世界へ向けた「告発の書」
1971年9月7日朝、熊本県水俣市の駅に寝台列車から降り立った夫婦がいた。2人の視線の数十メートル先には、水俣病原因企業チッソの正門がどっしりと構えていた。世界的にも著名な写真家になっていたW・ユージン・スミスは52歳。10日ほど前に結婚したばかりのアイリーン・M・スミスは21歳。3年3カ月に及ぶ水俣での取材生活の幕開けだった。
「世界へ伝えなければならない」。そう直感して訪れた水俣の地であった。2人は地域社会の一員となり、その暮らしの内側から患者や被害者らの心情、水俣という町を写し取っていった。高度成長という逆らいようのない時代の流れ、変わる市民生活と変わらない漁師の生活。その中での差別、偏見、中傷…。日本の片隅の町で起こった比類なき水俣病事件の実相を、どう表現すればよいのか。患者や住民を巻き込んだ共同作業は4年後に、米国で出版する「MINAMATA」(英語版)として結実する。
2人が暮らした借家は、今は取り壊されてもうない。同市南部に広がる水俣病多発地区の一角にあった。寝起きする部屋は一間で、まきでたき付ける五右衛門風呂があった。ユージンは、常に酒を手放さなかった。従軍特派員として赴いた沖縄戦で、砲弾の破片が体にくい込み、取り除けずに残っている。その痛みを和らげるために飲んだが、量は尋常ではなかった。640ミリリットル瓶のウイスキーを1日で飲み干した。
風変わりな夫婦を、子どものようにかわいがってくれた患者家族や、お金の工面に苦心する2人を気遣って晩ご飯に誘ってくれた隣人たちとのきずなは次第に深まっていった。胎児性患者たちが集まる「若衆宿」でも飲み、ともに踊った。写真集に「拾い集め生きる命」の章を設けられた胎児性患者の坂本しのぶさん(51)=同市袋=は当時、まだ中学生。若いアイリーンを「お姉ちゃん」と慕い、恋の悩みを打ち明ける仲だった。
水俣に「故郷」のような親近感を抱いたユージンだったが、感性で被写体に迫ることを優先させたのだろうか、日本語を積極的に身に着けようとはしなかった。それゆえに日本人の母を持ち、日本語と日本文化に通じたアイリーンは大切な存在であった。助手であり、マネジャーであり、通訳であり、妻である。なにより複雑な位相を見せる水俣病に向き合う同志だった。2人は、患者の日々の暮らしから闘争の現場まで、あらゆる場面を切り取っていった。
およそ30歳離れた親子のような夫婦は、74年に米国に帰国したあと、離別することになる。誰も気付かなかったが、夫婦の間にきしみは生まれていた。それでも写真集に添える文章を書くために、2人は六週間、ロサンゼルスのアパートにこもった。夫婦としてはだめだったが、写真集を完成させるという目的では、2人は完全に思いを1つにしていた。
既に高校生時代から、地方新聞に写真を掲載するようになっていたユージンは、太平洋戦争の取材で、写真家としての地位を確立した。その後「カントリー・ドクター」「スペインの村」などの数々のフォトエッセーを相次いで発表する。時間をかけて対象に寄り添い、ごく自然な瞬間をとらえる手法は、水俣でも変わらなかった。
ユージンにあこがれて、当時頻繁に出入りした若者だったアマチュア写真家、渕上武さん(65)=同市洗切町=は「最終段階である写真の焼き付けでは、ユージンは決して妥協しなかった」と言う。納得がいくまで焼き直す姿を、渕上さんは何度も目にしている。
地域に受け入れられたユージン自身は、水俣をどう思っていたのか、アイリーンに聞いてみた。
「それが答えかどうか分からないけど、ニューヨークで出会ったころのユージンは、暗室にまでレコードプレーヤを持ち込むほどで、常に音楽に囲まれて暮らしていた。ジャズ、イタリアオペラ、フォークソング…。孤独だったから、音楽が必要だった。不思議と水俣では、あまり聴かなくなった。濃密な人間関係が、ユージンを孤独から解放させたのかもしれない」
2000年。ユージンの死後、写真集の全著作権を引き継いだアイリーンは1つの決断をした。抱きかかえた胎児性患者の娘をじっと見つめる母親を写したユージンの作品「入浴する智子と母」を、以後新たに公開しないことを家族と約束したのだ。智子さんは77年に21歳で亡くなっていたが、水俣病の象徴といわれたその写真は、多くのチラシに使われ続けた。チラシが落ちれば、人々に踏まれることもある。それは家族には堪え難い苦痛であった。「もう、休ませてあげたい」。そんな親の思いを受け止めた末の判断だった。
「今なら、撮影できないと思う。あの時代、患者さんもわれわれも水俣病の実情を世界へ伝えたいという思いで重なった。一緒になってタブーを突き崩す、そんな必死さがあった」
2人が水俣を過ごした時代は、69年にチッソを相手に「訴訟派」が起こした損害賠償請求訴訟が正念場を迎えていた。それとは別に、チッソと直接談判しようとする「自主交渉派」も運動を展開。73年には熊本地裁判決が下り、原告勝訴。その後、チッソとの補償協定が成立した。大きな時代の転換期だった。しかし、その一方で、補償金を得た患者の病状は何も変わらないという現実もあった。慢性の水俣病被害者への関心はまだ希薄だった。常に、描かれたもの、描かれなかったものはある。写真集自体が、あの時代を象徴する。それでも、世界へ向けた告発の書は、四半世紀を経た今もなお、色あせてはいない。
裏表紙にユージンの言葉がある。
〈私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときに物を言う。それが私-そしてアイリーン-が水俣で写真をとる理由である〉
(文=水俣支局・中山憲康)
▼W・ユージン・スミス
1918年12月30日、米国に生まれる。39年に写真雑誌「ライフ」と契約。太平洋戦争の従軍特派員となり、沖縄で至近弾を受け負傷。「楽園へのあゆみ」で有名になり、「カントリー・ドクター」「スペインの村」など多数のフォトエッセーを出す。71年にアイリーンと結婚し、74年まで水俣に滞在。ロバート・キャパ賞を受賞。78年10月15日、脳出血のため死去。
▼アイリーン・M・スミス
50年5月26日、東京で生まれる。71年からユージンのアシスタントとなり、その後結婚。現在は、反原発の非政府組織(NGO)「グリーン・アクション」代表。京都市在住。
本著の前に「MINAMATA」(英語版)を75年、米国で出版している。
●私の推薦文
複雑な位相を見事に描く 田尻 雅美さん(39)=熊本学園大学水俣学研究センター 研究助手(熊本県合志市)
差別と偏見の中で、国やチッソに対する患者や支援者たちの闘争に明け暮れた1970年代。その現場を知らない世代の私は、ただ激しいばかりの闘争しかイメージすることができませんでした。
ところが、スミス夫妻が描き出した現場は、座り込みで疲れた体を横たえた女性だったり、格子越しに哀れみとも思えるまなざしでチッソ社員らを見つめる男性だったりと、まさに被害を受けた患者や被害者らの生きざまが伝わってくるものでした。夫妻が水俣に滞在したのは、わずかに3年という間。その中で、水俣病被害者たちとの深い信頼関係を築いたということに驚きを感じます。心の痛みとか命の尊さ、そのもろさを知っていたからこそ、地域の人たちと思いが通じ合ったのでしょうか。
水俣病に関する書籍は何百、何千とありますが、複雑な水俣病問題を見事に描き出しているのではないでしょうか。
●メモ
■ユージンとアイリーンを含め水俣病の受難の歴史を記録してきた写真家たちの作品を集めた「水俣を見た7人の写真家たち展」が9月30日まで、熊本県水俣市明神町の市立水俣病資料館で開かれています。無料。同館=0966(62)2621。
■図録を兼ねた同名の写真集(弦書房、2500円)が出版されています。他の著者に、ユージンを案内し、患者を紹介した塩田武史をはじめ、桑原史成、宮本成美、小柴一良、田中史子、芥川仁の各氏。
■水俣病資料館では、事件史を描いた映像やパネルを展示。語り部制度もあり、水俣病患者など貴重な体験を聞くことができます。隣接して国の水俣病情報センターと熊本県の環境センターがあり、公害や環境問題を扱う展示物が並んでいます。
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