民の言葉で近代の闇を突く
庭先に咲く赤いサザンカに誘われるように1軒の廃屋に足を踏み入れ、息をのんだ。
宮崎県高千穂町。古祖母(ふるそぼ)山(1633メートル)の懐にある小さな集落、土呂久。薄暗い室内には、短冊状の和紙がいくつも張られていた。
「公害にかかりし人は死に果てて 残る我が身ぞたえゆかん」
ほぼ半世紀前まで土呂久では、鉱山で猛毒の亜砒(ひ)酸が製造され、有毒な煙がまき散らされた。当時、この家で暮らしていた佐藤鶴江(故人)は、体のしびれや呼吸障害に苦しみ、ほぼすべての視力を失いながら、歌を詠み1人暮らしの慰めにしたという。
「我が不自由なる片目鳥 瞼(まぶた)に浮かぶ我が子恋しき」「苦しみ抜いた40年今日に至りてあきらかに もうおそかりし我が体形ばかりのごくつぶし」…。突き動かされるようにメモを取りながら、土呂久公害を掘り起こした「口伝 亜砒焼き谷」(岩波書店)の著者、川原一之を思い起こしていた。彼も同じように必死にノートをとっていたのだろうか、と。
1975年、川原は、悩み抜いた末に朝日新聞社を辞め、この地で鉱毒の実態を克明に記録し世に訴える決意をした。今の私より若い、まだ20代だった。
〈新聞記者として何がやれたのか。また、やれるのか。逃げるか、はまるか、2つに1つの道しかない〉。
川原は当時の心境を後に「新日本文学」でこう書き記している。安定して生活が送れる全国紙の記者という立場に「逃げず」、土呂久に「はまる」道を選んだ川原。4年がかりで古老たちに話を聞き、それをガリ版刷りにまとめ、80年、「口伝―」に結実させた。
土呂久公害は71年11月、地元の小学校教諭の報告で表面化した。鉱山から排出された砒素による住民の健康被害は全国に発信され、入社3年目で宮崎にいた川原も土呂久取材に投入される。
土呂久の亜砒焼きは20年、大分の鉱山師によって始められた。亜砒酸は、薬品や農薬などの原料として使われた。しかし、簡単な石垣でできた窯で砒素を含む鉱石を燃やし、焼きがらは川に捨てられたため、砒素や重金属は周辺に垂れ流される格好となり、住民たちは皮膚や呼吸器、神経などの障害で命を落とした。
「民衆の側に立つ」との志を抱き新聞記者になった川原は近代化の暗部ともいえる土呂久公害をのめり込むように取材した。だが、公害にあえぐ人々を陥れるような形で、現実は進んでいった。
宮崎県は住民の一斉検診を実施し、72年、健康被害を皮膚症状に限定して「砒素中毒症患者は7人」と発表した。当時の知事は最終鉱業権者の住友金属鉱山との間に入り、低額補償での幕引きを図り、多くの被害者が無念の涙を流した。
取材を通して支援者から「患者さんを頼みます」と託された川原は、この動きを阻止できず、忸怩(じくじ)たる思いを抱えたまま北九州市へ転勤した。
しかし、74年、川原は別の仕事で土呂久を再訪し、心を決める。「はまるか」。背中を押したのは、鶴江だった。
朝鮮人強制連行の調査団の随行取材という形で土呂久を再訪した川原は、朝鮮人の墓守をしてきた鶴江の家に向かった。だが、川原は顔を合わせることをためらった。「ぼくは患者のために何もできなかった。恥ずかしかったんです」。屋外で立ち話をし、時間をつぶしていると、鶴江が飛び出してきた。「そん声は川原さんじゃないですか」。鶴江は川原の声を覚えていた。
〈熱い感動のこみあげてくるのを覚えながら、ぼくは、僻遠(へきえん)の里の人びとの情の厚さと、転勤のたびに人とのつながりを断ち切ってひたすら中央を志向する新聞記者の情の薄さとを比べていた〉(「新日本文学」1981年3月号)
もう迷いはなかった。
〈かな山がまた始まるげな―〉。土地の言葉でつづった「口伝―」は、20年の亜砒焼き開始から幕を上げる。
大豆の葉が枯れ、シイタケは生えなくなり、牛や馬は口と鼻から白い粘液を垂れて死んだ。鉱山周辺の住民も目が赤くただれ、激しいせきが続くなどした。家族7人のうち2年で5人が亡くなった家もあった。鉱山で働いたのは、義父の借金を背負った農家や若くして夫を亡くした女性など貧しい人たち。毒煙のためにコメが育たず鉱山で働いた農家もいた。
川原は、被害者らが住友金属鉱山を相手に起こした損害賠償訴訟を支援しながら、集落にあるすべての家を回った。焼酎を片手に時には夜中まで公害の話を聞き、「土呂久つづき話 亜砒鉱山」と名付けたガリ版刷りにまとめ月2回、被害者に配った。「つづき話」は72話にもなった。
土呂久の人たちに読んでもらうことを念頭に置き、土呂久の言葉でつづられた作品は、不思議な言語空間を作り出す。長い時間をかけてはぐくまれた地言葉は、例えば〈やわ肌に煙を吸うたために、皮膚にいっぱい斑点がある〉のように、より生々しく物事を表現。多くの住民のさまざまな思いが響き合う、交響曲のようでもある。
「新しいスタイルの記録文学だった」。岩波書店時代に「口伝―」を編集した大東文化大文学部の小野民樹教授はそう評価した上で、「鉱山が操業を止め過去の話になりつつあった土呂久公害に『生』を吹き込み、被害の深刻さ、それをはね返そうとする土地の人たちの力を伝えた」と語る。
今、川原は土呂久での経験を基にアジアにフィールドを広げる。
90年10月、土呂久公害の患者が住友金属鉱山を相手取った損害賠償訴訟が最高裁で和解すると、川原らは、アジアで問題になっていた地下水の砒素汚染に目を向け、94年、アジア砒素ネットワーク(宮崎市)を設立した。
アジアでは、80年代に井戸の利用が奨励され、土壌に砒素が堆(たい)積(せき)している地域で砒素中毒症が発生。被害者は約70万人に上るとされる。川原は、地質学や医学の専門家らと被害の実態調査や安全な水の供給などに奔走。一方で、国際協力機構の委託を受け、砒素汚染対策に携わるアジアの政府機関職員を招き、土呂久で認定患者と対話する場を設けている。
私が川原と出会って1年。何度目かの取材で聞いた言葉が印象に残っている。「人の体は、微量の砒素ならば体外に出せるようになっている。砒素が人体や環境を汚染するのは、人が自然の秩序を崩したからではないか」
「口伝―」によって近代化の闇を照射した川原ならばこそ言える警句である。
(文=延岡支局・田中良治)
▼かわはら・かずゆき
1947年、福岡市生まれ。北九州市で育つ。早稲田大学卒業後、69年に朝日新聞社入社。西部本社(北九州市)、福岡総局(福岡市)=当時=時代に作家の上野英信氏や松下竜一氏らと親交深める。退社後、土呂久公害被害者の支援活動に加わり、現在、特定非営利活動法人(NPO法人)「アジア砒素ネットワーク」メンバー。著書に「辺境の石文」「浄土むら土呂久」「針穴からみたニッポン」「土呂久羅漢」「アジアに共に歩む人がいる」など。
●私の推薦文
不器用な正義感と愚直な魂 芥川 仁さん(60)=写真家(宮崎市)
人々が行き交うこともなかった谷間の小さな集落で、88年前に起こった鉱毒事件。鉱山で働き、病に倒れ、時代に翻弄(ほんろう)されていく村人の様子が、時空を超えて、私の目の前で展開しているように活き活きと伝わってくる。
川原は本書の中で、黒子に徹した。語り部となった被害者が、木訥(ぼくとつ)なる方言で、鉱毒被害の体験を読者に直接語りかける。すると、日本が近代化を果たす過程で僻遠(へきえん)の村人に押しつけた、理不尽な歴史が浮き彫りになってくるのだ。あたかも古老が昔話を語り聴かせるように、川原の文体は読者の心に染みてくる。
川原が編み出した記録文学のこの手法は、主人公となった被害者を励まし、救済を求めて行政や大企業に立ち向かう彼らに勇気を支えた。出版から27年。本書が描いた世界に、今なお責任を取ろうとする川原の不器用な正義感と、還暦を過ぎても失わない彼の愚直な魂は、すでにこの時、この本に込められている。
●メモ
■川原一之さんが1976年から80年まで発行し、「口伝 亜砒焼き谷」として再編集されたガリ版刷りの「土呂久つづき話『亜砒鉱山』」が、宮崎県高鍋町の「野の花館」に保管されています。同館は、土呂久地区にあった古民家を移築したもので、川原さんの取材ノートや土呂久公害の裁判資料などがあります。
■土呂久公害に関する書籍は複数あります。写真家芥川仁さんは写真集2冊「土呂久―小さき天にいだかれた人々」「輝く闇」(いずれも葦書房)を出しています。
■宮崎県は73年から土呂久地区住民らを対象に健康観察検診を実施しています。これまでに慢性砒素中毒症に認定された患者は、175人。このうち生存者は52人。現在も新たに患者に認定される人たちが出ています。
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