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第6部・演歌巡礼<7>古賀政男 日本的歌唱を熟知し作曲

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古賀が生きていたころは、今でいう「演歌」という言葉は定着していなかった。古賀は自身のことを「流行歌の作曲家」と位置付けていた=1972年ごろ撮影
 古賀政男作曲、佐藤惣之助作詞の「人生劇場」の2番にこんな歌詞がある。
 
 ♪あんな女に 未練はないが なぜか涙が 流れてならぬ
 
 この歌詞の「女」を「曲」に変えてみると、何だか意味深になる。古賀は1938年に楠木繁夫が歌ったこの曲を、戦後にもう一度、村田英雄に歌わせた。今では、村田の方を知っている人が多いだろう。
 
 「人生劇場」に限らず、古賀は一度誰かに歌わせた曲を、別の人にも歌わせてみる、ということがよくある。美空ひばりの「悲しい酒」も、もとは別の歌手が吹き込んだがさっぱり売れなかった曲だ。再挑戦の曲には「未練」と言うと大げさだが、前の曲の仕上がりに納得いかなかったケースもあったに違いない。
 
 再挑戦した曲に限らない。ほとんどの曲の仕上がりに不満があったのではないか、というのが声楽家の藍川由美の説だ。
 
 「戦後の歌手のものなどは特にです」

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 藍川は「『演歌』のススメ」(文春新書)という著書で古賀メロディーの分析を試みた。クラシック畑の彼女が古賀に興味を持ったきっかけは「テレビやCDで聴く古賀メロと、古賀が残した楽譜と、節回しが異なっていたからです」。

 藍川によると、古賀は演歌独特の微妙な小(こ)節(ぶし)を連符などを用いて五線譜に具体的に書き込んで指示している。ところが、戦後の歌手の多くは独自の節回しで歌っているのだという。

 現役歌手の証言もある。

 古賀の内弟子だった大川栄策は市川昭介と比較して言う。「市川さんは僕の声に合わして作ってくれるところがあったけど、先生は『楽譜通りに歌えばいいんだよ』とおっしゃっていました。実際その通りなんですが、それが難しい」

 今年11月、古賀メロディーを特集した番組に出演した若手の北山たけしも「音域が広いし、独特の節回しで難しい。昔の人が歌った音資料と楽譜が違って戸惑いもしました」。

 総じて現役歌手からは「古賀メロは難しい」との発言が出てくる。藍川も最初はそう感じたが、声明(しようみよう)の旋律型を踏まえて歌うと楽に歌えた。日本の伝統音楽の起源をたどっていくと声明にたどり着く。「日本の歌には日本語の発音にふさわしい発声法がある。古賀はそれを熟知し、自覚的に作曲していた」

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 古賀は1904年、福岡県田口村(現在の大川市)生まれ。明治大学生時代に「影を慕いて」で作曲家デビュー以降、78年の死去まで、作曲したのは4、5000曲ともいわれる。その中に彼自身が満足した曲がどれくらいあったのか。

 自伝にはこう書き記している。「仕事上専属作曲家としての私は、会社に利益を上げさせるような曲を作らねばならないということと、大衆音楽として恥ずかしくない作曲を残したいということの間には大きいギャップがある」

 藍川は「まだ流行歌の大作曲家としてのプレッシャーがなかった昭和初期の方が、のびのびと好きに作っている」と言う。実際、戦前は「丘を越えて」など明るい曲もあり、現在の「演歌」のイメージとは違う実験的な曲も多い。

 その「演歌」は、1880年代に自由民権運動の壮士たちが政治への不満を風刺的に歌ったものに起源があるとされる。演説に節がついた感じだった。

 大正末期にラジオ放送が始まり、昭和初期に電気吹き込みのレコードも普及。ここに西洋の器楽的な素養も備えた作曲家、古賀政男が現れた。ヨナ(四音と七音)抜き音階に声明以来の日本的な歌唱法を取り入れ、ほぼ現在の「演歌」形式を確立する。

 その「演歌」は現在、古賀の形式を一見踏襲しているかにみえるが、先述した小節の乱れなど、古賀が目指したものとは別物になりつつあるようだ。古賀は亡くなる前に、自ら十数曲を吹き込んだ「我(わ)が心の歌」というアルバムを残した。「これが正しい歌い方だ」と言いたかったのか。

 =敬称略
 (内門博)

=2006/12/19付 西日本新聞朝刊=

2006年12月19日15時23分



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