大陸に夢見たアジアの連帯
「三十三年の夢」にこんな場面がある。
シャム(現在のタイ)に日本から移民たちを連れていったときの話である。中国人の苦力(くーりー)千余人が乗り込んできた。船は大揺れに揺れる。アヘン臭、床虫(ゆかむし)、おなら。そこらじゅうに吐きまくり〈ゲブゲブの声はあたかも戦場のラッパのごとく〉。みんなトイレ代わりの竹筒を持って用を足す。壮絶な船内。やっとのことで上陸すると仲間たちがコレラに倒れ、自らも死にかける。ああ、これまでか。末期(まつご)の水、冷えた黒ビールを一杯飲んだら、いっぺんに生き返った、と。
「だいたいそんなことあるわけないでしょ。黒ビールですぐ治るって。この本の、本当の部分は6割か6割5分ぐらいしかないって思っとります」。宮崎兄弟資料館(熊本県荒尾市)の安田信彦所長(60)はそう言って笑い飛ばす。
「夢」は1903(明治36)年、宮崎滔天(とうてん)33歳、仲間の裏切りに挫折し、志士から浪花節語りに転じるときに新聞連載した半生記である。〈余(よ)が理想は夢想となりおわれり〉と失意にあったものの、そんな自分をもさらけ出し、諧謔(かいぎゃく)を交えて描く。生命力にあふれるアジアの人々、流動する時代の熱気。文章からは、壮大な大陸に夢をかけた人物たちが、生き生きと立ち上がる。
滔天は「中国の革命家・孫文を支えた日本人」と語られる。身の丈六尺(約180センチ)。ぼさぼさの髪の毛を無造作にぎゅっと縛り、いかにも大陸浪人というような面持ち。ただ、異様に大きな目の奥には何もかものみ込むような静けさがあり、豪傑な外観とは対照的な繊細さも醸し出している。
安田所長は「『夢』が中国革命に果たした最大の貢献は孫文を中国人に紹介したこと」とみる。当時あまり知られていなかった孫文について書き、「夢」が中国語に翻訳されたことで、中国革命の機運が盛り上がった。辛亥革命が起こったのは、滔天41歳のとき。1911年だった。
滔天は1870年、熊本県荒尾村(現・荒尾市)に、細川藩の郷士の一家に生まれる。11人きょうだいの八男で末っ子。両親に「豪傑になれ、大将になれ」「金銭に触れるな」「畳の上で死ぬのは男子の恥」と育てられた。家庭には無私無欲、万民平等の空気があふれていた。二男・八郎は熊本協同隊を率いて西南戦争で死亡した自由民権活動家、六男・民蔵は万民による土地の平均再分配を目指した土地復権運動家。滔天も「夢」の中で〈先天的自由民権家〉と自任する。
時代は明治初め。日本も近代の夜明けを迎えていた。西洋列強のアジア支配が強まり、国内には危機感が広がる。民権運動も政府により封じ込まれていった。福沢諭吉が「脱亜論」を書いたのは85年。その6年後、七男・彌蔵は中国革命の構想を滔天に打ち明ける。「中国で革命を起こし、西洋列強の植民地支配からアジアを解放する」という「革命的アジア主義」。2人の青年は、中国に革命拠点を築き、人道回復をアジアに広げることに生涯をささげようと決心したのだ。
アジア諸民族が連帯し、西洋列強に対抗する。当時の「大アジア主義」と、滔天らの考え方は、同じ枠組みではあった。
だが、大アジア主義が日本が盟主となることを前提にしたのと異なり、滔天らはあくまでも平等主義を貫いた。渡辺京二氏は「評伝 宮崎滔天」の中で彌蔵について「国家連合ではなく、むしろ国家の枠を超えた民衆連合」とし、滔天については「国家的意識の徹底的な否定」という思想に到達したとして、滔天を大アジア主義者の1人とみなすことに異議を唱えている。
熊本電波工業高等専門学校(熊本県合志市)の古江研也教授(53)=近代文学=は滔天の「底辺からの視線」に注目する。彼の原動力は情動であり義侠(ぎきょう)心。理屈ではなく「生きものとしての勘、宮崎家のDNAだったのだろう」という。
当時、「日本を盟主として」という考えを否定したのは滔天たちだけではなかったようだ。政治結社・玄洋社(福岡市)の社員たちも「日中不戦を主張し続け、帝国主義的政策とは相いれなかった。彼らも日本が盟主となることを考えていたわけではなかった」と福岡地方史研究会の石瀧豊美会長(58)は語る。
だが、結果として、こうしたアジア主義は明治、大正、昭和となるにつれ、膨張主義、国権主義の色濃い「大東亜共栄圏」という言葉に置き換えられていく。日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、太平洋戦争。滔天らが夢見たアジアの連帯は、大きな力で絡め取られていった。
〈理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なり〉
「夢」にある有名な一節である。滔天の理想は結局、現実となったのか、夢想に終わったのか。
古江教授は「佯狂(ようきょう)」という言葉を挙げる。「夢」では自分を狂ったように見せ掛け、それを逆手にとることで本音を語っているとみる。「『夢』には挫折感はあるが、自分が目指してきた高邁(こうまい)な思想は少しも否定していない。さらけ出して訴えたかったものは、まさに彼が抱いてきた夢そのものであり、中国革命のとば口ではその夢は実現したといえるのではないか」
その後、日本が帝国主義に走った時代に夢想となってしまった理想は、戦後、平和国家の下で滔天が再評価され、実現されたといえるのかもしれない。だが、どうだろう。例えばミャンマー政府の民衆への攻撃に、どれほどの日本人が痛みを共感し、「実行」しているか。アジアとの距離は遠くなりにけり、余が理想は夢想となりおわれり。滔天はあの独特な深い瞳で、平成の世をそう眺めるのだろうか。
(文=文化部・酒匂純子 写真=写真部・岩崎拓郎)
▼みやざき・とうてん
1870(明治3)年、熊本県荒尾村に、細川藩の郷士の八男として生まれる。15歳で徳富蘇峰の大江義塾に入学、同人社、東京専門学校(現早稲田大学)などで学ぶ。キリスト教に入信するも、2年後には棄教。兄・彌蔵とともに、中国にアジア革命の拠点をつくろうとする。97年に横浜で孫文に出会い、以来孫文を通じて中国革命を支援する。浪花節語りに転じた際に新聞連載した半生記「33年の夢」は代表作。晩年は大宇宙教に帰依し、1922年に52歳で亡くなる。
●私の推薦文
聖書と共に人生のバイブルに 津留今朝寿さん(63)=熊本県菊池市国際交流専門員(熊本県高森町)
神学校に通っていた19歳くらいのとき、伯父の本棚にあった「三十三年の夢」を読んだ。こんなすごいやつが日本におったんか、おれはこんな生き方をすると、そのとき決めた。自分の利益をすべて捨てて万民のために生きる。まさに男のロマン、男の生きざま。自分をさらけ出し、むぞらしか(かわいげがある)ところも人間くさく感じた。それから僕の人生のバイブルは聖書と「三十三年の夢」になった。
滔天の人生には受洗の影響も大きかったと思う。恐らく世界が立体的に広がったはずだ。真理とは何か。その後棄教するが、自分は異邦人であるという社会との違和感を抱えながら、その問いを続けたのではないか。
滔天は平和愛好者だが、もし現代に生きていたら、ブッシュに殴り込みに行くけん銭を貸せ、米国で死んだって構わん、と言うのではないか。ミャンマーやアフリカに飛んだかもしれない。全くのアウトロー。いまだに日本という社会が受け入れられない人物だろう。
●メモ
■「三十三年の夢」は岩波文庫のほか、「宮崎滔天」(新学社・近代浪漫派文庫)や「宮崎滔天 三十三年の夢」(日本図書センター)などでも読めます。平凡社からは宮崎滔天全集が出ています。宮崎兄弟研究では故上村希美雄さんが書いた「宮崎兄弟伝」(葦書房、全5巻)が圧巻です。そのコンパクト版「龍のごとく 宮崎滔天伝」がお薦めです。
■熊本県荒尾市には「宮崎兄弟資料館」があり、敷地内に生家もあります。滔天の息子、龍介さんが柳原白蓮と駆け落ちしたことから、白蓮ブームを受けて訪れる人も多いそうです。問い合わせは=0968(63)2595。
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