西日本新聞

千年書房・九州の100冊

平野遼「地底の宮殿」

透徹した思索を美に昇華

 タダものではない。
 それが、もう20年も前、最初に平野遼に会った時の印象だった。
 1987(昭和62)年秋、平野の西日本文化賞受賞が決まり、当時、北九州支社に勤務していた私はその喜びの声を取材するよう指示を受けた。
 《難解で奇怪な絵を描く画家》《独学で独自の画境を開いた人》―その程度の予備知識だけで、写真記者と小倉北区の彼の自宅を訪ねたのは、ある意味では若さゆえの大胆さからだったろう。
 あの時、彼のアトリエに入り、私の小市民的とでもいうべき感覚は根底からかく乱された。20坪ほどの板張りの暗い画室の壁際に、無数の絵の具チューブの残骸(ざんがい)が堆積(たいせき)していた。まるで貝塚のように。そして絵の具の飛沫(ひまつ)だらけのイーゼル、壁、床。そこは、創作に没入している画家の厳粛でむき出しの“戦場”を感じさせた。

 そして、アトリエの壁の書架に並ぶ大量の蔵書にも目を見張った。ランボー詩集、西脇順三郎詩集、小林秀雄全集、道元全集…。なぜ、こんな小難しい本ばかりが並んでいるのか。正直、当惑した。
 平野は木製のいすに馬乗りに跨(またが)り、背もたれにほおづえをついて、ぽつりぽつりと、自分の経歴や近況、絵画観などを語ってくれた。2つのやりとりを今も鮮烈に覚えている。
 ―平野さんは、日々、何を考え、何を描こうとしているのでしょうか?
「本物は目に見えない。目に見えない本物を描きたいと、毎日、描いている」
 ―取材の最後に家族構成をお伺いします。平野さん、子供さんは?
「子供はいない。絵の邪魔になるから」
 一体、この人は何者なのか? その日から、平野は私の気になる人物の1人になった。翌日、美術館で展覧会の図録を購入した。そして、彼が絵だけでなく、無類の文章家であることも、知ることになった。

 『地底の宮殿』は、その平野が死の2年前にまとめた画文集である。画論があり、紀行文があり、インタビューがあり、詩がある。収録された絵もペン画にはじまり、水彩、旅先でのスケッチ…と一冊で平野の世界、晩年の到達点を概観できる内容になっている。
 圧巻はやはり文章の端々にのぞく彼の絵画論であろう。彼は書く。
〈人間の形をしているものより、もっと描きたいものがある。命の原形です〉
〈表面にばかり捉われては絵画は生まれてこない。皮相な形が整ってくるにつれて生命力は衰退し逆に死屍に等しい空虚なものになってしまう〉
 また、傾倒していた彫刻家ジャコメッティの作品についてはこう記す。〈美を拷問にかけて一切の肉をはぎ取った果てに、やっと出てきた実存なのである〉
 極めて思索的、そしてなんと明晰(めいせき)で、切れのいい文章だろうか。そして、インタビューに答えて平野本人が語っている自らの半生も興味深い。
 そこでは、昭和の初めに大分県佐賀関に生まれ、幼くして母と父を亡くし、鉄都に育った薄幸の少年時代が明らかにされ、戦後の混乱期の貧困と孤独、無頼と漂泊が語られる。そのやりとりからは、絵描きを志す者は一様に美術学校に通った時代に、高等小学校までしか行けなかったこと、酔客相手の夜の似顔絵描きという逆境のアルバイトが、平野の抜群のデッサン力をはぐくんだことも浮かび上がる。
 さらに『地底の宮殿』という、謎めいた一癖あるタイトルも興味をそそる。妻の清子さん(82)が語る。「平野は、このタイトルを思い付いたとき、上機嫌で本当にうれしそうでした。だれにでも見える地上の宮殿ではなく、人には見えない『地底の宮殿』こそ平野が生涯をかけて描きたかったものでしたから」

 平野の絵は、いろいろな見方をされてきた。「重い、暗い、難しい」と敬遠する人たちがいる一方で、熱烈なファンも多い。
 東京・南青山で珈琲店を営む大坊勝次さん(60)は平野信奉者の1人。もう何年も店内で「一点だけの平野遼展」を開いている。半世紀以上前、平野の抽象画に出会い「この絵は僕の自画像だ」と体が震えた。以後、自ら収集した平野の油彩、ペン画などを数カ月ごとに入れ替えながら店内に展示する。「人間とは一体何なのか? 平野作品は一切の妥協を排し、厳格にこの難問を追究している。そんな画家ほかにいない」
 一方、医師で平野作品のコレクターの新貝修さん(86)=東京都=は「平野の絵の魅力は、その絵が簡単に読み解けない点にこそある」という。「解けそうで解けない難問を前にしたように夢中にさせてくれる」
 「人間の実相を凝視した画家」「未踏の闇に光を求めた画家」「現代社会の矛盾、ひずみを遙かな幻想性の中に描いた画家」「自我を研ぎ出した画家」-その独特の作品世界から、平野には様々な形容詞が付与される。どれも正解だろうし、どれも言い尽くしているとはいえないだろう。
 ただ、平野の絵に、深部、深奥から立ち上る美しさがあることは事実だし、その澄明感は、透徹した思索を美に昇華しようとした営為の結果とも思える。
 この取材で、20年ぶりに平野の家にお邪魔した。アトリエは主亡き今も昔のままで、清子さんの手で画家の好きだった白いユリが生けられていた。
 壁の隅に、ピンアップされ、すっかり飴(あめ)色に変色した紙切れを見つけた。清子さんがいう。「あっ、それ、平野が好きで自分で張った古代ローマの哲学者・セネカの言葉です。学歴も師匠もなく、徒手空拳で自分の絵を描いてきた彼を支え続けた言葉でしょうか」。紙片にはクセの強い筆跡でこう書かれている。
・ひねもす走りおおせたる者 夜のやすきにつくこそよけれ
 (文=文化部・藤田中 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼ひらの・りょう

 1927年、大分県佐賀関町(大分市)生まれ。30年、母親と死別し、戸畑市(北九州市戸畑区)に転居。39年、戸畑男子高等小学校卒業。翌年、父親死去。44年、久留米西部51部隊に入隊。翌年、終戦・除隊後、北九州に戻り、米軍ポスター描き、似顔絵描きをする。49年、上京し、蝋画が新制作派展に初入選。57年、東京・南画廊で初個展。86年、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」。87年、北九州市立美術館で同名の展覧会開催、西日本文化賞受賞。代表作に「昼と夜と」「奔馬の形態」「裸形の風景」など。画文集に「熱風の砂漠から」など。92年、65歳で死去。

●私の推薦文

「創造の起点」を吐露 高杉 志緒さん=下関短期大学講師(福岡市早良区)

 初めて対峙(たいじ)した平野遼画伯の作品は《青い雪どけ》(油彩・1959年制作)であった。深く澄んだ紫の上に溶け合う白と黒。凝視の先にある複雑な色。積雪の輝きが陽光で乾坤(けんこん)に吸い込まれて行くように、自分も画面の底に沈んで行く感覚に襲われた。爾来(じらい)、平野絵画の魅力は画面の深淵(しんえん)に潜むと感じている。
 画伯は「永遠は土の中に埋没している」「美の宇宙は、おのれ1個の闇の空間に潜在するという自覚にあるのだ。そしてその原点こそが創造の起点となるのだ」と記す。『地底の宮殿』には、詩・書・画を問わず表現し続けた平野遼の「創造の起点」が吐露されている。絵画作品では窺(うかが)うことが困難な画家の「美の宇宙」、魂の宮殿の垣間見が、本書を手にした時、可能となるのだ。
 本年、平野画伯17回忌を迎える。冥界(めいかい)の人とは歳月の分、隔たりが大きくなるのかも知れぬ。だが、画伯は現世の我々に作品を通して「永遠」に語りかけてくれるだろう。

●メモ

 ■画文集「地底の宮殿」(湯川書房・1990年)は、すでに絶版となっており入手困難です。

 ■現在、北九州市立美術館(北九州市戸畑区西鞘ケ谷町)で、冬の所蔵品展が開催されており、「平野遼/光と闇を超えて」のタイトルで、同館が所蔵する平野の油彩、水彩、ペン画30数点を展示中です。4月6日まで。

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