西日本新聞/九州ねっと
 


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2008年01月27日

松本零士「銀河鉄道999」

 〈明日の星には
  明日の人間が住むと人はいう…
  いつも夜空には
  明日を信じる明日の星が
  数かぎりなく輝いていると人はいう〉

 「銀河鉄道999(スリーナイン)」が漫画週刊誌に連載されていたころ、私は小学生だった。家には兄が買った単行本が確か全巻あって、ちょくちょく読んでいた。
 天涯孤独の少年星野鉄郎が謎の美女メーテルとともに銀河超特急999号に乗って広大な宇宙を駆け巡る、胸踊るSF冒険活劇―のはずだが、子どもながらに痛快さより、物悲しい読後感を得た記憶がある。二十数年ぶりに読み返してみた。

 舞台はいつとも知れない超未来。人類は全身を機械化して永遠の生命を手にし、全宇宙に広がっていた。だが機械の身体を買えない貧しい者は機械人間に虐げられ、その生命さえもてあそばれていた。
 第一話〈出発(たびだち)のバラード〉で、鉄郎は「人間狩り」を楽しむ機械人間の一団に母を殺される。母は鉄郎に、999号に乗って「機械の身体がただでもらえる星」に行くよう言い残し息絶える。鉄郎はどこからともなく現れたメーテルに助けられ、銀河鉄道に自由に乗れるパスをもらう。鉄郎は誓う。「機械の身体を手に入れて帰ったら、地球の機械人間どもを皆殺しにしてやる」
 鉄郎とメーテルの旅が始まる。目指すは機械の身体をただでくれるという、200万光年かなたの大星雲アンドロメダ―。

 松本零士が戦後、少年期から思春期を過ごした北九州市小倉北区長浜町を訪ねた。
 JR小倉駅から東へ約1キロ。目の前を鹿児島線や日豊線の列車がせわしなく行き交う。自伝「遠く時の輪の接する処(ところ)」によると、松本が住んだ〈崩壊寸前の長屋〉は線路に面して約7メートルのところにあった。
 「野菜を積んだ荷車を毎日、オヤジさんが引いていた姿を覚えている。きょうだいも多かったし、大変やったろう」。今も地元に住む同級生岩下勝さん(70)は当時の松本家の印象をそう話す。
 戦後の混乱期。松本家は貧しかった。旧陸軍の戦闘機乗りだった父は野菜の露天商を営んだが「武家の商法」でうまくいかない。一家は売れ残りの野菜で飢えをしのいだ。極貧生活の中で、松本は「自活しなければ」との意識を強く持つ。
 父には戦後、パイロットの誘いもあったという。だが「大勢の若い部下を死なせて、どの面下げて今さらアメリカの飛行機に乗れるか」と断った。軍隊時代の半長靴を履き、荷車を黙々と引く父。その背中を見ながら、松本は「誇りを貫く」ことを学ぶ。進駐軍の米兵がばらまく菓子には決して手を出さなかった。〈幼いながら、プライドが「拾うな!」と命じて許さなかった〉
 一方で、小倉の街には進駐軍がもたらす米国の漫画やアニメ映画があふれていた。幼児期から国産の漫画やアニメに魅せられていた松本はその洗礼をたっぷりと浴び、「漫画家」への夢を膨らませる。小学生のころから次々と「新作」を描いては、綴(と)じを作って本の体裁を整え、学級図書に置いてもらったりしていたという。「授業中に漫画を描いて、先生に怒られたとか言うとったなあ」と岩下さんは懐かしむ。
 だが松本の漫画家への夢は単なる夢ではなかった。強い自活意識が「漫画で身を立てる」ことを使命感にまで強めていく。
 高校卒業後、松本は小倉駅から東京行きの夜行列車に乗る。薄べったいスーツケースに漫画道具一式だけを入れて。

 なぜ、子どもの私は「999」を物悲しく感じたのだろう。読み返して思い至った。この物語には「挫折」があふれている。
 999号はさまざまな星に停車する。そこは生身の人間や機械人間のほか、異形の生命体も暮らす異世界。彼らと鉄郎たちが織りなすドラマが一話完結で描かれる。
 あまたいる登場人物の中で、形を変えて繰り返し描かれるのが、不条理な現実を生きる若者たちの姿だ。彼らは現実を覆すために闘い、新天地を求めて999号に乗ろうと試みる。だがその多くは成就しない。反乱は鎮圧され、苦労して買ったパスは偽物。やっと999号に乗り込んでも、環境の変化に適応できず死んでしまう。鉄郎たちのパスを奪った若い母親は処刑され、砂漠に1人残された幼児のか細い声が切なく響く。「かあさん、かあさん」
 その様は、暗い色調の絵と相まって、悲しく、切ない。だが、松本の筆はその先に、希望を見いだそうとする。
 鉄郎は、現実に抗(あらが)う彼らに限りない共感を示し、「友」と呼ぶ。彼らのために泣き、パスを奪おうとした者さえ「頑張れよ」と励ます。星に残った若者は宇宙に上っていく999号を見上げて叫ぶ。「待ってろよ。いつか胸を張って乗ってやるからな」
 誇りを失わず、「明日」を信じ、挫折を乗り越えて現実と格闘する。松本はそんな若者を繰り返し描く。鉄郎もまさにその1人だ。そしてそれは、漫画道具だけを持って小倉駅から夜行列車に乗った松本自身であり、戦後の貧困からはい上がろうとした時代の、若者の1つの典型でもあった。

 福岡市中央区の漫画専門古書店「まんだらけ福岡店」。松本作品は他の「大家」と並んで陳列されている。男性客12人に「999」について聞いてみると、好意的に語ったのは40代の2人。「ああいう『男』の世界、好きです」(40歳)。だが、世代が下がるにつれて反応は異なる。「ちらっと読んだことはあるけど、ピンと来ませんでしたね」(30歳)。10代や20代になると、読んだことすらなかった。
 「999」は連載と並行してテレビアニメも放映され、劇場版も公開された。「宇宙戦艦ヤマト」で火が付いた松本零士ブームは「999」で1つの頂点を極める。
 子ども向けの「漫画映画」から、大人も熱中できる「アニメーション」へ。松本が切り開いた流れは「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」へとつながる。だがそこに描かれる若者像は大きく変容する。肉親とのかっとう、周囲とのあつれき、組織のじゅばく。物語は登場人物の内面へ、内面へと下りていく。それは夢を追い、誇りを貫くため、自分の外側にある矛盾と闘う鉄郎たちとは明らかに異なる。
 「999」を「若者への永遠の応援歌」と読むか、単なる「古き良き時代の娯楽作品」と読むか。
 〈メーテルは何も言わない〉
 (文=文化部・江藤俊哉 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼まつもと れいじ

 1938年、福岡県久留米市生まれ。本名は晟(あきら)。兵庫県や愛媛県などを経て、戦後は北九州市小倉北区へ。県立小倉南高校在学時の53年「蜜蜂の冒険」で漫画界デビュー。同高卒業後、上京。当初は少女誌で活躍し、60年に少年誌へ進出。「宇宙戦艦ヤマト」(74年)でテレビアニメ初挑戦。劇場版(77年)が大ヒットし、第一次アニメブームが起きた。他に「男おいどん」「戦場まんがシリーズ」「宇宙海賊キャプテンハーロック」「クイーンエメラルダス」「新竹取物語・1000年女王」など。

●私の推薦文

信念で立ち向かえば悔いなし 大塚ムネトさん(42)=劇団「ギンギラ太陽’S」主宰(福岡市南区)

 「宇宙戦艦ヤマト」以来の松本零士先生の大ファンで、「銀河鉄道999」の連載は第一話から毎週わくわくして読んでいました。
 「999」はまず、鉄郎が機械の身体をただでもらえる星に行くという大きなストーリーがあって、謎が随所にちりばめられ、「この先どうなるの?」と謎解きの楽しみが味わえます。その中で鉄郎が毎回、違う星を訪れ、不思議な世界に飛び込んでいく。読者は鉄郎と同じ目線で驚いたり、泣いたり、喜んだり。二重の楽しみ方ができるのです。
 「999」で学んだのは、世界が変われば価値観も違う、正義も悪も決して1つではないということ。そして、ゴミのような扱いを受けても人間には熱い思いがあるということ。確かに世の中は不条理だけど、人が何と言おうと信念を持って立ち向かわなければならない。そうすれば仮に負けても悔いは残らないのです。「999」は私の生き方のお手本であり、表現活動の原点となっています。

●メモ

 漫画「銀河鉄道999」は1977─81年、「週刊少年キング」に連載され、96年からは続編も始まりました。単行本は現在、小学館から21巻まで発売中。14巻までがおなじみの旧作です。続編では地球からすべての自然を追放した謎の支配者と戦うため、鉄郎とメーテルが再び999号で旅に出ます。ハーロックやエメラルダスのほか、何と宇宙戦艦ヤマトまで登場します。

■「999」は英、仏、伊、中、韓など各国語に翻訳され、世界中で出版されています。

■その他、松本零士氏の最近の作品は公式ホームページ(http://www.leiji-matsumoto.ne.jp/)で紹介されています。

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2008年01月20日

青来有一「聖水」

 夏になると、長崎市は「ナガサキ」や「NAGASAKI」になる。
 被爆直後の荒廃を記録したモノクロ影像がテレビに流れ、8月9日には平和公園で行われる厳粛な祈りの光景が全国に伝えられる。原爆被害の悲惨さを知らしめ、核兵器廃絶のメッセージを発し続けるナガサキ=NAGASAKIは聖性と正義というイメージをまとっている。一方、現実の「長崎」には、ごく当たり前の現代の暮らしが息づいてる。優しさや温かさがあれば、偽りや汚濁もある。平和公園の隣にはラブホテルが林立している。
 「既成のイメージを引き受けた上で、それを逆転する、ゆがめるといった試みがないと、長崎を書いたことにならないのではないか」。世界に2つしかない原爆被災地という記号化したナガサキから脱する試みを、長崎を舞台に小説を書くという方法で続けているのが青来有一である。

 青来が描くのは、妄想あり、カルトあり、ファンタジーありの、少し不思議な長崎。核廃絶の訴えも、凄惨(せいさん)な被爆体験も出てこない。だが登場人物や土地の奥底に眠る記憶をなぞっていくに従い、静かに原爆がもたらした陰影が浮かび上がってくる。
 2001年1月、「聖水」の芥川賞受賞をきっかけに、青来は「原爆文学の継承者」と注目された。それは長崎市職員という二足のわらじを履き、長崎で書き続ける青来にとって、葛(かっ)藤(とう)の始まりとなった。

 「聖水」は、がんに罹患(りかん)した父親の末期を、棄教したキリシタンの末裔(まつえい)である一族の人間模様を絡めながら、主人公「ぼく」の目線で描いた物語である。「人は死ぬ際、何か信じるものなしに死んでいけるのか」という重いテーマを扱いながらも、うさんくさいエコ・ビジネス、熱狂的なまでの水への信仰、家業の経営権争いといった世俗的なモチーフが絡み、どこかこっけいにも読める。青来は「聖水」の着想を、1995年の地下鉄サリン事件に得たという。「なぜこの神なき時代に、学ある者がカルト集団に引き込まれたのか」という疑問が発端だった。
 物語では、聖地・ナガサキのイメージを裏切るかたちで「原爆」が描かれる。例えば「ぼく」は、巨像に一斉に頭を垂れる8月9日の平和祈念式典参列者の姿に、「異形の信仰」を感じている。父のいとこは、平和公園のそばでラブホテルを経営。教祖風で怪しい親類は胎内被爆者で、「爆心地で一瞬のうちに消滅した人の記憶が、自分に宿っている」と事もなげに話すのだ。

 青来の両親はともに被爆者。爆心地に最も近い城山小学校に通った。毎月9日に学校で行われた語り部の話は、怖い昔話を聴く感覚。近所には被爆樹木や防空壕(ごう)が残っていた。「原爆」は青来にとって、風土の一部として日常に溶け込んでいた。生活の場はナガサキではなく長崎。創作も同じだった。
 「原爆そのものが主題なのではなく、人や場所のもつ記憶として原爆に触れている。そこにイデオロギーはない」。青来の一貫したスタイルだが、創作には困難と迷いがつきまとったという。
 「被爆者から『そんなもんじゃなか』と言われたら、もう終わりだ」。被爆体験がないのに書いていいのか、いつも自問した。芥川賞受賞から半年後の対談で「長崎で書き続ける者には、原爆を書くのは使命ではないかと思う一方、それを切実なテーマとして書く方法がわからない」と「被爆後半世紀以上過ぎて、今、原爆を書こうとする人間の正直な気持ち」を明かしている。
 青来と親交がある詩人で活水女子大(長崎市)の田中俊廣教授(58)は「周囲の期待に応えようとするプロ意識が強いのに、林京子さんのような被爆体験がない。彼はいつもそれを気にしていた」と振り返る。
 青来は一時期、東京が舞台の近未来小説などを手掛け、「長崎」から距離を置いた。しかし「原爆文学の後継者」という世間の“期待”はいや応なくまとわりつく。被爆60年の2005年春の異動で、青来は平和宣言文の起草を担当する平和推進室長に就いた。「被爆二世の芥川賞作家が平和行政担当に」。マスコミは大きく報じた。
 同年夏、自身の被爆体験を基に書き続ける林京子さんの全集刊行記念講演会が長崎市で開かれた。青来に与えられた演題は、皮肉にも「原爆文学の継承」だった。講演会終了後、飲食店での打ち上げで、林さんが青来に声をかけた。
 「あなたはもっと書いていいのよ。憶(おく)することなく書きなさい」
 迷いの霧が晴れた気がした。
 「原爆に触れるときは、いつも恐る恐るだった。林さんの一言で、この書き方でいいんだと初めて思えたんです」
 青来は2007年、「爆心」で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞のダブル受賞という快挙を成し遂げた。

 福岡女子短大(福岡県太宰府市)の非常勤講師、内田友子さん(37)は、昨年9月から原爆文学の講義を担当している。
 大田洋子、原民喜、井伏鱒二、林京子の順に作品を採り上げたが、学生は授業中、伏し目がちに沈黙。本を貸し出すと呼び掛けても、誰ひとり手を挙げなかった。しかし、青来の作品を取り上げると反応が一変した。学生がうなずきながら聞き、「次の作品が楽しみ」などの意見が出た。本も借りに来た。
 「今の若い人は、悲惨で重い話が出ると、そのまま思考を閉ざしてしまう。世俗的な現代の物語でありながら、原爆につなげる、という青来さんの手法は、挑戦的で面白いのでしょう」。内田さんは分析する。
 谷崎賞の選考委員を代表して作家、川上弘美は「青来さんは、どうしようもなく書かなくてはいられないようにして被爆を扱っていた。その頂点であるこの小説を前にして、私は感動した」と語った。青来は「原爆そのものが主題ではない」と言い続ける。しかし、川上は「原爆」が青来にとって避けて通れない、極めて切実なものであることを鋭敏に読み取っている。
 青来は「長崎」を描き続ける。作品の連鎖は、本人の思いがどうであれ、原爆文学の後継者の軌跡となるだろう。
 (文=文化部・下崎千加 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼せいらい・ゆういち

 1958年、長崎市生まれ。本名は中村明俊。長崎大教育学部卒。2年の無職期間を経て83年、長崎市役所に就職。ワープロを買ったことをきっかけに、深夜に小説を書き始める。初めて長崎を舞台にした「ジェロニモの十字架」で95年、文學界新人賞を受賞し文壇デビュー。2001年「聖水」で芥川賞。07年「爆心」で谷崎潤一郎賞と伊藤整文学賞をダブル受賞。著作に「月夜見の島」「眼球の毛」「てれんぱれん」などがある。長崎市在住。

●私の推薦文

「屈折した心」問いかけ 山田 拓民さん(76)=長崎原爆被災者協議会事務局長(長崎市晴海台町)

 私はめったに小説を読まないたちですが、原爆を書き続けている若い作家、と聞いて興味を持ち、「爆心」から手に取りました。
 両親と姉弟3人の家族全員を、被爆の急性症状と原爆症で失った私にとっては、最初、青来さんの原爆の描き方に物足りなさも感じました。でも読み進めていくうちに、「次も次も」と止められなくなったのです。
 それは純粋に読み物としての面白さでした。特に「聖水」や「ジェロニモの十字架」などの初期作品は、人の屈折した心が描かれ、読み手にぐいぐい問い掛けてきます。爆心地の街並みや庭先の花など細部まで描かれ、映画のシーンのように状況が目に浮かぶのです。
 私は今でも、道端に出された生ごみに、被爆後に爆心地を覆った死臭と同じものを感じ、あの時に引き戻されることがあります。多くの被爆者が、今も原爆を引きずっているのです。青来さんには、その視点を忘れないで書き続けていってほしいと思います。

●メモ

 ■青来有一さんが目標とするのは大江健三郎さんや中上健次さん。「聖水」を芥川賞に強く推した選考委員の石原慎太郎さん(東京都知事)は「石川達三氏(第1回芥川賞受賞者)のような作家になりおおせるかも」と激賞しています。

 ■ペンネームの由来はアニメ「セーラームーン」。「文壇デビュー前は漫画を描いていた時期もあったんですよ」と青来さん。

 ■2007年11月発行の青来さんの単行本「てれんぱれん」は、編集者の助言を受け、文芸誌「文學界」掲載分に、主人公の父親の被爆体験などが書き足されています。

 ■文学研究者らでつくる「原爆文学研究会」(九州大内に事務局)は、被爆者の語り部活動から青来有一など戦後世代の作品まで、原爆の語り方や描き方を検証し続けています。

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2008年01月13日

高樹のぶ子「銀河の雫」

 福岡県西部の糸島半島、夜の海岸に立った。闇に目が慣れてくると、繰り返し寄せる白い波頭が見えてきた。
 高樹のぶ子の長編小説「銀河の雫(しずく)」には、波についてこんな文章がある。
 〈あれはみな、恋の追いかけっこです。よく耳を澄ませば、誰かが誰かを求めて、ひたすら追いかけてくるのが分かります。追いかけて掴(つか)まえようと必死です。しかし掴まえたときは何もかも毀(こわ)れてとび散ってしまう〉
 糸島半島に住み、人の気持ちを読み当てる不思議な能力を持った老女のせりふだ。確かに波は追いかけっこしているように見えなくもない。
 この作品の主人公は、医師の緑川公憲、妻でバイオリニストの鏡子、妻を事故で亡くしたテレビ局局長の島一草、娘の万里子の4人。一草は昔からの知り合いの鏡子に思いを寄せている。公憲が通うアスレチッククラブの水泳インストラクター、万里子と公憲も次第にひかれ合っていく。そんな4つの「波」が織りなす甘く苦しい恋の物語である。

 「銀河の雫」は、西日本新聞や北海道新聞などでつくる新聞3社連合が高樹に執筆を依頼。1992年1月から93年2月まで両紙などに掲載され、同年9月には単行本となった。
 新聞連載中の92年春、高樹は舞台となる福岡や北海道へ取材に出かけた。
 当時、3社連合の編集部長として同行した小山紘さん(66)は、高樹の丹念な取材に驚いた。糸島半島では海水を手にすくい、においをかぎ、口に含んだ。「よく歩き回り、五感を使って取材する。新聞記者的だな、そう思いました」
 そうした取材は、例えばこんなせりふに生かされているのかもしれない。
 〈生命はここから生まれて、ここへ還(かえ)っていくんだから、この匂(にお)いは、新しい生命と腐って朽ちていく生命が混ざり合ったものだろうな〉
 文芸誌「文学界」元編集者の高橋一清さん(63)は、同人誌を発表の場としていた高樹の才能をいち早く見いだし、作家デビューさせた人物だ。「当時、内向的な心理小説が多かった中で、高樹さんの作品には物語性があり、誰もが読んで面白い。細部の描写が鮮やかで読者のイメージを膨らませる。新聞小説のような長編が書ける、大きな作家になる力を秘めていた」と語る。
 「銀河の雫」も、二組の恋愛が軸になりながら、登場人物に寄り添って音楽家やテレビ局のエピソードが語られ、前述した不思議な老女をからませる。舞台も福岡から北海道へと広がるなど、読者を飽きさせない工夫に満ちている。

 華やかな恋愛小説家のイメージがある高樹だが、文章を書くきっかけは、厳しい人生の転機でもあった。30歳を過ぎての離婚と再婚である。
 〈離婚の原因となったのは私の恋愛だった〉と随筆「辛い季節のなかで」に記す。イエスの磔刑(たくけい)になぞらえ〈私は、1人の弱い男を十字架にくくりつけ血祭りにあげた者の、やりきれなさ、痛恨と同じものを、抱えていた。30を過ぎて突然湧(わ)いてきた「書きたい衝動」は玉ネギをむくように核心をもとめれば、結局この痛恨にたどりつくような気がする〉
 夫を傷つけた痛恨は、高樹にとっては文章にしなければ自らを食い尽くしてしまうほど、切迫したものだったろう。ただ高樹にとって幸運だったのは、その文章が自らを慰撫(いぶ)するだけでなく、文学としての普遍性を帯びるきらめきがあったことだ。35歳で本格的に書き始め、デビュー作から五作目で芥川賞を受賞している。
 恋愛をテーマにするのは、もちろん作家としての興味もあった。高樹は「恋愛が人生の局面を動かし、人に影響を与え、人からの影響を受ける。私にとってはそうだった。価値観を壊す装置として1番面白い。人間の多面性がでてくる」と語る。
 だが、あでやかなストーリーの中に哀(かな)しみの深い陰影が宿るのは、やはり自らの体験と無縁ではないだろう。

 物語の後半、鏡子は一草と北海道で結ばれる。それを夫に告白したあと〈でも、これきりです〉。その理由を〈一草さんを長く愛していたいし愛されてもいたい、だからもう、体の関係は持たないという意味です〉と語り、〈あなたからも一草さんからも、毎日の生活からも自由になれた感じがして…〉と告げる。
 一方の万里子も公憲との関係を清算するために、ロサンゼルスに旅立つ。その理由は〈先生と対等になれる〉ためだと言う。対等とは?と問われ、〈愛する人を失うかなしみを、同じように持つってこと〉と答える。
 そこには性愛を律することで自由になろうとする女と、去っていくことで自立しようとする女がいる。恋愛を糧に次のステップへと踏み出す女たち。その強さと対照的に、手が届かなくなった女たちをなすすべなく見つめる2人の男がいる。
 「銀河の雫」は1年以上にわたって新聞連載された長編だけに、さまざまなテーマが盛り込まれ、さまざまな読み方ができる。自立していく女性たちの物語、私はそう読んだ。
 紫式部の「源氏物語」が今年、成立千年紀を迎えた。女性が書く愛の物語は、かくも昔から連綿と続き、日本人に愛されてきた。平成の世に恋愛小説を紡ぐ高樹も、その豊かな水脈のひとつとなっている。
(文=文化部・西山宏 写真=写真部・大矢海寿帆)
 ※写真は加工しています。

▼たかぎ・のぶこ

 1946年、山口県防府市生まれ。東京女子大学短期大学部卒、東京の出版社に勤務する。24歳で結婚、30代で離婚と再婚を経験。80年「その細き道」を文芸誌「文学界」に発表し、作家デビュー。84年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞。「水脈」「透光の樹」(谷崎潤一郎賞)「せつないカモメたち」「Fantasia」「HOKKAI」(芸術選奨文部大臣賞)など著書多数。芥川賞、大佛次郎賞、野間文芸賞などの選考委員も務める、2005年秋、九州大学アジア総合政策センター特任教授に就任した。福岡市在住。

●私の推薦文

奪う以上の愛し方とは 渡邉 弘子さん(69)=同人誌「南風」同人(福岡市南区)

 この作品は16年前の新聞連載だが、今読み返しても少しも古さを感じない。たびたび出てくる公衆電話が、今なら携帯電話だろうなと思うくらいだ。夫婦と父娘、男女4人の大人の愛の物語。それぞれの視点から心の奥底の細かいひだまで、非凡な筆力で描き出されている。芥川賞はじめ多くの文学賞を受賞した作者ならではの力作だ。父が娘に、「奪う以上の愛し方もあるだろう」という言葉が心に残った。各人物に心を添わせながら読める、読み応えのある作品だ。
 九州大学の特任教授としてSIA(サイア)活動もエネルギッシュに展開中だ。各国の作家の作品に呼応する形で書かれる短編小説は、従来の作品とは大きく異なっていて面白い。毎回、訪れた国の菓子や飲み物が振る舞われるのを楽しみにしている。執筆はもちろん、この活動にも大いに期待している。

●メモ

 ■高樹のぶ子さんが九州大学アジア総合政策センター特任教授として進めている「SIA(サイア)」は、5年計画でアジア10カ国・地域の文学者と交流するプロジェクト。「Soaked in Asia(アジアに浸る)」の略で、Soaked(浸る)の言葉に感性による交流を大事にする高樹さんのこだわりが感じられます。これまでにフィリピン、ベトナム、台湾、マレーシアを取り上げました。メーンとなるイベント「SIA─DAY」の次回予定は3月22日、中国・上海をテーマに開催します。

 ■インターネットによるSIA情報も発信中。日々更新のブログ、TV映像などの動画、エッセーなどを公開しています。
アドレスは=http://blog.goo.ne.jp/info/websia/index.html

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2008年01月06日

川原一之「口伝 亜砒焼き谷」

 庭先に咲く赤いサザンカに誘われるように1軒の廃屋に足を踏み入れ、息をのんだ。
 宮崎県高千穂町。古祖母(ふるそぼ)山(1633メートル)の懐にある小さな集落、土呂久。薄暗い室内には、短冊状の和紙がいくつも張られていた。
 「公害にかかりし人は死に果てて 残る我が身ぞたえゆかん」
 ほぼ半世紀前まで土呂久では、鉱山で猛毒の亜砒(ひ)酸が製造され、有毒な煙がまき散らされた。当時、この家で暮らしていた佐藤鶴江(故人)は、体のしびれや呼吸障害に苦しみ、ほぼすべての視力を失いながら、歌を詠み1人暮らしの慰めにしたという。
 「我が不自由なる片目鳥 瞼(まぶた)に浮かぶ我が子恋しき」「苦しみ抜いた40年今日に至りてあきらかに もうおそかりし我が体形ばかりのごくつぶし」…。突き動かされるようにメモを取りながら、土呂久公害を掘り起こした「口伝 亜砒焼き谷」(岩波書店)の著者、川原一之を思い起こしていた。彼も同じように必死にノートをとっていたのだろうか、と。
 1975年、川原は、悩み抜いた末に朝日新聞社を辞め、この地で鉱毒の実態を克明に記録し世に訴える決意をした。今の私より若い、まだ20代だった。
 〈新聞記者として何がやれたのか。また、やれるのか。逃げるか、はまるか、2つに1つの道しかない〉。
 川原は当時の心境を後に「新日本文学」でこう書き記している。安定して生活が送れる全国紙の記者という立場に「逃げず」、土呂久に「はまる」道を選んだ川原。4年がかりで古老たちに話を聞き、それをガリ版刷りにまとめ、80年、「口伝―」に結実させた。

 土呂久公害は71年11月、地元の小学校教諭の報告で表面化した。鉱山から排出された砒素による住民の健康被害は全国に発信され、入社3年目で宮崎にいた川原も土呂久取材に投入される。
 土呂久の亜砒焼きは20年、大分の鉱山師によって始められた。亜砒酸は、薬品や農薬などの原料として使われた。しかし、簡単な石垣でできた窯で砒素を含む鉱石を燃やし、焼きがらは川に捨てられたため、砒素や重金属は周辺に垂れ流される格好となり、住民たちは皮膚や呼吸器、神経などの障害で命を落とした。
 「民衆の側に立つ」との志を抱き新聞記者になった川原は近代化の暗部ともいえる土呂久公害をのめり込むように取材した。だが、公害にあえぐ人々を陥れるような形で、現実は進んでいった。
 宮崎県は住民の一斉検診を実施し、72年、健康被害を皮膚症状に限定して「砒素中毒症患者は7人」と発表した。当時の知事は最終鉱業権者の住友金属鉱山との間に入り、低額補償での幕引きを図り、多くの被害者が無念の涙を流した。
 取材を通して支援者から「患者さんを頼みます」と託された川原は、この動きを阻止できず、忸怩(じくじ)たる思いを抱えたまま北九州市へ転勤した。
 しかし、74年、川原は別の仕事で土呂久を再訪し、心を決める。「はまるか」。背中を押したのは、鶴江だった。
 朝鮮人強制連行の調査団の随行取材という形で土呂久を再訪した川原は、朝鮮人の墓守をしてきた鶴江の家に向かった。だが、川原は顔を合わせることをためらった。「ぼくは患者のために何もできなかった。恥ずかしかったんです」。屋外で立ち話をし、時間をつぶしていると、鶴江が飛び出してきた。「そん声は川原さんじゃないですか」。鶴江は川原の声を覚えていた。
 〈熱い感動のこみあげてくるのを覚えながら、ぼくは、僻遠(へきえん)の里の人びとの情の厚さと、転勤のたびに人とのつながりを断ち切ってひたすら中央を志向する新聞記者の情の薄さとを比べていた〉(「新日本文学」1981年3月号)

 もう迷いはなかった。
 〈かな山がまた始まるげな―〉。土地の言葉でつづった「口伝―」は、20年の亜砒焼き開始から幕を上げる。
 大豆の葉が枯れ、シイタケは生えなくなり、牛や馬は口と鼻から白い粘液を垂れて死んだ。鉱山周辺の住民も目が赤くただれ、激しいせきが続くなどした。家族7人のうち2年で5人が亡くなった家もあった。鉱山で働いたのは、義父の借金を背負った農家や若くして夫を亡くした女性など貧しい人たち。毒煙のためにコメが育たず鉱山で働いた農家もいた。
 川原は、被害者らが住友金属鉱山を相手に起こした損害賠償訴訟を支援しながら、集落にあるすべての家を回った。焼酎を片手に時には夜中まで公害の話を聞き、「土呂久つづき話 亜砒鉱山」と名付けたガリ版刷りにまとめ月2回、被害者に配った。「つづき話」は72話にもなった。
 土呂久の人たちに読んでもらうことを念頭に置き、土呂久の言葉でつづられた作品は、不思議な言語空間を作り出す。長い時間をかけてはぐくまれた地言葉は、例えば〈やわ肌に煙を吸うたために、皮膚にいっぱい斑点がある〉のように、より生々しく物事を表現。多くの住民のさまざまな思いが響き合う、交響曲のようでもある。
 「新しいスタイルの記録文学だった」。岩波書店時代に「口伝―」を編集した大東文化大文学部の小野民樹教授はそう評価した上で、「鉱山が操業を止め過去の話になりつつあった土呂久公害に『生』を吹き込み、被害の深刻さ、それをはね返そうとする土地の人たちの力を伝えた」と語る。

 今、川原は土呂久での経験を基にアジアにフィールドを広げる。
 90年10月、土呂久公害の患者が住友金属鉱山を相手取った損害賠償訴訟が最高裁で和解すると、川原らは、アジアで問題になっていた地下水の砒素汚染に目を向け、94年、アジア砒素ネットワーク(宮崎市)を設立した。
 アジアでは、80年代に井戸の利用が奨励され、土壌に砒素が堆(たい)積(せき)している地域で砒素中毒症が発生。被害者は約70万人に上るとされる。川原は、地質学や医学の専門家らと被害の実態調査や安全な水の供給などに奔走。一方で、国際協力機構の委託を受け、砒素汚染対策に携わるアジアの政府機関職員を招き、土呂久で認定患者と対話する場を設けている。
 私が川原と出会って1年。何度目かの取材で聞いた言葉が印象に残っている。「人の体は、微量の砒素ならば体外に出せるようになっている。砒素が人体や環境を汚染するのは、人が自然の秩序を崩したからではないか」
 「口伝―」によって近代化の闇を照射した川原ならばこそ言える警句である。
 (文=延岡支局・田中良治)

▼かわはら・かずゆき

 1947年、福岡市生まれ。北九州市で育つ。早稲田大学卒業後、69年に朝日新聞社入社。西部本社(北九州市)、福岡総局(福岡市)=当時=時代に作家の上野英信氏や松下竜一氏らと親交深める。退社後、土呂久公害被害者の支援活動に加わり、現在、特定非営利活動法人(NPO法人)「アジア砒素ネットワーク」メンバー。著書に「辺境の石文」「浄土むら土呂久」「針穴からみたニッポン」「土呂久羅漢」「アジアに共に歩む人がいる」など。

●私の推薦文

不器用な正義感と愚直な魂 芥川 仁さん(60)=写真家(宮崎市)

 人々が行き交うこともなかった谷間の小さな集落で、88年前に起こった鉱毒事件。鉱山で働き、病に倒れ、時代に翻弄(ほんろう)されていく村人の様子が、時空を超えて、私の目の前で展開しているように活き活きと伝わってくる。
 川原は本書の中で、黒子に徹した。語り部となった被害者が、木訥(ぼくとつ)なる方言で、鉱毒被害の体験を読者に直接語りかける。すると、日本が近代化を果たす過程で僻遠(へきえん)の村人に押しつけた、理不尽な歴史が浮き彫りになってくるのだ。あたかも古老が昔話を語り聴かせるように、川原の文体は読者の心に染みてくる。
 川原が編み出した記録文学のこの手法は、主人公となった被害者を励まし、救済を求めて行政や大企業に立ち向かう彼らに勇気を支えた。出版から27年。本書が描いた世界に、今なお責任を取ろうとする川原の不器用な正義感と、還暦を過ぎても失わない彼の愚直な魂は、すでにこの時、この本に込められている。

●メモ

 ■川原一之さんが1976年から80年まで発行し、「口伝 亜砒焼き谷」として再編集されたガリ版刷りの「土呂久つづき話『亜砒鉱山』」が、宮崎県高鍋町の「野の花館」に保管されています。同館は、土呂久地区にあった古民家を移築したもので、川原さんの取材ノートや土呂久公害の裁判資料などがあります。

 ■土呂久公害に関する書籍は複数あります。写真家芥川仁さんは写真集2冊「土呂久―小さき天にいだかれた人々」「輝く闇」(いずれも葦書房)を出しています。

 ■宮崎県は73年から土呂久地区住民らを対象に健康観察検診を実施しています。これまでに慢性砒素中毒症に認定された患者は、175人。このうち生存者は52人。現在も新たに患者に認定される人たちが出ています。

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