見せる水俣病に向き合う同志だった。2人は、患者の日々の暮らしから闘争の現場まで、あらゆる場面を切り取っていった。
およそ30歳離れた親子のような夫婦は、74年に米国に帰国したあと、離別することになる。誰も気付かなかったが、夫婦の間にきしみは生まれていた。それでも写真集に添える文章を書くために、2人は六週間、ロサンゼルスのアパートにこもった。夫婦としてはだめだったが、写真集を完成させるという目的では、2人は完全に思いを1つにしていた。
既に高校生時代から、地方新聞に写真を掲載するようになっていたユージンは、太平洋戦争の取材で、写真家としての地位を確立した。その後「カントリー・ドクター」「スペインの村」などの数々のフォトエッセーを相次いで発表する。時間をかけて対象に寄り添い、ごく自然な瞬間をとらえる手法は、水俣でも変わらなかった。
ユージンにあこがれて、当時頻繁に出入りした若者だったアマチュア写真家、渕上武さん(65)=同市洗切町=は「最終段階である写真の焼き付けでは、ユージンは決して妥協しなかった」と言う。納得がいくまで焼き直す姿を、渕上さんは何度も目にしている。
地域に受け入れられたユージン自身は、水俣をどう思っていたのか、アイリーンに聞いてみた。
「それが答えかどうか分からないけど、ニューヨークで出会ったころのユージンは、暗室にまでレコードプレーヤを持ち込むほどで、常に音楽に囲まれて暮らしていた。ジャズ、イタリアオペラ、フォークソング…。孤独だったから、音楽が必要だった。不思議と水俣では、あまり聴かなくなった。濃密な人間関係が、ユージンを孤独から解放させたのかもしれない」
2000年。ユージンの死後、写真集の全著作権を引き継いだアイリーンは1つの決断をした。抱きかかえた胎児性患者の娘をじっと見つめる母親を写したユージンの作品「入浴する智子と母」を、以後新たに公開しないことを家族と約束したのだ。智子さんは77年に21歳で亡くなっていたが、水俣病の象徴といわれたその写真は、多くのチラシに使われ続けた。チラシが落ちれば、人々に踏まれることもある。それは家族には堪え難い苦痛であった。「もう、休ませてあげたい」。そんな親の思いを受け止めた末の判断だった。
「今なら、撮影できないと思う。あの時代、患者さんもわれわれも水俣病の実情を世界へ伝えたいという思いで重なった。一緒になってタブーを突き崩す、そんな必死さがあった」
2人が水俣を過ごした時代は、69年にチッソを相手に「訴訟派」が起こした損害賠償請求訴訟が正念場を迎えていた。それとは別に、チッソと直接談判しようとする「自主交渉派」も運動を展開。73年には熊本地裁判決が下り、原告勝訴。その後、チッソとの補償協定が成立した。大きな時代の転換期だった。しかし、その一方で、補償金を得た患者の病状は何も変わらないという現実もあった。慢性の水俣病被害者への関心はまだ希薄だった。常に、描かれたもの、描かれなかったものはある。写真集自体が、あの時代を象徴する。それでも、世界へ向けた告発の書は、四半世紀を経た今もなお、色あせてはいない。
裏表紙にユージンの言葉がある。
〈私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときに物を言う。それが私-そしてアイリーン-が水俣で写真をとる理由である〉
(文=水俣支局・中山憲康)
▼W・ユージン・スミス
1918年12月30日、米国に生まれる。39年に写真雑誌「ライフ」と契約。太平洋戦争の従軍特派員となり、沖縄で至近弾を受け負傷。「楽園へのあゆみ」で有名になり、「カントリー・ドクター」「スペインの村」など多数のフォトエッセーを出す。71年にアイリーンと結婚し、74年まで水俣に滞在。ロバート・キャパ賞を受賞。78年10月15日、脳出血のため死去。
▼アイリーン・M・スミス
50年5月26日、東京で生まれる。71年からユージンのアシスタントとなり、その後結婚。現在は、反原発の非政府組織(NGO)「グリーン・アクション」代表。京都市在住。
本著の前に「MINAMATA」(英語版)を75年、米国で出版している。
●私の推薦文
複雑な位相を見事に描く 田尻 雅美さん(39)=熊本学園大学水俣学研究センター 研究助手(熊本県合志市)
差別と偏見の中で、国やチッソに対する患者や支援者たちの闘争に明け暮れた1970年代。その現場を知らない世代の私は、ただ激しいばかりの闘争しかイメージすることができませんでした。
ところが、スミス夫妻が描き出した現場は、座り込みで疲れた体を横たえた女性だったり、格子越しに哀れみとも思えるまなざしでチッソ社員らを見つめる男性だったりと、まさに被害を受けた患者や被害者らの生きざまが伝わってくるものでした。夫妻が水俣に滞在したのは、わずかに3年という間。その中で、水俣病被害者たちとの深い信頼関係を築いたということに驚きを感じます。心の痛みとか命の尊さ、そのもろさを知っていたからこそ、地域の人たちと思いが通じ合ったのでしょうか。
水俣病に関する書籍は何百、何千とありますが、複雑な水俣病問題を見事に描き出しているのではないでしょうか。
●メモ
■ユージンとアイリーンを含め水俣病の受難の歴史を記録してきた写真家たちの作品を集めた「水俣を見た7人の写真家たち展」が9月30日まで、熊本県水俣市明神町の市立水俣病資料館で開かれています。無料。同館=0966(62)2621。
■図録を兼ねた同名の写真集(弦書房、2500円)が出版されています。他の著者に、ユージンを案内し、患者を紹介した塩田武史をはじめ、桑原史成、宮本成美、小柴一良、田中史子、芥川仁の各氏。
■水俣病資料館では、事件史を描いた映像やパネルを展示。語り部制度もあり、水俣病患者など貴重な体験を聞くことができます。隣接して国の水俣病情報センターと熊本県の環境センターがあり、公害や環境問題を扱う展示物が並んでいます。

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