西日本新聞/九州ねっと
 


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2007年11月25日

藤原新也「少年の港」

 1993年。私が門司支局に赴任したとき、北九州市・門司港の街は「死にかけて」いた。次々に解体される赤れんが造りの倉庫群、閉鎖されたままの旧門司税関、老舗デパート山城屋は経営破たん目前だった。かつて九州の玄関口として栄え、本州、そして遠く中国から雑多な人や物資が集まった港町の建物はことごとく寂れ、姿を消そうとしていた。
 ただしそこには、色あせ、崩れていくだけの、ありきたりの地方都市の最期とは違う、夕日の残照のような鈍い輝きがあった。その印象が間違いではなかったことを、商店街の本屋で偶然手にした写真集が教えてくれた。
 波に泡立つ船だまりの石段は無数の旅人の足跡に削られていた。木造の古い銭湯の湯船からは気持ちの良いため息と会話が漏れてきた。モノクロの1枚1枚から、古い記憶が立ち上がってくる。藤原新也が生まれ育った門司港を写した「少年の港」(92年扶桑社刊、絶版)は、開港100年の街がもつ数々の「物語」の輝きをとらえていた。

 藤原の生家は「藤乃屋」という旅館だった。それがどんな建物だったのか、ベストセラーとなった著書「東京漂流」の中でこう描いている。
 〈部屋数30近くある、当時としては比較的大きな旅館〉〈3階建ての寄せ棟となっているこの建物は、階段だけで5つもある、複雑に入り組んだ構造を持っていた〉
 藤原が「母胎」と呼ぶこの旅館で過ごした日々は、黄金の少年時代だった。旅館には宿泊客だけでなく、密輸商人や泥棒までもが出入りした。客と中居が大みそかに駆け落ちし、別の美人中居に片思いした向かいの交番の巡査が自殺、小学校の先生たちは宴会であられもない痴態(ちたい)を演じた。藤原少年はそれらに目を見張り、飽かず楽しんだようだ。
 昭和20年代から30年代前半。関門橋も関門トンネルもなかった時代。九州に出入りするあらゆる人間と物資が門司港を通った。戦後の混沌(こんとん)と経済成長へ向かう活気がごったまぜになった雰囲気の中で、どれほど刺激的な「物語」が展開したことか。
 藤原と同じ1944(昭和19)年生まれで門司港育ち、今も門司に暮らす画家の川原田徹さんは当時をこう評する。「生き生きとしたナマの世界だった」

 川原田さんが描く空想の「街」は、どれも巨大なカボチャの形をしている。数え切れないほどの店がひしめいて、人々が元気いっぱいに働き、遊んでいる。好んで描く看板は「中将湯」「ボンタンアメ」といったなつかしい昭和の品ばかり。その中に、実在する門司港の商店や料亭の看板が幾つも登場する。川原田さんの「カボチャ」は、藤原の「母胎」と同じく、2人が少年時代を生きた門司港のメタファー(隠喩(いんゆ))なのだろう。
 川原田さんの作品には「藤乃屋」も登場する。「目抜き通りにある大きな旅人宿で、にぎわってましたよ」。少年時代の2人に接点はなかったが、藤乃屋は川原田さんの記憶に残っていた。しかし、時代は動き、人も街も変わる。1960(昭和35)年、藤乃屋は関門トンネル開通に伴う区画整理に引っかかり、あっさり取り壊された。
 高度経済成長とスピード時代の到来。人と物資は、門司港の頭越しに高速道路で運ばれるようになった。団地やプレハブ住宅が全国各地に整備されるに連れて、街は固有の「物語」を失っていった。どこへ行っても同じような「箱」ばかり。生家を奪われた藤原は、入れ替わるように量産される団地を罵倒(ばとう)した。
 〈「家」はこのように、世間や自然に向かって、より没交渉となり、自閉し、非合理や無駄を排した無機物へと変化していった〉(「東京漂流」)
 しかし幸か不幸か、開発から取り残された門司港は、街の「物語」をひそかに語り続けた。

 16歳で故郷を離れた藤原は、カメラマンとなり、文字通り世界を旅して回った。80年代初め、写真週刊誌を飾った1枚の写真に、私は強烈な印象を受けた。インドのガンジス川に放置されたヒトの死体を、犬が食っていた。「人間は犬に食われるほど自由だ」。藤原のメッセージは、バブル期の浮ついた世相に、ぐさりと突き刺さった。
 藤原がいつ門司港を再訪し、「少年の港」を撮ろうと決意したのかは分からない。久しぶりの故郷はきっと、意外なほどに昔の面影を留めていたはずだ。その街角で、藤原は少年だった自分自身を見つけ、シャッターを切った。撮る自分と撮られる自分。数十年分の距離を、どう感じていたのだろう。
 人は誰しも、自分を客体化し、故郷を第三者として眺める過程で、大人になっていく。藤原にとってその第一歩は、関門海峡の対岸、山口県下関市へ連絡船で渡ることだった。
 〈劇的な一瞬だった。海峡の向こうに門司港が見えた。(中略)子供は一瞬の旅行者となり、対岸から自らの町、門司港を遠望するごとに、多分一歩一歩、大人の自我へと接近していったに違いない〉(「少年の港」)
 夕暮れの門司港。私も連絡船に乗ってみた。船上で振り返ると、高層マンションのシルエット、ホテルが放つ明るい光。門司港レトロでにぎわう街は、14年前とは一変していた。しかし、港のたたずまいと、街を抱く山々の姿は変わらない。波の上で、すべては揺りかごのように揺れていた。
(文=地域報道センター・三村龍一 写真=写真部・納富猛)

▼ふじわら・しんや

 1944年3月4日、北九州市門司区生まれ。東京芸大油絵科中退。アジア放浪を経て、72年「印度放浪」を発表。以後、鋭い視線で文明批評を続ける。77年に「逍遙游記」で第3回木村伊兵衛写真賞、81年に「全東洋街道」で第23回毎日芸術賞、2004年、福岡県文化賞受賞。写真週刊誌「フォーカス」の連載でインドの死体写真を発表して話題になるが、連載は打ち切りとなる。著作に「東京漂流」「メメント・モリ」「花音女」「渋谷」など多数。

●私の推薦文

熱い思いでページめくった日々 浜崎いつ子(68)=門司まちづくり21世紀の会事務局長(北九州市門司区)

 「お土産を買ってきてね」。出征する父に、5歳の私はそう言ったそうだ。1944(昭和19)年、門司港から出港した船は、父を乗せたまま、台湾とフィリピン間のバシー海峡に沈んだ。私の中ではいつの間にか、「父-お土産-門司港」とつながってしまった。
 父のことを思い出すとき、いつも視野に関門海峡があった。海に迫る緑のびょうぶのような山。その風景が心を静めるのにどれほど役立ったことか。藤原新也さんの「少年の港」には、つい幼い自分を重ねてしまう。
 出版当時、門司港の商店街には「藤乃屋」をご存じの長老もおられ、私たちは「藤原さんを講演に呼ぼう」と企画した。門司港レトロをテーマに観光地として変わろうとしている街。写真集から伝わる何かをつかみたい。そんな思いでいっぱいだった。企画は実現しなかったが、仲間と熱い思いで「少年の港」をめくった日々がなつかしい。

●メモ

 ■北九州市門司区谷町2丁目に、川原田徹さんが館長を務める「カボチャドキヤ国立美術館」があります。三菱倉庫の保養所だった1918(大正7)年建築の木造洋館を改修、川原田さん自身のポップな塗装が目を引く三角屋根の小さな美術館です。カボチャシリーズの油彩画や銅版画のほか、藤原新也の写真、リトグラフも展示。土曜・祝日のみの開館で、入場料は一般300円、中高生100円、小学生以下無料。同美術館=093(331)5003。

 ■門司港と下関市を5分で結ぶ関門連絡船は、午前6時から午後10時まで、門司港桟橋をほぼ20分おきに出港。同桟橋=093(331)0222。

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2007年11月18日

原田種夫「九州文壇日記」

 粋な着流しに雪駄姿で福博の街を闊歩した文士を、人々は親しみを込めて「ハラタネさん」と呼んだ。
 「九州最後の文士」と呼ばれた原田種夫は、さまざまな顔をもっていた。
 明治生まれの詩人であり、芥川・直木賞候補に計四度選ばれた小説家。九州全域の作家が初めて結集した同人誌「第二期 九州文学」の編集発行人であり、西日本文学史の研究者。さらには造本家でもあった。学生時代の一時期を除き、人生のほとんどを福岡市春吉に暮らした。
 「九州文壇日記」は、昭和4年元日から、亡くなる前日の平成元年8月14日まで書き続けた日記のうち、主に昭和4年元日から昭和25年までの21年間を抄録したものである。原田の年齢でいえば28歳から49歳。ペンという「剱(つるぎ)」に生涯をささげた原田にとって、最も熱く激しい季節だった。

 創立したばかりの西南学院中学に入学した原田種夫は、北原白秋や夏目漱石に親しみ、ハイネやゲーテ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーも読みあさった。少年は文学青年となり、萩原朔太郎のアフォリズムのスタイルをまねて、散文詩を書き始めた。大正14年、24歳の秋に〈未来は分からないが、文学をわが一生の仕事にしようと決心した〉(随筆集「ペンの悦び」より)。
 日記は昭和4年元日、こう始まる。
 〈詩人として、又、思想家としての僕の精神生活の記録の一切は、ことに映像されるものなり。一面この一巻は、激烈なる感情と、愛に燃ゆる、奇異なる人格の詩たり〉
 この年、原田は詩誌「瘋(ふう)癩(らい)病院」の同士、山田牙城らと全九州詩人会を結成し、「年間 九州詩集」の出版を果たす。白秋や加藤介春ら精鋭28人の詩を収めた。九州全体に目を向け、呼びかけた合同詩集はこれが初めての試みであり、オルガナイザー(組織者)としての第一歩であった。

 畳み掛けるように「九州詩壇」を創刊し、各地の詩結社と「九州詩人祭」を開き、九州芸術家聯盟の結成と機関誌「九州芸術」の創刊を決めた。参加者44人の中には、後に久留米で「母音」を創刊する丸山豊の姿もあった。
 〈福岡詩壇にかつてない盛んなる会であった。これが1つの機運となって実を結ぶであろう。〉(昭和9年2月17日)
 そして、ついに九州文壇にとって大きな転機の年となる、昭和13年を迎える。
 福岡日日新聞社(後に西日本新聞社)学芸部長の黒田静男は、原田の「九州芸術」、秋山六郎兵衛らの「九州文学」、矢野朗らの「文学会議」、岩下俊作や劉寒吉らの「とらんしつと」の大同団結を提唱する。だが、前年9月にあった初の打診を、原田が〈即答は出来んが、九州文学の連中と同席は決してせん〉と記したように、交渉は難航を極めた。

 図らずも、団結を促すことになった大事件が、火野葦平「糞尿譚」の芥川賞受賞であった。〈この深い感動を忘れまい。いよいよ詩筆を折る時が来た!詩人原田種夫とお別れの時が来た。自分の作家として起つときが来た。真剣だぞ!〉(2月8日)。
 詩人たちは、こぞって小説へと転向し、次の芥川賞を目指した。九州から次の作家を、という機運が高まったのだ。
 「第二期 九州文学」の創刊が決まった6月18日、原田はこう記している。
 〈九州の文化百年の計は成る。〉
 翌14年、火野に続いて、長谷健が芥川賞を受賞。〈芥川賞を九州でさらってしまえ!〉(8月1日)と書いている。
 中央の視線は九州に向けられた。岩下俊作の「富島松五郎伝」、矢野朗の「肉体の秋」、劉寒吉の「翁」「10時大尉」ら仲間が次々に芥川・直木賞候補に挙がった。原田の作品も小説「風塵」が芥川賞候補(昭和15年)、「家系」も直木賞候補(昭和19年)となり、大同団結した九州文壇が熱くたぎった時代はピークを迎えた。
 昭和20年4月、原田は召集令状を受けるも、体格検査に不合格となり、西部軍管区報道部に配属。そして敗戦を迎えた。
 〈大東亜戦争終結の聖断下る。言うべきことば1つもなし。〉(8月15日)
 〈家族とともにあたたかく楽しく生き、なぐさめをとらえてゆこう。忘れたい、忘れたい、忘れたい、日本の敗北を忘れたい〉(8月28日)
 原田は、日記の中で自らの志を常に問うていた。例えばこんな風に。
 〈作家原田種夫よ。もう起ったらどうだ! 剱をやすめるのが永すぎるぞ。世相の不安、動揺に藉口して怠けたら駄目である。書きたいものは胸中にひしめき合っているではないか。もう起つときだ!時代が来た!ほんとの作家か、にせの作家か!自ら実証したらどうだ!汝は詩人か、作家か!どちらだ。独自の世界をもつ原田種夫よ。〉(昭和20年9月21日)
 原田は剱を休めることなく、創作を続けた。昭和29年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」は相次ぎ直木賞候補になった。一方で、原田は文壇史の発掘にのめり込んでいく。文学者としての見識、幅広い人脈を生かし、九州各地に埋もれた文学を掘り起こし「実説・火野葦平-九州文学とその周辺」「黎明期の人びと-西日本文壇前史」などにまとめた。
 登場人物3000人という日記を編集し、一冊にまとめた志村有弘・相模女子大教授(66)=中世文学=は「九州にとどまらず、昭和の日本の文学、文化、風俗の実態を伝える一級の資料であり、日記そのものが文学として成り立っている。鏤骨彫心の人だった」と評する。

 原田種夫は、愛妻家で子煩悩な家庭人でもあった。「おやじは酒飲まんから、よく喫茶店に連れられて行きよりました。ブラジレイロに森永キャンデーストア…。もう博多も変わりましたなあ」。長男の種秀(71)=福岡市中央区=は、コーヒー党の父の姿を思い出す。同人との会合にも頻繁に使った喫茶ブラジレイロは強制疎開のため、那珂川のたもとから博多区店屋町に移転した。その跡には原田の文学碑が建っている。
 原田は晩年まで、小説を書きたがっていたという。自らの代表作として、初期の「風塵」ばかりが語られることに納得できなかったのだろうか。
 いま、人々は尊敬の念を込め「九州文学界の縁の下の黒子」、あるいは「無冠の検証者」と彼を呼ぶ。ペンという「剱」に込めた志に、最後まで誠実に向き合った文士であった。
(文=文化部・塚崎謙太郎 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼はらだ・たねお

 1901年(明治34年)、福岡市春吉に生まれる。本名は種雄。大正の終わりごろから詩を書き、山田牙城らと詩誌「瘋癩病院」「九州詩壇」などを創刊。次第に小説を志向し、火野葦平や劉寒吉らと38年に第2期「九州文学」を発刊。40年の「風塵」が芥川賞候補、54年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」が直木賞候補となる。「西日本文壇史」「黎明期の人びと」など九州文壇史の研究に力を注ぎ、九州芸工大や福岡市美術館の誘致建設にも尽力した。89年8月15日、88歳で死去。「九州文壇日記」は91年2月に出版された。

●私の推薦文

背筋に誇り感じられた紳士 田村 明美さん(70)=梓書院会長(福岡県那珂川町)

 原田種夫先生は、私が梓書院(福岡市)を起こしたとき、設立発起人として、取締役として参加していただき「記録・九州文学(創作篇)」をはじめ、「緒方隆士小説集」や「筑前のわらべ遊び」など多くの本を一緒に手掛けました。梓書院創立十周年の折には書き下ろし小説「薪能」を含む「銀婚飛行」を出版しました。題字は、とてもかわいがっていたお孫さんの筆によるものでした。
 今はファクスやメールという便利なものがあり、九州、福岡在住でも作家活動ができますが、昔はやはり東京中心でした。その中で福岡に腰を据えてきた人生には、ずいぶん苦労もあったことでしょう。「九州文壇日記」には、文壇の交流や創作の苦悩とともに、家族をとても大事にした先生の姿が記録されています。奥さまとの会話は、いつも掛け合い漫才みたいで仲むつまじく、ほほ笑ましい光景でした。いつも着流しに雪駄のおしゃれな格好で、誇りみたいなものが背筋に一本、ぴーんと入っていた紳士でした。

●メモ

■原田種夫は1939年から43年にかけて、西日本新聞社(福岡日日新聞社)に勤めました。初の掲載記事は41年3月、北原白秋へのインタビューでした。その後、映画配給会社や出版社勤めを経て、51年から文筆生活に専念しました。

■福岡市総合図書館の郷土・特別資料室では、本人の遺志により寄贈された蔵書14542点を「原田種雄文庫」として保存・公開しています。文芸だけでなく、映画史や郷土玩具、方言研究など幅広い分野で作品を残した文士の膨大な蔵書は、一見の価値があります。

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2007年11月11日

徳富蘇峰「蘇峰自伝」

 何年前だったか、博多・箱崎の放生会の夜店で一冊の古いノートを見つけた。麻ひもでザラ紙をとじ、表紙に「蘇峯(そほう)集」とある。表紙裏は授業時間表。「珠」「修」「裁」など、今はない教科名が並び、「第六学年12組 近藤正子」と鉛筆で書かれていた。
 約100枚のザラ紙には徳富蘇峰の新聞コラムがていねいにはられていた。昭和6年から10年まで大阪毎日新聞に掲載された記事で、最初のページが「『西洋文明の没落』を讀(よ)む」。福沢諭吉の娘婿で、「日本の電力王」と言われた福沢桃介が書いた冊子の書評だった。「脱亜入欧」を説いた義父に異を唱え、「西洋の没落、東洋の勃興(ぼっこう)」を力説したことに賛辞を送っている。
 昭和6年といえば、その後15年続く戦争の引き金を引いた満州事変の年。小学6年の女の子が、蘇峰の政治コラムを理解できたのか。娘のノートを父親がスクラップ帳にしたのか。蘇峰の人気はそんなに幅広かったのか。蘇峰のことをもう少し知りたいと思い、この「自伝」を手に取った。

 

 蘇峰が生まれたのは明治維新の5年前。この年、長州藩では高杉晋作が奇兵隊を組織した。亡くなったのが第二次大戦の12年後。経済白書が「もはや戦後は終わった」と宣言した翌年である。日本の近代史そのものの94年。この変化に富んだ長い時を生きた男の物語を貫くのは、新聞記者へのこだわりである。
 まだ13、4歳のころ、半紙つづりの「白川新聞」、一枚刷りの「熊本新聞」、さらに父が購読していた「東京日日新聞」の三紙を読んでいた。「新聞記者たらんとする希望は当時から兆候があった」「露土戦争(ロシアとオスマン帝国の戦い)のことなどもその約略を心得ていた」というから、けた外れに早熟な新聞人である。さらに、なんでも結論から先に話してしまい、会話や演説に面白みがないと言われたとぼやく。新聞記事の基本である「要点先述」が、蘇峰の場合、原稿用紙の枠内にとどまらなかったのだろう。

 蘇峰がジャーナリズム界に登場したのは明治19年。自費出版した「将来之日本」である。同志社大学の創始者新島襄に心酔し、薩長藩閥政治に反発。欧化主義の下、鹿鳴館に浮かれる人々を軽蔑(けいべつ)し、政府の武断政治に対して文治主義、平和主義を掲げた。西園寺公望から「貴君の書いたものは、なにやら社会主義の要素が含まれている」と言われたのもそのころである。
 翌20年に雑誌「国民之友」を創刊、23年には新聞社「国民新聞」を創設する。「当初はただ新聞記者とならんとするが唯一の目的だったが、完全に新聞記者の機能を働きしむるには自分が新聞紙そのものに対する自由の手腕をふるうことが必要だった」
 資金繰りから記者、編集者の養成、印刷所の確保まで28歳の青年社長は駆け回った。「新聞は読むものであると同時に見るものである。あらゆる事件を絵画にして説明する必要がある」と、今で言うならビジュアルな紙面づくりを呼び掛け、しかつめらしい論説中心だった新聞の改革を実践した。

 その一方で、蘇峰は政治の世界に吸い込まれる。そもそも「みずからは政治家たるを好まなかったが、政治そのものはすこぶる好物で、一時も離れることができなかった」政治好き人間。濃淡はあるが、初代首相伊藤博文をはじめ、蘇峰が嫌悪していたはずの藩閥政治家とも関係を深めた。最大のきっかけは、日清戦争とその直後の「三国干渉」である。自伝もこう語る。
 「明治27、28年戦役が起こるや、藩閥政治も薩長も何もかも打ち忘れ、挙国一致清国にあたることを当面の急務とし、一切を犠牲とした」
 勝利国日本は中国遼東半島を獲得した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国は日本の支配強化に危機感を抱き、同半島を還付させた。そのとき、蘇峰は偶然、遼東半島の旅順口にいた。足元の「領土」を奪われ、感情も高ぶったのだろう。「精神的にほとんど別人となった。力が足らなければ、いかなる正義公道も半文の価値もないと確信した」と告白。波打ち際から小石や砂利を一握りハンカチに包んで持ち帰った。第二次大戦中、大日本言論報国会会長を務め、戦後、帝国主義者として「A級戦犯」の容疑対象者となった原点は、ここにある。

 戦後、蘇峰は文化勲章を返上し、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と戒名を付けて熱海に引きこもった。亡くなって今年で50年。著作権の保護期間も切れた。戦前から秘書を務めた故塩崎彦市氏が、熱海に近い神奈川県二宮町に開設した「徳富蘇峰記念館」には5万通を超す蘇峰宛書簡が保管されている。歴代首相のほか与謝野晶子、川上音二郎、緒方竹虎らの名前が並ぶ。塩崎氏の六女高野静子さんらが整理や分析を続け、高野さんは夏目漱石の手紙などから蘇峰の実像を描き出す著作をすでに二冊発刊している。高野さんの蘇峰評は「人間が大好きな人ってことでしょうか」だった。
 大正末期から終戦直前まで住んだ東京・大森の山王草堂記念館。百冊に及ぶ「近世日本国民史」の威容に気おされた後、ふらりと入った管理人室の黒板に一枚の赤茶けた短冊が掛かっていた。

 蘇峰の書を我に薦めし友早く 校を退きぬ まづしさのため
 啄木「一握の砂」

 そういえば、石川啄木も函館日日、釧路新聞に勤め、東京朝日新聞の校正係として夏目漱石の新聞小説「それから」や「門」などを担当した新聞人でもある。94歳まで生きた蘇峰と明治45年に26歳で逝った啄木。「もしや」と5万件の書簡目録に啄木の名を探したが、妻節子と同姓同名の別人の名があるだけだった。
(文=川崎隆生 写真=写真部・岡部拓也)

▼とくとみ・そほう

 1863(文久3)年、熊本県益城町生まれ。本名猪一郎。生家は水俣の総庄屋。徳富蘆花の兄。熊本英学校から同志社に進み、平民主義を唱えて民友社を設立、国民新聞を創刊した。日清戦争後の三国干渉に憤慨、国家主義者に転じた。第二次大戦中、大日本言論報国会会長を務め、文化勲章も受章。戦後はA級戦犯容疑者となり公職追放。信長時代から西南戦争までを33年かかって書き終えた全百巻の「近世日本国民史」をはじめ主要著書は約300冊。1957(昭和32)年、94歳で死去。

●私の推薦文

蘇峰が見え、時代も見える 宮崎 松代さん(50) 和田 千枝さん(58)=徳富蘇峰記念館職員(神奈川県二宮町)

 私たちは徳富蘇峰記念館に見える方々に蘇峰という人物の説明をしている。その際「蘇峰自伝」は教科書として大いに役立っている。自伝に描かれたエピソードが蘇峰という人間やその時代背景を表し、しかもおもしろいからだ。
 「吾(わ)が父と母とは性格から趣味まで相反していた。予は常に父が母であり、母が父であったら、吾家は総ての点において、一層幸福であったろうと考えた」といったくだりからは、蘇峰の両親像がうかがえる。好々爺(こうこうや)とした蘇峰の父と指揮官的な素養をもった母が映る一家の写真を手にしながら説明すると、説得力が増す。また、自伝の中に登場する蘇峰と交遊のあった人々は、蘇峰独特の筆致で生き生きと描かれている。さらに、自らの性格を分析した部分も、蘇峰を理解するには大きな助けとなる。
 蘇峰の著書は300冊を超える。徳富蘇峰を知るにも、蘇峰が生きた時代を学ぶにも、是非読んでいただきたい一冊である。

●メモ

 ■蘇峰は自伝を3回書いた(いずれも口述筆記)。最初は大正12年の中央公論新年号。続いて昭和4年、雑誌「改造」に連載した。本書はその6年後に出版、三国干渉以降を加筆した。

 ■蘇峰ゆかりの施設は、熊本県益城町の「蘇峰生誕の家記念館」、熊本市大江の「徳富記念館」、水俣市の「徳富蘇峰・蘆花生家館」などのほか、神奈川県二宮町の「徳富蘇峰記念館」、東京・大森の居宅跡「山王草堂記念館」、山梨県山中湖村の「徳富蘇峰館」がある。

 ■今年は没後50年。命日の11月2日、蘇峰・蘆花生家館で「蘇峰先生顕彰会」の発足式が行われた。昨年までの墓前祭に区切りをつけ、再出発した

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2007年11月04日

一ノ瀬泰造「地雷を踏んだらサヨウナラ」

085_01.jpg 佐賀県武雄市街地を一望する御船山のふもと、武雄川のそばに建つ小さな家を久しぶりに訪ねた。伝説的な報道写真家・一ノ瀬泰造の母、信子さん(85)は足がやや不自由な様子だったが、気丈な人らしく声はしっかりしていた。「お久しぶりですね」と向けてくれた笑顔も昔のまま。手には、見せて頂きたいとお願いしていた泰造のカメラがあった。カンボジア内戦を取材したニコンである。
 武雄支局に勤務していた2000年、信子さんと初めて会った。戦場に消えた泰造の業績を世に出すために心を砕き、奔走する信子さんは、写真部勤務が長い私にとってぜひとも取材したい人だった。
 戦争も戦場も今の日本人には「遠い世界」。なのに、無性に泰造の写真が見たくなることがある。そして災禍に見舞われた国で撮られた写真なのに、なぜか心が温かくなる写真がある。泰造は戦場に何を求め、そこで何を見つけたのか? 久しぶりに信子さんを訪ねたのは、その理由を探ってみたかったからかもしれない。出発点として、泰造のカメラに触れたかった。ニコンはズッシリと重かった。

 泰造は1972年1月、東南アジアに入り、ベトナム戦争などを取材。73年11月、カンボジア内戦下のアンコールワットに単独潜入し消息を絶ち、82年に両親が死亡を確認した。写真・書簡集「地雷を踏んだらサヨウナラ」は、安否が確認できなかった78年、カンボジアなどで取材したフィルムと、友人や知人、両親とやりとりした手紙類をカメラマン仲間らがまとめて出版された。
 タイトルは泰造がアンコールワットに潜入する直前の73年11月18日付で友人にあてた手紙の一節から採られた。
 〈今回は、地雷の位置も全然解らず行き当たりドッカンで、例の所の最短距離を狙っています。旨(うま)く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだらサヨウナラ!〉
 信子さんは「初めてタイトルを聞いたとき、胸に何かがぐさっと刺さり、痛みが走るような気がした。軽い調子だけど、本当の気持ちを表していると感じました」と述懐する。
 泰造は学生時代、友人と「一流のカメラマンになりたい」「有名になるには他人と違うことをしなければ」と語り合っていた。66年のアサヒグラフでベトナム戦争を知り、ピュリツァー賞を受賞したカメラマン、沢田教一の写真でベトナム行きを決断した。「豊かな日本にいたのでは分からない、自分で見て肌で感じた戦争や真実を世界に伝えたくなったのでしょう」と信子さんは語る。
 日本を出た72年、ポル・ポト軍は世界最大級の石造仏教寺院遺跡アンコールワットを占拠していた。立ち入りが禁じられたワットの写真は「撮れば2万ドルの報酬」とうわさされ、世界中のカメラマンがスクープを狙った。泰造は「『自由とカネと栄光』を旗印とし、(中略)われこそ1番乗り、と大きな野心に燃えて、その門前町であるシェムリアップに腰を据えて」(「泰造 見てますか?」一ノ瀬信子著)取材態勢を整えて“戦列”に加わった。24歳の年である。

 硝煙や銃火をかいくぐって取材を続けた。攻撃を受け道路脇に逃げる兵士、奇襲を受ける兵士たち、負傷兵の救出、兵士の遺体…。両親への手紙で〈好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲しむことはないヨ、母さん〉〈迫撃砲の集中攻撃を受け、心臓が凍ってしまいそうにこわいこともたびたびですが、僕は“ワー・フォトグラファー”、こんなにやりがいのある仕事はありません〉とつづっている。
 友人や両親への手紙から浮かび上がるのは、世界の写真史に名を刻もうという野心あふれる若者の姿だろう。野心を支える勇気もあった。ともにカンボジア内戦を取材した千葉県柏市の報道写真家、馬渕直城さん(63)は語る。「小銃弾が飛ぶ中でも彼は立ち上がって、地面にはいつくばっているぼくらの写真を撮っていた」
 やがて泰造に微妙な変化が訪れる。
 〈僕はカンボジア人が好きです。人が良くて、のんきで、この4カ月のうちに、多くの友達を得、彼等(かれ ら)がいろんな助けをしてくれました〉。遊び場にロケット弾が撃ち込まれ、一緒に戦争ごっこをしていた子ども3人の命が奪われた。馬渕さんは「戦場という過酷な条件に耐える民衆の生活、表情にも彼のレンズが向くようになった」と感じた。泰造は大きな心境の変化を記す。〈アンコールワット入りは1番じゃなくてもいい〉と。
 写真の狙いが変わった。休暇で自宅に戻った兵士を迎える家族、突然の戦闘に逃げ惑う民衆、硝煙が上がる戦場を背に川遊びをする子どもたち…。信子さんは言う。「アンコールワットで村人や政府軍、ポル・ポト軍ともひざを交え、戦争の無意味さ、カンボジアの素晴らしさ、平和の尊さについて語り合い、そんな場面を撮りたかったのでしょう」
 有り余る野心も戦争への怒りも、人間に対する愛も注いだカンボジアで、泰造は殺される。その時、泰造の胸に去来したのはどんな思いだったのだろうか。
 取材の終わり、戦場に立ったことのある馬渕さんに1つの質問してみた。
 「泰造さんが生きていたら何を撮ると思いますか」
 「抽象的だけど」の後に少し間を置いて答が返ってきた。「戦争を起こしたくなる人間の本性を写し出す写真を泰造さんなりに探るんだと思う。平和につながるような写真を」
 (写真、文=写真部・永田浩)

▼いちのせ・たいぞう

 1947年11月1日、佐賀県武雄市生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業した後、UPI通信社東京支局に勤務。その後、フリーの報道写真家として東南アジアに入り、ベトナム戦争などを取材する。カンボジアで内戦が続いていた73年、クメール・ルージュ(後のポル・ポト軍)の支配下にあったアンコールワットに単独潜入後、消息を絶つ。26歳だった。82年、両親が現地で遺骨を確認した。遺骨の一部はカンボジアに眠っている。

●私の推薦文

精いっぱい駆け抜けた生きざま 角 良孝さん(58)=泰造さんの出身高校の後輩(佐賀県武雄市)

 一ノ瀬泰造さんの写真を初めて見たのは、ある週刊誌だったと記憶する。過激で生々しい戦場の写真ではなく捕虜の交換の様子だったと思う。何となくばつが悪そうな、照れくさいような笑みを浮かべ、川を渡る捕虜たちの顔を思い出す。その後、泰造さんが撮るようになる写真の一面を感じ取れるような気がした。私は戦場の激しく生々しい写真もさることながら、悲惨な戦場の中でも日常の暮らしや、ほのぼのとした優しい写真に引かれる。そこに泰造さんの人柄が表れている。今回のTAIZO展のポスターが私の1番のお気に入りだ。戦場での活動は2年足らず。にもかかわらず映画、出版物、写真展など没後34年、いまだに取り上げられる。若い人たちはもちろん多くの人が、大きな夢や目的へのたゆまない挑戦、短い人生を精いっぱい駆け抜けた生きざまに大きな共感を覚えるのではないだろうか。

●メモ

 ■佐賀県武雄市は、一ノ瀬泰造の生誕60周年を記念した写真展「TAIZO+TAKEO展」を30日まで同市武雄町の図書館・歴史資料館で開催しています。代表作の1つ「届いた手紙」など126点が並びます。入場料は一般1000円、高校生500円、中学生以下は無料です。問い合わせは、同市観光協会内の実行委=0954(23)7766。

 ■泰造に関する手記や写真・文集は「もうみんな家に帰ろー!」(窓社)や「泰造見てますか?」(同)など8冊あります。写真はどれも母親の信子さんが焼き付けた作品です。戦争の何を伝えたかったかが迫ってくるようです。

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