ミステリーで描く女性の今
1970年早春、東京・渋谷のコインロッカーから嬰児(えいじ)の死体が発見された。同様の事件が相次ぎ、遺棄された子どもはコインロッカーべービーと呼ばれるようになる。渋谷の事件のすぐ後に、女性誌「an・an」が創刊された。続いて「non-no」もスタート。ベトナム戦争に反対するデモに、女性団体が交じり始め、秋に渋谷で第1回ウーマンリブ大会が開催された。ピンクのヘルメットをかぶった中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)のメンバーがフェミニズムの“あだ花”のように、ブラウン管を彩ったのが72年である。
こうした時代の空気を満身に帯びて、72年、夏樹静子の初期代表作「蒸発」が出版された。複雑な謎解きの面白さに、現代女性のライフスタイルや心性の変化という社会性を加えた新たなミステリーの誕生だった。
6月20日、東京を飛び立ち札幌に向かったボーイング727から、1人の女性乗客が消えた。「密室」という推理小説の定番的手法をひねり、航行中の飛行機から乗客が消えるというマジックのような設定で始まった物語は、一転して消えた女=朝岡美那子の不倫相手、在京の新聞記者、冬木にフォーカスが移る。冬木はベトナム戦争を現地で取材していた5月19日に銃撃に遭遇。一時行方不明となったが保護され、帰国後に美那子の失踪(しっそう)を知った。
美那子の夫、隆人は1人息子の世話をしながら、妻の捜索に奔走する。冬木も美那子を探し回り、彼女の郷里、福岡市にたどり着くが、そこで殺人事件に巻き込まれる。殺されたのは、かつて美那子を慕っていた丹野靖久という鋼材工場を経営する男だった。さらに第二の殺人が起きて…。
今村昌平は67年、失踪者の増加という社会現象にドキュメンタリーの手法で追った映画「人間蒸発」を発表した。身近な家族ですらうかがい知れない、あるいは当人にすら分からない現代人の心の闇を不気味にあぶり出す意欲作だった。夏樹の「蒸発」も女性の胸の奥に巣くう闇を手探りするような物語である。
冬木が初めて出会った時の美那子は、野犬からわが子を盾となって守る母でもあった。なのになぜ、幼いわが子を捨てて失踪したのか?
冬木に警察官が語る雑談に、子育てを放棄する動物園のカンガルーが登場する。〈「その(雑誌)記事には母親の母性喪失は『文明の公害』と書いてあったよ。昔と反対で、『女は強し、されど母は弱し』というんだそうだ」〉。こうした場面が伏線となりながら、徐々に母性喪失というテーマがせり上がってくる。しかし、小説は声高にそれを指弾するのではない。わが子を愛せないことに苦しむ女性に寄り添うように書かれている。
「初めて読んだ時、すごい衝撃を受けました。当時は『母性は本能』という考え方が一般的でしたが、『蒸発』は母性の不在に悩む女性の物語。明らかに『本能ではない』と言っているようなものでした。その後のフェミニズムの問題意識を先取りしていたと思います」。福岡市女性センター「アミカス」の元館長、野口郁子さん(66)=福岡市東区=は読後の驚きを今も新鮮に思い出すという。
結婚後、作家になることを一時断念した夏樹が執筆を再開したきっかけが、長女の出産であったことはよく知られている。以前、夏樹を取材した際、「自分の中に突然沸き起こってきた母性という感情がすごく新鮮で、これを作品に生かしてみたいと思った」という話を聞いたこともある。長編第二作目にして、あえて母性喪失という現代的テーマに取り組んだことで、夏樹は社会派作家の第一歩を踏み出すことができたのだろう。以後、近作の「見えない貌(かお)」や「四文字の殺意」に至るまで、現代女性の心性を描き続けることになる。
雑誌「西日本文化」編集長、深野治さん(69)=福岡市南区=は新聞記者時代、夏樹が「蒸発」を書く際に航空会社の取材を仲介したことがある。取材魔として知られる夏樹の駆け出し時代のエピソード-。
「取材の邪魔だろうと、私は途中で席を外したんです。そしたら後で、夏樹さんから『深野さんが退席した後、相手側の態度が硬化して大変だった』と恨まれました」と苦笑いを浮かべる。「作家とはいえ、まだ一般的には無名の女性が、根掘り葉掘り業界の仕組みを聞くわけだから、そりゃ相手は嫌になりますよ」。取材は「蒸発」のトリックに結実した。
「自分の体験したことを書きたい」「知らないことは徹底的に取材する」「現地を踏まずに書かない」。深野さんは夏樹のこんな言葉を記憶している。福岡市で暮らす夏樹の作品は、当然ながら福岡が舞台となることが珍しくない。
〈中洲界隈(かいわい)を後にして、電車通りを西へ走るにつれて、町は静かになっていく。県庁前から天神交差点を抜けると、たいていの店が鎧戸(よろいど)を降ろして、ネオンも目立って少なくなっている〉。「蒸発」の一場面。昭和40年の福岡都心部の情景がありありと蘇(よみがえ)ってくる。地方都市に生きる1人の妻であり母である女性、そして何よりも生活者の目が、絵空事になりそうなミステリーに確固としたリアリティーを与えるのだろう。
さて、小説「蒸発」に話を戻せば、美那子はどうやってフライト中の飛行機から消えたのか? 油山山中のマンションで丹野を殺したのは誰なのか? なぜ第二の殺人が起きたのか? 夏樹作品の大きな魅力である意表を突く展開を紹介したいところだが、ミステリーなので当然ながらそれはできない。なんとも、もどかしい。
(文=文化部・岩田 直仁 写真=写真部・大矢海寿帆)
▼なつき・しずこ
1938年、東京都生まれ。慶応義塾大学文学部在籍中にミステリー小説を書き、江戸川乱歩賞に応募。これをきっかけに、テレビの推理番組のシナリオ執筆を手掛ける傍ら、短編小説を執筆する。63年、結婚とともに福岡市に転居。いったんは創作を断念するが、育児の合間に執筆を再開。69年、「天使が消えていく」が江戸川乱歩賞最終選考に残り、翌年単行本として出版される。72年の「蒸発」(現在、光文社文庫)で第26回日本推理作家協会賞を受賞。代表作に「Wの悲劇」「女検事霞夕子シリーズ」「茉莉子」「量刑」など。99年に西日本文化賞、2002年に福岡県文化賞、06年に日本ミステリー文学大賞を受賞。
●私の推薦文
同時代を生きる女性として 二沓ようこ(47)=詩人(福岡市中央区)
「蒸発」の原型となった「ガラスの薔薇(ばら)」(1971年)は、福岡市の目抜き通りで行われたウーマンリブのデモに、通行人が冷ややかな視線を送るシーンで幕が開きます。女性を巡る状況の転換期を象徴する作品です。
同年発表の短編「死ぬより辛(つら)い」は、団地妻をヒロインとした傑作。執筆当時、福岡市で団地住まいをしていた夏樹氏の体験に基づくものだけに、細部に渡ってリアルです。昭和3、40年代に福岡でも相次いで造成された郊外団地をミステリーの舞台にしたものには、他にも、地元作家の大貫進や石沢英太郎等の作品があり、当時の住宅事情やライフスタイルが窺(うかが)えて味わい深いでしょう。
その時々の、最もタイムリーな題材を扱った、社会性の強い夏樹作品には、時代とともに変化する女性の状況や生き方が描き出されています。同時代を生きる女性として、これからも夏樹作品から目が離せません。
●メモ
■ミステリー作家の第1人者として知られる夏樹静子さんですが、実は女優の評伝など多彩な作品があります。中でも、心因性の腰痛に苦しんだ時期を振り返った「椅子(いす)がこわい」は異色作です。
■夏樹さんがデビュー当時に住んでいた福岡市南区の若久団地の集会所前に夏樹さんのメッセージを刻んだ記念碑があります。1965年に松林の丘陵を切り開いて完成した若久団地は、急増する都市生活者の受け皿として当時日本各地に生まれていた典型的な団地の1つです。夏樹作品の底流にある、庶民的な感覚はこの時代に培われたのかもしれません。
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