西日本新聞

千年書房・九州の100冊

高樹のぶ子「銀河の雫」

恋愛を糧に自立する女たち

 福岡県西部の糸島半島、夜の海岸に立った。闇に目が慣れてくると、繰り返し寄せる白い波頭が見えてきた。
 高樹のぶ子の長編小説「銀河の雫(しずく)」には、波についてこんな文章がある。
 〈あれはみな、恋の追いかけっこです。よく耳を澄ませば、誰かが誰かを求めて、ひたすら追いかけてくるのが分かります。追いかけて掴(つか)まえようと必死です。しかし掴まえたときは何もかも毀(こわ)れてとび散ってしまう〉
 糸島半島に住み、人の気持ちを読み当てる不思議な能力を持った老女のせりふだ。確かに波は追いかけっこしているように見えなくもない。
 この作品の主人公は、医師の緑川公憲、妻でバイオリニストの鏡子、妻を事故で亡くしたテレビ局局長の島一草、娘の万里子の4人。一草は昔からの知り合いの鏡子に思いを寄せている。公憲が通うアスレチッククラブの水泳インストラクター、万里子と公憲も次第にひかれ合っていく。そんな4つの「波」が織りなす甘く苦しい恋の物語である。

 「銀河の雫」は、西日本新聞や北海道新聞などでつくる新聞3社連合が高樹に執筆を依頼。1992年1月から93年2月まで両紙などに掲載され、同年9月には単行本となった。
 新聞連載中の92年春、高樹は舞台となる福岡や北海道へ取材に出かけた。
 当時、3社連合の編集部長として同行した小山紘さん(66)は、高樹の丹念な取材に驚いた。糸島半島では海水を手にすくい、においをかぎ、口に含んだ。「よく歩き回り、五感を使って取材する。新聞記者的だな、そう思いました」
 そうした取材は、例えばこんなせりふに生かされているのかもしれない。
 〈生命はここから生まれて、ここへ還(かえ)っていくんだから、この匂(にお)いは、新しい生命と腐って朽ちていく生命が混ざり合ったものだろうな〉
 文芸誌「文学界」元編集者の高橋一清さん(63)は、同人誌を発表の場としていた高樹の才能をいち早く見いだし、作家デビューさせた人物だ。「当時、内向的な心理小説が多かった中で、高樹さんの作品には物語性があり、誰もが読んで面白い。細部の描写が鮮やかで読者のイメージを膨らませる。新聞小説のような長編が書ける、大きな作家になる力を秘めていた」と語る。
 「銀河の雫」も、二組の恋愛が軸になりながら、登場人物に寄り添って音楽家やテレビ局のエピソードが語られ、前述した不思議な老女をからませる。舞台も福岡から北海道へと広がるなど、読者を飽きさせない工夫に満ちている。

 華やかな恋愛小説家のイメージがある高樹だが、文章を書くきっかけは、厳しい人生の転機でもあった。30歳を過ぎての離婚と再婚である。
 〈離婚の原因となったのは私の恋愛だった〉と随筆「辛い季節のなかで」に記す。イエスの磔刑(たくけい)になぞらえ〈私は、1人の弱い男を十字架にくくりつけ血祭りにあげた者の、やりきれなさ、痛恨と同じものを、抱えていた。30を過ぎて突然湧(わ)いてきた「書きたい衝動」は玉ネギをむくように核心をもとめれば、結局この痛恨にたどりつくような気がする〉
 夫を傷つけた痛恨は、高樹にとっては文章にしなければ自らを食い尽くしてしまうほど、切迫したものだったろう。ただ高樹にとって幸運だったのは、その文章が自らを慰撫(いぶ)するだけでなく、文学としての普遍性を帯びるきらめきがあったことだ。35歳で本格的に書き始め、デビュー作から五作目で芥川賞を受賞している。
 恋愛をテーマにするのは、もちろん作家としての興味もあった。高樹は「恋愛が人生の局面を動かし、人に影響を与え、人からの影響を受ける。私にとってはそうだった。価値観を壊す装置として1番面白い。人間の多面性がでてくる」と語る。
 だが、あでやかなストーリーの中に哀(かな)しみの深い陰影が宿るのは、やはり自らの体験と無縁ではないだろう。

 物語の後半、鏡子は一草と北海道で結ばれる。それを夫に告白したあと〈でも、これきりです〉。その理由を〈一草さんを長く愛していたいし愛されてもいたい、だからもう、体の関係は持たないという意味です〉と語り、〈あなたからも一草さんからも、毎日の生活からも自由になれた感じがして…〉と告げる。
 一方の万里子も公憲との関係を清算するために、ロサンゼルスに旅立つ。その理由は〈先生と対等になれる〉ためだと言う。対等とは?と問われ、〈愛する人を失うかなしみを、同じように持つってこと〉と答える。
 そこには性愛を律することで自由になろうとする女と、去っていくことで自立しようとする女がいる。恋愛を糧に次のステップへと踏み出す女たち。その強さと対照的に、手が届かなくなった女たちをなすすべなく見つめる2人の男がいる。
 「銀河の雫」は1年以上にわたって新聞連載された長編だけに、さまざまなテーマが盛り込まれ、さまざまな読み方ができる。自立していく女性たちの物語、私はそう読んだ。
 紫式部の「源氏物語」が今年、成立千年紀を迎えた。女性が書く愛の物語は、かくも昔から連綿と続き、日本人に愛されてきた。平成の世に恋愛小説を紡ぐ高樹も、その豊かな水脈のひとつとなっている。
(文=文化部・西山宏 写真=写真部・大矢海寿帆)
 ※写真は加工しています。

▼たかぎ・のぶこ

 1946年、山口県防府市生まれ。東京女子大学短期大学部卒、東京の出版社に勤務する。24歳で結婚、30代で離婚と再婚を経験。80年「その細き道」を文芸誌「文学界」に発表し、作家デビュー。84年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞。「水脈」「透光の樹」(谷崎潤一郎賞)「せつないカモメたち」「Fantasia」「HOKKAI」(芸術選奨文部大臣賞)など著書多数。芥川賞、大佛次郎賞、野間文芸賞などの選考委員も務める、2005年秋、九州大学アジア総合政策センター特任教授に就任した。福岡市在住。

●私の推薦文

奪う以上の愛し方とは 渡邉 弘子さん(69)=同人誌「南風」同人(福岡市南区)

 この作品は16年前の新聞連載だが、今読み返しても少しも古さを感じない。たびたび出てくる公衆電話が、今なら携帯電話だろうなと思うくらいだ。夫婦と父娘、男女4人の大人の愛の物語。それぞれの視点から心の奥底の細かいひだまで、非凡な筆力で描き出されている。芥川賞はじめ多くの文学賞を受賞した作者ならではの力作だ。父が娘に、「奪う以上の愛し方もあるだろう」という言葉が心に残った。各人物に心を添わせながら読める、読み応えのある作品だ。
 九州大学の特任教授としてSIA(サイア)活動もエネルギッシュに展開中だ。各国の作家の作品に呼応する形で書かれる短編小説は、従来の作品とは大きく異なっていて面白い。毎回、訪れた国の菓子や飲み物が振る舞われるのを楽しみにしている。執筆はもちろん、この活動にも大いに期待している。

●メモ

 ■高樹のぶ子さんが九州大学アジア総合政策センター特任教授として進めている「SIA(サイア)」は、5年計画でアジア10カ国・地域の文学者と交流するプロジェクト。「Soaked in Asia(アジアに浸る)」の略で、Soaked(浸る)の言葉に感性による交流を大事にする高樹さんのこだわりが感じられます。これまでにフィリピン、ベトナム、台湾、マレーシアを取り上げました。メーンとなるイベント「SIA─DAY」の次回予定は3月22日、中国・上海をテーマに開催します。

 ■インターネットによるSIA情報も発信中。日々更新のブログ、TV映像などの動画、エッセーなどを公開しています。
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