『雪の練習生』 多和田葉子 著 (新潮社・1785円)

『雪の練習生』 多和田葉子 著 (新潮社・1785円)
「わたし」はベッドに倒れこんで幸せな空想をする。「娘のトスカはバレリーナになって舞台に立ち、チャイコフスキーの『白熊(しろくま)の湖』を踊り、やがて可愛(かわい)らしい息子を生む。わたしにとっては初孫だ。その子はクヌートと名付けよう」。
クヌートとは、ベルリン動物園で人工飼育され一躍世界のアイドルとなった実在のホッキョクグマ。『雪の練習生』はサーカスの花形だった過去を書いた自伝で人気作家となった「わたし」、その娘で同じくサーカスにいたトスカ、トスカの息子クヌートの、ホッキョクグマ3代にわたる物語である。しかし動物界の話ではなく、サーカスや動物園で育った彼女たちは人間社会に生きている。自伝を書く。メールにも挑戦する。誰だって読み始めは混乱するだろう。だが小説はあまりに魅力的で、その違和感さえ手放したくないと思うのだ。だってクヌートの章ではマイケル・ジャクソンらしき人物も登場するのだから。
動物が主人公の寓話(ぐうわ)は人間界を戯画化し諷刺(ふうし)してきた。この物語でも「わたし」が遭遇するのは旧ソ連の言論抑圧、シベリア抑留で、トスカの章が背景に敷くのはまだ壁のあるドイツ。そしてクヌートを取り囲むのは、温暖化ストップのアイコンに祭り上げ、人工飼育が不自然だと安楽死を主張し、成長し可愛くなくなれば飽きるという、人間の身勝手さである。人々はクヌートに勝手な物語を塗りたくるが、ホッキョクグマはホッキョクグマとして在り、ひたすらに北極を思う。
震災のニュースで大きく報道されなかったが、3月19日、クヌートは急死した。本が出版された後だ。
彼の死を「かわいそう」と言い「だから人間は」と教訓でまとめそうになる。震災以後、その解釈は大量消費され、私も全てをそれで済ませてしまいそうだ。だが『雪の練習生』はそんな解釈を拒絶している。その思いをクヌートに重ねるのなら、この小説は死後のクヌートを人間勝手な物語まみれから守っている。
=2011/05/22付 西日本新聞朝刊=
バックナンバー
- 『雪の練習生』 多和田葉子 著 (新潮社・1785円)(05/22)
- 『オジいサン』 京極夏彦 著 (中央公論新社・1575円)(05/01)
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- 『清冽 詩人茨木のり子の肖像』 後藤正治 著 (中央公論新社・1995円)(03/06)
- 『マブイ』 比嘉慂 著 (青林工藝舎・1260円)(02/27)
- 『世界文学全集 苦海浄土』 石牟礼道子 著 (河出書房新社・4305円)(02/27)
- 『妊娠を考える 〈からだ〉をめぐるポリティクス』 柘植あづみ 著 (NTT出版・2100円)(02/27)
- 『幕末のロビンソン 開国前後の太平洋漂流』 岩尾龍太郎 著 (弦書房・2310円)(02/27)
- 『世界終末戦争』 マリオ・バルガス=リョサ 著 (新潮社・3990円)(02/27)

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