 | バンド時代の喜屋武幸雄(左)。ベンチャーズなどを演奏していた(喜屋武提供) |
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◆「自国で、他国の人間に虐げられ」
「嫌でたまらず、逃げ出したのに、生きるために戻ったのは結局、あの世界。因果なもんでしたよ」
米軍・嘉手納基地のフェンスに沿って車を走らせながら、喜屋武(きゃん)幸雄(64)は半生を語り始めた。「あの世界」は、コザ市(現・沖縄市)のAサインバーを中心に広がっていた。暴力と性、酒とドラックにまみれた世界で、オキナワンロックは産声を上げた。嚆矢(こうし)とされるのが喜屋武が立ち上げたウィスパーズだった。
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朝鮮民主主義人民共和国(1948年)、中華人民共和国(49年)が相次いで成立し、朝鮮戦争が勃発(ぼつぱつ)(50年)。東アジア情勢の緊迫を受け、米国は沖縄を極東戦略に組み込み「太平洋の要石(キーストーン)」として、基地整備を急ピッチで進めていった。
広大な嘉手納基地・弾薬庫のそばにできた“基地の街”がコザ市である。「コザ市統計表」によると、戦前8000人程度だった人口は50年1万8000人、60年年4万7000人と急増。照屋、八重島、ビジネスセンター(BC)通りといった地区に、外国人向けの歓楽街が次々と形成された。横文字の看板があふれ、最盛期は200以上のAサインバーが軒を並べた。
かつてのBC通りは現在、パークアベニューと名前を変え、やや閑散とした商店街となっている。喜屋武はその入り口で車を止めて、通りの奥を指さした。
「ここにあったおやじの店がぼくの原点です」
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 | 米軍・嘉手納基地のゲート前に立つ喜屋武幸雄。かつてフェンスの向こうの米兵のために歌っていた |
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地形を変えるほどの米軍による砲撃と爆撃、そして凄惨な地上戦が終わった後、沖縄には不発弾や大砲の薬きょうなどが無数に残され、50年代前半にスクラップブームが起きる。喜屋武の父はその波に乗って財を成し、通りに飲食店を開く。実態は売春宿である。
「でっかい外人が、女を指名して奥の部屋に消える。それで、ぼくら一家は暮らせるわけさ。子ども心にも嫌でたまらなかった」
「外人が落とした小銭で5セントのガム買って、外人に『バイ・ガム』って差し出すと10セントくれる。それがぼくらの小遣い稼ぎ」
店に置かれたジュークボックスの洋楽を浴びて育ち、工業高校在学中にバンド活動を始めた。「リズムとか、英語の歌い方が体に染み付いているわけ。でも、米兵相手に歌うなんて考えたくもなかったね」。卒業後は集団就職に加わり、浮島丸で本土へ渡って金属関連の会社に就職した。
その会社を1年で辞め、新聞配達をしながら進学を目指した喜屋武を沖縄へ引き戻す出来事が起きた。実家が店舗を増やそうとして失敗し、借金を抱えたのだ。「沖縄でバンドをやろう」という高校時代の仲間に誘われ、1964年、ウィスパーズを結成した。
この年の8月、ベトナム・トンキン湾でアメリカと北ベトナムが軍事衝突。暗殺されたJ・F・ケネディの後を継いだ民主党右派のL・B・ジョンソン大統領の下、アメリカはベトナム戦争に本格的に介入していくことになる。
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「結局、逃げたAサインに戻ったわけさ。当時のコザじゃ、白人、黒人、フィリピン人、日本人の順で給料が低くなって、沖縄人は一番下。でもバンドならすごい金が入る。ぼくにはそれしかできなかった」
コンプレックスと嫌悪感を抱く米兵に、擦り寄らなければ生きることができない。「自分の国で、他国の人間から虐げられ、しかもぼくらが演奏するのはアチラの音楽さ」。ベンチャーズやビートルズのヒットソングをコピーして、ひたすら演奏技術を磨くことだけがプライドを支えた。それが莫大な金を得る数少ない道でもあった。
ジュークボックスと極東放送から流れるロックがコザに響く。ベトナム戦争特需が始まった街で、若者たちは音楽に青春をかけた。
=敬称略
(岩田直仁)
=2006/10/11付 西日本新聞朝刊=
2006年10月11日15時07分