藤原新也「少年の港」
1993年。私が門司支局に赴任したとき、北九州市・門司港の街は「死にかけて」いた。次々に解体される赤れんが造りの倉庫群、閉鎖されたままの旧門司税関、老舗デパート山城屋は経営破たん目前だった。かつて九州の玄関口として栄え、本州、そして遠く中国から雑多な人や物資が集まった港町の建物はことごとく寂れ、姿を消そうとしていた。
ただしそこには、色あせ、崩れていくだけの、ありきたりの地方都市の最期とは違う、夕日の残照のような鈍い輝きがあった。その印象が間違いではなかったことを、商店街の本屋で偶然手にした写真集が教えてくれた。
波に泡立つ船だまりの石段は無数の旅人の足跡に削られていた。木造の古い銭湯の湯船からは気持ちの良いため息と会話が漏れてきた。モノクロの1枚1枚から、古い記憶が立ち上がってくる。藤原新也が生まれ育った門司港を写した「少年の港」(92年扶桑社刊、絶版)は、開港100年の街がもつ数々の「物語」の輝きをとらえていた。
藤原の生家は「藤乃屋」という旅館だった。それがどんな建物だったのか、ベストセラーとなった著書「東京漂流」の中でこう描いている。
〈部屋数30近くある、当時としては比較的大きな旅館〉〈3階建ての寄せ棟となっているこの建物は、階段だけで5つもある、複雑に入り組んだ構造を持っていた〉
藤原が「母胎」と呼ぶこの旅館で過ごした日々は、黄金の少年時代だった。旅館には宿泊客だけでなく、密輸商人や泥棒までもが出入りした。客と中居が大みそかに駆け落ちし、別の美人中居に片思いした向かいの交番の巡査が自殺、小学校の先生たちは宴会であられもない痴態(ちたい)を演じた。藤原少年はそれらに目を見張り、飽かず楽しんだようだ。
昭和20年代から30年代前半。関門橋も関門トンネルもなかった時代。九州に出入りするあらゆる人間と物資が門司港を通った。戦後の混沌(こんとん)と経済成長へ向かう活気がごったまぜになった雰囲気の中で、どれほど刺激的な「物語」が展開したことか。
藤原と同じ1944(昭和19)年生まれで門司港育ち、今も門司に暮らす画家の川原田徹さんは当時をこう評する。「生き生きとしたナマの世界だった」
川原田さんが描く空想の「街」は、どれも巨大なカボチャの形をしている。数え切れないほどの店がひしめいて、人々が元気いっぱいに働き、遊んでいる。好んで描く看板は「中将湯」「ボンタンアメ」といったなつかしい昭和の品ばかり。その中に、実在する門司港の商店や料亭の看板が幾つも登場する。川原田さんの「カボチャ」は、藤原の「母胎」と同じく、2人が少年時代を生きた門司港のメタファー(隠喩(いんゆ))なのだろう。
川原田さんの作品には「藤乃屋」も登場する。「目抜き通りにある大きな旅人宿で、にぎわってましたよ」。少年時代の2人に接点はなかったが、藤乃屋は川原田さんの記憶に残っていた。しかし、時代は動き、人も街も変わる。1960(昭和35)年、藤乃屋は関門トンネル開通に伴う区画整理に引っかかり、あっさり取り壊された。
高度経済成長とスピード時代の到来。人と物資は、門司港の頭越しに高速道路で運ばれるようになった。団地やプレハブ住宅が全国各地に整備されるに連れて、街は固有の「物語」を失っていった。どこへ行っても同じような「箱」ばかり。生家を奪われた藤原は、入れ替わるように量産される団地を罵倒(ばとう)した。
〈「家」はこのように、世間や自然に向かって、より没交渉となり、自閉し、非合理や無駄を排した無機物へと変化していった〉(「東京漂流」)
しかし幸か不幸か、開発から取り残された門司港は、街の「物語」をひそかに語り続けた。
16歳で故郷を離れた藤原は、カメラマンとなり、文字通り世界を旅して回った。80年代初め、写真週刊誌を飾った1枚の写真に、私は強烈な印象を受けた。インドのガンジス川に放置されたヒトの死体を、犬が食っていた。「人間は犬に食われるほど自由だ」。藤原のメッセージは、バブル期の浮ついた世相に、ぐさりと突き刺さった。
藤原がいつ門司港を再訪し、「少年の港」を撮ろうと決意したのかは分からない。久しぶりの故郷はきっと、意外なほどに昔の面影を留めていたはずだ。その街角で、藤原は少年だった自分自身を見つけ、シャッターを切った。撮る自分と撮られる自分。数十年分の距離を、どう感じていたのだろう。
人は誰しも、自分を客体化し、故郷を第三者として眺める過程で、大人になっていく。藤原にとってその第一歩は、関門海峡の対岸、山口県下関市へ連絡船で渡ることだった。
〈劇的な一瞬だった。海峡の向こうに門司港が見えた。(中略)子供は一瞬の旅行者となり、対岸から自らの町、門司港を遠望するごとに、多分一歩一歩、大人の自我へと接近していったに違いない〉(「少年の港」)
夕暮れの門司港。私も連絡船に乗ってみた。船上で振り返ると、高層マンションのシルエット、ホテルが放つ明るい光。門司港レトロでにぎわう街は、14年前とは一変していた。しかし、港のたたずまいと、街を抱く山々の姿は変わらない。波の上で、すべては揺りかごのように揺れていた。
(文=地域報道センター・三村龍一 写真=写真部・納富猛)
▼ふじわら・しんや
1944年3月4日、北九州市門司区生まれ。東京芸大油絵科中退。アジア放浪を経て、72年「印度放浪」を発表。以後、鋭い視線で文明批評を続ける。77年に「逍遙游記」で第3回木村伊兵衛写真賞、81年に「全東洋街道」で第23回毎日芸術賞、2004年、福岡県文化賞受賞。写真週刊誌「フォーカス」の連載でインドの死体写真を発表して話題になるが、連載は打ち切りとなる。著作に「東京漂流」「メメント・モリ」「花音女」「渋谷」など多数。
●私の推薦文
熱い思いでページめくった日々 浜崎いつ子(68)=門司まちづくり21世紀の会事務局長(北九州市門司区)
「お土産を買ってきてね」。出征する父に、5歳の私はそう言ったそうだ。1944(昭和19)年、門司港から出港した船は、父を乗せたまま、台湾とフィリピン間のバシー海峡に沈んだ。私の中ではいつの間にか、「父-お土産-門司港」とつながってしまった。
父のことを思い出すとき、いつも視野に関門海峡があった。海に迫る緑のびょうぶのような山。その風景が心を静めるのにどれほど役立ったことか。藤原新也さんの「少年の港」には、つい幼い自分を重ねてしまう。
出版当時、門司港の商店街には「藤乃屋」をご存じの長老もおられ、私たちは「藤原さんを講演に呼ぼう」と企画した。門司港レトロをテーマに観光地として変わろうとしている街。写真集から伝わる何かをつかみたい。そんな思いでいっぱいだった。企画は実現しなかったが、仲間と熱い思いで「少年の港」をめくった日々がなつかしい。
●メモ
■北九州市門司区谷町2丁目に、川原田徹さんが館長を務める「カボチャドキヤ国立美術館」があります。三菱倉庫の保養所だった1918(大正7)年建築の木造洋館を改修、川原田さん自身のポップな塗装が目を引く三角屋根の小さな美術館です。カボチャシリーズの油彩画や銅版画のほか、藤原新也の写真、リトグラフも展示。土曜・祝日のみの開館で、入場料は一般300円、中高生100円、小学生以下無料。同美術館=093(331)5003。
■門司港と下関市を5分で結ぶ関門連絡船は、午前6時から午後10時まで、門司港桟橋をほぼ20分おきに出港。同桟橋=093(331)0222。
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粋な着流しに雪駄姿で福博の街を闊歩した文士を、人々は親しみを込めて「ハラタネさん」と呼んだ。
畳み掛けるように「九州詩壇」を創刊し、各地の詩結社と「九州詩人祭」を開き、九州芸術家聯盟の結成と機関誌「九州芸術」の創刊を決めた。参加者44人の中には、後に久留米で「母音」を創刊する丸山豊の姿もあった。
1901年(明治34年)、福岡市春吉に生まれる。本名は種雄。大正の終わりごろから詩を書き、山田牙城らと詩誌「瘋癩病院」「九州詩壇」などを創刊。次第に小説を志向し、火野葦平や劉寒吉らと38年に第2期「九州文学」を発刊。40年の「風塵」が芥川賞候補、54年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」が直木賞候補となる。「西日本文壇史」「黎明期の人びと」など九州文壇史の研究に力を注ぎ、九州芸工大や福岡市美術館の誘致建設にも尽力した。89年8月15日、88歳で死去。「九州文壇日記」は91年2月に出版された。
何年前だったか、博多・箱崎の放生会の夜店で一冊の古いノートを見つけた。麻ひもでザラ紙をとじ、表紙に「蘇峯(そほう)集」とある。表紙裏は授業時間表。「珠」「修」「裁」など、今はない教科名が並び、「第六学年12組 近藤正子」と鉛筆で書かれていた。
蘇峰が生まれたのは明治維新の5年前。この年、長州藩では高杉晋作が奇兵隊を組織した。亡くなったのが第二次大戦の12年後。経済白書が「もはや戦後は終わった」と宣言した翌年である。日本の近代史そのものの94年。この変化に富んだ長い時を生きた男の物語を貫くのは、新聞記者へのこだわりである。
その一方で、蘇峰は政治の世界に吸い込まれる。そもそも「みずからは政治家たるを好まなかったが、政治そのものはすこぶる好物で、一時も離れることができなかった」政治好き人間。濃淡はあるが、初代首相伊藤博文をはじめ、蘇峰が嫌悪していたはずの藩閥政治家とも関係を深めた。最大のきっかけは、日清戦争とその直後の「三国干渉」である。自伝もこう語る。
1863(文久3)年、熊本県益城町生まれ。本名猪一郎。生家は水俣の総庄屋。徳富蘆花の兄。熊本英学校から同志社に進み、平民主義を唱えて民友社を設立、国民新聞を創刊した。日清戦争後の三国干渉に憤慨、国家主義者に転じた。第二次大戦中、大日本言論報国会会長を務め、文化勲章も受章。戦後はA級戦犯容疑者となり公職追放。信長時代から西南戦争までを33年かかって書き終えた全百巻の「近世日本国民史」をはじめ主要著書は約300冊。1957(昭和32)年、94歳で死去。
佐賀県武雄市街地を一望する御船山のふもと、武雄川のそばに建つ小さな家を久しぶりに訪ねた。伝説的な報道写真家・一ノ瀬泰造の母、信子さん(85)は足がやや不自由な様子だったが、気丈な人らしく声はしっかりしていた。「お久しぶりですね」と向けてくれた笑顔も昔のまま。手には、見せて頂きたいとお願いしていた泰造のカメラがあった。カンボジア内戦を取材したニコンである。
泰造は1972年1月、東南アジアに入り、ベトナム戦争などを取材。73年11月、カンボジア内戦下のアンコールワットに単独潜入し消息を絶ち、82年に両親が死亡を確認した。写真・書簡集「地雷を踏んだらサヨウナラ」は、安否が確認できなかった78年、カンボジアなどで取材したフィルムと、友人や知人、両親とやりとりした手紙類をカメラマン仲間らがまとめて出版された。
1947年11月1日、佐賀県武雄市生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業した後、UPI通信社東京支局に勤務。その後、フリーの報道写真家として東南アジアに入り、ベトナム戦争などを取材する。カンボジアで内戦が続いていた73年、クメール・ルージュ(後のポル・ポト軍)の支配下にあったアンコールワットに単独潜入後、消息を絶つ。26歳だった。82年、両親が現地で遺骨を確認した。遺骨の一部はカンボジアに眠っている。