「いつ鎌倉に引越すの」 コピーライター 矢野寛治
1年以上にわたって愛読いただいている「千年書房・九州の100冊」は、残すところ10冊となりました。10冊ごとにお届けする「別冊」は今回が最後となります。テーマは「文学青年よ永遠に」。別冊エッセーの筆者、コピーライターの矢野寛治さんも、実は作家を志した文学青年でした。最終回は自らの半生を振り返って、文学への思いをつづってもらいました。
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若き日、作家を志した人はごまんと居るに違いない。不肖、私もその1人である。小学校時代に母が日本文学全集を月に二冊づつ買い与えてくれた。坪内逍遥から時系列に、錚々(そうそう)たる作家というか文士が、我家を訪(おとな)い始めた。泉鏡花は夢中で読んだ。田山花袋もまあ面白い。子供心に断然面白かったのは、谷崎潤一郎、永井荷風。この両者は文章もこなれており、調子が良く、中身もイビツ、もしくは花柳界のことで、否が応でも私の気を引いた。父の持つカストリ雑誌を大っぴらに見るわけはいかないが、文学全集なら子供といえど世間の目を誤魔化(ごまか)せた。両親は、私があまりにも谷崎、永井を耽読(たんどく)するので、全集を与えたのは早すぎたと、夜半に額を付け合って悩んだらしい。
ある日、配本横光利一がやって来た。母が私の方向を変えようと、母の里の隣村から出た作家であることを強調した。旦那寺も横光家と同じと、我がことのように胸をそらせた。大分県宇佐郡長峰村出自。横光の短編は私を夢中にさせた。今までにない美しい修辞句が鏤(ちりば)められていた。川端康成の兄貴分と書かれてある。写真を見ると、ハットの洋装に、狐のゴージャスな襟巻きを巻いている。そのキザさが好もしかった。
全国小学生作文コンクールで最終選考に残った。最優秀賞は米国旅行である。父は親の欲目で浮き足立ち、すでに旅行の用意を始めた。校長にも伝達していたらしく、佳作で終わり、恥をかいた。この頃は、物語とも作文ともつかぬ、かつ小説ともエッセイともつかぬ、中途半端な駄文をセッセと書いていた。
私が八歳の時、石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を取り、時代の寵児(ちょうじ)となり、世の若者の空気が文筆へ傾斜していた。小学生の私は、アプレな若者を描く石原とは住む世界が違うと、依然、しっぽりとした芸者、娼婦、娼妓ものを、読み耽(ふけ)っていた。中学時代、石川淳、川崎長太郎。高校の時、ついに吉行淳之介という作家に遭遇した。志賀直哉よりも、文章の神様だと思った。ムダが一切省かれた、クリスタルグラスのような文章、文は形容詞から腐るというが、形容詞がトギスマサレテいた。中身も面白い。女性を崇(あが)めていない、そう見せかけておいて、邪険に扱っている。そこにインテリジェンスが意地悪く覗いていた。吉行を真似しようと、ニキビの高校生は決めた。
吉行は若き日に結核を患っていた。作家になるには、まず肺結核に成らねばと、神仏に祈願し、日夜希求した。怠惰な暮らしの御蔭もあって願いが叶い、大学3年の春の健診で罹患(りかん)が判明した。よし此処まで来た、もう一息だと、週に2回のストレプトマイシン注射に痺(しび)れ、パスとヒドラジッドを丸1年間飲み続け、下手な文章を書き続けた。
昭和46年の暮れに、神様吉行淳之介に30枚ほどの短編を読んでいただいた。氏は一言、「矢野くん、小説は作文とは違うんだよ」と云って、中宮寺の弥勒菩薩のごときお顔で微笑(ほほえ)んだ。この言葉だけは、今も鮮明に憶えている。優しい眼をしていた。頑張れという瞳でもあり、才能がないからやめておきなさい、という瞳でもあった。その頃、故里では高校の先輩「松下竜一」と云(い)う男が、「豆腐屋の四季」で飛ばし始めていた。
大学を卒業し、広告会社に就職し、博多にやって来た。土地を変えることで、すべてを吹っ切った気持でいたが、まだ悪あがきをしていた。妻と知り合い、まるで映画「愛妻物語」(新藤兼人監督)の、宇野重吉を気取った。コピーライターの先輩(井上寛治氏)が原田種夫先生に私の一篇を持参した。激賞された。注意点は「わざと露悪に書くこと、は、どうかな」だった。そこで気が大きくなり、妻に結婚を申し込んだ。
プロポーズの台詞(せりふ)、まるで詐欺師のようだが。
「僕は、30歳までに芥川賞を取るから、将来は鎌倉に住み、君は編集者達のお相手をしてください」
若気の至り、愚にもつかぬ大見得を切った。妻は苦笑しながらも応じた。すぐに子が2人できた。子は泣く、まとわりつく。岡本かの子が太郎を柱に縛り付けていたこともよく解かる。お金もかかる、家のローンは35年。日々の生計(たつき)を稼ぐべく、広告の道に没頭し忙殺された。映画「杏っ子」(室生犀星原作、成瀬巳喜男監督)の、木村功のようには成りたくなかった。下手に才なく書き続ければ、劣等感は増大する。増大した劣等感は反感を生み出し、世の中を憎むだけの人間に成り下がる。この辺りが潮時と、2人の子の寝顔を見て、一生平凡に、世に潜み、埋没しようと強く決心した。
以来、30有余年、あと1年で還暦の齢となる。妻が時折り、「いつ鎌倉に引越すのー」と、微笑みながら揶揄する。胸中の獅子は、まだ立髪たてて吼(ほ)えているのだが、返す言葉は無い。すでに禿頭ゆえに立髪もない。ただ卑屈な莞爾を続けるのみである。
●「九州文学」が見た夢
さながら文士の梁山泊(りょうざんぱく)だったに違いない。強烈な個性と野心を持った若者たちが、熱く論を戦わせ、批判と励ましを交わしながら文学に真っ向から取り組んだ。文学への夢が、愛情がふつふつと熱くたぎった。
「九州文学」は1937年に創刊された。その翌年、「九州芸術」「文学会議」「とらんしっと」「九州文学」の4つの地方文芸誌が1つになって、第二期「九州文学」が誕生した。
四誌統合には、福岡日日新聞(現・西日本新聞)の文化部長、黒田静男が仲介に当たった。那珂川沿いの喫茶店ブラジレイロなどで会合を重ねたが、一癖も二癖もある文士たちだ、協議が難航したことは第87回配本の原田種夫著「九州文壇日記」に詳しくつづられている。ともあれ、ようやくなった大同団結には、原田のほか、火野葦平、劉寒吉、岩下俊作、秋山六郎兵衛、矢野朗、内田博ら多彩な作家や詩人が集った。
大戦をはさんで49年までに計116号発行された第二期を受け、第三期、第四期、第五期と「九州文学」の歴史は続いた。原爆をテーマに研ぎ澄まされた詩を書いた長崎の山田かん、「まぼろしの邪馬台国」が話題を集めた島原の宮崎康平、芥川賞候補になった宮崎の黒木清次など、九州全域から才能が結集した。九州文学の黄金期である。
劉の死に伴い一時休刊に追い込まれたが、佐賀市大和町の同人、高尾稔さん(82)が遺志を継いで94年に復刊した。
「かつての『九州文学』にあふれていた熱気は残念ながら、今は薄れてしまった…。でも、劉さんはぼくの親分。親分が残した『九州文学』の火を消すことはできません」
かつて九州の文学青年たちが同人誌に集った時代があった。その頂点に、「九州文学」が君臨した時代が確かにあった。文学青年が消えることはない。しかし、若い才能が集い、かつての原田や火野や劉のように、侃々諤々(かんかんがくがく)と文学を語り合う日は、もう一度訪れるのだろうか…。高尾さんはこの秋に出した通巻521号を最後に、後進に編集を託すという。
●合評会という名の飲み会。慕わしい人のそばに和む
第37回九州芸術祭文学賞受賞、「午前」同人 芝 夏子さん(32)=福岡市中央区
同人誌「午前」の合評会は中洲の外れの小さなバーである。
二度しか発表していない私なのに招いてくださる。同人は70代、80代の大先輩お2人だ。実を言うと合評会という名の飲み会で、カウンターに並んで座り水割りを飲む。両手に花、私が真ん中だ。作品の話はほとんどせず、声を荒げて文学談義をすることもない。慕わしい人のそばに和む。
「書きよりますか!」。主宰者の青海静雄さんは私の顔を見ると必ずこう声をかけてくださる。「はい、書きよります!」。これだけは自信を持ってうなずける。「中央の雑誌から断られても書き続けなさい。習作を書き上げなさい。もしよかったら、午前にも出してください」
先人が手を差し伸べてくれる。申し訳なさとありがたさがごちゃまぜになって、言葉が出てこない。私はつたい歩きのように習作を書いている。書き方を習得したと感じても、次々に押し寄せる意識に紛れ、ふとどこかへ行ってしまう。「書き方」は頭の中の真空にあり、積み上げる習作原稿の束の中にある。コンスタンスにすくい上げることができるようになった時、私は納得のいく小説を生める気がする。
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