西日本新聞

千年書房・九州の100冊

久留島武彦「童話術講話」

一期一会の口演に宿す刹那

 〈ここに1人の感心な少年がおりました〉。一枚のCDが回り始めると、メルヘンの扉が静かに開いた。久留島武彦が1949(昭和24)年に発表した創作童話「海に光る壺(つぼ)」。自らが口演(こうえん)している。収録されたレコードを再生したもので、ザーザーという雑音までもが遠い潮騒のように響いてくる。
 ―靴磨きの少年が親類の家に行った折、海辺で足を滑らせ、生死のはざまをさまよううち、海中で不思議な老人と出会う。老人は壺に入った五色の魂を少年に見せ、「おまえの魂は水晶色で、まだ何色にも染まっていない。これからも磨いて魂を光らせよ」と告げ、生還した少年はまた靴磨きに励む―
 落ち着いた声色、老人の声は低く、少年の声は弾む。物語はやや足早にペースを刻み、いつしか引き込まれていた。
 童話を口で演じて伝える口演活動は、半世紀にわたって続けられたが、久留島は録音を嫌った。この音声も「久留島のごく親しい人が収録した」とされ、収録された場所、日時は不明だ。

 口演の思想と手法を体系化した「童話術講話」で、童話の心得をこうつづる。
 〈子供に話すということは、まったく刹那(せつな)刹那の真剣勝負であります。一分として余裕がない、一分として隙(すき)がない〉
 久留島のふるさと、大分県玖珠町。地元の合原正利さん(77)は小学4年生のとき、久留島の口演に初めて触れ、こんな記憶を刻んでいる。
 「身長180センチを超える大男、丸眼鏡にダンディーなスーツ姿。太い声はマイクなしでも講堂に響き、空気がピンと張り詰めた。下半身は根を張ったようにどっしり。腰から上は抑揚に合わせて大きく小さく動いた。物語に船が登場すれば、荒波が目に浮かんだ。1つの神秘体験だった」

 久留島は瀬戸内海を制した村上水軍の流れをくむ旧久留島藩主の子孫。角牟礼(つのむれ)城跡のふもとにある玖珠町森地区は、城下町の面影を残し、その一角に久留島記念館がある。ガラスケースの中にはゆかりの品々、黄ばんだ童話作品集などに加え、戦記物も展示されていた。
 関西学院大に在学していた20歳のとき、徴兵検査に合格し、日清戦争に従軍。新兵にちなんだ「尾上新兵衛」のペンネームで雑誌に戦場ルポを寄稿。日露戦争でも中国、朝鮮半島、台湾などを転戦しながら寄稿を続けた。久留島は戦死者の山、銃撃訓練など戦場の日常を淡々と描写したが、目を向けたのはそればかりではなかった。
 朝鮮半島と久留島のつながりを研究する九州大大学院生の金成妍(キムソンヨン)さん(27)は、久留島が両戦後、雑誌「家庭」に寄稿した「朝鮮の子供」という一文に着目する。日露戦争で韓国・仁川に上陸した久留島は、朝鮮半島の子供たちの境涯に心を痛め、教育の必要性を訴えた。
 久留島口演の源流をたどっていくと、幼少時代の寺の講話、青年時代に通ったキリスト教会の日曜学校や普及活動などにたどり着くが、金さんは「遊具もなく、表情を失った戦場の子供たちの姿が、久留島をさらに突き動かした」。1934(昭和九)年に発表した創作童話「虎の子の大発見」はやけにもの悲しい。
 ―母の言いつけを守らずに穴の外に出たトラの子は、好奇心にかられ、母が恐ろしいと言っていた人間を探すために山を下る。道中、牛や豚、ニワトリを人間と勘違いしながら人里に近づき、やがて1人の老人に出会い、まんまとわなにかかってしまう。運良く難を逃れるが―

 「日本のアンデルセン」とも呼ばれるようになったのはボーイスカウト活動がきっかけだった。1924(大正13)年にデンマークで開かれた第2回世界ジャンボリーに、久留島は日本派遣団副団長として参加。アンデルセンの生家や墓を訪れ、あまりの荒廃ぶりを地元新聞社などに訴え、復権運動に火を付けたことに端を発する。
 若き日のアンデルセンが貧困への嘆きと社会の理不尽さを創作のバネにしたように、久留島もまた十代で大火により家を追われ、病で父を失い、祈りと叫びを胸にメルヘンの世界へと導かれていく。
 「童話術講話」で、久留島は〈大人に対する哲学、大人に対する高い意味における文学、宗教、これが私は子供の童話というものの解釈にあてはまるものであろうかと思う〉と記している。語り手の「呼吸」「姿勢」「ことばの響き」から、聞き手の「人数」「場所」に応じた口演を求め、〈心が直接心に語る語り方〉〈心が声に現れ、耳を通して聞かせる語り方〉〈心が姿に現れ、形になって理解させる語り方〉などを示している。
 晩年の久留島と親交があった日本童話人協会副会長の畑崎龍定さん(79)は「一期一会の空間で紡がれる感覚が子供たちを引きつけた」。大人と子供の間にほんの一瞬ともる、マッチの炎のようなインスタレーション(空間設定)だったのかもしれない。

 昼下がりの図書館に拍子木が鳴った。「今からお話はじまるよー」。地元の口演サークル「語りべ・ひこわの会」は毎月第1、3日曜日に活動を続ける。
 5、6人の子供が集まり、立てひざをついて、当番の合原さんを見上げている。小学教諭時代から子どもたちに童話を読み聞かせてきた合原さん。「久留島先生のように、なかなかみんなの目を引きつけられませんね」と言いながらも、久留島と同じように立ち、子供たちを見渡しながら、自分なりの抑揚で感情を注ぎ込む。〈子供たちのひざの前の友でありたい〉〈外の口ばかりでなく内(心)の口も磨け〉といった久留島の遺伝子を受け継ぎながら。
 お話しの会が終わって図書館も閉まるころ、辺りを夕暮れが包み、久留島が作詞した「夕やけ小やけ」が心に響いた。
 〈夕やけこやけ やけたらあつかろう 水かけてやろうか 水もいらぬやけもせぬ あすの天気がうれしゅうて それで頬つぺをそめた〉
 近くで手を取って帰る母親と子供の影が大きく浮かび上がり、やがて重なった。
(文=玖珠支局・城戸聡志 写真=写真部・納富 猛)

▼くるしま たけひこ

 1874年6月19日、大分県玖珠郡森町(現玖珠町)生まれ。大分中学(現上野丘高校)から関西学院に転入。日清・日露戦争から帰還後は、童話作家で、雑誌「少年世界」主筆の巌谷小波と活動をともにし、神戸新聞の記者などを経て1903年、横浜の教会で全国初の童話会「お伽倶楽部(おとぎくらぶ)」を開く。口演行脚で全国の童話振興に貢献するとともに、話術研究にも尽力。24年、日本童話連盟が創立され、顧問に就任した。25年には、ラジオで初の童話放送を行う。翌年、アンデルセンの顕彰が評価され、デンマーク国王からダンネブロウB勲章を受ける。60年、86歳で死去。

●私の推薦文

身近な「お話のおじちゃん」に 桑野 英司さん(37)=研究同好会「久留島武彦倶楽部」主宰(大分県玖珠町)

 久留島武彦にひかれたのは2年前。「童話の里」として知られる大分県玖珠町で、口演童話の父・久留島を知ろうと、創作童話や文献に触れたことがきっかけだった。語り部として生きた久留島の考えに共感し、おとぎ話を子守歌代わりに聞いた幼年期の記憶がよみがえった。
 「語り部の足跡をたどるには、文献ではなく、その声を聞かなければならない」。この一心で、数少ない生前の音源を探し回り、大分県先哲史料館(大分市)の書庫に眠っていた資料を発見した。初めて聞いた太く低い声には、どこか優しさがあり、それまで歴史上の人物としてとらえていた久留島のイメージが、身近な「お話のおじちゃん」になった。現在は、音声のデジタル化に取り組んでいる。
 4月に研究同好会の「久留島武彦倶楽部(くらぶ)」を結成すると、全国から反応があり、久留島の偉業をあらためて実感した。童話離れも進む時代だが、童話を話し、子どもに夢を与えるのは私たち大人の役目。久留島の遺志を継ぎ、顕彰活動を続けていきたい。

▼メ モ

 ■久留島武彦が生まれた大分県玖珠町のシンボルは、メサ(卓状台地)の伐株山(きりかぶさん)。その昔、天まで伸びたクスの木を巨人が切り倒してできたという伝説があります。玖珠町は「童話の里」と呼ばれ、毎年5月には日本童話祭が開かれています。

 ■久留島武彦の自筆原稿や関連文献は、大分県立先哲史料館(大分市駄原587の1)や久留島記念館(同町森995の1)に保管されています。先哲史料館=097(546)9380、久留島記念館=0973(72)6370

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