西日本新聞

千年書房・九州の100冊

徳富蘇峰「蘇峰自伝」

記者にこだわり続けた94年

 何年前だったか、博多・箱崎の放生会の夜店で一冊の古いノートを見つけた。麻ひもでザラ紙をとじ、表紙に「蘇峯(そほう)集」とある。表紙裏は授業時間表。「珠」「修」「裁」など、今はない教科名が並び、「第六学年12組 近藤正子」と鉛筆で書かれていた。
 約100枚のザラ紙には徳富蘇峰の新聞コラムがていねいにはられていた。昭和6年から10年まで大阪毎日新聞に掲載された記事で、最初のページが「『西洋文明の没落』を讀(よ)む」。福沢諭吉の娘婿で、「日本の電力王」と言われた福沢桃介が書いた冊子の書評だった。「脱亜入欧」を説いた義父に異を唱え、「西洋の没落、東洋の勃興(ぼっこう)」を力説したことに賛辞を送っている。
 昭和6年といえば、その後15年続く戦争の引き金を引いた満州事変の年。小学6年の女の子が、蘇峰の政治コラムを理解できたのか。娘のノートを父親がスクラップ帳にしたのか。蘇峰の人気はそんなに幅広かったのか。蘇峰のことをもう少し知りたいと思い、この「自伝」を手に取った。

 

 蘇峰が生まれたのは明治維新の5年前。この年、長州藩では高杉晋作が奇兵隊を組織した。亡くなったのが第二次大戦の12年後。経済白書が「もはや戦後は終わった」と宣言した翌年である。日本の近代史そのものの94年。この変化に富んだ長い時を生きた男の物語を貫くのは、新聞記者へのこだわりである。
 まだ13、4歳のころ、半紙つづりの「白川新聞」、一枚刷りの「熊本新聞」、さらに父が購読していた「東京日日新聞」の三紙を読んでいた。「新聞記者たらんとする希望は当時から兆候があった」「露土戦争(ロシアとオスマン帝国の戦い)のことなどもその約略を心得ていた」というから、けた外れに早熟な新聞人である。さらに、なんでも結論から先に話してしまい、会話や演説に面白みがないと言われたとぼやく。新聞記事の基本である「要点先述」が、蘇峰の場合、原稿用紙の枠内にとどまらなかったのだろう。

 蘇峰がジャーナリズム界に登場したのは明治19年。自費出版した「将来之日本」である。同志社大学の創始者新島襄に心酔し、薩長藩閥政治に反発。欧化主義の下、鹿鳴館に浮かれる人々を軽蔑(けいべつ)し、政府の武断政治に対して文治主義、平和主義を掲げた。西園寺公望から「貴君の書いたものは、なにやら社会主義の要素が含まれている」と言われたのもそのころである。
 翌20年に雑誌「国民之友」を創刊、23年には新聞社「国民新聞」を創設する。「当初はただ新聞記者とならんとするが唯一の目的だったが、完全に新聞記者の機能を働きしむるには自分が新聞紙そのものに対する自由の手腕をふるうことが必要だった」
 資金繰りから記者、編集者の養成、印刷所の確保まで28歳の青年社長は駆け回った。「新聞は読むものであると同時に見るものである。あらゆる事件を絵画にして説明する必要がある」と、今で言うならビジュアルな紙面づくりを呼び掛け、しかつめらしい論説中心だった新聞の改革を実践した。

 その一方で、蘇峰は政治の世界に吸い込まれる。そもそも「みずからは政治家たるを好まなかったが、政治そのものはすこぶる好物で、一時も離れることができなかった」政治好き人間。濃淡はあるが、初代首相伊藤博文をはじめ、蘇峰が嫌悪していたはずの藩閥政治家とも関係を深めた。最大のきっかけは、日清戦争とその直後の「三国干渉」である。自伝もこう語る。
 「明治27、28年戦役が起こるや、藩閥政治も薩長も何もかも打ち忘れ、挙国一致清国にあたることを当面の急務とし、一切を犠牲とした」
 勝利国日本は中国遼東半島を獲得した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国は日本の支配強化に危機感を抱き、同半島を還付させた。そのとき、蘇峰は偶然、遼東半島の旅順口にいた。足元の「領土」を奪われ、感情も高ぶったのだろう。「精神的にほとんど別人となった。力が足らなければ、いかなる正義公道も半文の価値もないと確信した」と告白。波打ち際から小石や砂利を一握りハンカチに包んで持ち帰った。第二次大戦中、大日本言論報国会会長を務め、戦後、帝国主義者として「A級戦犯」の容疑対象者となった原点は、ここにある。

 戦後、蘇峰は文化勲章を返上し、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と戒名を付けて熱海に引きこもった。亡くなって今年で50年。著作権の保護期間も切れた。戦前から秘書を務めた故塩崎彦市氏が、熱海に近い神奈川県二宮町に開設した「徳富蘇峰記念館」には5万通を超す蘇峰宛書簡が保管されている。歴代首相のほか与謝野晶子、川上音二郎、緒方竹虎らの名前が並ぶ。塩崎氏の六女高野静子さんらが整理や分析を続け、高野さんは夏目漱石の手紙などから蘇峰の実像を描き出す著作をすでに二冊発刊している。高野さんの蘇峰評は「人間が大好きな人ってことでしょうか」だった。
 大正末期から終戦直前まで住んだ東京・大森の山王草堂記念館。百冊に及ぶ「近世日本国民史」の威容に気おされた後、ふらりと入った管理人室の黒板に一枚の赤茶けた短冊が掛かっていた。

 蘇峰の書を我に薦めし友早く 校を退きぬ まづしさのため
 啄木「一握の砂」

 そういえば、石川啄木も函館日日、釧路新聞に勤め、東京朝日新聞の校正係として夏目漱石の新聞小説「それから」や「門」などを担当した新聞人でもある。94歳まで生きた蘇峰と明治45年に26歳で逝った啄木。「もしや」と5万件の書簡目録に啄木の名を探したが、妻節子と同姓同名の別人の名があるだけだった。
(文=川崎隆生 写真=写真部・岡部拓也)

▼とくとみ・そほう

 1863(文久3)年、熊本県益城町生まれ。本名猪一郎。生家は水俣の総庄屋。徳富蘆花の兄。熊本英学校から同志社に進み、平民主義を唱えて民友社を設立、国民新聞を創刊した。日清戦争後の三国干渉に憤慨、国家主義者に転じた。第二次大戦中、大日本言論報国会会長を務め、文化勲章も受章。戦後はA級戦犯容疑者となり公職追放。信長時代から西南戦争までを33年かかって書き終えた全百巻の「近世日本国民史」をはじめ主要著書は約300冊。1957(昭和32)年、94歳で死去。

●私の推薦文

蘇峰が見え、時代も見える 宮崎 松代さん(50) 和田 千枝さん(58)=徳富蘇峰記念館職員(神奈川県二宮町)

 私たちは徳富蘇峰記念館に見える方々に蘇峰という人物の説明をしている。その際「蘇峰自伝」は教科書として大いに役立っている。自伝に描かれたエピソードが蘇峰という人間やその時代背景を表し、しかもおもしろいからだ。
 「吾(わ)が父と母とは性格から趣味まで相反していた。予は常に父が母であり、母が父であったら、吾家は総ての点において、一層幸福であったろうと考えた」といったくだりからは、蘇峰の両親像がうかがえる。好々爺(こうこうや)とした蘇峰の父と指揮官的な素養をもった母が映る一家の写真を手にしながら説明すると、説得力が増す。また、自伝の中に登場する蘇峰と交遊のあった人々は、蘇峰独特の筆致で生き生きと描かれている。さらに、自らの性格を分析した部分も、蘇峰を理解するには大きな助けとなる。
 蘇峰の著書は300冊を超える。徳富蘇峰を知るにも、蘇峰が生きた時代を学ぶにも、是非読んでいただきたい一冊である。

●メモ

 ■蘇峰は自伝を3回書いた(いずれも口述筆記)。最初は大正12年の中央公論新年号。続いて昭和4年、雑誌「改造」に連載した。本書はその6年後に出版、三国干渉以降を加筆した。

 ■蘇峰ゆかりの施設は、熊本県益城町の「蘇峰生誕の家記念館」、熊本市大江の「徳富記念館」、水俣市の「徳富蘇峰・蘆花生家館」などのほか、神奈川県二宮町の「徳富蘇峰記念館」、東京・大森の居宅跡「山王草堂記念館」、山梨県山中湖村の「徳富蘇峰館」がある。

 ■今年は没後50年。命日の11月2日、蘇峰・蘆花生家館で「蘇峰先生顕彰会」の発足式が行われた。昨年までの墓前祭に区切りをつけ、再出発した

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