西日本新聞/九州ねっと
 


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2008年03月23日

五木寛之「青春の門 筑豊篇」

 ひとつ 昼間する炭鉱のぼんぼよ
 ふたつ 船でする船頭のぼんぼよ
 みっつ 道でする乞食(こじき)のぼんぼよ
 その哀調を帯びた歌は9番まで続く。中でも7番がもの悲しい。
 ななつ 泣いてする別れのぼんぼよ
 五木寛之は1969年、月刊誌に連載した「にっぽん漂流」の取材で、福岡県の産炭地・筑豊を訪れた。その際、この猥雑(わいざつ)な“読み人知らず”の歌を、自己流で「ぼんぼ子守唄」と名付けている。節回しは松浦地方の子守唄らしいが、炭鉱労働者に始まり、川ひらた(石炭運搬船)の船頭や乞食まで出てくるこの歌の舞台には、黒の大地・筑豊こそが似つかわしい。
 五木はこのころ、初めて挑む長編小説「青春の門」の舞台を筑豊に定めていた。同県筑後地方出身の五木は、山を越えた筑豊で茶の行商をした経験があった。2006年の週刊誌のエッセーで当時をこう振り返っている。
 「書きだしの文章が決まらず、七転八倒の苦しみをあじわっていた。悩みに悩んでいた私の脳裏に不意に浮かびあがってきたのは、あの香春岳(かわらだけ)の異様な印象だった」(新・風に吹かれて)

 春がすみの日、同県田川郡香春町を訪ねた。彦山(ひこさん)川、金辺(きべ)川、中元寺(ちゅうがんじ)川。筑豊に「川筋」の名をもたらした川々が、樹木が枝を広げるように平野を潤す。その川筋の野からいきなりせり上がるように、香春岳はあった。
 秀麗な峰が3つ連なり、炭坑節にも「ひと山、ふた山、み山越え」と歌われた名山だった。だった、と過去形でいうのは、昭和初期からセメントの原料にする石灰岩の採掘が続き、一の岳の頂がぺちゃんこに削られているためだ。川筋の野に、台形の山が醜いちゃぶ台のように存在する風景は、巨大な墓標を連想させる。
 この山が、大河小説・青春の門の源流点となった。五木は筑豊篇のプロローグを「香春岳は異様な山である」と書き出す。「膿(う)んで崩れた大地のおでき」のようだが、なぜか奇怪な魅力を発する山。「現在の筑豊のおかれている奇怪な現実を無言のうちに象徴している」と喝破し、「今はなき幻の山として伝説のように語られる日がやってくるのかもしれない」と結ぶ。
 このエピローグを端緒に、五木は川筋の人々の「生」の物語をいきいきと紡ぎ出す。「のぼり蜘蛛(ぐも)の重蔵」の忘れ形見・伊吹信介が、美しい義母のタエに育てられつつ、淡い性の目覚めや男になるための試練を経て、成長していく。青春の門・筑豊篇は1970年に出版され、ベストセラーとなった。

 「香春岳と筑豊は、伊吹信介の原点であると同時に、五木先生の原点でもあるのではないでしょうか」。香春町で香春岳の撮影を続ける二郎丸弘さん(77)は語る。二郎丸さんは小一のときから母1人、子1人で育った。信介少年と似た境遇だ。五木も中学時代に母を失っている。
 二郎丸さんは2年前、50年間撮りためた香春岳の写真集を出版した。表紙は、亡き母ナツさんが香春岳を背景に野良仕事に励む写真。「母は女手1つで香春岳のふもとの段々畑で野菜を作り、伊田(田川市)の炭住まで行商に通い、私を高校まで通わせてくれました」。郷愁を誘う写真の数々が五木の心を動かした。二郎丸さんの記念すべき写真集の巻頭を、「骨噛(か)みの山」と題した五木のエピローグが飾った。
 骨噛みとは炭鉱で死者を弔うこと。落盤事故にガス爆発。常に死と背中合わせで働くヤマの男たちは、同僚が死ぬと、「きょうは骨噛みたい」と言って仕事を休んだという。それが死者への礼を尽くすことであり、美徳であった。
 筑豊篇は東京の大学に進む信介が筑豊を去る場面で終わる。信介は八木山峠から飯塚の町を振り返り、亡くなったタエの遺骨を噛む。骨は「カリカリと爽(さわ)やかに」砕けた。筑豊の子・信介の、筑豊の子らしい旅立ちの儀式であった。

 五木がなぜ、記念碑的な作品の舞台を筑豊に求めたのかを考えてみたい。キーワードは「デラシネ」(根無し草)である。
 いろいろな五木のエッセーによると、五木は生後間もなく、教師の父の仕事で朝鮮半島に渡り、中学1年のとき、平壌で終戦を迎えた。現地の日本人の生活は辛酸を極める。零下何十度という寒さの中、発疹(はっしん)チフスが流行した。死者を焼く油もなく、五木らは大同江の厚い氷を割り、遺体を川に流した。
 そんなある日、五木少年は朝鮮人の集落で婦人のチョゴリを誤って自転車で汚す。とっさに朝鮮語で「哀号(アイゴー)!」と小さく叫び、頭を下げて通り過ぎた。朝鮮人に成り済まして逃れたつもりだったが、直後、背後から婦人が日本語で「日本人ノクセニ」と吐き捨てる声が聞こえた。ほおを焼くような羞恥(しゅうち)心。まだ中学生の少年の心に刻まれた屈折はいかばかりだったか。
 ようやく2年後、筑後に戻った五木と家族を待っていたのは、「引き揚げ者」のそしりであった。自転車に弟と妹を乗せて集落に近づくと、石を投げられた。
 住むべき土地も家も持たないデラシネ。悲しみを抱えた五木の胸に、一種の憧(あこが)れを伴って迫った土地が、筑豊だったのであろう。持たざる者たちが、炭鉱が発する「カネ」という磁力に吸い寄せられて集まった共同体である。人々は少々気は荒いが、義理に厚く、醤油(しょうゆ)やみその貸し借りは当たり前。困った人を見捨てては男(女)が廃る。それが川筋気質(かたぎ)だ。
 青春の門の登場人物にはみなどこか、香春岳の「膿んだおでき」のような影がある。信介とタエはいわゆる母子家庭。信介の幼なじみ織江は足が悪い。タエを慕う塙竜五郎はやくざ。信介のマドンナの梓先生は「おイヌさま」の家柄。それでもみんな、胸を張って生きていく。
 最後に筑豊篇の一場面を紹介したい。信介少年は在日朝鮮人の子どもを集団でいじめ、タエに「情(なさけ)なか!」と平手打ちされる。翌日、一対一で勝負し直すため、1人で朝鮮人集落に出向く。けんかの末に生涯の友を得た。
 人が、人と、生きる原点ではなかろうか。

 (文=筑豊総局・鶴丸哲雄 写真=写真部・納富 猛)

▼いつき・ひろゆき

 1932年、福岡県八女市生まれ。戦後、北朝鮮より引き揚げ、早稲田大学露文科中退。PR誌編集者などを経て、66年、「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、67年、「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞に輝く。「青春の門 筑豊篇」で76年、吉川英治文学賞。初エッセー集「風に吹かれて」は400万部を超すロングセラーに。現代性に富んだテーマと平易な文明批評が持ち味の人気作家。主な著書に「戒厳令の夜」「燃える秋」「朱鷺(とき)の墓」など。近年は「生きるヒント」「大河の一滴」「他力」など、人生論や仏教に傾倒した作品が多い。2002年に菊池寛賞を受賞。

●私の推薦文

筑豊に帰る信介読みたい 二郎丸 弘さん(77)=田川保護区保護司会会長(福岡県香春町)

 「青春の門 筑豊篇」が出てから、既に38年もの歳月が過ぎました。信介少年が仰ぎ見た香春岳も、今では往事の半分の標高250メートルほどになっています。筑豊が誇るこの山は、私にとって、亡き母の思い出が詰まった「母なる山」です。香春岳の変容の歴史を後世に残そうと、2年前に写真集を出版しました。その1年ほど前、五木先生にお会いできる機会があり、写真集の序文をお願いしました。五木先生は「もう香春岳もかなり変わったそうですね」と笑みを浮かべ、後日、青春の門の序文の転載を認めてくださいました。光栄の至りです。
 筑豊篇では、女手1つで信介少年を育てたタエさんの潔さが好きです。自立篇、放浪篇と続編を買いそろえてきましたが、近年はごぶさたですね。年輪を重ねた信介が今の筑豊を見てどう思うでしょうか。先生、早く完結篇を。その時は、信介しゃんを筑豊に帰してくださいね。

●メモ

■「青春の門」は、五木さんのライフワークともいえる未完の大河小説です。筑豊篇、自立篇、放浪篇、堕落篇、望郷篇、再起篇、挑戦篇の計7部がいずれも講談社から刊行され、うち、再起篇までの6部が改訂され文庫本化されています。第8部の風雲篇も週刊誌で連載されましたが、出版されていません。

■「青春の門」はたびたび、映画やテレビドラマ化されています。歴代の出演者は、吉永小百合さん、松坂慶子さん、大竹しのぶさん、仲代達矢さん、菅原文太さんら名優ぞろい。2005年にも鈴木京香さんと豊川悦司さんのコンビでテレビドラマ化されました。

■根強い人気にこたえて、筑豊篇の漫画も05年に講談社から刊行されました。いわしげ孝さんの画で全7巻。

■二郎丸弘さんの写真集「我が母なる山 香春岳」は全69ページ。増刷を検討しているそうです。

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2008年03月17日

尹東柱「空と風と星と詩」

 〈死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥辱(はじ)なきことを、/葉あいにそよぐ風にも/わたしは心痛んだ。/星をうたう心で/生きとし生けるものをいとおしまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。//今宵(こよい)も星が風に吹きさらされる。〉「序詩」(伊吹郷訳、以下引用も同じ)
 2月16日。福岡市早良区の福岡拘置所近くで、会社員、主婦、画家、詩人…15人ほどの人たちが一編の詩を朗読した。震える声は吹き下ろす寒風のせいだろうか。「今日は、本当に空が青い」と言う誰かの声で、みな一斉に天空を見上げた。
 63年前のこの日も快晴だったという。清冽(せいれつ)なハングルの詩編を残した隣国の詩人・尹東柱が、27歳という若さで獄死した、その日の福岡も。

 強靱(きょうじん)な意志を感じさせる澄んだまなざしと、きりりと結んだ口元。6年前、韓国・ソウルの延世大学内にある記念室で彼の写真を初めて目にしたとき、しばらくその場を動けなかった。見たこともない清潔さと、全身を包む憂いに吸い込まれた。〈風に吹きさらされる〉一点の星。繊細にゆらめき、光を放つことをやめない星。それは、東柱その人のイメージと重なる。
 東柱は1917年、中国東北部の北間島明東村で朝鮮人開拓民の子孫として生まれた。幼いころにキリスト教の洗礼を受け、中学のころから「童舟(ドンジュ)」「童柱(ドンジュ)」と名乗って、子ども向けの童詩を多く発表した。例えば、38年ごろに書かれた詩「こおろぎとわたしと」。幼い少年のような素直さと純粋さがほほえましい。
 〈こおろぎとわたしと/芝生で話をした。//リリリ ルルル/リリリ ルルル//誰にも教えてやらないで/ないしょの約束をした。/リリリ ルルル/リリリ ルルル//こおろぎとわたしと/月の明るい晩に話をした。〉
 21歳で東柱は祖国に戻り、ソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校(現・延世大学校)文科に入学する。当時の友人、故・鄭炳〓(チョンビョンウク)さんはエッセーで東柱の面影をつづっている。
 〈彼はとても優しく潔癖だった。帽子を斜めにかぶることもなく、学生服のボタンを横に傾けて付けることもなかった。洋服のズボンのひざ頭が前に突き出ることもなく、靴はいつもきれいだった〉
 散歩と読書を好み、一週間も二週間も〈思想がりんごのように熟れていく〉のを待って詩を書いた。酒は好まず、決して他人を悪く言うことはなかった。寡黙だったが、みなが東柱と一緒にいたがったという。
 しかし、日本による朝鮮半島支配という時代の激流は、この内省的な詩人もひとしなみに巻き込んでいく。入学の年の38年、日本政府は中等教育での朝鮮語を廃止し、朝鮮全土に国家総動員法を公布。第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した翌年には強制連行が始まり、創氏改名令が公布された。「星をかぞえる夜」の〈夜を明かして鳴く虫は/恥ずかしい名を悲しんでいるのです。〉は、「平沼東柱」という名を持つことになった自身、そして民族の哀しみの声を伝える一節だろう。

 「尹東柱の詩は、ただ美しく、ただほのぼのするものではありません。その言葉には魂が入っている」。福岡市東区の韓国語教師、元玉子(ウォンオクジャ)さん(42)は今年の元旦、日記に「序詩」を書き写し、「私も恥ずかしくない生を送ろう」と書き添えた。
 東柱は、この詩を延禧専門学校の卒業時に出そうとした自選詩集「空と風と星と詩」の序文に置いた。技巧を廃し、追求せんとする〈一点の恥辱なき〉、〈与えられた道〉を〈歩みゆかねば〉という強い決意をうたっている。その「道」は日本留学へと続くが、詩は孤独の色を次第に帯びていく。留学先の立教大(東京都)から延禧時代の友人へ送った「たやすく書かれた詩」から、日本で暮らす心情が浮かび上がる。
 〈窓辺に夜の雨がささやき/六畳部屋は他人(ひと)の国、//詩人とは悲しい天命と知りつつも/一行の詩を書きとめてみるか、/(中略)/かえりみれば 幼友達を/ひとり、ふたり、とみな失い//わたしはなにを願い/ただひとり思いしずむのか?//人生は生きがたいものなのに/詩がこう たやすく書けるのは/恥ずかしいことだ。(下略)〉
 詩は必ずハングルで書いた。書簡を受け取った友人は危険を避けて手紙の部分を捨て、詩をひた隠しにして戦後に伝えた。その数、わずか五編。現在唯一読むことができる東柱の日本での詩業である。

 1942年、日本は朝鮮での言論統制を強めてハングル学者らを大量に拘束し、翌年には徴兵制を公布。東柱は京都に転居し、抹殺されゆく母国語の行方を同胞たちと憂えながら詩作を続けた。
 その年7月14日、東柱は治安維持法違反(独立運動)の容疑で逮捕され、蔵書と作品、日記はすべて押収された。夏の休暇に合わせ帰郷の途につく切符を購入し、荷物を送った直後のことだった。
 1944年発行の「特高月報」は、逮捕の理由を〈朝鮮固有文化の抹殺は朝鮮民族を滅亡せしむるものなれば飽く迄(まで)も民族文化の維持向上を図るべしと為し(中略)朝鮮文化の維持に努め〉たためと記録している。福岡刑務所(現・福岡拘置所)に投獄された後、死は1年も待たずに訪れた。毒殺説が一部にあるが、死の真相は今も謎に包まれている。日本人看守は無名の青年詩人だった東柱の最期を「何の意味か分からぬが、大声で叫んで絶命した」と話したとされる。約半年後、戦争が終わった。
 死後、彼は「抵抗詩人」として、新たな光を浴びていく。しかし、中学時代の友人の故・文益煥(ムンイックァン)さんはこう残している。〈「彼の抵抗精神は不滅の代表例である」といった文章を読むたびに、わたしは内心すぐにはうなずけないものを感じる。彼にあってはすべての対立は解消された。その微笑にただようあたたかさに解けぬ氷はなかった。すべての人々が血を分けた兄弟だった〉。「抵抗」という言葉を彼に当てはめるならば、その対象は「恥辱」ではなかったか。侵略という〈風〉に〈吹きさらされ〉、民族の誇りや存在意義さえも奪われた恥辱の時代のなかで、東柱は恥と葛藤し、恥を拒んで生を歩もうとした。人は、社会や重ねる齢のなかで、「恥辱-汚れ」に妥協する自分に気付くとき、東柱の詩にはっとするのではないか。
 獄中の東柱についての記録はほとんど伝わっていないが、東柱の末弟、故・尹一柱(イルジュ)さんは獄中の兄からの届いたハガキについて生前、こう語っていたという。
 〈「筆先についてくるこおろぎの声にももう秋を感じます」と記した私の文章に、兄は「きみのこおろぎはわが独房にも鳴いてくれる。ありがたいことだ」と返事をくれた〉
 心はいつも海峡の向こうにあった。

  (文=文化部・平原奈央子 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼ユン・ドンジュ

 1917年、中国東北部の北間島省和龍県明東村(現在の中国東北部朝鮮族自治州)に生まれる。中学在学中から詩を発表し始め、42年に日本へ留学。翌年在学中の43年、京都下鴨警察署に逮捕され、45年2月16日に収監先の福岡刑務所で生涯を閉じた。享年27。
 没後3年の48年、弟・一柱らの編集でソウルで遺稿詩集「空と風と星と詩」が刊行される。68年、延世大学校内に詩碑が建立され、95年には没後50年を記念して同志社大学にも詩碑が建立された。2000年、かつて東柱が暮らした延世大学校内の寄宿舎に記念室が開館した。

●私の推薦文

どうしてこうも、やさしいのか 斎藤 秀三郎さん(85)=美術作家 (福岡市南区)

 「福岡・尹東柱の詩を読む会」に参加して十数年になります。東柱の詩は、平易なようで難解なところも出てきます。そのときは当時の時代状況を考察するのはもちろん、原語のハングルに立ち戻ったり、民族感情の特徴を教え合ったりして理解に努めてきました。容易には答えを出せないままに重苦しい雰囲気に陥ることもありますが、どうにか結論らしいものにたどりついた時に共有する喜びはひとしおであります。ちょうどそれは、長いトンネルをようやく抜けて、眼下に広がるまぶしいまでの風景を目にしたときのあの感動にも似ています。思わず「いい詩ですね」「そうですね」の感嘆が漏れます。
 尹東柱の詩は、どうしてこうも深いのであろうか、またどうしてこうもやさしさに満ちているのだろうかと思わずにはおれません。その素顔に迫りながら、人間・尹東柱を知りたくて詩を読み続けています。よかったら「読む会」に参加してみませんか。お待ちしております。

●メモ

■「尹東柱の詩を読む会」は、毎月第3土曜日に開かれています。次回は4月19日午後6時から福岡市中央区舞鶴の「あいれふ」で。参加費は資料代含め1000円。

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2008年03月09日

原尞「私が殺した少女」

 その電話が新聞社にあったのは、2月下旬、霙(みぞれ)交じりの冷たい雨が降っている夜だった。落ち着いた女性の声だった。
 「毎週、日曜日の『九州の百冊』のことです。もう98冊目になりましたが、わたしの大好きな、あのシリーズは取り上げる予定でしょうか?」
 「あのシリーズ? 何でしょう?」
 「探偵沢崎シリーズ、ご存じですよね。作者の原尞さんは鳥栖の人だし、私、沢崎のファンだから…気になって」
 「うーん、そうですね。リクエスト編で考えてみましょうか」
 「ぜひ、お願いします。あっ、それから本屋さんを覗(のぞ)いてみてください。『このミス』に、ファン必見の記事がでているんです」

 電話はそこで切れた。だがなぜ、春先の今、『このミス』(正式には『このミステリーがすごい!』)なのか? あの本は、年末にその年の推理小説ベストテンを、ミステリーファンたちが投票で選ぶ年の瀬の季語のような雑誌。いささか季節がズレてやしないか?
 釈然としないまま、翌日、書店に足を運んだ。季節はずれの『このミス』が平積みにされていた。創刊以来20年。書店に並んだ冊子は、記念の総集編らしい。早速、ページをめくった。《過去20年でもっとも面白かったミステリー&エンターテイメントはコレだ! ベスト・オブ・ベスト発表!》という、売り物らしい企画に視線を走らせた。
 電話の女性が言った通りだった。原尞著『私が殺した少女』は、この20年に何万冊も刊行されたミステリーの中で、国内編のベスト3にランクされていた。日本ミステリー史に鮮烈な一撃をくらわせた一冊。電話で女性はそう言いたかったのかもしれない。

 1989年に刊行された『私が殺した少女』は、その前年、出版社に第一作『そして夜は甦る』をいきなり送り付け電撃デビューを果たした作者の第二作である。もちろん、主人公は中年の渋さをたたえた私立探偵・沢崎。第102回直木賞も受賞した。
 物語は、ぶっちぎりの疾走感で展開する。西新宿にある沢崎の事務所に何者からか電話が入る。電話の依頼は「行方不明人について相談があるので作家・真壁の目白の邸宅に出向いてほしい」という内容。現場に着くと、真壁家では天才少女バイオリニストの呼び声高い娘・清香が誘拐され、6000万円の身代金要求が突きつけられていることが判明する。そして、さらに奇妙な事態も判明する。なぜか、身代金受け渡しに犯人が指定したのが沢崎だったのだ。「少女誘拐事件」の渦中に放り込まれた沢崎は、いきがかり上、この事件の謎を解明していくことになる-。
 一読してまず、洒脱(しゃだつ)な文章、ウイットに富んだ会話に唸(うな)った。文中に〈まるで拾った宝くじが当たったように不運な1日〉だとか〈初夏の1日は借金の申し込みの前置きのようにだらだらと長く〉といったスタイリッシュな表現がさりげなくちりばめられている。
 そして緻密(ちみつ)に計算し尽くしたストーリー、日本を舞台にしたリアリティーのある事件、結末の鮮やかなどんでん返しにも目を見張った。それに愛車のブルーバードに乗り、両切りのピースを愛して止まない、若干古風な沢崎のダンディズムもイカしていた。彼はさりげなくこんな言葉をつぶやくのだから…。〈人間のすることはすべて間違っていると考えるほうがいい。すべて間違っているが、せめて恕(ゆる)される間違いを選ぼうとする努力はあっていい〉
 文芸評論家の郷原宏氏は、この小説を「魅力ある文章と魅力ある1人の探偵を造形し、日本ではじめて実現した品格高きハードボイルド小説」と評する。ついでに作者の原尞が、先日、私のインタビューに答えて語った「この小説が目指したもの」についても記録しておこう。 「この小説は、日本語という言語の1人称で、どれだけ魅力的な人物が造形できるか、その難題にぎりぎりまで挑戦した作品だ」

 原は探偵沢崎と同様、自分のスタイルとペースに徹底的にこだわる作家である。必然的に寡作で、エッセーにはこんな記述がある。
〈自分の書くものを少しでもましなものにするためには“最初の読者”としての自分の眼をごまかさないこと、少なくとも、自分では読みたくも買いたくもないような小説を書かないこと-私はそれ以外の創作方法を知らない〉
〈死ぬまでに書く小説の数はそらで題名を全部言えるくらいにしておきたい〉
 そこからは、一切の妥協を排し、ひたすら質の高い作品の供給をのみ目指す一種の職人的完全主義の創作姿勢が浮かび上がる。原が、沢崎シリーズ第一作を書く際、百通りの書き出しと十通りの第一章を書いたことは半ば伝説だし、シリーズ第三作の巻頭にたった二行の箴言(しんげん)を引用するため、「ニーチェ全集」全24巻を読破したことも有名な話だ。
 原が小説を書き始める前、ジャズ・ピアニストをしていたころからの友人で、北九州市小倉北区でジャズ喫茶を経営する林直樹さん(65)が語る。
 「原くんは、店の開店記念日の12月17日に、毎年、ジャズのレコードを送ってくれる。マニア垂涎のヤツなのに、二枚あるから、なんてカッコつけて…。だから、私もお礼に缶ピースを送るんだ。沢崎にやってくれって。彼が書きたいのは、そんな、すこし粋な大人の世界じゃないかなぁ」
 今、沢崎ファンの間では、第五弾の刊行がいつになるのか、が最大の話題だ。第四弾『愚か者死すべし』から、すでに4年が経過している。
 「時期はミステリーですか?」
 私の問いに、原はこう答えた。
 「今、沢崎を尾行している。彼が手掛けている事件の概要もまだ言えない。ただ、秋には報告書を提出したい」
 (文=文化部・藤田 中 写真=写真部・永田 浩)

▼はら りょう

 1946年12月18日、佐賀県鳥栖市生まれ。本名孝。福岡高校を経て、九州大学文学部美学美術史科卒。大学卒業後上京し、ジャズ・ピアニストとして活躍。その後、帰郷し執筆に専念、1988年、探偵沢崎を主人公にした「そして夜は甦る」で作家デビューした。その作品は米国のハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの影響を強く受けている。沢崎シリーズは、その後長編「私が殺した少女」「さらば長き眠り」「愚か者死すべし」と展開。短編集に「天使たちの探偵」、エッセーに「ミステリオーソ」がある。本紙書評委員も務めた。鳥栖市在住。

●私の推薦文

媚びず信念貫き通す 林 直樹さん=「ジャズストリート52」店主 (北九州市)

 私は少し驚いて周りの人々を見渡した。壇上の彼は用意していた原稿を淡々と読み上げていた。「直木賞の方が恥ずかしくなる様な作家にならなければ」。平成2年2月12日、東京・丸の内「東京會舘(かいかん)」。第102回直木賞授賞式での原尞の「あいさつ」の中で、思いもかけない言葉を聞いた時だ。
 「なんと肝っ玉の座った男だ!」
 幸運にもというか、何故?というべきか、私はその式典に原尞の招待を受けていた。この日を挟んで前後40年近く、つかず離れずの交流が続く。
 彼が私を訪ねてくれた時は必ず2人で食事をとる。酒を口にしない彼とは、この時間にゆっくりと好きな煙草(たばこ)をくゆらせながらの会話がはずむ。至福の時。世間的には晴れの舞台である直木賞授賞式で放った前述の言葉に忠実に媚(こ)びる事なく信念を貫き通している。美しい男である。「イイぞ! 原尞」。私は時々、心の中でつぶやいている。

●メモ

■ペンネーム・原尞の「尞」は、字形が名字の「原」に似ていることからつけたそうです。また、主人公の探偵「沢崎」の下の名前は著者しか知らず、発表の予定も公表するつもりもないそうです。

■原氏は、兄が経営するジャズ喫茶「コルトレーン コルトレーン」(鳥栖市東町3丁目912―1)で、月に4度ほどピアノを演奏しています。

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2008年03月02日

長谷川町子「サザエさん」

 長谷川町子は現在の福岡市早良区西新で終戦を迎えた。彼女はこの地で生活しているときに「サザエさん」を着想している。当時暮らした家は現在は取り壊されてないが、今一帯を歩くと、モダンなマンションが立ち並ぶ中に「あ、サザエさんの家だ」と言いたくなるような古い木造住宅が何軒か残っていて驚かされる。

 漫画は近くの海辺を散策中に考案され、登場人物に海産物の名が付けられた。今は埋め立てで海岸線が遠のいているが、現在の西南学院大学の敷地北側はすぐ海だった。地元の西新校区自治協議会会長の林暁男さん(75)は振り返る。「埋め立て前は静かな夜には波打つ音が聞こえとりました」
 この福岡で生まれた「サザエさん」には、1つのちゃぶ台を囲む大家族のイメージがある。それを古き良き家族像として「3丁目の夕日」的なノスタルジーで受け止める人も多い。確かに1つの家に3世代が同居するような家庭は少なくなった。一方で妻の側の実家との結び付きはむしろ強まっている感もある。福岡市博多区の和田典子さん(41)の場合、実家の両親の大下哲郎さん(67)、人代さん(68)夫婦とは同居せずに徒歩約3分のマンションで暮らす。彼女の夫卓也さん(41)は宮崎県出身で歯科医。子どもは4歳から10歳まで三男一女がいる。典子さんは言う。「両親と同居も考えましたが、実家のスペースでは手狭だし、やはりお互い気を使いすぎる気もして…」

 結婚当初、典子さんは両親とは距離を置き、できるだけ子育てなどで協力を仰がないように心掛けていたという。
 「最初は1人でちゃんと子育てしたいと思ってましたから。でも変に意地を張るのも違うと思うようになった。子どもが大きくなるとともに母親が集まる行事も増えて、そういう会合のときは気兼ねせず両親に頼むようになりました」
 孫と顔を合わせると両親も喜ぶ。哲郎さんは言う。「子ども自体は甘やかしちゃいかんと思って遠ざけたいが、孫の方はやっぱりかわいい。少し離れているぐらいがちょうどいいのかも分かりません」
 マスオさん的な立場にある夫の卓也さんは冷静にこう分析する。「妻が『嫁』という立場で家に入るとやはり嫁姑問題になり、ぎすぎすしがち。サザエさんのように妻の親側に夫が同居するか近くに住む方が理想的な気がします。実際、最近は地方の中小企業が不況で長男でも家業を継がないって家も増え、割と平気で妻の両親の近くに住むということをよく聞きますから」

 昨今は妊婦が出産前に実家に帰り、実家近くの病院で出産するいわゆる「里帰り出産」も多い。現代社会は卓也さんが理想というような妻の家族との結び付きが強い「女系家族」の時代になりつつある。そうした点に着眼すると実のところ、サザエさんはノスタルジーの漫画ではなく、時代を先取りした漫画との見方もできなくもない。
 「サザエさんからいじわるばあさんへ」の著書がある評論家の樋口恵子さん(75)は「サザエさんは確かに大家族なんですけど、女系家族で夫の実家の方に顔を出したりする場面はほとんど描かれていないんですよ」と指摘する。現在ではほのぼのとしたアニメ版の印象が強いが、漫画の方は日本の伝統的な家族の形とは違った斬新さがあった。「新聞で連載が始まった当時、既婚女性はほとんどが『嫁』と名付けられる状態。サザエさんのように隣近所で言いたいようにものを言い、のびのびと生活するのは考えられなかった」
 樋口さんはそのうえでこう強調する。「あのころの嫁にとって、サザエさんはメルヘンの物語だったんですよ」
 終戦後まもない時期に町子がそのような漫画を描けたのは思春期以降、女ばかりの家族で育ったことに起因する。父親を14歳で亡くし、町子を真ん中にした三姉妹と母親で戦中戦後の激動期を乗り越えた。町子の自伝漫画を原作にしたNHKのドラマ「マー姉ちゃん」の脚本を書いた小山内美江子さん(78)はドラマの初回を3人がそろってジョギングするシーンから始めている。「元気のいい一家だから勢いよく出そうと。女所帯でしょ。力合わせて走る感じも出したかった」
 このドラマの町子ら長谷川家がモデルの女たちはおっちょこちょいでそそっかしく、まるでサザエさんそのものだ。小山内さんは推測する。「当時、女所帯の設定で漫画を描くのは無理だった。町子さんは生涯独身で他の姉妹も夫を早く亡くされますが、自分たちが結婚して家族を作ったときはこんなだったのかな、というイメージをサザエさんに反映させたのではないか」

 樋口さんが「サザエさん」の連載4コマ漫画の中で一番好きなのは71年ごろに新聞に掲載されたこんな回だそうだ。
 〈貸し切りバスと乗用車が狭い道路で向かい合う。乗用車には人相の悪い男たちが乗っていて、その1人が「バックしろ」と怒鳴って威勢よくバスに乗り込んでくる。だが、車内にはサザエさんを含んだ女性たちが眼光鋭い顔でずらりと座っていて「ウーマンリブご一行様」の旗が掲げられていた。男はすごすごと引き上げて乗用車にバックするように指示する〉
 60年代後半に米国で起こった女性解放運動が日本にも入ってきたころだった。
 「痛快でしたね。品のいい笑いに包んでいるから気づきにくいが、サザエさんは日常の描写は保守的ながら、時事的な変化に対しては結構過激な描き方も多いんです」
 町子は生前のインタビューで「好きな人は」の問いに「大内兵衛先生」と高名なマルクス経済学者の名を挙げてもいる。国民的漫画の中では前面に出さなかったが、彼女に進歩的な一面があったのは間違いない。カツオ君などは家事を手伝う場面が多く描かれ、現在の「男女共同参画」の精神をいち早く取り入れている。
 先見性という意味では町子は高齢者への関心も早かった。母親が晩年、現在でいう認知症だったことも関係するだろう。小山内さんは町子と電話で話していて、ある時、「素晴らしい人なのにこんなになって悲しいわ」と漏らしたことを印象深く覚えている。樋口さんも町子と面識はないが、一度だけ手紙をもらったことがあり、やはり母を気に病む記述があったという。今の家族が直面するお年寄りの介護の問題に町子は既に直面していたのだ。
 日本の65歳以上人口が7%を超え、高齢化社会を迎えたのは70年。「サザエさん」はその4年後に終わり、高齢化問題までは描ききれなかった。代わりに「いじわるばあさん」でお年寄りを明るく元気に描いたが、サザエ、マスオは波平、フネの介護問題にどう向き合ったのか。女性ならではの生活者の視点で昭和を描き続けた町子ならではの切り口も読んでみたかった。
 (文=東京報道部・内門博 写真=写真部・大矢海寿帆)

▼はせがわ・まちこ

 1920年、佐賀県東多久村(現・多久市)生まれ。福岡市の春吉小から福岡県立高女(現福岡中央高)に進学、同校2年の時に上京し山脇高女に転校した。「のらくろ」で知られる漫画家、田河水泡に師事。戦前に3人娘の学園生活を描く「仲よし手帖」で人気を得た。戦争中は福岡市に疎開、西日本新聞に入社し、戦後の46年から「夕刊フクニチ」紙上で「サザエさん」の連載をスタート。3年後に朝日新聞に舞台を移し、74年まで長期連載を続けた。他の代表作は「いじわるばあさん」「エプロンおばさん」など。92年に死去後、国民栄誉賞が贈られた。

●私の推薦文

「磯野家」は理想の家族 磯野 和子さん(38)=会社員(福岡市)

 同姓のよしみで「サザエさん」一家には勝手に親近感を抱いています。子どものころはからかわれるネタになって嫌でした。漫画の本もアニメと違い、時事的な話題が多くて難しく、苦手でした。ただ表紙がカラフルで手に取ってかわいいなあと感じたことは強く印象に残っています。
 大人になってからは初対面の人と打ち解けられる話題にもなり、役立っているんです。携帯ストラップなど身の回りのものにサザエさんのキャラクターグッズを愛用し、自分から話題のきっかけづくりをするようになりました。国民的人気の漫画ですから効果は絶大です。本当にすごいなあ、と思うのは子どもから大人まで誰にでも通じ、好感度も高いことですね。
 自然と自分の家族観にも影響しているかもしれません。波平さんのような厳格な父親がいてマスオさんのように優しい夫がいて…。サザエさんを中心にわきあいあいとした家族は私の理想の家族になっています。

●メモ

 ■長谷川町子さんは戦中に西日本新聞社編集局絵画課に所属。退社後1946年から夕刊フクニチで「サザエさん」の連載を始めます。その後、朝日新聞に移り74年まで続きました。フジテレビのアニメは69年から現在まで続いています。

 ■「サザエさん」は戦後の生活記録として資料価値も高く、樋口恵子さんは「生活道具から地域のたたずまい、人間関係まで戦後四半世紀の日本人の生活全体の記録として貴重」と評価します。

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