西日本新聞

千年書房・九州の100冊

原田種夫「九州文壇日記」

ペンという「剱」に捧げた生涯

 粋な着流しに雪駄姿で福博の街を闊歩した文士を、人々は親しみを込めて「ハラタネさん」と呼んだ。
 「九州最後の文士」と呼ばれた原田種夫は、さまざまな顔をもっていた。
 明治生まれの詩人であり、芥川・直木賞候補に計四度選ばれた小説家。九州全域の作家が初めて結集した同人誌「第二期 九州文学」の編集発行人であり、西日本文学史の研究者。さらには造本家でもあった。学生時代の一時期を除き、人生のほとんどを福岡市春吉に暮らした。
 「九州文壇日記」は、昭和4年元日から、亡くなる前日の平成元年8月14日まで書き続けた日記のうち、主に昭和4年元日から昭和25年までの21年間を抄録したものである。原田の年齢でいえば28歳から49歳。ペンという「剱(つるぎ)」に生涯をささげた原田にとって、最も熱く激しい季節だった。

 創立したばかりの西南学院中学に入学した原田種夫は、北原白秋や夏目漱石に親しみ、ハイネやゲーテ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーも読みあさった。少年は文学青年となり、萩原朔太郎のアフォリズムのスタイルをまねて、散文詩を書き始めた。大正14年、24歳の秋に〈未来は分からないが、文学をわが一生の仕事にしようと決心した〉(随筆集「ペンの悦び」より)。
 日記は昭和4年元日、こう始まる。
 〈詩人として、又、思想家としての僕の精神生活の記録の一切は、ことに映像されるものなり。一面この一巻は、激烈なる感情と、愛に燃ゆる、奇異なる人格の詩たり〉
 この年、原田は詩誌「瘋(ふう)癩(らい)病院」の同士、山田牙城らと全九州詩人会を結成し、「年間 九州詩集」の出版を果たす。白秋や加藤介春ら精鋭28人の詩を収めた。九州全体に目を向け、呼びかけた合同詩集はこれが初めての試みであり、オルガナイザー(組織者)としての第一歩であった。

 畳み掛けるように「九州詩壇」を創刊し、各地の詩結社と「九州詩人祭」を開き、九州芸術家聯盟の結成と機関誌「九州芸術」の創刊を決めた。参加者44人の中には、後に久留米で「母音」を創刊する丸山豊の姿もあった。
 〈福岡詩壇にかつてない盛んなる会であった。これが1つの機運となって実を結ぶであろう。〉(昭和9年2月17日)
 そして、ついに九州文壇にとって大きな転機の年となる、昭和13年を迎える。
 福岡日日新聞社(後に西日本新聞社)学芸部長の黒田静男は、原田の「九州芸術」、秋山六郎兵衛らの「九州文学」、矢野朗らの「文学会議」、岩下俊作や劉寒吉らの「とらんしつと」の大同団結を提唱する。だが、前年9月にあった初の打診を、原田が〈即答は出来んが、九州文学の連中と同席は決してせん〉と記したように、交渉は難航を極めた。

 図らずも、団結を促すことになった大事件が、火野葦平「糞尿譚」の芥川賞受賞であった。〈この深い感動を忘れまい。いよいよ詩筆を折る時が来た!詩人原田種夫とお別れの時が来た。自分の作家として起つときが来た。真剣だぞ!〉(2月8日)。
 詩人たちは、こぞって小説へと転向し、次の芥川賞を目指した。九州から次の作家を、という機運が高まったのだ。
 「第二期 九州文学」の創刊が決まった6月18日、原田はこう記している。
 〈九州の文化百年の計は成る。〉
 翌14年、火野に続いて、長谷健が芥川賞を受賞。〈芥川賞を九州でさらってしまえ!〉(8月1日)と書いている。
 中央の視線は九州に向けられた。岩下俊作の「富島松五郎伝」、矢野朗の「肉体の秋」、劉寒吉の「翁」「10時大尉」ら仲間が次々に芥川・直木賞候補に挙がった。原田の作品も小説「風塵」が芥川賞候補(昭和15年)、「家系」も直木賞候補(昭和19年)となり、大同団結した九州文壇が熱くたぎった時代はピークを迎えた。
 昭和20年4月、原田は召集令状を受けるも、体格検査に不合格となり、西部軍管区報道部に配属。そして敗戦を迎えた。
 〈大東亜戦争終結の聖断下る。言うべきことば1つもなし。〉(8月15日)
 〈家族とともにあたたかく楽しく生き、なぐさめをとらえてゆこう。忘れたい、忘れたい、忘れたい、日本の敗北を忘れたい〉(8月28日)
 原田は、日記の中で自らの志を常に問うていた。例えばこんな風に。
 〈作家原田種夫よ。もう起ったらどうだ! 剱をやすめるのが永すぎるぞ。世相の不安、動揺に藉口して怠けたら駄目である。書きたいものは胸中にひしめき合っているではないか。もう起つときだ!時代が来た!ほんとの作家か、にせの作家か!自ら実証したらどうだ!汝は詩人か、作家か!どちらだ。独自の世界をもつ原田種夫よ。〉(昭和20年9月21日)
 原田は剱を休めることなく、創作を続けた。昭和29年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」は相次ぎ直木賞候補になった。一方で、原田は文壇史の発掘にのめり込んでいく。文学者としての見識、幅広い人脈を生かし、九州各地に埋もれた文学を掘り起こし「実説・火野葦平-九州文学とその周辺」「黎明期の人びと-西日本文壇前史」などにまとめた。
 登場人物3000人という日記を編集し、一冊にまとめた志村有弘・相模女子大教授(66)=中世文学=は「九州にとどまらず、昭和の日本の文学、文化、風俗の実態を伝える一級の資料であり、日記そのものが文学として成り立っている。鏤骨彫心の人だった」と評する。

 原田種夫は、愛妻家で子煩悩な家庭人でもあった。「おやじは酒飲まんから、よく喫茶店に連れられて行きよりました。ブラジレイロに森永キャンデーストア…。もう博多も変わりましたなあ」。長男の種秀(71)=福岡市中央区=は、コーヒー党の父の姿を思い出す。同人との会合にも頻繁に使った喫茶ブラジレイロは強制疎開のため、那珂川のたもとから博多区店屋町に移転した。その跡には原田の文学碑が建っている。
 原田は晩年まで、小説を書きたがっていたという。自らの代表作として、初期の「風塵」ばかりが語られることに納得できなかったのだろうか。
 いま、人々は尊敬の念を込め「九州文学界の縁の下の黒子」、あるいは「無冠の検証者」と彼を呼ぶ。ペンという「剱」に込めた志に、最後まで誠実に向き合った文士であった。
(文=文化部・塚崎謙太郎 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼はらだ・たねお

 1901年(明治34年)、福岡市春吉に生まれる。本名は種雄。大正の終わりごろから詩を書き、山田牙城らと詩誌「瘋癩病院」「九州詩壇」などを創刊。次第に小説を志向し、火野葦平や劉寒吉らと38年に第2期「九州文学」を発刊。40年の「風塵」が芥川賞候補、54年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」が直木賞候補となる。「西日本文壇史」「黎明期の人びと」など九州文壇史の研究に力を注ぎ、九州芸工大や福岡市美術館の誘致建設にも尽力した。89年8月15日、88歳で死去。「九州文壇日記」は91年2月に出版された。

●私の推薦文

背筋に誇り感じられた紳士 田村 明美さん(70)=梓書院会長(福岡県那珂川町)

 原田種夫先生は、私が梓書院(福岡市)を起こしたとき、設立発起人として、取締役として参加していただき「記録・九州文学(創作篇)」をはじめ、「緒方隆士小説集」や「筑前のわらべ遊び」など多くの本を一緒に手掛けました。梓書院創立十周年の折には書き下ろし小説「薪能」を含む「銀婚飛行」を出版しました。題字は、とてもかわいがっていたお孫さんの筆によるものでした。
 今はファクスやメールという便利なものがあり、九州、福岡在住でも作家活動ができますが、昔はやはり東京中心でした。その中で福岡に腰を据えてきた人生には、ずいぶん苦労もあったことでしょう。「九州文壇日記」には、文壇の交流や創作の苦悩とともに、家族をとても大事にした先生の姿が記録されています。奥さまとの会話は、いつも掛け合い漫才みたいで仲むつまじく、ほほ笑ましい光景でした。いつも着流しに雪駄のおしゃれな格好で、誇りみたいなものが背筋に一本、ぴーんと入っていた紳士でした。

●メモ

■原田種夫は1939年から43年にかけて、西日本新聞社(福岡日日新聞社)に勤めました。初の掲載記事は41年3月、北原白秋へのインタビューでした。その後、映画配給会社や出版社勤めを経て、51年から文筆生活に専念しました。

■福岡市総合図書館の郷土・特別資料室では、本人の遺志により寄贈された蔵書14542点を「原田種雄文庫」として保存・公開しています。文芸だけでなく、映画史や郷土玩具、方言研究など幅広い分野で作品を残した文士の膨大な蔵書は、一見の価値があります。

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