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   <title>九州の100冊「千年書房」 / 西日本新聞</title>
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   <subtitle>西日本新聞の連載のページ。九州ゆかりの本１００冊を紹介</subtitle>
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   <title>長谷川町子「サザエさん」</title>
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   <published>2008-03-02T06:53:52Z</published>
   <updated>2008-03-04T03:04:53Z</updated>
   
   <summary>進歩性もあった「嫁のメルヘン」   　長谷川町子は現在の福岡市早良区西新で終戦を...</summary>
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         <category term="漫画" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
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      <![CDATA[<img alt="100_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/100_01.jpg" width="116" height="170"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">進歩性もあった「嫁のメルヘン」</h2>
 
　長谷川町子は現在の福岡市早良区西新で終戦を迎えた。彼女はこの地で生活しているときに「サザエさん」を着想している。当時暮らした家は現在は取り壊されてないが、今一帯を歩くと、モダンなマンションが立ち並ぶ中に「あ、サザエさんの家だ」と言いたくなるような古い木造住宅が何軒か残っていて驚かされる。
　漫画は近くの海辺を散策中に考案され、登場人物に海産物の名が付けられた。今は埋め立てで海岸線が遠のいているが、現在の西南学院大学の敷地北側はすぐ海だった。地元の西新校区自治協議会会長の林暁男さん（７５）は振り返る。「埋め立て前は静かな夜には波打つ音が聞こえとりました」
　この福岡で生まれた「サザエさん」には、１つのちゃぶ台を囲む大家族のイメージがある。それを古き良き家族像として「３丁目の夕日」的なノスタルジーで受け止める人も多い。確かに１つの家に３世代が同居するような家庭は少なくなった。一方で妻の側の実家との結び付きはむしろ強まっている感もある。福岡市博多区の和田典子さん（４１）の場合、実家の両親の大下哲郎さん（６７）、人代さん（６８）夫婦とは同居せずに徒歩約３分のマンションで暮らす。彼女の夫卓也さん（４１）は宮崎県出身で歯科医。子どもは４歳から１０歳まで三男一女がいる。典子さんは言う。「両親と同居も考えましたが、実家のスペースでは手狭だし、やはりお互い気を使いすぎる気もして…」]]>
      <![CDATA[　結婚当初、典子さんは両親とは距離を置き、できるだけ子育てなどで協力を仰がないように心掛けていたという。
　「最初は１人でちゃんと子育てしたいと思ってましたから。でも変に意地を張るのも違うと思うようになった。子どもが大きくなるとともに母親が集まる行事も増えて、そういう会合のときは気兼ねせず両親に頼むようになりました」
　孫と顔を合わせると両親も喜ぶ。哲郎さんは言う。「子ども自体は甘やかしちゃいかんと思って遠ざけたいが、孫の方はやっぱりかわいい。少し離れているぐらいがちょうどいいのかも分かりません」
　マスオさん的な立場にある夫の卓也さんは冷静にこう分析する。「妻が『嫁』という立場で家に入るとやはり嫁姑問題になり、ぎすぎすしがち。サザエさんのように妻の親側に夫が同居するか近くに住む方が理想的な気がします。実際、最近は地方の中小企業が不況で長男でも家業を継がないって家も増え、割と平気で妻の両親の近くに住むということをよく聞きますから」

<img alt="100_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/100_02.jpg" width="300" height="191"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　昨今は妊婦が出産前に実家に帰り、実家近くの病院で出産するいわゆる「里帰り出産」も多い。現代社会は卓也さんが理想というような妻の家族との結び付きが強い「女系家族」の時代になりつつある。そうした点に着眼すると実のところ、サザエさんはノスタルジーの漫画ではなく、時代を先取りした漫画との見方もできなくもない。
　「サザエさんからいじわるばあさんへ」の著書がある評論家の樋口恵子さん（７５）は「サザエさんは確かに大家族なんですけど、女系家族で夫の実家の方に顔を出したりする場面はほとんど描かれていないんですよ」と指摘する。現在ではほのぼのとしたアニメ版の印象が強いが、漫画の方は日本の伝統的な家族の形とは違った斬新さがあった。「新聞で連載が始まった当時、既婚女性はほとんどが『嫁』と名付けられる状態。サザエさんのように隣近所で言いたいようにものを言い、のびのびと生活するのは考えられなかった」
　樋口さんはそのうえでこう強調する。「あのころの嫁にとって、サザエさんはメルヘンの物語だったんですよ」
　終戦後まもない時期に町子がそのような漫画を描けたのは思春期以降、女ばかりの家族で育ったことに起因する。父親を１４歳で亡くし、町子を真ん中にした三姉妹と母親で戦中戦後の激動期を乗り越えた。町子の自伝漫画を原作にしたＮＨＫのドラマ「マー姉ちゃん」の脚本を書いた小山内美江子さん（７８）はドラマの初回を３人がそろってジョギングするシーンから始めている。「元気のいい一家だから勢いよく出そうと。女所帯でしょ。力合わせて走る感じも出したかった」
　このドラマの町子ら長谷川家がモデルの女たちはおっちょこちょいでそそっかしく、まるでサザエさんそのものだ。小山内さんは推測する。「当時、女所帯の設定で漫画を描くのは無理だった。町子さんは生涯独身で他の姉妹も夫を早く亡くされますが、自分たちが結婚して家族を作ったときはこんなだったのかな、というイメージをサザエさんに反映させたのではないか」


　樋口さんが「サザエさん」の連載４コマ漫画の中で一番好きなのは７１年ごろに新聞に掲載されたこんな回だそうだ。
　〈貸し切りバスと乗用車が狭い道路で向かい合う。乗用車には人相の悪い男たちが乗っていて、その１人が「バックしろ」と怒鳴って威勢よくバスに乗り込んでくる。だが、車内にはサザエさんを含んだ女性たちが眼光鋭い顔でずらりと座っていて「ウーマンリブご一行様」の旗が掲げられていた。男はすごすごと引き上げて乗用車にバックするように指示する〉
　６０年代後半に米国で起こった女性解放運動が日本にも入ってきたころだった。
　「痛快でしたね。品のいい笑いに包んでいるから気づきにくいが、サザエさんは日常の描写は保守的ながら、時事的な変化に対しては結構過激な描き方も多いんです」
　町子は生前のインタビューで「好きな人は」の問いに「大内兵衛先生」と高名なマルクス経済学者の名を挙げてもいる。国民的漫画の中では前面に出さなかったが、彼女に進歩的な一面があったのは間違いない。カツオ君などは家事を手伝う場面が多く描かれ、現在の「男女共同参画」の精神をいち早く取り入れている。
　先見性という意味では町子は高齢者への関心も早かった。母親が晩年、現在でいう認知症だったことも関係するだろう。小山内さんは町子と電話で話していて、ある時、「素晴らしい人なのにこんなになって悲しいわ」と漏らしたことを印象深く覚えている。樋口さんも町子と面識はないが、一度だけ手紙をもらったことがあり、やはり母を気に病む記述があったという。今の家族が直面するお年寄りの介護の問題に町子は既に直面していたのだ。
　日本の６５歳以上人口が７％を超え、高齢化社会を迎えたのは７０年。「サザエさん」はその４年後に終わり、高齢化問題までは描ききれなかった。代わりに「いじわるばあさん」でお年寄りを明るく元気に描いたが、サザエ、マスオは波平、フネの介護問題にどう向き合ったのか。女性ならではの生活者の視点で昭和を描き続けた町子ならではの切り口も読んでみたかった。

　（　文　＝東京報道部・内門　　博写真＝写　真　部・大矢海寿帆）


<img alt="100_03.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/100_03.jpg" width="111" height="160"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　<strong>▼はせがわ・まちこ</strong>
　１９２０年、佐賀県東多久村（現・多久市）生まれ。福岡市の春吉小から福岡県立高女（現福岡中央高）に進学、同校２年の時に上京し山脇高女に転校した。「のらくろ」で知られる漫画家、田河水泡に師事。戦前に３人娘の学園生活を描く「仲よし手帖」で人気を得た。戦争中は福岡市に疎開、西日本新聞に入社し、戦後の４６年から「夕刊フクニチ」紙上で「サザエさん」の連載をスタート。３年後に朝日新聞に舞台を移し、７４年まで長期連載を続けた。他の代表作は「いじわるばあさん」「エプロンおばさん」など。９２年に死去後、国民栄誉賞が贈られた。


　<strong>●私の推薦文＝「磯野家」は理想の家族　磯野　和子さん（３８）＝会社員（福岡市）</strong>
　同姓のよしみで「サザエさん」一家には勝手に親近感を抱いています。子どものころはからかわれるネタになって嫌でした。漫画の本もアニメと違い、時事的な話題が多くて難しく、苦手でした。ただ表紙がカラフルで手に取ってかわいいなあと感じたことは強く印象に残っています。
　大人になってからは初対面の人と打ち解けられる話題にもなり、役立っているんです。携帯ストラップなど身の回りのものにサザエさんのキャラクターグッズを愛用し、自分から話題のきっかけづくりをするようになりました。国民的人気の漫画ですから効果は絶大です。本当にすごいなあ、と思うのは子どもから大人まで誰にでも通じ、好感度も高いことですね。
　自然と自分の家族観にも影響しているかもしれません。波平さんのような厳格な父親がいてマスオさんのように優しい夫がいて…。サザエさんを中心にわきあいあいとした家族は私の理想の家族になっています。


　●メモ
　■長谷川町子さんは戦中に西日本新聞社編集局絵画課に所属。退社後１９４６年から夕刊フクニチで「サザエさん」の連載を始めます。その後、朝日新聞に移り７４年まで続きました。フジテレビのアニメは６９年から現在まで続いています。
　■「サザエさん」は戦後の生活記録として資料価値も高く、樋口恵子さんは「生活道具から地域のたたずまい、人間関係まで戦後四半世紀の日本人の生活全体の記録として貴重」と評価します。]]>
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   <title>辻仁成「白仏」</title>
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   <published>2008-02-24T07:36:06Z</published>
   <updated>2008-03-04T02:57:44Z</updated>
   
   <summary>過去と未来、一体となる命 　そんころはどこん家（いえ）も田んぼの端に墓を立てとっ...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="099_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/099_01.jpg" width="114" height="170"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">過去と未来、一体となる命</h2>

　そんころはどこん家（いえ）も田んぼの端に墓を立てとってですね。一家に１つやなくて、１人に１つ、石塔のあった家もありました。そん墓の骨ば掘り起こしたことを覚えとります。私は働き盛りちゅうか、４０歳くらいやったです。ええ、そげん疑問とかは感じらんかったですよ。島んもん、みんなが掘り起こしよったから。そん骨を全部寄せて、洗（あろ）うてね。最初は立像を作る予定じゃったが、坐像になったつですよ。いま思うと、ええことを考えたなあと思いますね。みいんなの骨ば集めて、骨（こつ）仏（ぼとけ）さんばつくるちねぇ。ほんとによか考えでしたなあ。　（吉川精作さん）]]>
      <![CDATA[　大野島（福岡県大川市）は、筑後川の最下流、有明海の入り口に浮かぶ島である。南北に約７キロ、東西に約１．５キロ。戦国時代末期に川面に現れたほんの小さな三角州が、開拓を重ね、島となり、人が暮らし始めた。福岡と佐賀の県境が、島の中央を分けている。
　「白仏（はくぶつ）」は、この島に生きた明治生まれの鉄砲屋・江口稔の壮絶な生涯、とりわけ骨仏づくりに捧げた晩年を描いた物語だ。
　〈鉄砲屋江口稔の眼球は、澱（よど）んだ空の果てより島の上に降り注ぐ一条の光を確かに見ていた。記憶に焼きついた懐かしい景色に稔は最後の思いを馳（は）せていた。〉
　こう始まる物語のすべては、いまわの際で稔が見た、走馬灯の光景である。
　手先が器用で、柔軟かつ斬新な発想をもっていた稔は、戦前は刀鍛冶、戦中は鉄砲の修理、戦後は農耕機具や海（の）苔（り）摘み機を発明した。そのとき島の人々が求める何かを先んじて形にすることを生業とした。
　一方で稔は、シベリアで自らが殺（あや）めた敵兵への罪悪感にさいなまれ続ける。戦争は正しかったのか。人間とは一体何なのか。稔は幼いころから〈人は死んだらどこさん行くとやろか〉と考え続けてきた。戦場の敵兵だけでなく、思い続けた初恋の人は嫁ぎ先で悲惨な死を遂げ、五歳だった末息子は増水した川に飲まれた。幼なじみは戦死した。人は必ず死ぬ、という現実に、稔は苦悩する。そして、戦場での罪を告白した稔に、和尚は語る。
　〈生き残った人間にできるこっばするったい。みのるしゃんにできる何かがあるはずばい。それば見つけて死者のために、人のために生きるなら、おまえん中に募った罪悪は浄化さるるはずばい〉
　稔は島民すべての骨を集め、一体の仏を建立することを思い立つ。貧富の差や家柄の違いという現世の不平等を超越し、〈過去に生きた人も未来に生きる人もみんな１つになることができるなら、それほど人間らしいことはないのではないか〉と。

<img alt="099_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/099_02.jpg" width="300" height="187"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　主人公・稔のモデルは、作者である辻仁成の母方の祖父、今村豊さんである。祖父の実際の人生に即し、孫である辻は筑後の島の物語をつむいだ。
　骨を掘り返した記憶を語ってくれた吉川精作さん（８０）＝大川市大野島＝は「鉄砲屋の豊さん」をよく覚えている。終戦直前、中学校では軍事訓練が繰り返されていた。「本土決戦に備えて、敵の戦車の裏に磁石の爆弾ばつける訓練をしよったころ。訓練に使う銃を、豊さんは修理してくれよったです」。戦争の武器に携わった罪悪感もまた、豊さん（稔）を仏の建立に向かわせたのだろう。
　辻が祖父の白仏を知ったのは、執筆前年の１９９６年。エッセー集「僕のヒコーキ雲」によると、息子の初節句で訪れた大野島で、五歳のときに他界した祖父の人生を聞いた。〈実際に見た骨の仏は物凄い存在感を放っていた。気高いというのか、近づくものを見据えるような強い霊力が漲（みなぎ）っていた。僕は震えた〉。このとき、祖父を書くことを決意したのだった。
　辻は東京で生まれ、転校を繰り返して育った。少年時代を福岡で、思春期を北海道の函館や帯広で過ごした。後にロックバンド「エコーズ」で彼が作った歌では、帰る場所のないデラシネ（根無し草）の孤独がしばしばモチーフとなった。
　「白仏」は、函館を舞台にした「海峡の光」で芥川賞を受賞した直後、わずか１カ月で書き上げられた。受賞という大きな節目を機に、小説家として何を書いていくのか。恐らく辻はこのとき、作家としての足場、拠（よ）りどころを自ら決めた。右足は函館に、そして左足は筑後に。根差す場所を選ぶことができるデラシネの特権として、コンパスの軸を二本、据えた。その軸を自在に行き来し、純文学や娯楽小説、文学や音楽、映画というジャンル、そして国境さえも越境し、創作を続けているのである。
　昨年１１月、福岡市であった講演会の際、辻は「白仏」についてこう話した。
　「自分の力で書いたというより、大野島の人たちの力で書いた気がする。いつかまた舞台として書きたいと思っている。筑後という土地を」

　勝楽寺は大野島のほぼ中央にある。少し傾いた納骨堂の壁に、建設委員長として今村豊さんの名があった。きしむ引き戸を開けると、白仏は穏やかに鎮座していた。すべてを悟ったような白い仏の視線に向き合い、私はさっき見た風景を思い起こした。
　島の北端に、葦（あし）原が残っていた。１８０センチの私の背を軽く越える葦を掻（か）き分けて歩いた。北風にかしぐ葦の根元、有明海の泥を含んだ土の表面はゴムのような弾力があり、つかみ取ると冷たく湿っていた。ほんの４０数年前、豊さん（稔）は島の人々を一軒一軒説得し、骨を集めた。墓の中だけでなく、冷たい土を掘り返し、土葬された亡きがらの断片を再び現世に戻した。
　先祖たちは〈子孫たちと先祖との交信の場。大野島でめぐり合った縁を大切にする記念の碑。過去と一体になる未来〉としての一体の仏に生まれ変わった。台座には「骨数量２８俵、骨重量１３００ｋｇ、使用遺骨数千体」と記されている。
　私も辻と同じように東京で生まれ、転校を繰り返し、団地を移り住んで育った。拠り所を探したとき、幼いころに親しんだ筑後川の記憶に導かれ、父母のルーツである九州に根差すことを選んだ。自分という不確かな存在が、何かと、どこかとつながっている実感がほしかったのだと思う。
　人はただ、自分だけがひょっこりとそこに生まれ、生きているのではない。親がいて、先祖がいて、命は連綿と続いている。海に流れ込む大河の流れがはるか上流の山奥のわき水にあるように、その水が永遠に循環を繰り返すように、人の命もまた、巡っていくのだろう。
　川の終わりと、海の始まりの間にある大野島。白仏はこの地に穏やかに座し、死と生のやり取りを永遠に見つめていく。
　（文　＝文化部・塚崎謙太郎写真＝写真部・納富　　猛）

<img alt="099_03.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/099_03.jpg" width="117" height="160"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　<strong>▼つじ・ひとなり</strong>
　１９５９年東京生まれ。父親の転勤に伴い、少年時代は福岡市や北海道函館市に暮らす。８５年にロックバンド「ＥＣＨＯＥＳ」でデビュー。８９年に「ピアニシモ」ですばる文学賞、９７年に「海峡の光」で芥川賞。９９年には「白仏」仏語翻訳版がフェミナ賞外国小説賞を日本人として初受賞。作家は「ひとなり」、音楽や映画は「じんせい」と使い分け、幅広い分野で活動。主な著作に「冷静と情熱のあいだｂｌｕ」「愛のあとにくるもの」「ピアニシモ・ピアニシモ」など。昨年から京都造形芸術大教授として文学を教える。フランス・パリ在住。

　<strong>●私の推薦文＝もう１つの古里の姿に出合った　田中　利世子さん（３３）＝会社員　（福岡県大川市大野島）</strong>
　４年くらい前、映画で見た「冷静と情熱のあいだ」の原作を買おうと訪れた書店で、隣にあった「白仏」を偶然手に取りました。開いてみると私が住む「大野島」が舞台と書いてあり、ミーハー的な感覚で買いました。
　辻さんの名前も、白仏が大野島に実際にあることも初めて知りました。主人公・稔が、骨で仏像をつくるために、島民を１つにまとめていった精神力と統率力、壮絶な人生に圧倒されました。
　物語の中の大野島は私の知る大野島とは違っていました。渡し船が島民の大切な交通手段だったという話は、父から聞いたことはありますが、橋が架かった後に生まれた私には大昔の出来事に思えます。知らなかった、もう１つの大野島を知った気がします。
　川に囲まれた風景は、今も昔も変わりません。私の大好きな風景です。この小説をもっと多くの人が読んで、大野島を訪れてほしいと思っています。

　<strong>●メモ</strong>
　■白仏は勝楽寺で見せてもらうことができます。集まった島民の骨を細かく砕き、大阪の彫刻家・故今村輝久さんが仏像にしました。小説「白仏」はフランスのほか、トルコ、台湾などで翻訳出版され、ドイツ、スペインでも出版予定です。
　■辻仁成さんが福岡を舞台に書いた小説は「人は思い出にのみ嫉妬する」のほか、昨年江國香織さんとの並行連載を終えた「右岸」があります。１９６０年、福岡の隣り合った家に生まれた男女の人生を描いた長編で、年内出版予定です。エッセー集「そこに僕はいた」にも福岡の少年時代がつづられています。]]>
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   <title>村田喜代子「百年佳約」</title>
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   <published>2008-02-17T05:46:34Z</published>
   <updated>2008-02-18T07:00:29Z</updated>
   
   <summary>日本と結婚した朝鮮の魂 　白磁に、呉須（ごす）が深い藍（あい）をたたえる下絵、筆...</summary>
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         <category term="史伝文学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<img alt="080217_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/080217_02.jpg" width="113" height="170"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">日本と結婚した朝鮮の魂</h2>

　白磁に、呉須（ごす）が深い藍（あい）をたたえる下絵、筆の妙が織りなす鮮やかな色絵－。
　佐賀県有田町を中心とする伝統工芸品の有田焼。古くは「伊万里」と呼ばれた、この真っ白い磁器は豊臣秀吉の朝鮮出兵（１５９２－９８）の際、朝鮮半島から連行されてきた陶工が有田・泉山で陶石を見つけ、本邦で初めて焼き始めたと言われる。
　伊万里支局へ１年９カ月前に赴任して以来、連日のように有田焼を取材する。器や花瓶が、夢にまで出るようになった。次第に約４００年前の朝鮮人陶工のことも分かった気でいた。しかし「百年佳約」を読んで穴に入りたくなった。陶工たちの異国での思いや、一方で生きるための図太さをまざまざと示され、目の前に陶工たちが現れたような気さえして、私の浅い理解を見透かされた気がしたからだ。]]>
      <![CDATA[　話の主人公は朝鮮人陶工集団を率いた老女、百婆。死後、子孫繁栄を祈る一族の守り神になったところから物語が始まる。もう１人の主役は新頭領になった息子十蔵。村田さんの想像を交えて描かれるテーマは人間の生の象徴の１つ「結婚」である。
　冒頭のシーン。神になった百婆は朝鮮式の饅頭（まんじゅう）形の墓に「小さい体を乗せてちょこんと腰掛け」キセルを「スパリと」吸う。そして朝鮮人陶工同士の良縁を願う。「クニ」の伝統と血を守りつつ子孫繁栄を成就させるためだ。一方、母親の死を機に十蔵は母に逆らい、日本に同化するため息子、娘らを日本人と縁づかせようとする。「外へ嫁にやれば、やがて皿山中に渡来の根が広がっていく」と。事もあろうに婿探しの席に選んだのは百婆の４９日の法要の席だった。ところが、その後も十蔵がもくろむ縁結びがうまくいかない。神の百婆も折々に現世へちょっかいを出す。渡来人一世の百婆と二世の十蔵。そして日本しか知らない三世の娘らの思いも重なり、結婚相手探しは紆余（うよ）曲折しながら続く。
　一方で、民族の伝統を守ろうとする陶工たちの姿もストーリーの随所に盛り込まれる。「山登り」と称して一族で山に登り、故国の方角へ慟哭（どうこく）したり、女たちがチマチョゴリをふわふわ舞わせながら朝鮮式の板飛び遊びに興じる。
　両国の文化の違い。世代間の違い。それらがぶつかりながら、国際化が進む現代日本の複雑さをほうふつとさせる様子が約４００年前の有田を舞台に描かれていく。

<img alt="080217_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/080217_01.jpg" width="300" height="200"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>　実は百婆にはモデルがいる。朝鮮人陶工・深海（ふかうみ）宗伝の妻、百婆仙だ。有田で最も有名な朝鮮人陶工は、泉山で１６１６年に陶石を発見したとされる「李参平（日本名・金ケ江三兵衛）」であって、宗伝、百婆仙の方は今はあまり語られることがない。
　百婆仙は宗伝の死後、良質な陶石を求めて今の同県武雄市から一族を率いて有田町稗古場（ひえこば）に移住。金ケ江、深海両一族を中心に有田の基礎は固められた。百婆仙は、その名の通り、百歳近い９６歳の長寿で亡くなったと伝えられる。
　古伊万里好きを自認する村田さんは１０年ほど前に有田を取材旅行。老舗有田焼メーカーの香蘭社や深川製磁に近い稗古場の報恩寺を訪問。境内で百婆仙を祭った石の法塔と対面した。「その墓もまた日本式で、いわゆる朝鮮の土饅頭型ではない。その時私は鍋島藩の殖産業として隆盛した歴史を思い返し、彼等が帰化の道を辿（たど）ったことに気づかされたのだった」。村田さんは「おんなの　有田皿山さんぽ史」（有田町歴史民俗資料館編）に、こうつづっている。
　そして書かれたのが「百年佳約」の前作となる「龍秘御天歌」（１９９８年）だ。百婆が夫の死に際し、日本式ではなく朝鮮式の葬儀にこだわったために起きた混乱劇を活写。死をめぐる異文化の衝突をあぶり出した。「『百年佳約』の構想はじつはその合間に生まれたものだった。弔いと結婚は吉凶相反しながら、じつはつながっているのである」（「百年佳約」あとがき）。

　今年１月中旬、私も百婆仙を訪ねた。報恩寺の加藤元章住職（７３）が案内してくれたのは、こけむした高さ１４０センチの法塔。確かに朝鮮式の饅頭形ではないが、目の当たりにした瞬間に百婆が法塔の上にちょこんと腰掛け、キセルをスパリと吸う姿が頭に浮かんできて、ほほが緩んだ。
　住職はさらに裏山へ登った。息を切らして登り詰めると眼前に草地の頂上が広がった。この「観音山」こそ、かつて朝鮮人陶工が母国へ慟哭した場所だったという。「こっちが朝鮮半島の方角です」。住職が指す遠くの山の稜線（りょうせん）上をゆっくり白い雲が流れる。突然、もの悲しい音が響く。住職が木の葉を口に当て「アリラン」をふき始めたのだった。「韓国の人が時々この観音山へ来る。聞かせてあげるんです」。月末には必ず、朝の読経で百婆仙と宗伝らを永代供養するという。「有田の恩人、守護神ですから心を込めて。焼き物不況でもあり、お見守りくださいとね」。
　寺と反対側へ観音山を下る。ふもとに百婆仙らが築いたとされる登り窯跡「稗古場窯跡」「天神山窯跡」の痕跡が斜面を駆け上るように残る。村田さんが描く創業期の有田の喧騒（けんそう）が聞こえてくるようだった。
　ふと気になった。「百年佳約」で百婆が守ろうとした深海一族はどうなったかと。探してみた。すると末裔（まつえい）は有田町内外で陶磁器の卸商社や小売店を営んでいた。その１人で同町で陶磁器の絵の具を製造販売する深海商店の深海良治社長（４８）は「祖先を尊敬し誇りに感じています」と胸を張る。時々、法塔の清掃にも出掛けるという。
　百婆の時代から４００年をへた有田。現在も朝鮮人陶工を尊敬しつつ、百余りの窯が磁器を生産し続ける。「百年佳約」が描く結婚は見事に日本社会の中で成就したようだ。百婆は天からこの様子をどう見ているだろう。そう思ったとたん、キセルを手に、にんまりした顔がまた浮かんだ。

　（　文＝伊万里支局・末広　浩　　写真＝写真部・納富　猛　）

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　<strong>▼むらた・きよこ</strong>
　１９４５年、福岡県北九州市八幡生まれ。福岡県中間市に住む。７７年に「水中の声」で九州芸術祭文学賞を受賞したのを機に文筆活動に入る。８５年に個人誌「発表」を創刊して著者自身のタイプ印刷による創作発表を続けた。８７年の「鍋の中」で芥川賞、９０年に「白い山」で女流文学賞。９８年、「望潮」で川端康成文学賞に選ばれた。「百年佳約」の前編とも言える「龍秘御天歌」は芸術選奨文部大臣賞を受賞している。「百年佳約」は２００３年１月から同年１０月まで西日本新聞、中日新聞、東京新聞、北海道新聞など全国の新聞６紙に連載された。

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　<strong>●私の推薦文＝尾崎　葉子さん（５２）＝有田町歴史民俗資料館長　有田の女の歴史描いた村田さん</strong>
　１９９８年、有田町歴史民俗資料館では「おんなの　有田皿山さんぽ史」という本を出版した。有田焼は江戸時代から海外へも輸出されているほどなのに、その歴史には女性がほとんど名を残していない。でも、その半分を支えたのは、おんなであるはずと、ライターも内容も女性を、と意気込んだ。
　しかし、残念ながら、その内容は男中心にならざるを得なかった。が、時を同じくして村田喜代子さんが皿山の代表的な女性・百婆仙をモデルに「龍秘御天歌」を上梓された。思いは同じと、無謀にも巻頭エッセーをお願いし快諾いただいた。地方の一資料館が出版した書籍に、謝礼もなく芥川賞作家に寄稿していただいたことに感謝の思いでいっぱいである。姉妹作である「百年佳約」の取材に有田を訪れた村田さんを囲んで、さらにずうずうしくも「さんぽ史」のライターが集まり、茶話会を開いた。その折もまた、和やかなひとときをご一緒いただいたのも、有田にとってはかけがえのない時間だった。

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　<strong>●メモ</strong>
■「百年佳約」の前作、「龍秘御天歌」は劇団わらび座が２００５年から「百婆」というタイトルのミュージカルに仕立てて全国で公演しました。
■深海宗伝・百婆仙と同様、朝鮮半島から連れてこられた陶工の李参平（日本名・金ケ江三兵衛）は１６１６年に有田・泉山で陶石を発見し、「日本の磁器発祥の地」を掲げる有田磁器はここから歴史が始まったとされます。李参平の子孫、１４代金ケ江三兵衛さん（４７）は今も有田で「陶祖李参平窯」を営み、「当時、初代も日本人も互いを認め合ったから今があると思う」と、子孫の立場から日韓友好に力を入れています。]]>
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   <title>平野遼「地底の宮殿」</title>
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   <published>2008-02-10T06:49:27Z</published>
   <updated>2008-03-04T03:04:54Z</updated>
   
   <summary>透徹した思索を美に昇華 　タダものではない。 　それが、もう２０年も前、最初に平...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="097_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/097_01.jpg" width="170" height="154" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">透徹した思索を美に昇華</h2>

　タダものではない。
　それが、もう２０年も前、最初に平野遼に会った時の印象だった。
　１９８７（昭和６２）年秋、平野の西日本文化賞受賞が決まり、当時、北九州支社に勤務していた私はその喜びの声を取材するよう指示を受けた。
　《難解で奇怪な絵を描く画家》《独学で独自の画境を開いた人》－その程度の予備知識だけで、写真記者と小倉北区の彼の自宅を訪ねたのは、ある意味では若さゆえの大胆さからだったろう。
　あの時、彼のアトリエに入り、私の小市民的とでもいうべき感覚は根底からかく乱された。２０坪ほどの板張りの暗い画室の壁際に、無数の絵の具チューブの残骸（ざんがい）が堆積（たいせき）していた。まるで貝塚のように。そして絵の具の飛沫（ひまつ）だらけのイーゼル、壁、床。そこは、創作に没入している画家の厳粛でむき出しの“戦場”を感じさせた。]]>
      <![CDATA[<img alt="097_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/097_02.jpg" width="300" height="195" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　そして、アトリエの壁の書架に並ぶ大量の蔵書にも目を見張った。ランボー詩集、西脇順三郎詩集、小林秀雄全集、道元全集…。なぜ、こんな小難しい本ばかりが並んでいるのか。正直、当惑した。
　平野は木製のいすに馬乗りに跨（またが）り、背もたれにほおづえをついて、ぽつりぽつりと、自分の経歴や近況、絵画観などを語ってくれた。２つのやりとりを今も鮮烈に覚えている。
　－平野さんは、日々、何を考え、何を描こうとしているのでしょうか？
「本物は目に見えない。目に見えない本物を描きたいと、毎日、描いている」
　－取材の最後に家族構成をお伺いします。平野さん、子供さんは？
「子供はいない。絵の邪魔になるから」
　一体、この人は何者なのか？　その日から、平野は私の気になる人物の１人になった。翌日、美術館で展覧会の図録を購入した。そして、彼が絵だけでなく、無類の文章家であることも、知ることになった。

　『地底の宮殿』は、その平野が死の２年前にまとめた画文集である。画論があり、紀行文があり、インタビューがあり、詩がある。収録された絵もペン画にはじまり、水彩、旅先でのスケッチ…と一冊で平野の世界、晩年の到達点を概観できる内容になっている。
　圧巻はやはり文章の端々にのぞく彼の絵画論であろう。彼は書く。
〈人間の形をしているものより、もっと描きたいものがある。命の原形です〉
〈表面にばかり捉われては絵画は生まれてこない。皮相な形が整ってくるにつれて生命力は衰退し逆に死屍に等しい空虚なものになってしまう〉
　また、傾倒していた彫刻家ジャコメッティの作品についてはこう記す。〈美を拷問にかけて一切の肉をはぎ取った果てに、やっと出てきた実存なのである〉
　極めて思索的、そしてなんと明晰（めいせき）で、切れのいい文章だろうか。そして、インタビューに答えて平野本人が語っている自らの半生も興味深い。
　そこでは、昭和の初めに大分県佐賀関に生まれ、幼くして母と父を亡くし、鉄都に育った薄幸の少年時代が明らかにされ、戦後の混乱期の貧困と孤独、無頼と漂泊が語られる。そのやりとりからは、絵描きを志す者は一様に美術学校に通った時代に、高等小学校までしか行けなかったこと、酔客相手の夜の似顔絵描きという逆境のアルバイトが、平野の抜群のデッサン力をはぐくんだことも浮かび上がる。
　さらに『地底の宮殿』という、謎めいた一癖あるタイトルも興味をそそる。妻の清子さん（８２）が語る。「平野は、このタイトルを思い付いたとき、上機嫌で本当にうれしそうでした。だれにでも見える地上の宮殿ではなく、人には見えない『地底の宮殿』こそ平野が生涯をかけて描きたかったものでしたから」

　平野の絵は、いろいろな見方をされてきた。「重い、暗い、難しい」と敬遠する人たちがいる一方で、熱烈なファンも多い。
　東京・南青山で珈琲店を営む大坊勝次さん（６０）は平野信奉者の１人。もう何年も店内で「一点だけの平野遼展」を開いている。半世紀以上前、平野の抽象画に出会い「この絵は僕の自画像だ」と体が震えた。以後、自ら収集した平野の油彩、ペン画などを数カ月ごとに入れ替えながら店内に展示する。「人間とは一体何なのか？　平野作品は一切の妥協を排し、厳格にこの難問を追究している。そんな画家ほかにいない」
　一方、医師で平野作品のコレクターの新貝修さん（８６）＝東京都＝は「平野の絵の魅力は、その絵が簡単に読み解けない点にこそある」という。「解けそうで解けない難問を前にしたように夢中にさせてくれる」
　「人間の実相を凝視した画家」「未踏の闇に光を求めた画家」「現代社会の矛盾、ひずみを遙かな幻想性の中に描いた画家」「自我を研ぎ出した画家」－その独特の作品世界から、平野には様々な形容詞が付与される。どれも正解だろうし、どれも言い尽くしているとはいえないだろう。
　ただ、平野の絵に、深部、深奥から立ち上る美しさがあることは事実だし、その澄明感は、透徹した思索を美に昇華しようとした営為の結果とも思える。
　この取材で、２０年ぶりに平野の家にお邪魔した。アトリエは主亡き今も昔のままで、清子さんの手で画家の好きだった白いユリが生けられていた。
　壁の隅に、ピンアップされ、すっかり飴（あめ）色に変色した紙切れを見つけた。清子さんがいう。「あっ、それ、平野が好きで自分で張った古代ローマの哲学者・セネカの言葉です。学歴も師匠もなく、徒手空拳で自分の絵を描いてきた彼を支え続けた言葉でしょうか」。紙片にはクセの強い筆跡でこう書かれている。
・ひねもす走りおおせたる者　夜のやすきにつくこそよけれ

　（　文　＝文化部・藤田　　中写真＝写真部・大矢海寿帆）


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　<strong>▼ひらの・りょう</strong>
　１９２７年、大分県佐賀関町（大分市）生まれ。３０年、母親と死別し、戸畑市（北九州市戸畑区）に転居。３９年、戸畑男子高等小学校卒業。翌年、父親死去。４４年、久留米西部５１部隊に入隊。翌年、終戦・除隊後、北九州に戻り、米軍ポスター描き、似顔絵描きをする。４９年、上京し、蝋画が新制作派展に初入選。５７年、東京・南画廊で初個展。８６年、池田２０世紀美術館で「平野遼の世界展」。８７年、北九州市立美術館で同名の展覧会開催、西日本文化賞受賞。代表作に「昼と夜と」「奔馬の形態」「裸形の風景」など。画文集に「熱風の砂漠から」など。９２年、６５歳で死去。


　<strong>●私の推薦文＝「創造の起点」を吐露　高杉　志緒さん＝下関短期大学講師（福岡市早良区）</strong>
　初めて対峙（たいじ）した平野遼画伯の作品は《青い雪どけ》（油彩・１９５９年制作）であった。深く澄んだ紫の上に溶け合う白と黒。凝視の先にある複雑な色。積雪の輝きが陽光で乾坤（けんこん）に吸い込まれて行くように、自分も画面の底に沈んで行く感覚に襲われた。爾来（じらい）、平野絵画の魅力は画面の深淵（しんえん）に潜むと感じている。
　画伯は「永遠は土の中に埋没している」「美の宇宙は、おのれ１個の闇の空間に潜在するという自覚にあるのだ。そしてその原点こそが創造の起点となるのだ」と記す。『地底の宮殿』には、詩・書・画を問わず表現し続けた平野遼の「創造の起点」が吐露されている。絵画作品では窺（うかが）うことが困難な画家の「美の宇宙」、魂の宮殿の垣間見が、本書を手にした時、可能となるのだ。
　本年、平野画伯１７回忌を迎える。冥界（めいかい）の人とは歳月の分、隔たりが大きくなるのかも知れぬ。だが、画伯は現世の我々に作品を通して「永遠」に語りかけてくれるだろう。



　<strong>●メモ</strong>
　■画文集「地底の宮殿」（湯川書房・１９９０年）は、すでに絶版となっており入手困難です。
　■現在、北九州市立美術館（北九州市戸畑区西鞘ケ谷町）で、冬の所蔵品展が開催されており、「平野遼／光と闇を超えて」のタイトルで、同館が所蔵する平野の油彩、水彩、ペン画３０数点を展示中です。４月６日まで。]]>
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   <title>安永蕗子「青湖」</title>
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   <published>2008-02-03T07:53:02Z</published>
   <updated>2008-02-04T08:02:47Z</updated>
   
   <summary>凛として強く、景を歌う 　　ゆらゆらに月壺ひとつを呼ぶべしや湖をあまりて湧く水の...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="096_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/096_01.jpg" width="116" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">凛として強く、景を歌う</h2>

　　ゆらゆらに月壺ひとつを呼ぶべしや湖をあまりて湧く水の音
　　うしろ姿見せて佇ちゐる鷺一羽流離長巻すゑの葦むら　（「青湖」から）

　阿蘇、白川、江津湖－。安永蕗子のそばには絶えぬ水の流れと讃（たた）える景がある。身を委ね、相聞し、ありのままに景を詠む。
　安永は「日の常を詠む」という。日とは太陽であり、日の常とは、朝に太陽が東から昇り、夕べに西に落ちる宇宙の常だ。「人間はこの常がなければ生きてはいけない」と安永は考える。日の光を受けて命輝くもの、あるいは影を見つめる。悠久の時の中の一瞬を、生の実感として三十一音に留める。「五七五七七で詠むのは人間の摂理に即している。短歌の世界に新しいものを作るのは難しい。だが、歌の純粋化、抽象化を進めていくことで新しさに近づいていけるのではないか」]]>
      <![CDATA[<img alt="096_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/096_02.jpg" width="194" height="300" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　安永は１９２０年、父信一郎、母春子の長女として熊本市に生まれた。父は歌人の宗不旱や種田山頭火、徳永直と親交があり、師事した尾上紫舟主宰の短歌結社「水甕（みずがめ）」の同人だった。母も準同人である。両親は市内に書籍と文具を商う店を出し、生計を立てた。
　幼いころは、よく歌会に連れていかれた。熊本県立第一高等女学校に入学してからは油彩を描き、ブラックやゴッホに傾倒した。父の薦めで第五高等学校（当時）の教授に漢籍を学び四書や論語も読んだ。文学への傾倒と作歌の下地が養われたのはこのころからだ。
　熊本県女子師範学校専攻科を卒業後、小学校の教職につくが４５年７月には空襲で一家は焼け出された。戦争の疲労がいえぬ４８年、安永は結核で胸を病んだ。２８歳だった。
　医師が覚悟を告げ、父でさえ「葬式に誰を呼ぼう」などと言う。こうなると母の方が行動が早かった。家を飛び出し、戻ってきた手には特効薬の抗生物質ストレプトマイシンが２０本握られていた。一命はとりとめた。だが病院と自宅での療養は７年に及んだ。
　「あなたは長生きしないだろうから、毎日歌を一首作りなさい。目の前にあるものを詠み込んでいったらいいでしょう」
　そう言って歌作を勧めたのも母だった。昼は店番をし、夜は自室の天窓から星空を見つめた。体力も気力も、将来への展望もまだ持てない様子を見かねてのことだった。
　そのころ父の書棚に中城ふみ子の歌集「花の原型」「乳房喪失」を見つけた。中城は３０歳を過ぎてまもなく、がんで早世した。自己を見つめ愛や性をつややかに歌っていた。
　「人間や周囲へ優しいまなざしを向けながら、己の無残を見据える強さがある」。安永はそんな中城の歌に触発された。それからまもなく、安永は父が主宰する歌誌「椎の木」の編集を手伝い、作歌を始めた。

　　極北におく星白く乱れつつ眼潤むといふこと悲し
　　卵黄にたつ血紅もいやしまず愛にたくらむことある朝は　（「棕梠（しゅろ）の花」から）

　５６年、安永は「棕梠の花」（第一歌集「魚愁」所収）５０首で「角川短歌賞」を受賞した。歌を初めて「椎（しい）の木」で発表した翌年での受賞。彗星（すいせい）のように歌壇に登場した。
　「棕梠の花」の歌は後年の作に比べると、安永の生々しい感情の吐露が目立つ。そこには生活の具体を通して「孤独な１人が生きていく上で、哀感を伝えるには短歌よりほかにはない」という決意がある。
　安永は以後、熊本を離れることなく歌を詠み、１６冊の歌集を発表した。一貫しているのは、身じろぎもせず佇（たたず）む北の恒星に象徴される宇宙の摂理への畏敬（いけい）であり、漢籍で養った文語体の骨太さに柔肌のような和の感性をまとわせた自然詠の数々だ。
　とりわけ熊本市南部にある江津湖は、歌心をはぐぐむ場所だという。幼いころ両親と歩き「人間ではなく、自然を詠め」と諭した亡き母の言葉を思い出させる。来る年、変わらぬ相貌（そうぼう）を見せる自然の強靱（きょうじん）さも感じさせる。「熊本に生まれ、そこに生きる人々や自然、風土に私ははぐくまれ、支えられた」と話す安永にとって「生地は聖地」なのである。
　その想いがこの第１１歌集「青湖」に詰まっている。江津湖畔に居宅を移した後に上梓され、約３６０首の大半は江津湖を歌った。日々湖畔に佇み、眼前の風景の感情を詠む。それは絵を描く作業にも似ている。
　安永はよく、歌会での批評で「形式の中に志を簡明に、歯切れよく、絵が描けるように詠め」と諭す。「短歌は啖呵（たんか）だ」と。安永らしい胸のすくような言葉だ。詠み人を前にして原作の歌を崩さずに添削していく。
　「私たちは事実を歌うしかない。その人にしかない経験を歌っていることに、私たちは尊敬の念を抱きます。そこが歌詠みのいいところなんです」。通俗や人為を離れて詠む歌の強さを知る安永だからこう言えるのだ。
　（文と写真＝久留米総局・宇田懐）

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　<strong>▼やすなが・ふきこ</strong>
　１９２０年、熊本市生まれ。同市在住。「棕梠の花」（角川短歌賞）、「朱泥」（７９年刊、現代短歌女流賞）、「くれなゐぞよし」（８７年刊、短歌研究賞）、「冬麗」（９０年刊、迢空賞）、「青湖」（９２年刊、詩歌文学館賞）、「褐色界」（２００３年刊）などこれまで１６冊の歌集を発表。エッセーに「風のメモリイ」「風やまず」「みずあかりの記」ほか多数。８９年に西日本文化賞受賞、９１年に勲四等瑞宝章受章。９８年から２００７年まで、宮中歌会始詠進歌選者を務める。作家の永畑道子さんは妹。


　<strong>●私の推薦文＝大和言葉の伝統と漢語の創造　大江　捷也さん（７５）＝熊本県文化協会専務理事（熊本市）</strong>
　安永蕗子さんにとっては、短歌は作るものではなくて自然とわき出てくるものらしい。唇から次々に作品が零れてくる。膨大な秀歌の群れは既に１６冊の歌集にまとめられている。
　父の歌人、信一郎氏から、物心ついたころから磨き上げられた感性と、２０歳代に貪欲（どんよく）なまでに読み上げられた日本と中国の古典の知識の宝庫を、知性として体の一部としてしまっている。だからこそ最初の角川短歌賞に輝いたのである。
　作品群は大和言葉による伝統性と、古典をもとに造語された漢語による創造性を見事に融合させている。「朱泥」は２０歳代の読者に、「蝶紋」は３０歳代に、「青湖」は６０歳代に、より深い感動を届けることだろう。
　才能は他者の見えないところで他者の数倍もの努力によって保障されている。紡ぎ出した短歌はもちろん、人生そのものを芸術的に生きる安永さんは、短歌の第一線にありつづける若さを秘めている。


　<strong>●メモ</strong>
　■「青湖」は現在入手困難ですが、「安永蕗子全歌集」（河出書房新社）に収録されています。このほか、自選歌集、評論を含む「現代歌人文庫　安永蕗子歌集」（国文社）、「短歌入門・はじめのはじめ」「短歌入門添削と鑑賞１２章」（東京美術）などの著作があります。
　■安永さんは新聞や雑誌、テレビの短歌選者も数多く務めています。書家としても活躍しており、書家・町春草氏に師事後、日本書道美術院に所属。８２年には同美術院梅華賞を受賞しました。公職も多く、８５年から９０年まで熊本県教育委員会委員長に就任しました。]]>
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   <title>松本零士「銀河鉄道９９９」</title>
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   <published>2008-01-27T07:02:42Z</published>
   <updated>2008-01-28T10:40:25Z</updated>
   
   <summary>「明日」を信じ、若者は旅立つ 　〈明日の星には 　　明日の人間が住むと人はいう…...</summary>
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         <category term="漫画" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<img alt="095_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/095_01.jpg" width="109" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">「明日」を信じ、若者は旅立つ</h2>

　〈明日の星には
　　明日の人間が住むと人はいう…
　　いつも夜空には
　　明日を信じる明日の星が
　　数かぎりなく輝いていると人はいう〉
　「銀河鉄道９９９（スリーナイン）」が漫画週刊誌に連載されていたころ、私は小学生だった。家には兄が買った単行本が確か全巻あって、ちょくちょく読んでいた。
　天涯孤独の少年星野鉄郎が謎の美女メーテルとともに銀河超特急９９９号に乗って広大な宇宙を駆け巡る、胸踊るＳＦ冒険活劇－のはずだが、子どもながらに痛快さより、物悲しい読後感を得た記憶がある。二十数年ぶりに読み返してみた。
　舞台はいつとも知れない超未来。人類は全身を機械化して永遠の生命を手にし、全宇宙に広がっていた。だが機械の身体を買えない貧しい者は機械人間に虐げられ、その生命さえもてあそばれていた。
　第一話〈出発（たびだち）のバラード〉で、鉄郎は「人間狩り」を楽しむ機械人間の一団に母を殺される。母は鉄郎に、９９９号に乗って「機械の身体がただでもらえる星」に行くよう言い残し息絶える。鉄郎はどこからともなく現れたメーテルに助けられ、銀河鉄道に自由に乗れるパスをもらう。鉄郎は誓う。「機械の身体を手に入れて帰ったら、地球の機械人間どもを皆殺しにしてやる」
　鉄郎とメーテルの旅が始まる。目指すは機械の身体をただでくれるという、２００万光年かなたの大星雲アンドロメダ－。]]>
      <![CDATA[<img alt="095_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/095_02.jpg" width="300" height="183" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　松本零士が戦後、少年期から思春期を過ごした北九州市小倉北区長浜町を訪ねた。
　ＪＲ小倉駅から東へ約１キロ。目の前を鹿児島線や日豊線の列車がせわしなく行き交う。自伝「遠く時の輪の接する処（ところ）」によると、松本が住んだ〈崩壊寸前の長屋〉は線路に面して約７メートルのところにあった。
　「野菜を積んだ荷車を毎日、オヤジさんが引いていた姿を覚えている。きょうだいも多かったし、大変やったろう」。今も地元に住む同級生岩下勝さん（７０）は当時の松本家の印象をそう話す。
　戦後の混乱期。松本家は貧しかった。旧陸軍の戦闘機乗りだった父は野菜の露天商を営んだが「武家の商法」でうまくいかない。一家は売れ残りの野菜で飢えをしのいだ。極貧生活の中で、松本は「自活しなければ」との意識を強く持つ。
　父には戦後、パイロットの誘いもあったという。だが「大勢の若い部下を死なせて、どの面下げて今さらアメリカの飛行機に乗れるか」と断った。軍隊時代の半長靴を履き、荷車を黙々と引く父。その背中を見ながら、松本は「誇りを貫く」ことを学ぶ。進駐軍の米兵がばらまく菓子には決して手を出さなかった。〈幼いながら、プライドが「拾うな！」と命じて許さなかった〉
　一方で、小倉の街には進駐軍がもたらす米国の漫画やアニメ映画があふれていた。幼児期から国産の漫画やアニメに魅せられていた松本はその洗礼をたっぷりと浴び、「漫画家」への夢を膨らませる。小学生のころから次々と「新作」を描いては、綴（と）じを作って本の体裁を整え、学級図書に置いてもらったりしていたという。「授業中に漫画を描いて、先生に怒られたとか言うとったなあ」と岩下さんは懐かしむ。
　だが松本の漫画家への夢は単なる夢ではなかった。強い自活意識が「漫画で身を立てる」ことを使命感にまで強めていく。
　高校卒業後、松本は小倉駅から東京行きの夜行列車に乗る。薄べったいスーツケースに漫画道具一式だけを入れて。

　なぜ、子どもの私は「９９９」を物悲しく感じたのだろう。読み返して思い至った。この物語には「挫折」があふれている。
　９９９号はさまざまな星に停車する。そこは生身の人間や機械人間のほか、異形の生命体も暮らす異世界。彼らと鉄郎たちが織りなすドラマが一話完結で描かれる。
　あまたいる登場人物の中で、形を変えて繰り返し描かれるのが、不条理な現実を生きる若者たちの姿だ。彼らは現実を覆すために闘い、新天地を求めて９９９号に乗ろうと試みる。だがその多くは成就しない。反乱は鎮圧され、苦労して買ったパスは偽物。やっと９９９号に乗り込んでも、環境の変化に適応できず死んでしまう。鉄郎たちのパスを奪った若い母親は処刑され、砂漠に１人残された幼児のか細い声が切なく響く。「かあさん、かあさん」
　その様は、暗い色調の絵と相まって、悲しく、切ない。だが、松本の筆はその先に、希望を見いだそうとする。
　鉄郎は、現実に抗（あらが）う彼らに限りない共感を示し、「友」と呼ぶ。彼らのために泣き、パスを奪おうとした者さえ「頑張れよ」と励ます。星に残った若者は宇宙に上っていく９９９号を見上げて叫ぶ。「待ってろよ。いつか胸を張って乗ってやるからな」
　誇りを失わず、「明日」を信じ、挫折を乗り越えて現実と格闘する。松本はそんな若者を繰り返し描く。鉄郎もまさにその１人だ。そしてそれは、漫画道具だけを持って小倉駅から夜行列車に乗った松本自身であり、戦後の貧困からはい上がろうとした時代の、若者の１つの典型でもあった。

　福岡市中央区の漫画専門古書店「まんだらけ福岡店」。松本作品は他の「大家」と並んで陳列されている。男性客１２人に「９９９」について聞いてみると、好意的に語ったのは４０代の２人。「ああいう『男』の世界、好きです」（４０歳）。だが、世代が下がるにつれて反応は異なる。「ちらっと読んだことはあるけど、ピンと来ませんでしたね」（３０歳）。１０代や２０代になると、読んだことすらなかった。
　「９９９」は連載と並行してテレビアニメも放映され、劇場版も公開された。「宇宙戦艦ヤマト」で火が付いた松本零士ブームは「９９９」で１つの頂点を極める。
　子ども向けの「漫画映画」から、大人も熱中できる「アニメーション」へ。松本が切り開いた流れは「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」へとつながる。だがそこに描かれる若者像は大きく変容する。肉親とのかっとう、周囲とのあつれき、組織のじゅばく。物語は登場人物の内面へ、内面へと下りていく。それは夢を追い、誇りを貫くため、自分の外側にある矛盾と闘う鉄郎たちとは明らかに異なる。
　「９９９」を「若者への永遠の応援歌」と読むか、単なる「古き良き時代の娯楽作品」と読むか。
　〈メーテルは何も言わない〉
　（文＝文化部・江藤　俊哉　写真＝写真部・大矢海寿帆）


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　<strong>▼まつもと　れいじ</strong>
　１９３８年、福岡県久留米市生まれ。本名は晟（あきら）。兵庫県や愛媛県などを経て、戦後は北九州市小倉北区へ。県立小倉南高校在学時の５３年「蜜蜂の冒険」で漫画界デビュー。同高卒業後、上京。当初は少女誌で活躍し、６０年に少年誌へ進出。「宇宙戦艦ヤマト」（７４年）でテレビアニメ初挑戦。劇場版（７７年）が大ヒットし、第一次アニメブームが起きた。他に「男おいどん」「戦場まんがシリーズ」「宇宙海賊キャプテンハーロック」「クイーンエメラルダス」「新竹取物語・１０００年女王」など。


　　<strong>●私の推薦文＝信念で立ち向かえば悔いなし　大塚ムネトさん（４２）＝劇団「ギンギラ太陽’Ｓ」主宰（福岡市南区）</strong>
　「宇宙戦艦ヤマト」以来の松本零士先生の大ファンで、「銀河鉄道９９９」の連載は第一話から毎週わくわくして読んでいました。
　「９９９」はまず、鉄郎が機械の身体をただでもらえる星に行くという大きなストーリーがあって、謎が随所にちりばめられ、「この先どうなるの？」と謎解きの楽しみが味わえます。その中で鉄郎が毎回、違う星を訪れ、不思議な世界に飛び込んでいく。読者は鉄郎と同じ目線で驚いたり、泣いたり、喜んだり。二重の楽しみ方ができるのです。
　「９９９」で学んだのは、世界が変われば価値観も違う、正義も悪も決して１つではないということ。そして、ゴミのような扱いを受けても人間には熱い思いがあるということ。確かに世の中は不条理だけど、人が何と言おうと信念を持って立ち向かわなければならない。そうすれば仮に負けても悔いは残らないのです。「９９９」は私の生き方のお手本であり、表現活動の原点となっています。


　<strong>●メモ</strong>
　漫画「銀河鉄道９９９」は１９７７─８１年、「週刊少年キング」に連載され、９６年からは続編も始まりました。単行本は現在、小学館から２１巻まで発売中。１４巻までがおなじみの旧作です。続編では地球からすべての自然を追放した謎の支配者と戦うため、鉄郎とメーテルが再び９９９号で旅に出ます。ハーロックやエメラルダスのほか、何と宇宙戦艦ヤマトまで登場します。
■「９９９」は英、仏、伊、中、韓など各国語に翻訳され、世界中で出版されています。
■その他、松本零士氏の最近の作品は公式ホームページ（<a href="http://www.leiji-matsumoto.ne.jp/" target="_blank">http://www.leiji-matsumoto.ne.jp/</a>）で紹介されています。
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   <title>青来有一「聖水」</title>
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   <published>2008-01-20T07:07:43Z</published>
   <updated>2008-03-04T02:53:58Z</updated>
   
   <summary>いかにナガサキを脱するか 　夏になると、長崎市は「ナガサキ」や「ＮＡＧＡＳＡＫＩ...</summary>
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   <category term="328" label="さ行の作者" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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      <![CDATA[<img alt="094_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/094_01.jpg" width="120" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">いかにナガサキを脱するか</h2>

　夏になると、長崎市は「ナガサキ」や「ＮＡＧＡＳＡＫＩ」になる。
　被爆直後の荒廃を記録したモノクロ影像がテレビに流れ、８月９日には平和公園で行われる厳粛な祈りの光景が全国に伝えられる。原爆被害の悲惨さを知らしめ、核兵器廃絶のメッセージを発し続けるナガサキ＝ＮＡＧＡＳＡＫＩは聖性と正義というイメージをまとっている。一方、現実の「長崎」には、ごく当たり前の現代の暮らしが息づいてる。優しさや温かさがあれば、偽りや汚濁もある。平和公園の隣にはラブホテルが林立している。
　「既成のイメージを引き受けた上で、それを逆転する、ゆがめるといった試みがないと、長崎を書いたことにならないのではないか」。世界に２つしかない原爆被災地という記号化したナガサキから脱する試みを、長崎を舞台に小説を書くという方法で続けているのが青来有一である。
　青来が描くのは、妄想あり、カルトあり、ファンタジーありの、少し不思議な長崎。核廃絶の訴えも、凄（せい）惨（さん）な被爆体験も出てこない。だが登場人物や土地の奥底に眠る記憶をなぞっていくに従い、静かに原爆がもたらした陰影が浮かび上がってくる。
　２００１年１月、「聖水」の芥川賞受賞をきっかけに、青来は「原爆文学の継承者」と注目された。それは長崎市職員という二足のわらじを履き、長崎で書き続ける青来にとって、葛（かっ）藤（とう）の始まりとなった。]]>
      <![CDATA[<img alt="094_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/094_02.jpg" width="300" height="191" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　「聖水」は、がんに罹患（りかん）した父親の末期を、棄教したキリシタンの末（まつ）裔（えい）である一族の人間模様を絡めながら、主人公「ぼく」の目線で描いた物語である。「人は死ぬ際、何か信じるものなしに死んでいけるのか」という重いテーマを扱いながらも、うさんくさいエコ・ビジネス、熱狂的なまでの水への信仰、家業の経営権争いといった世俗的なモチーフが絡み、どこかこっけいにも読める。青来は「聖水」の着想を、１９９５年の地下鉄サリン事件に得たという。「なぜこの神なき時代に、学ある者がカルト集団に引き込まれたのか」という疑問が発端だった。
　物語では、聖地・ナガサキのイメージを裏切るかたちで「原爆」が描かれる。例えば「ぼく」は、巨像に一斉に頭を垂れる８月９日の平和祈念式典参列者の姿に、「異形の信仰」を感じている。父のいとこは、平和公園のそばでラブホテルを経営。教祖風で怪しい親類は胎内被爆者で、「爆心地で一瞬のうちに消滅した人の記憶が、自分に宿っている」と事もなげに話すのだ。

　青来の両親はともに被爆者。爆心地に最も近い城山小学校に通った。毎月９日に学校で行われた語り部の話は、怖い昔話を聴く感覚。近所には被爆樹木や防空壕（ごう）が残っていた。「原爆」は青来にとって、風土の一部として日常に溶け込んでいた。生活の場はナガサキではなく長崎。創作も同じだった。
　「原爆そのものが主題なのではなく、人や場所のもつ記憶として原爆に触れている。そこにイデオロギーはない」。青来の一貫したスタイルだが、創作には困難と迷いがつきまとったという。
　「被爆者から『そんなもんじゃなか』と言われたら、もう終わりだ」。被爆体験がないのに書いていいのか、いつも自問した。芥川賞受賞から半年後の対談で「長崎で書き続ける者には、原爆を書くのは使命ではないかと思う一方、それを切実なテーマとして書く方法がわからない」と「被爆後半世紀以上過ぎて、今、原爆を書こうとする人間の正直な気持ち」を明かしている。
　青来と親交がある詩人で活水女子大（長崎市）の田中俊廣教授（５８）は「周囲の期待に応えようとするプロ意識が強いのに、林京子さんのような被爆体験がない。彼はいつもそれを気にしていた」と振り返る。
　青来は一時期、東京が舞台の近未来小説などを手掛け、「長崎」から距離を置いた。しかし「原爆文学の後継者」という世間の“期待”はいや応なくまとわりつく。被爆６０年の２００５年春の異動で、青来は平和宣言文の起草を担当する平和推進室長に就いた。「被爆二世の芥川賞作家が平和行政担当に」。マスコミは大きく報じた。
　同年夏、自身の被爆体験を基に書き続ける林京子さんの全集刊行記念講演会が長崎市で開かれた。青来に与えられた演題は、皮肉にも「原爆文学の継承」だった。講演会終了後、飲食店での打ち上げで、林さんが青来に声をかけた。
　「あなたはもっと書いていいのよ。憶（おく）することなく書きなさい」
　迷いの霧が晴れた気がした。
　「原爆に触れるときは、いつも恐る恐るだった。林さんの一言で、この書き方でいいんだと初めて思えたんです」
　青来は２００７年、「爆心」で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞のダブル受賞という快挙を成し遂げた。

　福岡女子短大（福岡県太宰府市）の非常勤講師、内田友子さん（３７）は、昨年９月から原爆文学の講義を担当している。
　大田洋子、原民喜、井伏鱒二、林京子の順に作品を採り上げたが、学生は授業中、伏し目がちに沈黙。本を貸し出すと呼び掛けても、誰ひとり手を挙げなかった。しかし、青来の作品を取り上げると反応が一変した。学生がうなずきながら聞き、「次の作品が楽しみ」などの意見が出た。本も借りに来た。
　「今の若い人は、悲惨で重い話が出ると、そのまま思考を閉ざしてしまう。世俗的な現代の物語でありながら、原爆につなげる、という青来さんの手法は、挑戦的で面白いのでしょう」。内田さんは分析する。
　谷崎賞の選考委員を代表して作家、川上弘美は「青来さんは、どうしようもなく書かなくてはいられないようにして被爆を扱っていた。その頂点であるこの小説を前にして、私は感動した」と語った。青来は「原爆そのものが主題ではない」と言い続ける。しかし、川上は「原爆」が青来にとって避けて通れない、極めて切実なものであることを鋭敏に読み取っている。
　青来は「長崎」を描き続ける。作品の連鎖は、本人の思いがどうであれ、原爆文学の後継者の軌跡となるだろう。
　（　文　＝文化部・下崎　千加写真＝写真部・大矢海寿帆）

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　<strong>▼せいらい・ゆういち</strong>
　１９５８年、長崎市生まれ。本名は中村明俊。長崎大教育学部卒。２年の無職期間を経て８３年、長崎市役所に就職。ワープロを買ったことをきっかけに、深夜に小説を書き始める。初めて長崎を舞台にした「ジェロニモの十字架」で９５年、文學界新人賞を受賞し文壇デビュー。２００１年「聖水」で芥川賞。０７年「爆心」で谷崎潤一郎賞と伊藤整文学賞をダブル受賞。著作に「月夜見の島」「眼球の毛」「てれんぱれん」などがある。長崎市在住。


　<strong>●私の推薦文＝「屈折した心」問いかけ　山田　拓民さん（７６）＝長崎原爆被災者協議会事務局長（長崎市晴海台町）</strong>
　私はめったに小説を読まないたちですが、原爆を書き続けている若い作家、と聞いて興味を持ち、「爆心」から手に取りました。
　両親と姉弟３人の家族全員を、被爆の急性症状と原爆症で失った私にとっては、最初、青来さんの原爆の描き方に物足りなさも感じました。でも読み進めていくうちに、「次も次も」と止められなくなったのです。
　それは純粋に読み物としての面白さでした。特に「聖水」や「ジェロニモの十字架」などの初期作品は、人の屈折した心が描かれ、読み手にぐいぐい問い掛けてきます。爆心地の街並みや庭先の花など細部まで描かれ、映画のシーンのように状況が目に浮かぶのです。
　私は今でも、道端に出された生ごみに、被爆後に爆心地を覆った死臭と同じものを感じ、あの時に引き戻されることがあります。多くの被爆者が、今も原爆を引きずっているのです。青来さんには、その視点を忘れないで書き続けていってほしいと思います。


　<strong>●メモ</strong>
　■青来有一さんが目標とするのは大江健三郎さんや中上健次さん。「聖水」を芥川賞に強く推した選考委員の石原慎太郎さん（東京都知事）は「石川達三氏（第１回芥川賞受賞者）のような作家になりおおせるかも」と激賞しています。
　■ペンネームの由来はアニメ「セーラームーン」。「文壇デビュー前は漫画を描いていた時期もあったんですよ」と青来さん。
　■２００７年１１月発行の青来さんの単行本「てれんぱれん」は、編集者の助言を受け、文芸誌「文學界」掲載分に、主人公の父親の被爆体験などが書き足されています。
　■文学研究者らでつくる「原爆文学研究会」（九州大内に事務局）は、被爆者の語り部活動から青来有一など戦後世代の作品まで、原爆の語り方や描き方を検証し続けています。
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   <title>高樹のぶ子「銀河の雫」</title>
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   <published>2008-01-13T07:17:21Z</published>
   <updated>2008-03-04T02:57:45Z</updated>
   
   <summary>恋愛を糧に自立する女たち 　福岡県西部の糸島半島、夜の海岸に立った。闇に目が慣れ...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="093_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/093_01.jpg" width="116" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">恋愛を糧に自立する女たち</h2>

　福岡県西部の糸島半島、夜の海岸に立った。闇に目が慣れてくると、繰り返し寄せる白い波頭が見えてきた。
　高樹のぶ子の長編小説「銀河の雫（しずく）」には、波についてこんな文章がある。
　〈あれはみな、恋の追いかけっこです。よく耳を澄ませば、誰かが誰かを求めて、ひたすら追いかけてくるのが分かります。追いかけて掴（つか）まえようと必死です。しかし掴まえたときは何もかも毀（こわ）れてとび散ってしまう〉
　糸島半島に住み、人の気持ちを読み当てる不思議な能力を持った老女のせりふだ。確かに波は追いかけっこしているように見えなくもない。
　この作品の主人公は、医師の緑川公憲、妻でバイオリニストの鏡子、妻を事故で亡くしたテレビ局局長の島一草、娘の万里子の４人。一草は昔からの知り合いの鏡子に思いを寄せている。公憲が通うアスレチッククラブの水泳インストラクター、万里子と公憲も次第にひかれ合っていく。そんな４つの「波」が織りなす甘く苦しい恋の物語である。]]>
      <![CDATA[<img alt="093_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/093_02.jpg" width="185" height="300" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　「銀河の雫」は、西日本新聞や北海道新聞などでつくる新聞３社連合が高樹に執筆を依頼。１９９２年１月から９３年２月まで両紙などに掲載され、同年９月には単行本となった。
　新聞連載中の９２年春、高樹は舞台となる福岡や北海道へ取材に出かけた。
　当時、３社連合の編集部長として同行した小山紘さん（６６）は、高樹の丹念な取材に驚いた。糸島半島では海水を手にすくい、においをかぎ、口に含んだ。「よく歩き回り、五感を使って取材する。新聞記者的だな、そう思いました」
　そうした取材は、例えばこんなせりふに生かされているのかもしれない。
　〈生命はここから生まれて、ここへ還（かえ）っていくんだから、この匂（にお）いは、新しい生命と腐って朽ちていく生命が混ざり合ったものだろうな〉
　文芸誌「文学界」元編集者の高橋一清さん（６３）は、同人誌を発表の場としていた高樹の才能をいち早く見いだし、作家デビューさせた人物だ。「当時、内向的な心理小説が多かった中で、高樹さんの作品には物語性があり、誰もが読んで面白い。細部の描写が鮮やかで読者のイメージを膨らませる。新聞小説のような長編が書ける、大きな作家になる力を秘めていた」と語る。
　「銀河の雫」も、二組の恋愛が軸になりながら、登場人物に寄り添って音楽家やテレビ局のエピソードが語られ、前述した不思議な老女をからませる。舞台も福岡から北海道へと広がるなど、読者を飽きさせない工夫に満ちている。

　華やかな恋愛小説家のイメージがある高樹だが、文章を書くきっかけは、厳しい人生の転機でもあった。３０歳を過ぎての離婚と再婚である。
　〈離婚の原因となったのは私の恋愛だった〉と随筆「辛い季節のなかで」に記す。イエスの磔刑（たくけい）になぞらえ〈私は、１人の弱い男を十字架にくくりつけ血祭りにあげた者の、やりきれなさ、痛恨と同じものを、抱えていた。３０を過ぎて突然湧（わ）いてきた「書きたい衝動」は玉ネギをむくように核心をもとめれば、結局この痛恨にたどりつくような気がする〉
　夫を傷つけた痛恨は、高樹にとっては文章にしなければ自らを食い尽くしてしまうほど、切迫したものだったろう。ただ高樹にとって幸運だったのは、その文章が自らを慰撫（いぶ）するだけでなく、文学としての普遍性を帯びるきらめきがあったことだ。３５歳で本格的に書き始め、デビュー作から五作目で芥川賞を受賞している。
　恋愛をテーマにするのは、もちろん作家としての興味もあった。高樹は「恋愛が人生の局面を動かし、人に影響を与え、人からの影響を受ける。私にとってはそうだった。価値観を壊す装置として１番面白い。人間の多面性がでてくる」と語る。
　だが、あでやかなストーリーの中に哀（かな）しみの深い陰影が宿るのは、やはり自らの体験と無縁ではないだろう。

　物語の後半、鏡子は一草と北海道で結ばれる。それを夫に告白したあと〈でも、これきりです〉。その理由を〈一草さんを長く愛していたいし愛されてもいたい、だからもう、体の関係は持たないという意味です〉と語り、〈あなたからも一草さんからも、毎日の生活からも自由になれた感じがして…〉と告げる。
　一方の万里子も公憲との関係を清算するために、ロサンゼルスに旅立つ。その理由は〈先生と対等になれる〉ためだと言う。対等とは？と問われ、〈愛する人を失うかなしみを、同じように持つってこと〉と答える。
　そこには性愛を律することで自由になろうとする女と、去っていくことで自立しようとする女がいる。恋愛を糧に次のステップへと踏み出す女たち。その強さと対照的に、手が届かなくなった女たちをなすすべなく見つめる２人の男がいる。
　「銀河の雫」は１年以上にわたって新聞連載された長編だけに、さまざまなテーマが盛り込まれ、さまざまな読み方ができる。自立していく女性たちの物語、私はそう読んだ。
　紫式部の「源氏物語」が今年、成立千年紀を迎えた。女性が書く愛の物語は、かくも昔から連綿と続き、日本人に愛されてきた。平成の世に恋愛小説を紡ぐ高樹も、その豊かな水脈のひとつとなっている。
（文＝文化部・西山　宏　写真＝写真部・大矢海寿帆）
　※写真は加工しています。


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　<strong>▼たかぎ・のぶこ</strong>
　１９４６年、山口県防府市生まれ。東京女子大学短期大学部卒、東京の出版社に勤務する。２４歳で結婚、３０代で離婚と再婚を経験。８０年「その細き道」を文芸誌「文学界」に発表し、作家デビュー。８４年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞。「水脈」「透光の樹」（谷崎潤一郎賞）「せつないカモメたち」「Ｆａｎｔａｓｉａ」「ＨＯＫＫＡＩ」（芸術選奨文部大臣賞）など著書多数。芥川賞、大佛次郎賞、野間文芸賞などの選考委員も務める、２００５年秋、九州大学アジア総合政策センター特任教授に就任した。福岡市在住。


　<strong>●私の推薦文＝奪う以上の愛し方とは　渡邉　弘子さん（６９）＝同人誌「南風」同人（福岡市南区）</strong>
　この作品は１６年前の新聞連載だが、今読み返しても少しも古さを感じない。たびたび出てくる公衆電話が、今なら携帯電話だろうなと思うくらいだ。夫婦と父娘、男女４人の大人の愛の物語。それぞれの視点から心の奥底の細かいひだまで、非凡な筆力で描き出されている。芥川賞はじめ多くの文学賞を受賞した作者ならではの力作だ。父が娘に、「奪う以上の愛し方もあるだろう」という言葉が心に残った。各人物に心を添わせながら読める、読み応えのある作品だ。
　九州大学の特任教授としてＳＩＡ（サイア）活動もエネルギッシュに展開中だ。各国の作家の作品に呼応する形で書かれる短編小説は、従来の作品とは大きく異なっていて面白い。毎回、訪れた国の菓子や飲み物が振る舞われるのを楽しみにしている。執筆はもちろん、この活動にも大いに期待している。

　<strong>●メモ</strong>
　■高樹のぶ子さんが九州大学アジア総合政策センター特任教授として進めている「ＳＩＡ（サイア）」は、５年計画でアジア１０カ国・地域の文学者と交流するプロジェクト。「Ｓｏａｋｅｄ　ｉｎ　Ａｓｉａ（アジアに浸る）」の略で、Ｓｏａｋｅｄ（浸る）の言葉に感性による交流を大事にする高樹さんのこだわりが感じられます。これまでにフィリピン、ベトナム、台湾、マレーシアを取り上げました。メーンとなるイベント「ＳＩＡ─ＤＡＹ」の次回予定は３月２２日、中国・上海をテーマに開催します。
　■インターネットによるＳＩＡ情報も発信中。日々更新のブログ、ＴＶ映像などの動画、エッセーなどを公開しています。
 アドレスは＝<a href="http://blog.goo.ne.jp/info/websia/index.html"target="_blank">http://blog.goo.ne.jp/info/websia/index.html</a>]]>
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   <title>川原一之「口伝　亜砒焼き谷」</title>
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   <published>2008-01-06T07:34:30Z</published>
   <updated>2008-03-04T02:50:21Z</updated>
   
   <summary>民の言葉で近代の闇を突く 　庭先に咲く赤いサザンカに誘われるように１軒の廃屋に足...</summary>
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   <category term="327" label="か行の作者" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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      <![CDATA[<img alt="092_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/092_01.jpg" width="104" height="180" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">民の言葉で近代の闇を突く</h2>

　庭先に咲く赤いサザンカに誘われるように１軒の廃屋に足を踏み入れ、息をのんだ。
　宮崎県高千穂町。古祖母（ふるそぼ）山（１６３３メートル）の懐にある小さな集落、土呂久。薄暗い室内には、短冊状の和紙がいくつも張られていた。
　「公害にかかりし人は死に果てて　残る我が身ぞたえゆかん」
　ほぼ半世紀前まで土呂久では、鉱山で猛毒の亜砒（ひ）酸が製造され、有毒な煙がまき散らされた。当時、この家で暮らしていた佐藤鶴江（故人）は、体のしびれや呼吸障害に苦しみ、ほぼすべての視力を失いながら、歌を詠み１人暮らしの慰めにしたという。
　「我が不自由なる片目鳥　瞼（まぶた）に浮かぶ我が子恋しき」「苦しみ抜いた４０年今日に至りてあきらかに　もうおそかりし我が体形ばかりのごくつぶし」…。突き動かされるようにメモを取りながら、土呂久公害を掘り起こした「口伝　亜砒焼き谷」（岩波書店）の著者、川原一之を思い起こしていた。彼も同じように必死にノートをとっていたのだろうか、と。
　１９７５年、川原は、悩み抜いた末に朝日新聞社を辞め、この地で鉱毒の実態を克明に記録し世に訴える決意をした。今の私より若い、まだ２０代だった。
　〈新聞記者として何がやれたのか。また、やれるのか。逃げるか、はまるか、２つに１つの道しかない〉。
　川原は当時の心境を後に「新日本文学」でこう書き記している。安定して生活が送れる全国紙の記者という立場に「逃げず」、土呂久に「はまる」道を選んだ川原。４年がかりで古老たちに話を聞き、それをガリ版刷りにまとめ、８０年、「口伝－」に結実させた。]]>
      <![CDATA[　土呂久公害は７１年１１月、地元の小学校教諭の報告で表面化した。鉱山から排出された砒素による住民の健康被害は全国に発信され、入社３年目で宮崎にいた川原も土呂久取材に投入される。
　土呂久の亜砒焼きは２０年、大分の鉱山師によって始められた。亜砒酸は、薬品や農薬などの原料として使われた。しかし、簡単な石垣でできた窯で砒素を含む鉱石を燃やし、焼きがらは川に捨てられたため、砒素や重金属は周辺に垂れ流される格好となり、住民たちは皮膚や呼吸器、神経などの障害で命を落とした。
　「民衆の側に立つ」との志を抱き新聞記者になった川原は近代化の暗部ともいえる土呂久公害をのめり込むように取材した。だが、公害にあえぐ人々を陥れるような形で、現実は進んでいった。
　宮崎県は住民の一斉検診を実施し、７２年、健康被害を皮膚症状に限定して「砒素中毒症患者は７人」と発表した。当時の知事は最終鉱業権者の住友金属鉱山との間に入り、低額補償での幕引きを図り、多くの被害者が無念の涙を流した。
　取材を通して支援者から「患者さんを頼みます」と託された川原は、この動きを阻止できず、忸怩（じくじ）たる思いを抱えたまま北九州市へ転勤した。
　しかし、７４年、川原は別の仕事で土呂久を再訪し、心を決める。「はまるか」。背中を押したのは、鶴江だった。
　朝鮮人強制連行の調査団の随行取材という形で土呂久を再訪した川原は、朝鮮人の墓守をしてきた鶴江の家に向かった。だが、川原は顔を合わせることをためらった。「ぼくは患者のために何もできなかった。恥ずかしかったんです」。屋外で立ち話をし、時間をつぶしていると、鶴江が飛び出してきた。「そん声は川原さんじゃないですか」。鶴江は川原の声を覚えていた。
　〈熱い感動のこみあげてくるのを覚えながら、ぼくは、僻遠（へきえん）の里の人びとの情の厚さと、転勤のたびに人とのつながりを断ち切ってひたすら中央を志向する新聞記者の情の薄さとを比べていた〉（「新日本文学」１９８１年３月号）

　もう迷いはなかった。
　〈かな山がまた始まるげな－〉。土地の言葉でつづった「口伝－」は、２０年の亜砒焼き開始から幕を上げる。
　大豆の葉が枯れ、シイタケは生えなくなり、牛や馬は口と鼻から白い粘液を垂れて死んだ。鉱山周辺の住民も目が赤くただれ、激しいせきが続くなどした。家族７人のうち２年で５人が亡くなった家もあった。鉱山で働いたのは、義父の借金を背負った農家や若くして夫を亡くした女性など貧しい人たち。毒煙のためにコメが育たず鉱山で働いた農家もいた。
　川原は、被害者らが住友金属鉱山を相手に起こした損害賠償訴訟を支援しながら、集落にあるすべての家を回った。焼酎を片手に時には夜中まで公害の話を聞き、「土呂久つづき話　亜砒鉱山」と名付けたガリ版刷りにまとめ月２回、被害者に配った。「つづき話」は７２話にもなった。
　土呂久の人たちに読んでもらうことを念頭に置き、土呂久の言葉でつづられた作品は、不思議な言語空間を作り出す。長い時間をかけてはぐくまれた地言葉は、例えば〈やわ肌に煙を吸うたために、皮膚にいっぱい斑点がある〉のように、より生々しく物事を表現。多くの住民のさまざまな思いが響き合う、交響曲のようでもある。
　「新しいスタイルの記録文学だった」。岩波書店時代に「口伝－」を編集した大東文化大文学部の小野民樹教授はそう評価した上で、「鉱山が操業を止め過去の話になりつつあった土呂久公害に『生』を吹き込み、被害の深刻さ、それをはね返そうとする土地の人たちの力を伝えた」と語る。

　今、川原は土呂久での経験を基にアジアにフィールドを広げる。
　９０年１０月、土呂久公害の患者が住友金属鉱山を相手取った損害賠償訴訟が最高裁で和解すると、川原らは、アジアで問題になっていた地下水の砒素汚染に目を向け、９４年、アジア砒素ネットワーク（宮崎市）を設立した。
　アジアでは、８０年代に井戸の利用が奨励され、土壌に砒素が堆（たい）積（せき）している地域で砒素中毒症が発生。被害者は約７０万人に上るとされる。川原は、地質学や医学の専門家らと被害の実態調査や安全な水の供給などに奔走。一方で、国際協力機構の委託を受け、砒素汚染対策に携わるアジアの政府機関職員を招き、土呂久で認定患者と対話する場を設けている。
　私が川原と出会って１年。何度目かの取材で聞いた言葉が印象に残っている。「人の体は、微量の砒素ならば体外に出せるようになっている。砒素が人体や環境を汚染するのは、人が自然の秩序を崩したからではないか」
　「口伝－」によって近代化の闇を照射した川原ならばこそ言える警句である。
　（文＝延岡支局・田中良治）

<img alt="092_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/092_02.jpg" width="98" height="160" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　<strong>▼かわはら・かずゆき</strong>
　１９４７年、福岡市生まれ。北九州市で育つ。早稲田大学卒業後、６９年に朝日新聞社入社。西部本社（北九州市）、福岡総局（福岡市）＝当時＝時代に作家の上野英信氏や松下竜一氏らと親交深める。退社後、土呂久公害被害者の支援活動に加わり、現在、特定非営利活動法人（ＮＰＯ法人）「アジア砒素ネットワーク」メンバー。著書に「辺境の石文」「浄土むら土呂久」「針穴からみたニッポン」「土呂久羅漢」「アジアに共に歩む人がいる」など。

　　<strong>●私の推薦文＝不器用な正義感と愚直な魂　芥川　仁さん（６０）＝写真家（宮崎市）</strong>
　人々が行き交うこともなかった谷間の小さな集落で、８８年前に起こった鉱毒事件。鉱山で働き、病に倒れ、時代に翻弄（ほんろう）されていく村人の様子が、時空を超えて、私の目の前で展開しているように活き活きと伝わってくる。
　川原は本書の中で、黒子に徹した。語り部となった被害者が、木訥（ぼくとつ）なる方言で、鉱毒被害の体験を読者に直接語りかける。すると、日本が近代化を果たす過程で僻遠（へきえん）の村人に押しつけた、理不尽な歴史が浮き彫りになってくるのだ。あたかも古老が昔話を語り聴かせるように、川原の文体は読者の心に染みてくる。
　川原が編み出した記録文学のこの手法は、主人公となった被害者を励まし、救済を求めて行政や大企業に立ち向かう彼らに勇気を支えた。出版から２７年。本書が描いた世界に、今なお責任を取ろうとする川原の不器用な正義感と、還暦を過ぎても失わない彼の愚直な魂は、すでにこの時、この本に込められている。

　<strong>●メモ</strong>
　■川原一之さんが１９７６年から８０年まで発行し、「口伝　亜砒焼き谷」として再編集されたガリ版刷りの「土呂久つづき話『亜砒鉱山』」が、宮崎県高鍋町の「野の花館」に保管されています。同館は、土呂久地区にあった古民家を移築したもので、川原さんの取材ノートや土呂久公害の裁判資料などがあります。
　■土呂久公害に関する書籍は複数あります。写真家芥川仁さんは写真集２冊「土呂久－小さき天にいだかれた人々」「輝く闇」（いずれも葦書房）を出しています。
　■宮崎県は７３年から土呂久地区住民らを対象に健康観察検診を実施しています。これまでに慢性砒素中毒症に認定された患者は、１７５人。このうち生存者は５２人。現在も新たに患者に認定される人たちが出ています。]]>
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   <title>夏樹静子「蒸発」</title>
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   <published>2007-12-23T07:37:11Z</published>
   <updated>2008-03-04T03:00:08Z</updated>
   
   <summary>ミステリーで描く女性の今 　１９７０年早春、東京・渋谷のコインロッカーから嬰児（...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="091_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/091_01.jpg" width="117" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">ミステリーで描く女性の今</h2>

　１９７０年早春、東京・渋谷のコインロッカーから嬰児（えいじ）の死体が発見された。同様の事件が相次ぎ、遺棄された子どもはコインロッカーべービーと呼ばれるようになる。渋谷の事件のすぐ後に、女性誌「ａｎ　・ａｎ」が創刊された。続いて「ｎｏｎ－ｎｏ」もスタート。ベトナム戦争に反対するデモに、女性団体が交じり始め、秋に渋谷で第１回ウーマンリブ大会が開催された。ピンクのヘルメットをかぶった中ピ連（中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合）のメンバーがフェミニズムの“あだ花”のように、ブラウン管を彩ったのが７２年である。
　こうした時代の空気を満身に帯びて、７２年、夏樹静子の初期代表作「蒸発」が出版された。複雑な謎解きの面白さに、現代女性のライフスタイルや心性の変化という社会性を加えた新たなミステリーの誕生だった。

]]>
      <![CDATA[　６月２０日、東京を飛び立ち札幌に向かったボーイング７２７から、１人の女性乗客が消えた。「密室」という推理小説の定番的手法をひねり、航行中の飛行機から乗客が消えるというマジックのような設定で始まった物語は、一転して消えた女＝朝岡美那子の不倫相手、在京の新聞記者、冬木にフォーカスが移る。冬木はベトナム戦争を現地で取材していた５月１９日に銃撃に遭遇。一時行方不明となったが保護され、帰国後に美那子の失踪（しっそう）を知った。
　美那子の夫、隆人は１人息子の世話をしながら、妻の捜索に奔走する。冬木も美那子を探し回り、彼女の郷里、福岡市にたどり着くが、そこで殺人事件に巻き込まれる。殺されたのは、かつて美那子を慕っていた丹野靖久という鋼材工場を経営する男だった。さらに第二の殺人が起きて…。
　今村昌平は６７年、失踪者の増加という社会現象にドキュメンタリーの手法で追った映画「人間蒸発」を発表した。身近な家族ですらうかがい知れない、あるいは当人にすら分からない現代人の心の闇を不気味にあぶり出す意欲作だった。夏樹の「蒸発」も女性の胸の奥に巣くう闇を手探りするような物語である。
　冬木が初めて出会った時の美那子は、野犬からわが子を盾となって守る母でもあった。なのになぜ、幼いわが子を捨てて失踪したのか？
　冬木に警察官が語る雑談に、子育てを放棄する動物園のカンガルーが登場する。〈「その（雑誌）記事には母親の母性喪失は『文明の公害』と書いてあったよ。昔と反対で、『女は強し、されど母は弱し』というんだそうだ」〉。こうした場面が伏線となりながら、徐々に母性喪失というテーマがせり上がってくる。しかし、小説は声高にそれを指弾するのではない。わが子を愛せないことに苦しむ女性に寄り添うように書かれている。
　「初めて読んだ時、すごい衝撃を受けました。当時は『母性は本能』という考え方が一般的でしたが、『蒸発』は母性の不在に悩む女性の物語。明らかに『本能ではない』と言っているようなものでした。その後のフェミニズムの問題意識を先取りしていたと思います」。福岡市女性センター「アミカス」の元館長、野口郁子さん（６６）＝福岡市東区＝は読後の驚きを今も新鮮に思い出すという。
　結婚後、作家になることを一時断念した夏樹が執筆を再開したきっかけが、長女の出産であったことはよく知られている。以前、夏樹を取材した際、「自分の中に突然沸き起こってきた母性という感情がすごく新鮮で、これを作品に生かしてみたいと思った」という話を聞いたこともある。長編第二作目にして、あえて母性喪失という現代的テーマに取り組んだことで、夏樹は社会派作家の第一歩を踏み出すことができたのだろう。以後、近作の「見えない貌（かお）」や「四文字の殺意」に至るまで、現代女性の心性を描き続けることになる。

<img alt="091_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/091_02.jpg" width="300" height="196" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>

　雑誌「西日本文化」編集長、深野治さん（６９）＝福岡市南区＝は新聞記者時代、夏樹が「蒸発」を書く際に航空会社の取材を仲介したことがある。取材魔として知られる夏樹の駆け出し時代のエピソード－。
　「取材の邪魔だろうと、私は途中で席を外したんです。そしたら後で、夏樹さんから『深野さんが退席した後、相手側の態度が硬化して大変だった』と恨まれました」と苦笑いを浮かべる。「作家とはいえ、まだ一般的には無名の女性が、根掘り葉掘り業界の仕組みを聞くわけだから、そりゃ相手は嫌になりますよ」。取材は「蒸発」のトリックに結実した。
　「自分の体験したことを書きたい」「知らないことは徹底的に取材する」「現地を踏まずに書かない」。深野さんは夏樹のこんな言葉を記憶している。福岡市で暮らす夏樹の作品は、当然ながら福岡が舞台となることが珍しくない。
　〈中洲界隈（かいわい）を後にして、電車通りを西へ走るにつれて、町は静かになっていく。県庁前から天神交差点を抜けると、たいていの店が鎧戸（よろいど）を降ろして、ネオンも目立って少なくなっている〉。「蒸発」の一場面。昭和４０年の福岡都心部の情景がありありと蘇（よみがえ）ってくる。地方都市に生きる１人の妻であり母である女性、そして何よりも生活者の目が、絵空事になりそうなミステリーに確固としたリアリティーを与えるのだろう。
　さて、小説「蒸発」に話を戻せば、美那子はどうやってフライト中の飛行機から消えたのか？　油山山中のマンションで丹野を殺したのは誰なのか？　なぜ第二の殺人が起きたのか？　夏樹作品の大きな魅力である意表を突く展開を紹介したいところだが、ミステリーなので当然ながらそれはできない。なんとも、もどかしい。
（文＝文化部・岩田　直仁写真＝写真部・大矢海寿帆）


<img alt="091_03.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/091_03.jpg" width="120" height="160" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　<strong>▼なつき・しずこ</strong>
　１９３８年、東京都生まれ。慶応義塾大学文学部在籍中にミステリー小説を書き、江戸川乱歩賞に応募。これをきっかけに、テレビの推理番組のシナリオ執筆を手掛ける傍ら、短編小説を執筆する。６３年、結婚とともに福岡市に転居。いったんは創作を断念するが、育児の合間に執筆を再開。６９年、「天使が消えていく」が江戸川乱歩賞最終選考に残り、翌年単行本として出版される。７２年の「蒸発」（現在、光文社文庫）で第２６回日本推理作家協会賞を受賞。代表作に「Ｗの悲劇」「女検事霞夕子シリーズ」「茉莉子」「量刑」など。９９年に西日本文化賞、２００２年に福岡県文化賞、０６年に日本ミステリー文学大賞を受賞。


　<strong>●私の推薦文＝同時代を生きる女性として　二沓ようこ（４７）＝詩人（福岡市中央区）</strong>
　「蒸発」の原型となった「ガラスの薔薇（ばら）」（１９７１年）は、福岡市の目抜き通りで行われたウーマンリブのデモに、通行人が冷ややかな視線を送るシーンで幕が開きます。女性を巡る状況の転換期を象徴する作品です。
　同年発表の短編「死ぬより辛（つら）い」は、団地妻をヒロインとした傑作。執筆当時、福岡市で団地住まいをしていた夏樹氏の体験に基づくものだけに、細部に渡ってリアルです。昭和３、４０年代に福岡でも相次いで造成された郊外団地をミステリーの舞台にしたものには、他にも、地元作家の大貫進や石沢英太郎等の作品があり、当時の住宅事情やライフスタイルが窺（うかが）えて味わい深いでしょう。
　その時々の、最もタイムリーな題材を扱った、社会性の強い夏樹作品には、時代とともに変化する女性の状況や生き方が描き出されています。同時代を生きる女性として、これからも夏樹作品から目が離せません。


　<strong>●メモ</strong>
　■ミステリー作家の第１人者として知られる夏樹静子さんですが、実は女優の評伝など多彩な作品があります。中でも、心因性の腰痛に苦しんだ時期を振り返った「椅子（いす）がこわい」は異色作です。
　■夏樹さんがデビュー当時に住んでいた福岡市南区の若久団地の集会所前に夏樹さんのメッセージを刻んだ記念碑があります。１９６５年に松林の丘陵を切り開いて完成した若久団地は、急増する都市生活者の受け皿として当時日本各地に生まれていた典型的な団地の１つです。夏樹作品の底流にある、庶民的な感覚はこの時代に培われたのかもしれません。]]>
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   <title>別冊・文学青年よ永遠に</title>
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   <published>2007-12-16T07:31:18Z</published>
   <updated>2007-12-17T07:58:14Z</updated>
   
   <summary>「いつ鎌倉に引越すの」　コピーライター　矢野寛治 　１年以上にわたって愛読いただ...</summary>
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      <![CDATA[<h2 class="text_h2">「いつ鎌倉に引越すの」　コピーライター　矢野寛治</h2>

　１年以上にわたって愛読いただいている「千年書房・九州の１００冊」は、残すところ１０冊となりました。１０冊ごとにお届けする「別冊」は今回が最後となります。テーマは「文学青年よ永遠に」。別冊エッセーの筆者、コピーライターの矢野寛治さんも、実は作家を志した文学青年でした。最終回は自らの半生を振り返って、文学への思いをつづってもらいました。

　　　　　◇

　若き日、作家を志した人はごまんと居るに違いない。不肖、私もその１人である。小学校時代に母が日本文学全集を月に二冊づつ買い与えてくれた。坪内逍遥から時系列に、錚々（そうそう）たる作家というか文士が、我家を訪（おとな）い始めた。泉鏡花は夢中で読んだ。田山花袋もまあ面白い。子供心に断然面白かったのは、谷崎潤一郎、永井荷風。この両者は文章もこなれており、調子が良く、中身もイビツ、もしくは花柳界のことで、否が応でも私の気を引いた。父の持つカストリ雑誌を大っぴらに見るわけはいかないが、文学全集なら子供といえど世間の目を誤魔化（ごまか）せた。両親は、私があまりにも谷崎、永井を耽読（たんどく）するので、全集を与えたのは早すぎたと、夜半に額を付け合って悩んだらしい。]]>
      <![CDATA[　ある日、配本横光利一がやって来た。母が私の方向を変えようと、母の里の隣村から出た作家であることを強調した。旦那寺も横光家と同じと、我がことのように胸をそらせた。大分県宇佐郡長峰村出自。横光の短編は私を夢中にさせた。今までにない美しい修辞句が鏤（ちりば）められていた。川端康成の兄貴分と書かれてある。写真を見ると、ハットの洋装に、狐のゴージャスな襟巻きを巻いている。そのキザさが好もしかった。

　全国小学生作文コンクールで最終選考に残った。最優秀賞は米国旅行である。父は親の欲目で浮き足立ち、すでに旅行の用意を始めた。校長にも伝達していたらしく、佳作で終わり、恥をかいた。この頃は、物語とも作文ともつかぬ、かつ小説ともエッセイともつかぬ、中途半端な駄文をセッセと書いていた。

　私が八歳の時、石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を取り、時代の寵児（ちょうじ）となり、世の若者の空気が文筆へ傾斜していた。小学生の私は、アプレな若者を描く石原とは住む世界が違うと、依然、しっぽりとした芸者、娼婦、娼妓ものを、読み耽（ふけ）っていた。中学時代、石川淳、川崎長太郎。高校の時、ついに吉行淳之介という作家に遭遇した。志賀直哉よりも、文章の神様だと思った。ムダが一切省かれた、クリスタルグラスのような文章、文は形容詞から腐るというが、形容詞がトギスマサレテいた。中身も面白い。女性を崇（あが）めていない、そう見せかけておいて、邪険に扱っている。そこにインテリジェンスが意地悪く覗いていた。吉行を真似しようと、ニキビの高校生は決めた。

　吉行は若き日に結核を患っていた。作家になるには、まず肺結核に成らねばと、神仏に祈願し、日夜希求した。怠惰な暮らしの御蔭もあって願いが叶い、大学３年の春の健診で罹患（りかん）が判明した。よし此処まで来た、もう一息だと、週に２回のストレプトマイシン注射に痺（しび）れ、パスとヒドラジッドを丸１年間飲み続け、下手な文章を書き続けた。

　昭和４６年の暮れに、神様吉行淳之介に３０枚ほどの短編を読んでいただいた。氏は一言、「矢野くん、小説は作文とは違うんだよ」と云って、中宮寺の弥勒菩薩のごときお顔で微笑（ほほえ）んだ。この言葉だけは、今も鮮明に憶えている。優しい眼をしていた。頑張れという瞳でもあり、才能がないからやめておきなさい、という瞳でもあった。その頃、故里では高校の先輩「松下竜一」と云（い）う男が、「豆腐屋の四季」で飛ばし始めていた。

　大学を卒業し、広告会社に就職し、博多にやって来た。土地を変えることで、すべてを吹っ切った気持でいたが、まだ悪あがきをしていた。妻と知り合い、まるで映画「愛妻物語」（新藤兼人監督）の、宇野重吉を気取った。コピーライターの先輩（井上寛治氏）が原田種夫先生に私の一篇を持参した。激賞された。注意点は「わざと露悪に書くこと、は、どうかな」だった。そこで気が大きくなり、妻に結婚を申し込んだ。

　プロポーズの台詞（せりふ）、まるで詐欺師のようだが。
　「僕は、３０歳までに芥川賞を取るから、将来は鎌倉に住み、君は編集者達のお相手をしてください」
　若気の至り、愚にもつかぬ大見得を切った。妻は苦笑しながらも応じた。すぐに子が２人できた。子は泣く、まとわりつく。岡本かの子が太郎を柱に縛り付けていたこともよく解かる。お金もかかる、家のローンは３５年。日々の生計（たつき）を稼ぐべく、広告の道に没頭し忙殺された。映画「杏っ子」（室生犀星原作、成瀬巳喜男監督）の、木村功のようには成りたくなかった。下手に才なく書き続ければ、劣等感は増大する。増大した劣等感は反感を生み出し、世の中を憎むだけの人間に成り下がる。この辺りが潮時と、２人の子の寝顔を見て、一生平凡に、世に潜み、埋没しようと強く決心した。

　以来、３０有余年、あと１年で還暦の齢となる。妻が時折り、「いつ鎌倉に引越すのー」と、微笑みながら揶揄する。胸中の獅子は、まだ立髪たてて吼（ほ）えているのだが、返す言葉は無い。すでに禿頭ゆえに立髪もない。ただ卑屈な莞爾を続けるのみである。


<img alt="071216_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/071216_01.jpg" width="147" height="200"  align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　<strong>●「九州文学」が見た夢</strong>
　さながら文士の梁山泊（りょうざんぱく）だったに違いない。強烈な個性と野心を持った若者たちが、熱く論を戦わせ、批判と励ましを交わしながら文学に真っ向から取り組んだ。文学への夢が、愛情がふつふつと熱くたぎった。

　「九州文学」は１９３７年に創刊された。その翌年、「九州芸術」「文学会議」「とらんしっと」「九州文学」の４つの地方文芸誌が１つになって、第二期「九州文学」が誕生した。

　四誌統合には、福岡日日新聞（現・西日本新聞）の文化部長、黒田静男が仲介に当たった。那珂川沿いの喫茶店ブラジレイロなどで会合を重ねたが、一癖も二癖もある文士たちだ、協議が難航したことは第８７回配本の原田種夫著「九州文壇日記」に詳しくつづられている。ともあれ、ようやくなった大同団結には、原田のほか、火野葦平、劉寒吉、岩下俊作、秋山六郎兵衛、矢野朗、内田博ら多彩な作家や詩人が集った。

　大戦をはさんで４９年までに計１１６号発行された第二期を受け、第三期、第四期、第五期と「九州文学」の歴史は続いた。原爆をテーマに研ぎ澄まされた詩を書いた長崎の山田かん、「まぼろしの邪馬台国」が話題を集めた島原の宮崎康平、芥川賞候補になった宮崎の黒木清次など、九州全域から才能が結集した。九州文学の黄金期である。

　劉の死に伴い一時休刊に追い込まれたが、佐賀市大和町の同人、高尾稔さん（８２）が遺志を継いで９４年に復刊した。

　「かつての『九州文学』にあふれていた熱気は残念ながら、今は薄れてしまった…。でも、劉さんはぼくの親分。親分が残した『九州文学』の火を消すことはできません」
　かつて九州の文学青年たちが同人誌に集った時代があった。その頂点に、「九州文学」が君臨した時代が確かにあった。文学青年が消えることはない。しかし、若い才能が集い、かつての原田や火野や劉のように、侃々諤々（かんかんがくがく）と文学を語り合う日は、もう一度訪れるのだろうか…。高尾さんはこの秋に出した通巻５２１号を最後に、後進に編集を託すという。


　<strong>●合評会という名の飲み会。慕わしい人のそばに和む　第３７回九州芸術祭文学賞受賞、「午前」同人　芝　夏子さん（３２）＝福岡市中央区</strong>
　同人誌「午前」の合評会は中洲の外れの小さなバーである。

　二度しか発表していない私なのに招いてくださる。同人は７０代、８０代の大先輩お２人だ。実を言うと合評会という名の飲み会で、カウンターに並んで座り水割りを飲む。両手に花、私が真ん中だ。作品の話はほとんどせず、声を荒げて文学談義をすることもない。慕わしい人のそばに和む。

　「書きよりますか！」。主宰者の青海静雄さんは私の顔を見ると必ずこう声をかけてくださる。「はい、書きよります！」。これだけは自信を持ってうなずける。「中央の雑誌から断られても書き続けなさい。習作を書き上げなさい。もしよかったら、午前にも出してください」

　先人が手を差し伸べてくれる。申し訳なさとありがたさがごちゃまぜになって、言葉が出てこない。私はつたい歩きのように習作を書いている。書き方を習得したと感じても、次々に押し寄せる意識に紛れ、ふとどこかへ行ってしまう。「書き方」は頭の中の真空にあり、積み上げる習作原稿の束の中にある。コンスタンスにすくい上げることができるようになった時、私は納得のいく小説を生める気がする。]]>
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   <title>久留島武彦「童話術講話」</title>
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   <summary>一期一会の口演に宿す刹那 　〈ここに１人の感心な少年がおりました〉。一枚のＣＤが...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="090_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/090_01.jpg" width="110" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">一期一会の口演に宿す刹那</h2>

　〈ここに１人の感心な少年がおりました〉。一枚のＣＤが回り始めると、メルヘンの扉が静かに開いた。久留島武彦が１９４９（昭和２４）年に発表した創作童話「海に光る壺（つぼ）」。自らが口（こう）演（えん）している。収録されたレコードを再生したもので、ザーザーという雑音までもが遠い潮騒のように響いてくる。
　－靴磨きの少年が親類の家に行った折、海辺で足を滑らせ、生死のはざまをさまよううち、海中で不思議な老人と出会う。老人は壺に入った五色の魂を少年に見せ、「おまえの魂は水晶色で、まだ何色にも染まっていない。これからも磨いて魂を光らせよ」と告げ、生還した少年はまた靴磨きに励む－
　落ち着いた声色、老人の声は低く、少年の声は弾む。物語はやや足早にペースを刻み、いつしか引き込まれていた。
　童話を口で演じて伝える口演活動は、半世紀にわたって続けられたが、久留島は録音を嫌った。この音声も「久留島のごく親しい人が収録した」とされ、収録された場所、日時は不明だ。
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      <![CDATA[<img alt="090_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/090_02.jpg" width="300" height="195" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　口演の思想と手法を体系化した「童話術講話」で、童話の心得をこうつづる。
　〈子供に話すということは、まったく刹（せつ）那（な）刹那の真剣勝負であります。一分として余裕がない、一分として隙（すき）がない〉
　久留島のふるさと、大分県玖珠町。地元の合原正利さん（７７）は小学４年生のとき、久留島の口演に初めて触れ、こんな記憶を刻んでいる。
　「身長１８０センチを超える大男、丸眼鏡にダンディーなスーツ姿。太い声はマイクなしでも講堂に響き、空気がピンと張り詰めた。下半身は根を張ったようにどっしり。腰から上は抑揚に合わせて大きく小さく動いた。物語に船が登場すれば、荒波が目に浮かんだ。１つの神秘体験だった」

　久留島は瀬戸内海を制した村上水軍の流れをくむ旧久留島藩主の子孫。角（つの）牟（む）礼（れ）城跡のふもとにある玖珠町森地区は、城下町の面影を残し、その一角に久留島記念館がある。ガラスケースの中にはゆかりの品々、黄ばんだ童話作品集などに加え、戦記物も展示されていた。
　関西学院大に在学していた２０歳のとき、徴兵検査に合格し、日清戦争に従軍。新兵にちなんだ「尾上新兵衛」のペンネームで雑誌に戦場ルポを寄稿。日露戦争でも中国、朝鮮半島、台湾などを転戦しながら寄稿を続けた。久留島は戦死者の山、銃撃訓練など戦場の日常を淡々と描写したが、目を向けたのはそればかりではなかった。
　朝鮮半島と久留島のつながりを研究する九州大大学院生の金成妍（キムソンヨン）さん（２７）は、久留島が両戦後、雑誌「家庭」に寄稿した「朝鮮の子供」という一文に着目する。日露戦争で韓国・仁川に上陸した久留島は、朝鮮半島の子供たちの境涯に心を痛め、教育の必要性を訴えた。
　久留島口演の源流をたどっていくと、幼少時代の寺の講話、青年時代に通ったキリスト教会の日曜学校や普及活動などにたどり着くが、金さんは「遊具もなく、表情を失った戦場の子供たちの姿が、久留島をさらに突き動かした」。１９３４（昭和九）年に発表した創作童話「虎の子の大発見」はやけにもの悲しい。
　－母の言いつけを守らずに穴の外に出たトラの子は、好奇心にかられ、母が恐ろしいと言っていた人間を探すために山を下る。道中、牛や豚、ニワトリを人間と勘違いしながら人里に近づき、やがて１人の老人に出会い、まんまとわなにかかってしまう。運良く難を逃れるが－

　「日本のアンデルセン」とも呼ばれるようになったのはボーイスカウト活動がきっかけだった。１９２４（大正１３）年にデンマークで開かれた第２回世界ジャンボリーに、久留島は日本派遣団副団長として参加。アンデルセンの生家や墓を訪れ、あまりの荒廃ぶりを地元新聞社などに訴え、復権運動に火を付けたことに端を発する。
　若き日のアンデルセンが貧困への嘆きと社会の理不尽さを創作のバネにしたように、久留島もまた十代で大火により家を追われ、病で父を失い、祈りと叫びを胸にメルヘンの世界へと導かれていく。
　「童話術講話」で、久留島は〈大人に対する哲学、大人に対する高い意味における文学、宗教、これが私は子供の童話というものの解釈にあてはまるものであろうかと思う〉と記している。語り手の「呼吸」「姿勢」「ことばの響き」から、聞き手の「人数」「場所」に応じた口演を求め、〈心が直接心に語る語り方〉〈心が声に現れ、耳を通して聞かせる語り方〉〈心が姿に現れ、形になって理解させる語り方〉などを示している。
　晩年の久留島と親交があった日本童話人協会副会長の畑崎龍定さん（７９）は「一期一会の空間で紡がれる感覚が子供たちを引きつけた」。大人と子供の間にほんの一瞬ともる、マッチの炎のようなインスタレーション（空間設定）だったのかもしれない。

　昼下がりの図書館に拍子木が鳴った。「今からお話はじまるよー」。地元の口演サークル「語りべ・ひこわの会」は毎月第１、３日曜日に活動を続ける。
　５、６人の子供が集まり、立てひざをついて、当番の合原さんを見上げている。小学教諭時代から子どもたちに童話を読み聞かせてきた合原さん。「久留島先生のように、なかなかみんなの目を引きつけられませんね」と言いながらも、久留島と同じように立ち、子供たちを見渡しながら、自分なりの抑揚で感情を注ぎ込む。〈子供たちのひざの前の友でありたい〉〈外の口ばかりでなく内（心）の口も磨け〉といった久留島の遺伝子を受け継ぎながら。
　お話しの会が終わって図書館も閉まるころ、辺りを夕暮れが包み、久留島が作詞した「夕やけ小やけ」が心に響いた。
　〈夕やけこやけ　やけたらあつかろう　水かけてやろうか　水もいらぬやけもせぬ　あすの天気がうれしゅうて　それで頬つぺをそめた〉
　近くで手を取って帰る母親と子供の影が大きく浮かび上がり、やがて重なった。
（文＝玖珠支局・城戸聡志　写真＝写真部・納富　猛）

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　<strong>▼くるしま　たけひこ</strong>
　１８７４年６月１９日、大分県玖珠郡森町（現玖珠町）生まれ。大分中学（現上野丘高校）から関西学院に転入。日清・日露戦争から帰還後は、童話作家で、雑誌「少年世界」主筆の巌谷小波と活動をともにし、神戸新聞の記者などを経て１９０３年、横浜の教会で全国初の童話会「お伽倶楽部（おとぎくらぶ）」を開く。口演行脚で全国の童話振興に貢献するとともに、話術研究にも尽力。２４年、日本童話連盟が創立され、顧問に就任した。２５年には、ラジオで初の童話放送を行う。翌年、アンデルセンの顕彰が評価され、デンマーク国王からダンネブロウＢ勲章を受ける。６０年、８６歳で死去。

　<strong>●私の推薦文＝身近な「お話のおじちゃん」に　桑野　英司さん（３７）＝研究同好会「久留島武彦倶楽部」主宰（大分県玖珠町）</strong>
　久留島武彦にひかれたのは２年前。「童話の里」として知られる大分県玖珠町で、口演童話の父・久留島を知ろうと、創作童話や文献に触れたことがきっかけだった。語り部として生きた久留島の考えに共感し、おとぎ話を子守歌代わりに聞いた幼年期の記憶がよみがえった。
　「語り部の足跡をたどるには、文献ではなく、その声を聞かなければならない」。この一心で、数少ない生前の音源を探し回り、大分県先哲史料館（大分市）の書庫に眠っていた資料を発見した。初めて聞いた太く低い声には、どこか優しさがあり、それまで歴史上の人物としてとらえていた久留島のイメージが、身近な「お話のおじちゃん」になった。現在は、音声のデジタル化に取り組んでいる。
　４月に研究同好会の「久留島武彦倶（く）楽（ら）部（ぶ）」を結成すると、全国から反応があり、久留島の偉業をあらためて実感した。童話離れも進む時代だが、童話を話し、子どもに夢を与えるのは私たち大人の役目。久留島の遺志を継ぎ、顕彰活動を続けていきたい。

　<strong>▼メ　モ</strong>
　■久留島武彦が生まれた大分県玖珠町のシンボルは、メサ（卓状台地）の伐株山（きりかぶさん）。その昔、天まで伸びたクスの木を巨人が切り倒してできたという伝説があります。玖珠町は「童話の里」と呼ばれ、毎年５月には日本童話祭が開かれています。
　■久留島武彦の自筆原稿や関連文献は、大分県立先哲史料館（大分市駄原５８７の１）や久留島記念館（同町森９９５の１）に保管されています。先哲史料館＝０９７（５４６）９３８０、久留島記念館＝０９７３（７２）６３７０]]>
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   <title>目取真俊「水滴」</title>
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   <published>2007-12-02T07:45:15Z</published>
   <updated>2007-12-03T07:54:36Z</updated>
   
   <summary>沖縄戦の「陰の記憶」も照射 　今年の夏、沖縄は揺れた。 　６２年前の住民を巻き込...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="089_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/089_01.jpg" width="113" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">沖縄戦の「陰の記憶」も照射
</h2>
　今年の夏、沖縄は揺れた。
　６２年前の住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦・沖縄戦の記憶が、全島に呼び覚まされた。９月２９日に沖縄県宜野湾市で行われた教科書検定をめぐる「県民大会」。参加者１１万人（主催者発表）の中に、目取真俊はいた。
　戦後、米軍統治下の「銃剣とブルドーザー」による米軍の土地強奪、祖国復帰運動、１９９５年の米兵による少女暴行事件抗議に対する県民総決起大会…。「島ぐるみ闘争」を幾度か経験してきた沖縄が、いつも対峙（たいじ）してきたのは巨大な権力だった。
　今回の「集団自決と軍命」の記述をめぐる教科書問題では、本土の一部に「１１万人はうそだ」「動員がほとんどだ」などの論争が生まれた。また教科書会社の訂正申請は相次いだが、沖縄側が求めている「検定意見の撤回」は、今のところ無視されている。
　１０月末、沖縄県名護市で会った目取真は、県民大会後の本土側の対応について開口１番、こう言った。
　「沖縄は同じ国ではないのでは」
　怒りに満ちていることは、はっきりと分かった。
　目取真が「水滴」を執筆していたのは、米兵による少女暴行事件で沖縄全島が怒りに震えていた時期。それから１２年。
　「何も変わっていない。いや、どんどん悪くなっている」
　国内の米軍専用施設の７５％を占める基地の島で、基地問題などの評論活動も続ける目取真は本土に対して、そして沖縄自身に対しても、カミソリの刃のように鋭角的なまなざしを向ける。]]>
      <![CDATA[<img alt="089_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/089_02.jpg" width="300" height="221" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>
　６月半ば、沖縄戦で鉄血勤皇隊員だった主人公の徳正（とくしょう）の右足が、突然膨れ出す。物語は、その足から噴き出る水を、沖縄戦で死んだ兵士たちが、夜な夜な吸いに来るという幻想的な展開をたどる。
　ねっとりと、時にはユーモラスに描かれる徳正と、その妻ウシ、いとこの清裕（せいゆう）。濃い沖縄独特の集落共同体の情景、方言もちりばめられ、リズム感もあふれている。
　「過去の戦争での戦友への贖罪（しょくざい）」がテーマと言えば簡単である。しかしそう単純ではない。
　「嘘物（ゆくしむぬ）言いして戦場（いくさば）の哀れ（あわり）事語てぃ銭儲（じんもう）けしよって、今に罰被（ばちかぶ）るよ」
　ウシが徳正に語るこの言葉は、基地と引き換えに「特需」を受ける沖縄の現状を、痛烈に照射する。
　悔恨、悲劇、怒り、欲望、喜劇、矛盾、苦悩、焦燥…。「水滴」の中で戦争は、過去と現在を行き来しながら、さまざまな形の心象風景として描かれる。
　そこには、あの戦争が記憶として現在の人々の心に存在し、さらに米軍基地と隣り合わせの沖縄が今も、戦争につながっている現状をも告発しているようだ。

　戦後生まれの目取真は、もちろん沖縄戦を体験していない。しかし「水滴」で描かれた沖縄戦は、とてもリアルだ。なぜか。
　「想像力で書いた沖縄戦だからこそ、現代にまで続くその暴力性まで描けた」。琉球大の新城郁夫准教授（沖縄文学）は、こう読み解く。
　新城によると、沖縄戦は沖縄の人々にとって「集団的記憶」であり、「水滴」発表以前はどこか「沖縄戦は冒さざるもので、真実を書くべきだ。フィクションでは書いてはいけない」という禁忌があった。それどころか、体験者の誰にも話したくない、誰にも聞かれたくない陰惨な「陰の記憶」は、排除されてきた。
　しかし「水滴」は、生の人間の押し込められた心情を深くえぐることでリアリズムを生み出した。軍の公式記録や、市町村発行の沖縄戦証言集などには描かれていない個人の心情も「表現できる」という突破口を開き、沖縄戦を主題としてきた戦後沖縄文学の「大きな変わり目となった作品」（新城准教授）という。
　目取真は、沖縄戦をただ想像だけでは書いていない。鉄血勤皇隊員だった父の体験を聞き、育ってきた。
　日常に「戦争」があるのは、沖縄の人々の共通項でもある。基地を離着陸する米軍機の爆音だけでなく、おじぃ、おばぁからは今も、鉄の暴風や旧日本軍による住民虐殺、「集団自決」など、地上戦の生々しい証言を聞くことができる。さらに沖縄の書店に行けば、ほぼどこの書店にも沖縄戦の写真集や証言集が並んでいる。
　本土の人々が遠い中東地域で起きている戦争をテレビで見るような感情では決してなく、沖縄の人々にとって戦争は“ほんの”六十余年前に、現在住んでいる自分の土地で起きたのだ。父母や祖父母など身近な人たちから「記憶」を聞き、追体験したウチナンチュたちが「自分たちも行動しなければ」と、あの「１１万人大会」に集ったのである。

　沖縄で、１人の元小児科医と会った。沖縄戦当時、本島南部の南風原（はえばる）陸軍病院壕（ごう）の軍医見習い士官だった長田紀春さん（８７）。第三外科の医師として長田さんは、汚物と消毒液と体臭が入り交じり、絶叫と怒号が響くガマ（自然壕）の中で、次から次へと運ばれてくる兵士に麻酔薬もないまま手や足を切断する手術を続けた。
　そして米軍がすぐ近くまで迫ってきた１９４５年５月中旬、さらに南部への撤退命令が出された。壕には約７０人の患者がいた。「軽傷者は自力で撤退させ、重傷患者には青酸カリを飲ませろ」との命令だった。
　「命を守るために働いてきたのに、信じられない」。長田さんは下士官が本部壕から受け取ってきた青酸カリ入りの袋の廃棄を指示した。そして、約２０人の重傷兵をガマに残して撤退した－。
　砲弾の雨と、草も食べ尽くした飢えの生き地獄の中で、１カ月以上にわたって南部をさまよった。ついに米軍の捕虜になり、連れて行かれた収容所で偶然、壕に置き去りにした兵士の１人と再会した。壕から両手だけではい出し、米軍に救出されていた。
　「置き去りにしたことがずっと気掛かりだった。本当に心が救われた気がした」
　極限状態の戦場の様子を必死に想像しながら話を聞き、そして「水滴」の徳正と重ね合わせた。「置き去りにした兵士のうち、生き残ったのは何人ですか」「置き去りをどう思いますか」。長田さんに、もう少し話をうかがおうとも思った。
　しかし「心が救われた」と、自分に言い聞かすような長田さんの口ぶりに、心情をわしづかみするような質問は、できなかった。
　（文と写真＝久留米総局・吉田賢治）

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　<strong>▼めどるま　しゅん</strong>
　１９６０年、沖縄県今帰仁（なきじん）村生まれ。琉球大学法文学部卒。港湾労務や警備会社のガードマンなどさまざまなアルバイト生活を経て高校の国語教師となる。教職を退職後の今も、沖縄を拠点に文筆活動を続けている。８３年に「魚群記」で琉球新報短編小説賞、８６年に「平和通りと名付けられた街を歩いて」で第１２回新沖縄文学賞を受賞。９７年に九州芸術祭文学賞を受けた「水滴」は、芥川賞を受賞。選考委員９人中８人の支持を受けた。このほか「群蝶の木」（朝日新聞社）、「魂込め（まぶいぐみ）」（同、木山捷平文学賞と川端康成文学賞受賞）、「虹の鳥」（影書房）などの著書がある。同県名護市在住。


　<strong>●私の推薦文＝極限状況下の実相を剔抉　大田昌秀さん（８２）＝前参院議員　元沖縄県知事（那覇市）</strong>
　小説「水滴」を読んで、その奇想天外の内容に一驚した。表現を絶する事態の戦争を、見事に描出した著者の奇才にまず脱帽。短い文章で登場人物の人となりを生き生きと浮き彫りにした手腕はさすがだ。
　とりわけ登場人物の１人に鉄血勤皇師範隊員が出てくるので、私自身その一員として銃を執って戦場に出た体験があり、読んでいて身につまされる思いがしてならなかった。
　この小説で特筆に値することは、沖縄語（方言）の用法の巧みさだ。本土の読者には、方言の持つ独特なニュアンスは理解しがたいかもしれない。しかし地元の読者には「嘘物（ゆくしむに）言いしち」「呆気（あき）さみよう！大事（でーじ）なてるもん」「有難うやたんど」などといった片言隻語で、読者と受け手のやりとりの雰囲気が的確にイメージできる。
　この小説は、極限状況下の戦争の実相を剔抉（てっけつ）しながらも、著者の巧みな話術で各所にユーモラスな場面もあり、読者をホッとさせる。

　<strong>●メモ</strong>
　■「水滴」は２０００年には文庫本になっています。併録されている「風音」は目取真氏自らが脚本化し、東陽一監督が映画化しています。
　■目取真氏はエッセーや評論も精力的に執筆しています。「沖縄／草の声・根の意志」（０１年、世織書房）「沖縄　地を読む　時を見る（０６年、同）などがあります。「沖縄『戦後』ゼロ年」（０５年、ＮＨＫ出版）は、目取真氏と沖縄戦のかかわりにも触れています。
　■記者が那覇支局勤務時、政治的な集会などで何度か目取真氏をお見かけしました。ただ１番印象深かったのは、名護市の国立療養所「愛楽園」で、自治会による証言集づくりのために、元ハンセン病患者からの聞き取りにボランティアで参加されていた姿です。
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   <title>藤原新也「少年の港」</title>
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   <published>2007-11-25T05:43:29Z</published>
   <updated>2008-03-04T03:04:55Z</updated>
   
   <summary>海峡の街は揺りかごに似て 　１９９３年。私が門司支局に赴任したとき、北九州市・門...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="071125_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/071125_01.jpg" width="133" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">海峡の街は揺りかごに似て</h2>

　１９９３年。私が門司支局に赴任したとき、北九州市・門司港の街は「死にかけて」いた。次々に解体される赤れんが造りの倉庫群、閉鎖されたままの旧門司税関、老舗デパート山城屋は経営破たん目前だった。かつて九州の玄関口として栄え、本州、そして遠く中国から雑多な人や物資が集まった港町の建物はことごとく寂れ、姿を消そうとしていた。
　ただしそこには、色あせ、崩れていくだけの、ありきたりの地方都市の最期とは違う、夕日の残照のような鈍い輝きがあった。その印象が間違いではなかったことを、商店街の本屋で偶然手にした写真集が教えてくれた。
　波に泡立つ船だまりの石段は無数の旅人の足跡に削られていた。木造の古い銭湯の湯船からは気持ちの良いため息と会話が漏れてきた。モノクロの１枚１枚から、古い記憶が立ち上がってくる。藤原新也が生まれ育った門司港を写した「少年の港」（９２年扶桑社刊、絶版）は、開港１００年の街がもつ数々の「物語」の輝きをとらえていた。]]>
      <![CDATA[　藤原の生家は「藤乃屋」という旅館だった。それがどんな建物だったのか、ベストセラーとなった著書「東京漂流」の中でこう描いている。
　〈部屋数３０近くある、当時としては比較的大きな旅館〉〈３階建ての寄せ棟となっているこの建物は、階段だけで５つもある、複雑に入り組んだ構造を持っていた〉
　藤原が「母胎」と呼ぶこの旅館で過ごした日々は、黄金の少年時代だった。旅館には宿泊客だけでなく、密輸商人や泥棒までもが出入りした。客と中居が大みそかに駆け落ちし、別の美人中居に片思いした向かいの交番の巡査が自殺、小学校の先生たちは宴会であられもない痴態（ちたい）を演じた。藤原少年はそれらに目を見張り、飽かず楽しんだようだ。
　昭和２０年代から３０年代前半。関門橋も関門トンネルもなかった時代。九州に出入りするあらゆる人間と物資が門司港を通った。戦後の混沌（こんとん）と経済成長へ向かう活気がごったまぜになった雰囲気の中で、どれほど刺激的な「物語」が展開したことか。
　藤原と同じ１９４４（昭和１９）年生まれで門司港育ち、今も門司に暮らす画家の川原田徹さんは当時をこう評する。「生き生きとしたナマの世界だった」

<img alt="071125_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/071125_02.jpg" width="300" height="192" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>　川原田さんが描く空想の「街」は、どれも巨大なカボチャの形をしている。数え切れないほどの店がひしめいて、人々が元気いっぱいに働き、遊んでいる。好んで描く看板は「中将湯」「ボンタンアメ」といったなつかしい昭和の品ばかり。その中に、実在する門司港の商店や料亭の看板が幾つも登場する。川原田さんの「カボチャ」は、藤原の「母胎」と同じく、２人が少年時代を生きた門司港のメタファー（隠喩（いんゆ））なのだろう。
　川原田さんの作品には「藤乃屋」も登場する。「目抜き通りにある大きな旅人宿で、にぎわってましたよ」。少年時代の２人に接点はなかったが、藤乃屋は川原田さんの記憶に残っていた。しかし、時代は動き、人も街も変わる。１９６０（昭和３５）年、藤乃屋は関門トンネル開通に伴う区画整理に引っかかり、あっさり取り壊された。
　高度経済成長とスピード時代の到来。人と物資は、門司港の頭越しに高速道路で運ばれるようになった。団地やプレハブ住宅が全国各地に整備されるに連れて、街は固有の「物語」を失っていった。どこへ行っても同じような「箱」ばかり。生家を奪われた藤原は、入れ替わるように量産される団地を罵倒（ばとう）した。
　〈「家」はこのように、世間や自然に向かって、より没交渉となり、自閉し、非合理や無駄を排した無機物へと変化していった〉（「東京漂流」）
　しかし幸か不幸か、開発から取り残された門司港は、街の「物語」をひそかに語り続けた。

　１６歳で故郷を離れた藤原は、カメラマンとなり、文字通り世界を旅して回った。８０年代初め、写真週刊誌を飾った１枚の写真に、私は強烈な印象を受けた。インドのガンジス川に放置されたヒトの死体を、犬が食っていた。「人間は犬に食われるほど自由だ」。藤原のメッセージは、バブル期の浮ついた世相に、ぐさりと突き刺さった。
　藤原がいつ門司港を再訪し、「少年の港」を撮ろうと決意したのかは分からない。久しぶりの故郷はきっと、意外なほどに昔の面影を留めていたはずだ。その街角で、藤原は少年だった自分自身を見つけ、シャッターを切った。撮る自分と撮られる自分。数十年分の距離を、どう感じていたのだろう。
　人は誰しも、自分を客体化し、故郷を第三者として眺める過程で、大人になっていく。藤原にとってその第一歩は、関門海峡の対岸、山口県下関市へ連絡船で渡ることだった。
　〈劇的な一瞬だった。海峡の向こうに門司港が見えた。（中略）子供は一瞬の旅行者となり、対岸から自らの町、門司港を遠望するごとに、多分一歩一歩、大人の自我へと接近していったに違いない〉（「少年の港」）
　夕暮れの門司港。私も連絡船に乗ってみた。船上で振り返ると、高層マンションのシルエット、ホテルが放つ明るい光。門司港レトロでにぎわう街は、１４年前とは一変していた。しかし、港のたたずまいと、街を抱く山々の姿は変わらない。波の上で、すべては揺りかごのように揺れていた。

（文＝地域報道センター・三村龍一　写真＝写真部・納富猛）

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　<strong>▼ふじわら・しんや</strong>
　１９４４年３月４日、北九州市門司区生まれ。東京芸大油絵科中退。アジア放浪を経て、７２年「印度放浪」を発表。以後、鋭い視線で文明批評を続ける。７７年に「逍遙游記」で第３回木村伊兵衛写真賞、８１年に「全東洋街道」で第２３回毎日芸術賞、２００４年、福岡県文化賞受賞。写真週刊誌「フォーカス」の連載でインドの死体写真を発表して話題になるが、連載は打ち切りとなる。著作に「東京漂流」「メメント・モリ」「花音女」「渋谷」など多数。

　　
　
　
　<strong>●私の推薦文＝熱い思いでページめくった日々　浜崎　いつ子（６８）＝門司まちづくり２１世紀の会事務局長（北九州市門司区）</strong>
　「お土産を買ってきてね」。出征する父に、５歳の私はそう言ったそうだ。１９４４（昭和１９）年、門司港から出港した船は、父を乗せたまま、台湾とフィリピン間のバシー海峡に沈んだ。私の中ではいつの間にか、「父－お土産－門司港」とつながってしまった。
　父のことを思い出すとき、いつも視野に関門海峡があった。海に迫る緑のびょうぶのような山。その風景が心を静めるのにどれほど役立ったことか。藤原新也さんの「少年の港」には、つい幼い自分を重ねてしまう。
　出版当時、門司港の商店街には「藤乃屋」をご存じの長老もおられ、私たちは「藤原さんを講演に呼ぼう」と企画した。門司港レトロをテーマに観光地として変わろうとしている街。写真集から伝わる何かをつかみたい。そんな思いでいっぱいだった。企画は実現しなかったが、仲間と熱い思いで「少年の港」をめくった日々がなつかしい。



　<strong>●メモ</strong>
　■北九州市門司区谷町２丁目に、川原田徹さんが館長を務める「カボチャドキヤ国立美術館」があります。三菱倉庫の保養所だった１９１８（大正７）年建築の木造洋館を改修、川原田さん自身のポップな塗装が目を引く三角屋根の小さな美術館です。カボチャシリーズの油彩画や銅版画のほか、藤原新也の写真、リトグラフも展示。土曜・祝日のみの開館で、入場料は一般３００円、中高生１００円、小学生以下無料。同美術館＝０９３（３３１）５００３。
　■門司港と下関市を５分で結ぶ関門連絡船は、午前６時から午後１０時まで、門司港桟橋をほぼ２０分おきに出港。同桟橋＝０９３（３３１）０２２２。]]>
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   <title>原田種夫「九州文壇日記」</title>
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   <published>2007-11-18T07:40:50Z</published>
   <updated>2008-03-04T03:04:55Z</updated>
   
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      <![CDATA[<img alt="087_01.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/087_01.jpg" width="120" height="170" align="right"  hspace="12" vspace="12"/><h2 class="text_h2">ペンという「剱」に捧げた生涯</h2>

　粋な着流しに雪駄姿で福博の街を闊歩した文士を、人々は親しみを込めて「ハラタネさん」と呼んだ。
　「九州最後の文士」と呼ばれた原田種夫は、さまざまな顔をもっていた。
　明治生まれの詩人であり、芥川・直木賞候補に計四度選ばれた小説家。九州全域の作家が初めて結集した同人誌「第二期　九州文学」の編集発行人であり、西日本文学史の研究者。さらには造本家でもあった。学生時代の一時期を除き、人生のほとんどを福岡市春吉に暮らした。
　「九州文壇日記」は、昭和４年元日から、亡くなる前日の平成元年８月１４日まで書き続けた日記のうち、主に昭和４年元日から昭和２５年までの２１年間を抄録したものである。原田の年齢でいえば２８歳から４９歳。ペンという「剱（つるぎ）」に生涯をささげた原田にとって、最も熱く激しい季節だった。
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      <![CDATA[　創立したばかりの西南学院中学に入学した原田種夫は、北原白秋や夏目漱石に親しみ、ハイネやゲーテ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーも読みあさった。少年は文学青年となり、萩原朔太郎のアフォリズムのスタイルをまねて、散文詩を書き始めた。大正１４年、２４歳の秋に〈未来は分からないが、文学をわが一生の仕事にしようと決心した〉（随筆集「ペンの悦び」より）。
　日記は昭和４年元日、こう始まる。
　〈詩人として、又、思想家としての僕の精神生活の記録の一切は、ことに映像されるものなり。一面この一巻は、激烈なる感情と、愛に燃ゆる、奇異なる人格の詩たり〉
　この年、原田は詩誌「瘋（ふう）癩（らい）病院」の同士、山田牙城らと全九州詩人会を結成し、「年間　九州詩集」の出版を果たす。白秋や加藤介春ら精鋭２８人の詩を収めた。九州全体に目を向け、呼びかけた合同詩集はこれが初めての試みであり、オルガナイザー（組織者）としての第一歩であった。
<img alt="087_02.jpg" src="http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/kyushu100/087_02.jpg" width="300" height="191" align="right"  hspace="12" vspace="12"/>　畳み掛けるように「九州詩壇」を創刊し、各地の詩結社と「九州詩人祭」を開き、九州芸術家聯盟の結成と機関誌「九州芸術」の創刊を決めた。参加者４４人の中には、後に久留米で「母音」を創刊する丸山豊の姿もあった。
　〈福岡詩壇にかつてない盛んなる会であった。これが１つの機運となって実を結ぶであろう。〉（昭和９年２月１７日）
　そして、ついに九州文壇にとって大きな転機の年となる、昭和１３年を迎える。
　福岡日日新聞社（後に西日本新聞社）学芸部長の黒田静男は、原田の「九州芸術」、秋山六郎兵衛らの「九州文学」、矢野朗らの「文学会議」、岩下俊作や劉寒吉らの「とらんしつと」の大同団結を提唱する。だが、前年９月にあった初の打診を、原田が〈即答は出来んが、九州文学の連中と同席は決してせん〉と記したように、交渉は難航を極めた。

　図らずも、団結を促すことになった大事件が、火野葦平「糞尿譚」の芥川賞受賞であった。〈この深い感動を忘れまい。いよいよ詩筆を折る時が来た！詩人原田種夫とお別れの時が来た。自分の作家として起つときが来た。真剣だぞ！〉（２月８日）。
　詩人たちは、こぞって小説へと転向し、次の芥川賞を目指した。九州から次の作家を、という機運が高まったのだ。
　「第二期　九州文学」の創刊が決まった６月１８日、原田はこう記している。
　〈九州の文化百年の計は成る。〉
　翌１４年、火野に続いて、長谷健が芥川賞を受賞。〈芥川賞を九州でさらってしまえ！〉（８月１日）と書いている。
　中央の視線は九州に向けられた。岩下俊作の「富島松五郎伝」、矢野朗の「肉体の秋」、劉寒吉の「翁」「１０時大尉」ら仲間が次々に芥川・直木賞候補に挙がった。原田の作品も小説「風塵」が芥川賞候補（昭和１５年）、「家系」も直木賞候補（昭和１９年）となり、大同団結した九州文壇が熱くたぎった時代はピークを迎えた。
　昭和２０年４月、原田は召集令状を受けるも、体格検査に不合格となり、西部軍管区報道部に配属。そして敗戦を迎えた。
　〈大東亜戦争終結の聖断下る。言うべきことば１つもなし。〉（８月１５日）
　〈家族とともにあたたかく楽しく生き、なぐさめをとらえてゆこう。忘れたい、忘れたい、忘れたい、日本の敗北を忘れたい〉（８月２８日）
　原田は、日記の中で自らの志を常に問うていた。例えばこんな風に。
　〈作家原田種夫よ。もう起ったらどうだ！　剱をやすめるのが永すぎるぞ。世相の不安、動揺に藉口して怠けたら駄目である。書きたいものは胸中にひしめき合っているではないか。もう起つときだ！時代が来た！ほんとの作家か、にせの作家か！自ら実証したらどうだ！汝は詩人か、作家か！どちらだ。独自の世界をもつ原田種夫よ。〉（昭和２０年９月２１日）
　原田は剱を休めることなく、創作を続けた。昭和２９年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」は相次ぎ直木賞候補になった。一方で、原田は文壇史の発掘にのめり込んでいく。文学者としての見識、幅広い人脈を生かし、九州各地に埋もれた文学を掘り起こし「実説・火野葦平－九州文学とその周辺」「黎明期の人びと－西日本文壇前史」などにまとめた。
　登場人物３０００人という日記を編集し、一冊にまとめた志村有弘・相模女子大教授（６６）＝中世文学＝は「九州にとどまらず、昭和の日本の文学、文化、風俗の実態を伝える一級の資料であり、日記そのものが文学として成り立っている。鏤骨彫心の人だった」と評する。

　原田種夫は、愛妻家で子煩悩な家庭人でもあった。「おやじは酒飲まんから、よく喫茶店に連れられて行きよりました。ブラジレイロに森永キャンデーストア…。もう博多も変わりましたなあ」。長男の種秀（７１）＝福岡市中央区＝は、コーヒー党の父の姿を思い出す。同人との会合にも頻繁に使った喫茶ブラジレイロは強制疎開のため、那珂川のたもとから博多区店屋町に移転した。その跡には原田の文学碑が建っている。
　原田は晩年まで、小説を書きたがっていたという。自らの代表作として、初期の「風塵」ばかりが語られることに納得できなかったのだろうか。
　いま、人々は尊敬の念を込め「九州文学界の縁の下の黒子」、あるいは「無冠の検証者」と彼を呼ぶ。ペンという「剱」に込めた志に、最後まで誠実に向き合った文士であった。

（文＝文化部・塚崎謙太郎　写真＝写真部・大矢海寿帆）

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　<strong>▼はらだ・たねお</strong>
　１９０１年（明治３４年）、福岡市春吉に生まれる。本名は種雄。大正の終わりごろから詩を書き、山田牙城らと詩誌「瘋癩病院」「九州詩壇」などを創刊。次第に小説を志向し、火野葦平や劉寒吉らと３８年に第２期「九州文学」を発刊。４０年の「風塵」が芥川賞候補、５４年の「南蛮絵師」、翌年の「竹槍騒動異聞」が直木賞候補となる。「西日本文壇史」「黎明期の人びと」など九州文壇史の研究に力を注ぎ、九州芸工大や福岡市美術館の誘致建設にも尽力した。８９年８月１５日、８８歳で死去。「九州文壇日記」は９１年２月に出版された。


<strong>　●私の推薦文＝背筋に誇り感じられた紳士　田村　明美さん（７０）＝梓書院会長（福岡県那珂川町）</strong>
　原田種夫先生は、私が梓書院（福岡市）を起こしたとき、設立発起人として、取締役として参加していただき「記録・九州文学（創作篇）」をはじめ、「緒方隆士小説集」や「筑前のわらべ遊び」など多くの本を一緒に手掛けました。梓書院創立十周年の折には書き下ろし小説「薪能」を含む「銀婚飛行」を出版しました。題字は、とてもかわいがっていたお孫さんの筆によるものでした。
　今はファクスやメールという便利なものがあり、九州、福岡在住でも作家活動ができますが、昔はやはり東京中心でした。その中で福岡に腰を据えてきた人生には、ずいぶん苦労もあったことでしょう。「九州文壇日記」には、文壇の交流や創作の苦悩とともに、家族をとても大事にした先生の姿が記録されています。奥さまとの会話は、いつも掛け合い漫才みたいで仲むつまじく、ほほ笑ましい光景でした。いつも着流しに雪駄のおしゃれな格好で、誇りみたいなものが背筋に一本、ぴーんと入っていた紳士でした。


　<strong>●メモ</strong>
■原田種夫は１９３９年から４３年にかけて、西日本新聞社（福岡日日新聞社）に勤めました。初の掲載記事は４１年３月、北原白秋へのインタビューでした。その後、映画配給会社や出版社勤めを経て、５１年から文筆生活に専念しました。
■福岡市総合図書館の郷土・特別資料室では、本人の遺志により寄贈された蔵書１４５４２点を「原田種雄文庫」として保存・公開しています。文芸だけでなく、映画史や郷土玩具、方言研究など幅広い分野で作品を残した文士の膨大な蔵書は、一見の価値があります。
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