西日本新聞

千年書房・九州の100冊

山之口貘「山之口貘詩集」

沖縄よ、傷は深いと聞いているが

 真夏の沖縄で、一本の木を探した。
 名前は「うむまあ」。那覇市で尋ね歩いたが見つからない。「モモタマナ」という和名を告げると、ようやくある男性が公園に案内してくれた。
 幹から水平に伸びた枝に、大人の手のひらよりも大きな葉を茂らせたうむまあは、立派な木陰をつくる木だった。詩人、山之口貘が「世はさまざま」に書いている。
 〈木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ/いつも墓場に立ってゐて/そこに来ては泣きくづれる/かなしい声や涙で育つといふ/うむまあ木といふ風変りな木もある〉
 大きな葉は、陽光を透かして柔らかく輝いていた。全体におおらかで優しい風情がある。貘の詩を思わせる木だった。

 19歳で沖縄を出て、59歳で他界するまで、貘は東京でつつましく暮らしながら、詩を書いた。「精神の貴族」と仲間から慕われた人柄は真っすぐで温かく、すがすがしかった。貧しくも実直な生活に材を採った詩は、柔らかく膨らんでいる。
 貧乏暮らしを見つめた詩から「ものもらひの話」。〈家々の戸口をのぞいて歩くたびにごとに/ものもらひよ/街には沢山の恩人が増えました。/恩人ばかりを振(ぶ)ら提げて/交通妨害になりました。/狭い街には住めなくなりました〉。
 結婚願望の詩も多い。例えば「求婚の広告」。〈1日もはやく私は結婚したいのです/結婚さへすれば/私は人1倍生きてゐたくなるでせう/かように私は面白い男であると私もおもふのです〉
 「平易な言葉で生活の詩を書いた人」と評される。初期こそ語と語、行と行の間にアクロバティックな飛躍をはらんだ詩も目立つが、全体的には的を射た言葉だろう。琉球大学の仲程昌徳教授(64)=近代文学=は「ユーモアと、生活や自身を距離を持って見つめるアイロニカルな視線があって初めて可能な詩」という。
 貘を語るときに頻繁に使われるもう1つの表現がある。「沖縄を代表する詩人」である。沖縄近代史を踏まえて詩業を振り返るとき、その評価は複雑な綾を持っていることに気づかざるを得ない。

 貘が残した詩は約200編。生前に詩集にまとめたのは戦前に作った70編余りで、うち、はっきりと琉球・沖縄にかかわる詩はわずか数編しかない。初期代表作の「会話」はその一作である。
 〈お国は? と女が言った
 さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草(たばこ)に火をつけるんだが、刺青(いれずみ)と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
 ずっとむかふ〉
 女と男の会話が続く。〈ずっとむかふとは?〉〈南方〉〈南方とは?〉〈亜熱帯〉。そして最後の段落。
〈アネツタイ!
 亜熱帯なんだが、僕の女よ(中略)この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生まれた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長(しゅうちょう)だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
 赤道直下のあの近所〉
 「戦前の貘は『会話』の男のように、沖縄出身をあまり表に出していなかったと思います」。山之口貘賞の選考委員を務める那覇市在住の詩人、与那覇幹夫さん(67)はその理由を「(ヤマトの)沖縄人への強烈な偏見と差別」とみる。「会話」を例外として、貘はそれを直接、詩に織り込むことはしなかった。地をはう生活を送りながら、「地球」という語の多様に象徴されるように、精神を高みに浮かべて、ほのかにさびしく温かく、そして気高い詩を書いた。
 戦後、過酷な地上戦で傷ついた沖縄に思いをはせるエッセーを次々と書くようになる。同様のテーマで「弾を浴びた島」「正月と島」といった詩も書く。短詩が多い貘にしては、破格の長編詩となった「沖縄よどこへ」は最も有名な詩だろう。

 独立国・琉球から近代沖縄に至る歴史をたどる詩を、貘はこう締めくくる。
 〈それにしても/蛇皮線の島/泡盛の島/沖縄よ/傷はひどく深いときいているのだが/元気になって帰って来ることだ/蛇皮線を忘れずに/泡盛を忘れずに/日本語の/日本に帰って来ることなのだ〉
 貘が生まれた1903年、後に「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(1876-1947年)は東京帝国大学文学科に入学。「おもろそうし」などの研究を重ね、大和民族と琉球民族の祖先が同じという「日琉同祖論」を展開していく。
 ヤマトによる同化(皇民化)と排除(差別)という相反する圧力を止揚するひとつの道が、日琉同祖であったことは想像に難くない。「貘もその時代の空気を吸って育った」(仲程教授)。そして、「沖縄よどこへ」を書いたのは、多くの沖縄人が米軍統治の圧政からの脱出口を本土復帰に求めた時代であった。
 出身地を問われて口ごもった「会話」と、切々と沖縄への思慕をつづる「沖縄よどこへ」の間には、巨大な時代の断層がある。しかし、いずれの詩もヤマトによって翻弄された沖縄人の〈かなしい声や涙で育つ〉真実の詩であった。
 悲願だった帰郷で変わり果てた沖縄の姿に打ちのめされた貘は63年、病死した。9年後、貘が願った沖縄の本土復帰が実現した。しかし、その時残された巨大な米軍基地は、今も沖縄にある。
 (文=文化部・岩田直仁 写真=写真部・岩崎拓郎)

▼ やまのくち・ばく

 1903年、沖縄県那覇区(現那覇市)生まれ。沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高校)を中退後、22年に上京するが翌年、関東大震災に遭い帰郷。24年、詩稿を抱いて再び上京。以後、清掃業、薬品販売などさまざまな仕事に就き、時には放浪者のように暮らしながら詩を書き続けた。生前に詩集「思弁の苑」(38年)「山之口貘詩集」(40年)「定本山之口貘詩集」(58年)、死後に「鮪(まぐろ)と鰯(いわし)」(64年)がある。63年没。

●私の推薦文

あるがままに生き続けたバクさん 松下 博文さん(50)=筑紫女学園大学教授(福岡県久留米市)

 バクさんの思想はタゴールのそれに近いように思う。タゴールの中心思想は、自身にふりかかってくる災難や苦しみをありのままに受け入れ、その災難や苦しみが自分の生活であり人生であることをそのまま肯定することで人は救われるというそれであった。宇宙から地球を見るように自分の人生を神の高みから見るなら、人の一生は地球をも宇宙をも包含しているという思想であった。こうしたタゴールの思想は、夜の底を野良犬のように歩きながら、しかしその生活を肯定も否定もせずに、あるがままに生き続けたバクさんの生涯にまっすぐ繋がっているような気がする。
 「大儀」はバクさんの生き方を正面から描いた作品。〈躓(つまづ)いたら転んでいたいのである〉〈空でも被って側には海でもひろげて置いて人生か何かを尻に敷いて膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中をまるめていたいのである〉。生き方はなんとなくひょうげて悲しいけれども、人生のつかみ方にはおそらく神やタゴールも一目も二目も置くに違いない。

●メモ

■ フォーク歌手の高田渡さんが大工哲弘さん、佐渡山豊さん、嘉手苅林次さんら沖縄のミュージシャンとともに、「会話」「結婚」「ものもらひの話」といった山之口貘の詩を歌にしたCD「貘‐詩人・山之口貘をうたう」を制作しています。現在、入手困難のようですが、中古ショップなどでは手に入ります。素晴らしいCDなので是非お聴きください。

■現在、郷里の那覇市には貘ゆかりの建物はほとんどありませんが、同市内の与儀公園に建立された詩碑があります。そこには詩「座蒲団」が刻まれています。

■「山之口貘詩集」(思潮社)を5人の読者にプレゼントします。〒810―8721(住所不要)、西日本新聞社文化部「九州の100冊プレゼント係」へ。

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